第9話 幕間 狐色の浜辺にて

苦学生であるナイジェルの朝は早い。

バイト先の喫茶店から、近所の独居老人に朝食を届ける仕事だ。

生存確認という言い方は憚られるが、実際にはそう呼んでも差し支えない。

温かい弁当とスープを、朝の挨拶とともに届けるだけで、一食あたり二百カウリの報酬が入る。

奨学生として入学したナイジェルは、大学の学生課からこのバイトを紹介された。

朝食もついてくるし、運動にもなる。


「一言でもいいから、声をかけてあげてね」


弁当を手渡すたび、店主ローサはそう言うのだった。

これは喫茶店の営業ではなく、社会福祉サービスの一環──業務確認よ、と


「はい。わかっています」


(王都のほうがよほど都会なのに、物価も税金も公爵領より安い。いつか母さんと妹を呼び寄せて、一緒に暮らしたい)

公爵領からの出国税は高いが、ろくでなしの公爵が治める領地で暮らすより、ずっとましだ。


今日は一限から授業があるのだった。

配達を終えたナイジェルは急いで賄いの朝食を腹に詰め込み、ローサに礼を言ってから店を飛び出した。

王都は良い場所だ。

だが、滅多に青空が見られないのが難点だ──と、ナイジェルは思った。

足元に広がる衛星フェヴァルは、表面の八割が海に覆われているためか、曇りや雨の日が多い。

特別な日には、科学と化学の力で青空が演出され、大きな虹がかかることもある。

今日の空模様は鈍色で、空から降り注ぐ細かな水滴が港全体をしっとりと湿らせていた。

首都マイヒ・メルは、潮の匂いと人いきれの混ざる典型的な港湾都市だ。

雨上がりには石畳のあちこちに水たまりが残り、通りの窪みには小さな虹がかかることもある。

宇宙港には毎日数千の船舶が出入りする。

天気にかかわらず、人々は忙しく行き交い、港はいつも賑やかだ。


王立大学の門へと続く緩やかな坂道では、雲の切れ間から差し込んだ早朝の陽光が石畳をまばゆく照らす。

まだ登校する学生たちの姿はまばらで、通りは閑散としていた。

王立大学の講堂は、四代目国王ロゲール一世の在位中に建造された歴史的建造物である。

堂々とした外観と壮麗な内装は、王国の歴史と文化の威光を今に伝えていた。


「よし、本降りになる前についた」


王立大学の講堂が視界に入ると、ナイジェルは安堵の息をついた。


「おーい、ナイジェル。おはよう」

「やあ、おはよう」


後ろから声をかけてきたのは、大学で出会った友人、フレデリコ・フィボナッチだった。


「朝から元気だね」

「ナイジェルこそ。いつもこんな早く来てんの?」

「入学してからずっとだよ。朝食配達っていう名目の安否確認をしてる」

「ああ、あれ。学生課が奨学生に紹介してるってやつ」


フレデリコもストライサンド出身で、ナイジェルとは別の公爵領で育ったが、領地経営の杜撰さは似通っていた。


「いい制度だよな。うちの領地でもやればいいのにさ。無理だろうけど」


フレデリコはわざとらしく渋い顔をつくる。

ナイジェルたちが王都に来て思い知ったのは、公爵領のお粗末な統治状況だった。

自治領の裁量内にぎりぎり収まる程度の悪政というのが、実に小賢しい。


「笑えるよな。いかにも『この星の支配者だ』って顔してたのに、ただの一地方領主だったんだもん」

「それな。国王の次に偉いとか平気で教科書に書いてあったよな。あれ、マジで信じてたんだから、今思えば冷や汗もんだよ」


他愛ない冗談を交わしているうちに、二人は講義室に辿り着いた。

二人は、講義室の三列目──いつも定位置にしている左寄りの席へと腰を下ろした。


変だと感じる材料は、確かにあった。

国営放送の遮断は許されていないため、公爵領でも議会中継や政治討論番組は視聴できたし、王宮の行事や国王の言動に関する報道も──公爵が知られたくない真実のピースは王権が撒いてくれていた。


「五家より偉いって書いてあったところでさ、俺は『ああ、これは嘘だな』って気づいたんだったわ──っと、そういえばナイジェル、面白い特別講義があるから一緒に取ろうぜ」

「何の講義?」

「聞いて驚け。警察庁の職場体験だ!」


警察庁は、内務省傘下で治安維持と犯罪捜査を担う王国の中枢機関だ。

地上から軌道上まで、法の秩序を守るため日夜活動している。


「内容はまだ全部は決まってないみたいだけど、講義っていうより半分見学ツアーみたいなもんらしい。質疑応答があって、昼食も出るんだってさ」

「それはありがたいな。食費が浮くのは助かる」

「おーい、最後まで聞いてちゃんと驚いてくれよ」


フレデリコはもったいぶった様子で続けた。


「重要なのはこの後さ。……なんと、巡宙艦に体験搭乗させてもらえるらしい!」

「なんだって?巡宙艦に?」


ナイジェルは足を止めた。

巡宙艦。

警察庁が宇宙空間で活動するために運用している艦船だ。

実態としては、旧式の軍用巡洋艦を転用したものであり、必要最低限の火器だけを残し、装備は非軍事用途に改修されている。

外見も性能も軍艦そのもので、名を「巡洋艦」のままにすれば、警察が軍備を持つと誤解されかねなかった。

あくまで警察の艦という建前を守るために「巡宙艦」という名が用意された。


宇宙空間の警察権は原則として航宙保安省の管轄で、地上が警察庁、宇宙が航宙保安省とすみ分けられている。

警察庁の巡宙艦はもっぱら首都星系で警備艇の指揮や地上との連携を担い、犯罪者の追跡・拘束にあたっていた。


「俺たち宇宙工学部だしさ。警察庁の巡宙艦って、軍艦の転用だろ?

だから見学して興味持ってくれればラッキー、くらいに思ってるんじゃないか」

「それ、ただの特別講義じゃなくて職場見学じゃない?」

「二日で一単位。レポート提出で単位と“協力費”がもらえるんだ。確か二千カウリ」

「お金まで出るのかい?」


単位に加えて小遣い程度とはいえ報酬もあるとなれば、参加しない手はない。

二千カウリといえば学食で三、四回はしっかり食べられる額だ。


「いいな、それ。申し込みはどこ?」

「そうこなくっちゃ。学生課だったはず――おっと、教授が来たな。あとで詳しく話そう」


彼が指さした教室の入り口に、老教授の姿が見えた。




勢い込んで、二人は特別講義への申し込みを終えた。

あとは抽選の結果を待つばかり──単位のついでに警察庁巡宙艦の体験搭乗が叶うとあっては、競争率も相当なはずだ。

実際、応募者数は二人の想像を遥かに超えていた。

宇宙工学部の一回生ほぼ全員が、窓口に並んでいたのだから。


フレデリコと別れたナイジェルは、験担ぎに北の浜へと向かった。

この浜辺は切り立った岸壁にほど近く、聖ブランダン宮殿の外宮に設けられた宇宙港へ降下する艦船がよく見える、格好のスポットだった。

なにか特別な艦が、幸運を運んで来てくれるのでは──そんな期待があった。

ナイジェルは海風になびく髪を押さえ、遠方に目を凝らす。


(どうせなら、ローレライが来ないものかな)


突拍子もない妄想が頭をよぎる。


夕焼けが西の海を染め、水面に金の光を撒き始めた頃。

ナイジェルは砂利混じりの地面にしゃがみ込み、じっと沖合の空を眺めていた。

轟音に驚いた海鳥が一斉に飛び立ち、視界の隅を掠めた。

彼方からの降下ではない──宇宙船の量子エンジンが駆動し、崖の上で唸りをあげていた。

はっと顔を上げると、人魚の尾を思わせる艦影が斜陽を浴びて天を貫いていくのが見えた。

ローレライ級戦艦。あの淡金色の艦体は、二番艦の〈セイレーン〉に違いない。


「本当に来ちゃった……」


ナイジェルは呆然と呟いた。第一艦隊と合流したあの日を思い出し、胸が熱くなる。 

そのとき、どぽん、と水音が跳ねた。

程なくして、きゅうんと甲高い鳴き声がかぶさる。

ナイジェルの視線は反射的に海面へ向いた。


岩礁の上に、小さな生き物が立っていた。

大きくぴんと立った耳、大きな尾──濡れそぼった子狐だった。

夕日を浴びた毛並みは赤く燃えるようで、悲しげな細い声が痛々しい。


駆け寄るナイジェルに気付いた子狐は、小さな飛沫を上げて海中に姿を消した。

王宮の北側から広がる丘陵は御料地で、野生動物が棲んでいるという話は耳にしたことがある。

だが、なぜ崖上から──それも宇宙港の敷地内と思しき高所から──落ちてきたのか。


ナイジェルは辺りを探し回ったが、子狐の姿を再び見つけることはできなかった。

(どうか、あの子が無事に親の元へ帰れますように。それにしても──)

どこから落ちた? なぜあんな場所に? 考えれば考えるほど謎は深まる。


けれどその問いに答えを求めることは、どこか無粋な気がした。

〈セイレーン〉を見上げて吠える狐の姿は日暮れ時の天象とあいまって、童話の表紙に描かれた一枚絵のように幻想的で──

壊されずに、汚されずに、お伽噺の世界を現実から守りたいと思った。

絵本や図鑑の中でしか知らなかった本物の狐と、宇宙で最も夕空が似合う船と出会えた──それだけで吉兆としては十分だったから。

ナイジェルは、今日見た不思議を心の宝箱へと閉じ込めた。


数日後。

ナイジェルとフレデリコは特別講義の受講者リスト二十名の中に自分たちの名前を見つけた。

申請していた職場体験ツアーへの参加が認められたのだ。

二人は学食で快哉を叫び、無料の茶で乾杯した。

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