第18話 テウメッサの子狐・4
惑星開拓を必死で続けていた時代、二代目シュレディンガー家当主と三代目ウィグナー家当主は、偶然にもテウメッサ族の住む星へとたどり着いた。
その惑星は、テラフォーミングを施さずとも人間が居住可能な環境を有していたため、二人は入念な調査を進めていた。
やがて彼らは、海辺に横たわる一匹の狐に似た生き物を発見する。
皮膚はただれ、動くことすらままならないその姿に胸を痛めつつも、未知の病原体の可能性を考慮し、安易に手を出すことはできなかった。
せめてサンプルだけでも――と近づいたその時、水面から多数の同種と思しき生き物が顔を出し、二人を威嚇した。
やむなく接触を断念し、せめて落ちていた毛を採ろうとした、そのとき――
背後で倒れていた生き物が身じろぎし、突然、二代目の顔めがけて突進した。
「危ない!」と声を上げる暇もなく、それは二代目の口元をぺろりと舐めた。
ひとしきり舐め終えると、満足したようにまた地面に横たわった。
慌てて宇宙船へ引き返した二人は、濃厚接触による感染を危惧して、ただちに検査を行った。
すると、二代目の顔と採取した毛のサンプルから――確かに、未知の病原体らしき微生物が検出された。
顕微鏡を覗き込んでいた生物学者と医師が顔を上げ、二人の当主に向き直る。
困ったような、笑いをこらえているような顔をして。
「未知の病原菌と思しき反応はありました。ただ――」
「ただ?」
「納豆菌に、きれいさっぱり食われてました」
「うん?」
「ええ。構造が植物性タンパク質に酷似しています。納豆菌にとってはご馳走だったみたいですね」
沈黙が落ちた。
「……今朝、食べたな」
「食べましたね」
もし、納豆菌に食い殺される程度の病原菌で、あの狐が死にかけていたのだとしたら――
この星には、納豆菌そのものが存在しないのか。
「納豆菌は強力だからね。歯を磨いたくらいじゃ死なない……そういえば、うちの犬も猫も、納豆が大好物でね」
彼らにとって初めて嗅ぐ魅惑的な匂いが、倒れていたあの狐を突き動かしたのか。
あるいは、生存本能が、“生き延びる手段”をそこに嗅ぎ取ったのか。
「……納豆、一パック与えてみるか?」
納豆菌はすでに、この星に持ち込まれてしまっている。
いずれにせよ、生物農薬として導入する予定だった菌だ。納豆という形であるかどうかは別として。
――ならば、試してみる価値はあるだろう。
「こうして絶滅の危機にあったテウメッサ族は、パンデミックを乗り越えたのさ」
「納豆菌って、細菌研究者からは厄介者扱いされてますけど……まさか地球外生命の救世主になるなんて、すごいですね」
「納豆の浜の話?」
ジェスターはぱぁっと顔を輝かせた。
テウメッサ族にとって、それは“命を救ってくれた味”だったのだ。
神話的に語り継がれるのも当然だった。
「最初の浜辺、そんな名前になってたのか……」
「ウィグナー、知らないの? 石碑も立ってるのに」
「残念ながら、初耳だよ」
納豆を分け与えられたテウメッサ族は、わずか一ヶ月で開拓者たちの会話を理解した。
そして、人類が自分たちの言語を“聞き取ることすらできない”と悟ると、今度は自ら人間の言葉を話す努力を始めた。
会話は彼らにとって、情報伝達手段以上のもの――娯楽だった。
人間と遊びたかった。
開拓者たちの行動も、作るものも、どれもが面白くて仕方なかった。
彼らの言語は、圧縮ファイルにも似た性質で、膨大な情報を一瞬で伝えるものだった。
翻訳が済んだ部分はすぐさま仲間と共有され、発声の模倣が始まる。
まるでゲームのように、それはあっという間に広まっていった。
「納豆に味をしめてうろうろしていると思ったら、突然話しかけられて心臓がとまりそうになったと、当時の日記に書かれているよ」
「そりゃそうでしょうね。僕も驚いたから、判ります」
ナイジェルもまた、ジェスターに名を呼ばれたとき、同じように心臓が止まりかけたのだった。
「……今から喋るよって、言えばよかったかな」
「その時点でもう驚くから。気にしなくていいよ、ジェスター」
「そっか」
「テウメッサの言語がせめて可聴域だったら、ああ何か話してるな、と心の準備が出来たかもしれないね。高周波で紡がれる、三次元的な構造の言語だ。
人間には聴き取れず、模倣もできない。
あまりに情報密度が高く、今でも翻訳の手がかりすら見つからない。
テウメッサ族が初めて人間に向けて発した言葉は、『もっと話をしよう』
それに、修飾語を山ほど重ねたものだったらしいよ」
後部座席で話に耳を傾けていたレックスが、前のめりになる。
その瞳は興味にきらきらと輝いていた。
「ウィグナー。それ、いくつ昔の話だ?」
「二代目の頃さ。シュレディンガーとウィグナーが初めてテウメッサ族と出会った、まさに始まりの時代のことだよ。
でもね、彼らは人間の言語を解析し終える前に、別の“玩具”を見つけてしまった。さて、何だと思う?」
ナイジェルはしばらく考え、首をかしげる。
「テウメッサ族にとっての“玩具”……本、ですか?」
ジェスターはいつだったか、辞書を前足で押さえて夢中でページを捲っていた。
「惜しい。正解は“文字”だ。
テウメッサ族の言語はあまりに効率的で、情報の伝達はすべて口頭で済んでいた。
だから彼らの世界には、“文字”という概念がなかったんだよ」
ニールはハンドルをゆるく回し、少し笑う。
「今では文字を作ろうとあれこれ試しているが、どうも“彫刻に色と香りと音を添える”ようなものにしかならないらしくてね。
『こんなの文字じゃない!』って、研究しているテウメッサ族が荒れていたよ」
文字という新しい抽象体系に出会った彼らは、すぐさま夢中になった。
書かれた記号に意味を与え、それらを並べて情報を読み取るという遊びは、彼らの知的好奇心を大いに刺激した。
音声だけのやり取りでは飽き足らず、彼らは人間の文字体系を独自に分析し、やがて――人間の学問そのものへと、没頭していくことになる。
「テウメッサ族は知識の吸収が異常に速いんだ。
彼らが人間の社会に溶け込むのは容易だった。
しかし、その無防備さゆえに、悪意ある人間たちに利用される可能性も高かった。彼らの存在を知った上で、人類は彼らの星ごとそっとしておいてくれると思うかい?」
「……いいえ」
ナイジェルの胸に、言葉では言い表せない重みがのしかかる。
この無邪気で優しいジェスターが、どれほど無防備で、どれほど脆い存在なのか。
初めて、それを「怖い」と思った。
「だから、シュレディンガー家とウィグナー家はテウメッサ族を星ごと秘匿することにした。これは彼ら自身の希望でもあった。
そのために作られたのが、辺境艦隊だ。
テウメッサを守る盾として、あの艦隊は存在する。
――だから、あれは私兵なんだよ」
嘘も虚偽も欺瞞も、この世界にそれが存在するという『真実』を、直情径行な腹黒と、正義のお人好しは隠さなかった。
人類の愚かで逞しい歴史を開示し、選択肢を提示した。
テウメッサ族は二人の当主を信じ、文字から得た知識をもとに、人類の価値観や社会構造を学び、自らの文化を守るため、一定の距離を取る道を選んだ。
ただ知識欲は抑えきれぬようで、論文を読むだけでは飽き足らず、研究に加わったり、現場を見たいと願う者もいた。
「細菌関連の論文で、出資元がシュレディンガー家なら、その半分はテウメッサ族の仕事だと思っていい。……それくらい彼らの貢献は大きい」
ナイジェルは目を見張った。シュレディンガー領が細菌学の発展に大きく貢献していることは知っていた。だが、その背後にテウメッサ族がいたとは――。
「星への憧れも強くてね。辺境艦隊のクルーになる者もいる。
……もっと人類がまともになるか、他の知的生命体が見つかれば、彼らが隠れる必要もなくなるんだけどね」
「テウメッサ族が、隠れずに暮らせる世界になればいいのに」
「いつかね。人間がもう少し、“おとな”になれたら」
車は高級住宅街の奥、ウィグナー邸の前で静かに停まった。
重厚な門構えと古い石造りの外壁が、伯爵家の財力と格式を無言で物語っていた。
「ウィグナーの匂いがするな。ここがウィグナーの家か?」
「そうだよ。ようこそ、テウメッサ族の小さな客人」
「おう。よろしくな」
ひらりと車を降りたジェスターは、機嫌よく尻尾を振りながらニールの後に続く。
「マクスウェル君も、どうぞ」
ナイジェルは緊張を解ききれないまま、ウィグナー邸の扉へと歩を進めた。
使用人の姿はまばらで、テウメッサのことを知らぬ者は、あらかじめ人払いされているようだった。
そのとき──玄関の扉が勢いよく開き、中年の紳士が飛び出してくる。
「ニール! 迷子のテウメッサは、無事に保護できたのか?」
駆け寄ってきたのは、警察庁長官――ランディー・ウィグナー。
テウメッサ族の存在を知る人間のひとりだ。
「はい。こちらが保護したテウメッサの子です」
ジェスターはとことこと前に出て、まじまじとウィグナー長官を見上げた。
「おう。あんたが今のウィグナーか?」
「そうだ。私が今の当主だ。テウメッサの小さな客人、ようこそ」
長官は片膝をつき、ジェスターの柔らかな毛並みに手を添える。
「テウメッサの小さな客人、何と呼べばよろしいかな?」
「俺様の名前はジェスター。ナイジェルにつけてもらったんだ」
「ジェスター。良い名前だ。……渾名をもらう前に、星を出たんだね?」
「おう……」
まだ旅に出ることを許されていない子ども、ということだよ──と、ニールがナイジェルに小声でささやいた。
「だって、名前をくれるやつがいなかったんだもん」
「そうか……悲しいことを言った。許してくれ」
「俺様は平気だ。土に還ったから、また産まれてくる。
話せないだけで、星にいるんだ」
ジェスターはウィグナー長官の足元に身を寄せ、体をこすりつけた。
その仕草には、幼いなりの寛容と信頼が込められていた。
「それで、ナイジェル・マクスウェル君。
君はテウメッサ族について、秘密を守ると誓えるかい?」
長官の目は鋭く、真摯だった。
「誓います。友達にも、決して口外しません」
「ありがとう」
ウィグナー長官は立ち上がり、屋敷の中へと歩き出した。
ナイジェルとニールを、邸内へと招き入れる。
「父さん、研究に携わっていることまでは話しました」
「秘匿に至る経緯も説明済みか。よろしい」
ウィグナー邸の内装は広々としており、格式の中にもどこか温かみがある。
大きな窓からは手入れの行き届いた庭園が望め、陽の光が室内を柔らかく照らしていた。
案内された執務室には、天井まで届く本棚と、机に積まれた書類の山。
けれど不思議と雑然とはしておらず、知性と静けさに満ちた空間だった。
ジェスターは本棚を見上げ、興味深げに背伸びをする。
「さて、マクスウェル君。
君はテウメッサ族の存在を知ってしまった。
改めて言おう。彼らのことを世間に漏らすことは、決して許されない。
この点を、どうか理解してほしい」
「はい。わかりました」
ナイジェルは真剣な面持ちで、しっかりと頷いた。
「ナイジェルは、喋ったりしねぇよ。匂いでわかる」
そう言って、ジェスターはぴょんと長官の机に飛び乗る。
ナイジェルのすぐそばに座り、その瞳でまっすぐウィグナーを見つめた。
「君たちテウメッサがそう言うのなら、間違いないね」
「父さん。彼の友人について──例の件ですが」
「ああ、その話だったな」
ジェスターが尻尾を振る。
「フレデリコを助けてくれるのか?」
「勿論だ。フレデリコ・フィボナッチ君の起訴については一旦凍結させてある」
「無罪になんねぇの?」
「難しい事情があってね」
ウィグナー長官は椅子に深く腰掛け、眉間に皺を寄せた。
「私には冤罪だとわかっていても、不起訴処分を命じることはできない。
権力で法を無視できても、してはいけないことなんだ。判るね?
ここで私たちが権限を振りかざせば、警察の根拠そのものが崩れてしまう」
ナイジェルは唇を噛んだ。理屈はわかる――それでも。
「また悪い奴らが同じことをしたら、フレデリコは……また同じ目に遭うのか?」
言葉を続けようとするより早く、ジェスターが机の上から鋭く口を挟んだ。
「それって、また誰かがフレデリコを狙ったら、どうにもできないってことか?」
「まあ、落ち着きなさい。『私たち』の権限ではできない――というだけの話だよ」
「じゃあ、誰ができるんだ?」
「あるだろう。『私たち』以外の警察組織がね」
ウィグナー長官は片目をつぶり、にやりと笑う。
その笑みは警察庁長官としての威厳よりも、策略家の余裕を感じさせた。
「つまり……シュレディンガー辺境伯が動くんですか?」
「その通り。やっかいなことに、フレデリコ君は手順だけは正式に逮捕されている。
警察庁の長が飛び越えてその判断を覆すのは、制度の正統性を揺るがしかねない。
だが、辺境伯の──五家なら、法に許された正当な強権で、」
そこまで話したとき、ウィグナーのバングル型デバイスが振動した。
浮かび上がったホログラムを一瞥し、彼は肩をすくめる。
「──ほう、そっちから崩したか。
マクスウェル君、ジェスター。
たった今、フレデリコ君は嫌疑なしの不起訴処分になったよ。
つまりは無罪放免だ。
逮捕した警察官が、自ら“誤認逮捕”だったと申告したそうだ」
「どういうことですか?」
ナイジェルは机に手をつき、身を乗り出した。
「『逮捕したが、間違いだった。謝罪したい』──
その申し出を受けたので、正式に受理しただけだ」
簡単に言うが、その警察官こそ、事件を捏造した張本人。
その男が“誤認逮捕”と認めたという事実に、ナイジェルの背筋に冷たいものが走る。
「……つるんだ貴族より、遥かに強大な相手が介入してきたんだろうね。誰かは知らないが」
「そんなの、シュレディンガーに決まってるじゃん」
「決めつけはよくないよ、ジェスター」
くすくすとウィグナーは笑い、ホログラムの画面を切り替える。
「これは面白くなりそうだ。
件の警官に、冤罪の証拠を“自分の手”で提出させたらしい。
雑草の根ごと、きれいに始末できるな」
「……これで終わりなんですか?」
ナイジェルの不安はまだ拭えない。
たとえ犯人たちが捕らえられても、フレデリコや店への報復がないとは限らない。
「“枯らす”と決まった以上、処理は徹底されるよ。
どこまで除くかはまだ分からないが、何かが起きても、何も起きない。安心しなさい」
そして、ふとウィグナーはジェスターに目を向けた。
「……それにしても、ジェスター。どうしてこんな遠くまで来てしまったのかな?」
「シュレディンガーの船に乗れたから。こっそり乗った」
あまりにあっさりとした返答に、ウィグナーは思わず額に手をやった。
猫と犬のハイブリッドのような身体能力。
人間以上の知性と演算能力――
本気でこっそり行動されたなら、人間には止めようがない。
「船が大好きなんだ。
宇宙で跳ねる波は、星の海。俺様たちにとって、あれは地上よりも自由なんだ」
ジェスターは目を輝かせて語った。
「乗った船の名前は分かるかい?」
「えっとな……セイレーン! ムルムルがいて、見つかりそうだったから逃げたんだもん」
ナイジェルが吉兆として見上げた〈セイレーン〉は、密航したジェスターをフェヴァルに運び、置いていってしまった後ろ姿だったのだ。
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