第19話 テウメッサの子狐・5

「……なぁ、もうちょっと帰るの待ってくんねぇ?今、帰るの、嫌だ」


ジェスターが突然、長官の袖をくわえて引っ張った。


「俺様、ここで大人になっちゃダメか?」

「ここには危険も、人間も、たくさんいる。賛同はしかねるよ、ジェスター」


ニールが優しく嗜めた。

テウメッサ族の子どもに慣れているのか、どこか話し方がジェスターに寄り添っている。


「だって、帰っちゃったら、たくさん会えねぇじゃん……」


耳を伏せ、尻尾をくねらせながら、ジェスターは不満をあらわにする。


「ジェスター……」


その声に、ナイジェルの胸も痛んだ。

共に過ごした三ヶ月――

もしその間、誰にも不在を気づかれていなかったのだとしたら。

帰る場所に、彼を待つ誰かがいないのだとしたら。

その孤独がまだ子どもである彼を星の外へと駆り立てたのかもしれない。


「ニール。……どう思う?ジェスターはもう、名を貰ってしまっている」

「判断はジークリンデ次第です。帰すにしろ、ウィグナー家で預かるにしろ」

「……確かに、私は少し取り乱していたようだ」


ウィグナー長官は咳払いをして、椅子に深く腰を掛けた。

動揺していた自分に気づき、照れくさそうだ。



「無理もありません。テウメッサが密航して、脱走して、しかも首都星で暮らしていたなんて――前代未聞ですから」

「辺境伯は、いつこちらに来ると?」


ニールは落ち着いた様子で、右手首に着けた通信デバイスを操作した。


「明朝、マイヒ・メルに来てくれるそうです」

「星系内にいらしたはずだが……急な草刈りですぐには動けんか」


通信操作をしているニールに、ジェスターが机から飛び降りて近づいた。


「それ、何だ? ナイジェルも着けてるけどさ」


ジェスターは、わざわざニールが見せてくれたバングルに、黒い鼻先を押し付けた。


「通信デバイスだよ。群れの長たちが、もっと大きなやつを操作しているのを見たことがあるだろう?」

「おう。あれか。でっかくて、ぴかぴかしてて、かっこいいやつだ」


ナイジェルは、前脚で仮想キーボードを操作するジェスターの姿を思い描き、つい笑みを漏らした。


「ふむ……海に揺蕩う狐にもやいをかけておけ、か……」


メッセージに目を通すニールが呟いた。


「言葉選びがいかにも船乗りだな」

「あの。海を揺蕩う…の詩?は何なんですか?」

「ああ。それはね……」


ウィグナー長官は穏やかな声でナイジェルに答えた。


「人間とテウメッサ族が初めて一緒に言葉遊びをしたときに生まれた詩だよ。白いはウサギ、ウサギは跳ねる、跳ねるは波間……

ただ単語を繋ぐしりとりや連想ゲームでは、テウメッサ族には物足りなかった。彼らは連歌のように、互いに言葉を交わしながら詩を紡いだんだ」


詩は『海に揺蕩う狐が跳ねる』で始まり、『星』で終わる。


「約束の子守唄だ!一番がいっちばん好きなんだ、俺様!」

「歌、というものもそれまで無かったんだったか。言語に音階要素が含まれるから」


ニールがホロディスプレイでメッセージをやり取りしながら補足する。


「初めて人間と共に作った詩で、初めての歌だから、テウメッサ族にとっては特別なんだろう。彼らは、言葉と“伝えること”そのものを、とても大切にしているからね」

「なぁなぁ、俺様、狐って知ってるけど、見たことはねぇんだ。どんな匂いがするんだ?」

「僕も、実物は見たことがないんだ」

「ふーん。シュレディンガーやウィグナーみたいな――かなぁ。」


ジェスターは鼻先をふるふると揺らし、しばらく考え込んだ。


「そっか……人間は、匂いを言葉で説明できねぇのか。

俺様たちは、それができる。

だから、会ったことのねぇ奴の匂いだって、教えてもらえるんだ」

「猫の情報共有とはまた違うんだね」

「あいつらのネットワークはよくわかんねぇ」


くすり、と長官が小さく笑った。


「テウメッサ族にとって、匂いは成分表であり、カルテでもある。

相手の血筋、健康、時には感情まで読み取ることができるんだ。

だからこそ──ジェスターがマクスウェル君に懐いたのだろうね」

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