第22話 テウメッサの子狐・6
ウィグナー長官は、ナイジェルとジェスターに向き直った。
「ジークリンデは、星に帰したいようだよ」
「……帰った方がいいのは、わかってんだけどよ」
ジェスターは耳をぺたんと伏せ、尾を力なく床へ垂らした。
淋しさに濡れた狐の声がナイジェルの心を締め付ける。
「せっかく名前を貰ったのに。会えねぇの、嫌だ」
こつこつと机を叩いて考え込んでいた長官が、顔を上げた。
「明朝、辺境伯がいらっしゃる。それまでゆっくり考えなさい。
したいこと、言いたいこと、全て伝えるんだ。テウメッサ族は嘘をつけないのだから」
「……うん。……そうだよな」
ジェスターはその言葉に小さく俯いた。
「シュレディンガーは約束を守ってくれるよな?」
「勿論。彼女は約束を守る。だからこそ、君たちを守っている」
「じゃあ、俺様は待ってる。シュレディンガーが来てくれるのを」
ジェスターは尾を小さく振った。どうやら決意を固めたようだった。
泊まっていきなさいというウィグナー父子の提案を丁重に断り、ナイジェルたちは自宅の下宿へと帰って来た。
「ぴかぴかのおうちだったなぁ」
するりとナイジェルの足元を抜けて、ジェスターは無邪気に床をうろうろと歩き回った。
ナイジェルは紐を解き、ジェスターの背からブランケットを外して広げた。
「ウィグナー家の邸宅だからね。貴族の中でもかなり上の方の家だよ」
「知ってるぜ。俺様は星で読める本は全部読んだんだ。貴族のことだって」
ジェスターは、くぁ…と大きくあくびをした。
「そうか。じゃあ、ウィグナー長官のことも?」
「もちろんさ。人間の本は片っ端から読んだから。
ウィグナーとシュレディンガーはどっちも貴族だけど、ちょっと……違うんだ」
ジェスターはナイジェルの足にすり寄ってくると、小さな声で言った。
「だから、俺様たちはあのふたりを信じてる」
ナイジェルには『あのふたり』が、テウメッサ族と出会った人物だということはすぐにわかった。
もう決して会えなくても、遠い彼岸の海に消えても、テウメッサ族の中に生き続ける。ずっとこれからも、約束は護られていくのだろう。
「ジェスター、今夜はもう寝よう」
「うん……」
ジェスターは小さくうなずき、枕の横、いつものブランケットの上で丸くなった。
「おやすみ、ジェスター」
ナイジェルはベッドに身を沈め、目を閉じた。
今日一日で、自分がどれだけ無力で、どれだけ世界を知らないかを思い知った。
(でも……ウィグナーさんは、頭ごなしに否定しなかった)
ほんの少し知っただけで、ジェスターの願いが困難なのだと痛感した。
長官ほどの人物でも、叶えられぬほどに。
それでも、問いかけてくれた――どうしたいのか、と。
ナイジェルは手を伸ばした。
何も掴めなくても、空を切るだけでも、構わなかった。
「どうしたい……か」
答えは見えない。けれど、諦める理由もなかった。
まぶたの奥に、朝日がやわらかく差し込んでくる。
ナイジェルはゆっくりと目を開けた。
窓際に立つジェスターが、光の中で目を細めているのが見えた。
「おう、起きたか、ナイジェル」
「もう起きてたんだ、ジェスター」
ベッドの上で背を反らし、軽く伸びをする。
いつもと同じはずなのに、特別美しい朝に思えた。
窓を開けると、まだ冷たい朝の空気が頬をなでた。
「今日、シュレディンガーが来るんだな。バイト、行こうぜ」
「うん、そうだね。行こう」
たとえこれが最後の日でも、いつも通りでいたかった。
並んで歩くことだけが、今は何よりも大事だった。
ナイジェルが配達先を回るたび、ジェスターは隠れたり現れたりしながら、後ろをついてきた。時折鼻を鳴らしては勝手な感想を漏らしていく。
「なぁなぁ、今の婆さん、足と腰が痛そうだった」
「そうなんだよね。フランチェスカさんはもう少し階段の少ない家に住んだ方がいいと思うよ」
「違う。足の骨、少し割れてる。アドレナリンの匂いが強い。
昨日はそんなことなかった。今日は骨と筋、ぎしぎし軋んでる音がしてる」
ふんふんと注意深く匂いを嗅いで、ジェスターは断言した。
「転んで打ったのかな……?」
「さあな。ぽっきりいってるわけじゃねぇから、歩けてるけど……見てて危なっかしい。医者?っての、呼んだ方がいいと俺様は思う」
「わかった。なんとかしてみるよ。」
しきりに足を庇っていたと言えば、きっと彼女も気づいてくれるはずだ。
ナイジェルは喫茶店の店主にさりげなく事情を伝えると、ニールが待つはずの北の浜へと急いだ。
潮風が頬を撫で、砂浜には並んで歩く二人の足跡が続いていた。
「いよいよ、辺境伯がおいでになるんだね」
「来なかったら、俺様がウィグナーを海に引きずり込んでやるからな」
ジェスターは威勢よく尾を振った。
「ウィグナーさんが可哀想だよ」
「ウィグナーなら平気さ。あいつらは、人間の中でも特別丈夫だもん」
二人が北の浜に到着すると、ほどなくしてウィグナー警部が姿を現した。
「おはよう、マクスウェル君。ジェスター。辺境伯が我が家でお待ちだよ」
「本当か?」
「本当さ。さあ、行こう」
ウィグナー家の邸宅に到着すると、玄関扉の傍らにシュレディンガー辺境伯が立っていた。
国会中継で何度も見たあの姿そのままに、銀色の髪を風に揺らし、晴れた空色の瞳で、にぎやかに囀る小鳥たちを眺めている。
その背後には、副官らしき人物が一人控えていた。
「もう……ほんっとうに、もう……」
辺境伯は苦り切った表情で近づくと、ジェスターの両脇に手を入れて軽々と持ち上げた。
持ち上げられたジェスターは宙にぷらんと長く伸びて、ぬいぐるみのように脱力していた。
「事情は粗方伺いました。
人前ですので、砕けた言葉はご容赦くださいね、ジェスター。私にも辺境伯としての外面がありますから」
ジェスターは辺境伯の言葉に少しがっかりしていたが、すぐに尾を立てて元気に返事をした。
「判った。でも、俺様、いい子にしてたぜ。シュレディンガーが来るまで待ってたんだ」
「そう。偉いわね……ニールに聞きました。ここで、この星で、大人になりたいのですね?」
「おう」
ジェスターは胸を張って即答する。
「ウィグナーは許してくれたぜ」
ジークリンデはじろりとウィグナー父子を見やった。
安請け合いし過ぎたかと、二人は揃って眉を下げ、視線を逸らす。
「あー……辺境伯閣下。我が家の庭で大人になるくらい、大した問題ではありません。彼はマクスウェル君とも打ち解けていますし、なんならマクスウェル君と一緒でも――」
「テウメッサの仔が庭で満足するとでも? 甘すぎますよ、ウィグナー」
ジークリンデの声がぴしゃりと割って入る。
「……ジェスター。貴方、狐の“振り”ができるかしら?
ジェスターの存在が公になれば、テウメッサの星そのものが危険に晒されることになるんですよ」
「できる。俺様、狐の振り、上手いんだ」
自信満々に答えるジェスターを顔の高さまで持ち上げると、ジークリンデは大きく息を吸い込んだ。
「こ・ん・な・き・つ・ね・は・い・な・い・ん・で・す・よ!」
ジークリンデは左手でジェスターを赤子のように抱きかかえ、右手で尻尾をぴろんと伸ばした。
本物の狐の尻尾に比べると、それは明らかに平たい。
水中で推進力を得るために適した形状をしている。
「手足には水かきがついてますし! いいですか、こんな狐はいないんです! ……本物を見たこともないくせに!」
尻尾から手を離し、今度は右後肢を持ち上げると、足先をきゅっと握る。
その指の間には、水かきがしっかりと張っていた。
「狐って水かきが無いんですか。尻尾の形も……知らなかった……」
「知らなかったんですか?」
ジークリンデの目が驚愕で大きく見開かれた。
「狐なんて見る機会ないですし」
「……そうでしょうね……学校教育に盛り込まれる動物でもありませんね」
「尻尾の先を、こう……ぐるんと丸めれば、狐に見えるよな?」
ジェスターは得意顔で尻尾を丸めてみせる。
仲間たちの中で一番上手に尻尾を丸めることができたから。
「見えません。それは狐じゃなくて――栗鼠(リス)です」
ジークリンデの冷淡な一言に、ジェスターは固まった。
「そ……そんな……」
抱きかかえられたまま、天に四肢を投げ出し、ジェスターは尾を力なく震わせる。
「どうしよう、ナイジェル…」
ジェスターはナイジェルに助けを求めた。
丸い瞳に涙がじわりと浮かんでいる。
「俺様はこの星で大人になりたいんだ……」
ジークリンデはしょげかえったジェスターを降ろしてやると、温度を取り戻した声で語りかけた。
「ジェスター。気持ちはなんとなく判ります。しかし、テウメッサ族のことを公にするわけにはいきません。まだ人類は、信用に足る精神性を有していません」
「判ってる。だから俺様、狐の振りしてるんだ」
ジェスターは再び尾を丸めて見せた。
「だから尻尾を丸めるのは栗鼠だと言ってるでしょう…………よろしい、わかりました」
ジークリンデはちっともよくなさそうな苛立った声で、厳かに宣言した。
「もう手は打ちました。全力で努力と協力をしてもらいますよ、ウィグナー伯爵。と…ナイジェル・マクスウェルさん」
ジェスターの返答も揺らがぬ願いも、ジークリンデには予想の範囲内だった。
なぜならジェスターは、名を与えられてしまったから。
テウメッサ族にとっての言葉は、人間のそれより遥かに重い。
名は、テウメッサの自己を確立する寄す処となる。
ジークリンデから明確に威圧されたウィグナー父子は表情を引き締める。
無責任に請け負ったのだから働け、と彼女は言わんばかりだ。
自然と、ナイジェルとジェスターの背筋も伸びた。
「機密に関わります。中で話しましょう」
顎で玄関を指し示すと、ジークリンデはさっさと踵を返してウィグナー家の扉をくぐった。
勝手知ったる他人の家とばかりに応接間に入り、軍刀が邪魔になるからなのか、ソファの肘掛けに腰を下ろす。
メイドに人数分のアイスティーを命じたあと、まだ立ったままの一同へ視線を投げかけた。
「お掛けになったら?」
――誰の家だったっけ。
「辺境伯閣下。どのような手を?」
ウィグナー長官が慎重に問いかける。
「木の葉を隠すには森の中。テウメッサを隠すなら――狐の群れの中。まあ、ジェスターは狐じゃないけど」
ジークリンデは肩をすくめた。
「つまり、街中でジェスターが歩いていても不自然ではない状況をつくります」
「具体的には?」
「ジェスターのような狐型の“ペット”を流行らせます。もっとも、生体ではなくAI搭載型のロボットです。一気に数を増やす必要がありますし、人道的……人道?動物愛護の観点からも、生体では不適切ですから」
ナイジェルもジェスターも全く予想していなかった展開に、思考が停止した。
木の葉を隠すには森の中。その通りだが、葉っぱ一枚隠すのに森をつくろうとする発想力と、資金力と、実行力は尋常ではない。
(これが五家の力技担当…本当に札束で殴りつけるタイプのやつだ……)
ナイジェルはその奇想天外な発想に呆然とし、同時に少し笑ってしまった。
「ペットブームを落ち着かせつつ、テウメッサ族の存在を隠す作戦――考えましたな」
「……どれだけセキュリティを固めても、テウメッサたちは平然と密航してくるんです。今回のような前例ができてしまった以上、脱走を織り込んで対応するしかありません」
ジークリンデは一度舌打ちし、小さく呟く。
「のん気に感心してるけど……しばらく笑えないようにしてやろうか、こいつら」
視線をナイジェルに移すと、微妙に青ざめた顔色が確認できて、ジークリンデは少しだけ溜飲を下げた。
ニールはジークリンデがいつも通り、文句をいいながらテウメッサ族の願いを叶えてやる様子が可笑しくて、緩む口元を必死で引き締める。
こういう場合、笑っても褒めても間違いなく怒り出すと、ニールは熟知していた。
「昨今、ペットブームは過熱しすぎています。違法繁殖や遺棄、虐待――まぁこっちはついでですけど、ねっ!」
ジークリンデは一つ息を吐いてソファから立ち上がると、つかつかとニールに近づき、笑いを堪える彼の脛を思い切り蹴飛ばしてのけた。
警察庁の制服のズボンには、革製の脛当てが付いているので問題ないはずだ。
「痛っ……!」
「笑い事ではありません! ……並行して警察庁の捜査にも対応可能な上位機種も開発させています。ウィグナー警察庁長官どの、こ・ん・ど・こ・そ・働いてくださいね?」
ジークリンデは、かなりおかんむりの様子でウィグナー長官に念を押した。
考えてみれば、判断から対処まですべて丸投げされたようなものだ。
機嫌が悪くなるのも無理はない。
「つまり……狐型ロボットの普及と並行して、テウメッサ族を保護するシステムを構築するということか」
「ええ。開発は当家で進めています。当然、警察庁にも動いてもらいますよ。
狐型ロボットとして売り出しますが、姿も動きもテウメッサ族そっくりに作らせます。テウメッサ族を隠す“森”なのですから。当然ですね。
水中行動への適応、とでも説明しておけば良いでしょう」
じっと話を聞いていたジェスターは、嬉しそうにその場でぐるぐる回り、ぴょんと高く飛び跳ねた。
「なぁなぁ! 俺様は、ここにいていいのか?!」
「ええ。ただし、狐ロボットのふりをすること。
ロボットが普及するまでは、ウィグナー伯爵家でおとなしくすること。
森ができるまで、葉っぱのあなたはちゃんと隠れていなきゃいけないわ」
「おう!」
「ジェスターは、ウィグナーのお家で暮らしたいの? それとも……」
ジークリンデはしゃがんで、ジェスターをわしゃわしゃ撫でた。
「俺様、ナイジェルの家がいい。……なぁ、森ができたら、ナイジェルの家に帰っていいか?」
「うん、待ってるよ。ジェスター」
すり寄ってきたジェスターを抱きしめると、暖かくて、そしてほんの少し、朝の森の匂いがした。
アイスティーで喉を潤していたジークリンデに、副官らしき男が耳打ちをした。
彼女の表情に隠しきれない険しさが走る。
一方で、脛をさすっていたニールのもとに、浮かれた様子のジェスターが駆け寄った。
「うんと……痛いだろうけど、骨は折れてねぇから!」
「ありがとう、ジェスター。痛いけど、大丈夫。蹴ったのが辺境伯だったからね」
ニールがそう言うと、ジークリンデは扇で口元を隠してそっぽを向いた。
「ジェスターはしばらく当家で待機、その後マクスウェル君の家に居候――君、一人暮らしだったね?」
「はい。親元を出て、今は一人で暮らしています」
「ナイジェル、朝から働いてるんだぜ! すっげー偉いんだ!」
「生活費を稼いでいるのかね?」
ウィグナー長官がナイジェルの服装や持ち物に目を遣る。
質素な身なりから、小遣い稼ぎ程度には見えなかったのだ。
「はい。学費は奨学金でなんとかなっていますが、生活費が足りなくて……アルバイトを掛け持ちしています」
「では、こうしましょう」
ジークリンデがぱちりと扇を鳴らし、会話を遮った。
「貴方にはジェスターの養育……んんっ、同居人として安定した生活を送っていただかねばなりません。とはいえ、突然生活水準が上がってしまっては、周囲から不審の目で注目されかねません。
そこで――“狐型ペットロボットのモニター募集”という名目で、広告を大々的に打ちましょう。
警察庁が将来的に導入を検討している“警察犬ならぬAI狐”のため、データ収集に協力を仰ぐ体裁で。そちらの広報で対応してくださいね」
思いつくままを早口でまくし立て、ジークリンデはソファに腰を下ろし直し、グラスの氷をカラカラと鳴らした。
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