第2話 厄介な王子様の日常
学園生活が始まった。入学式の華やかな喧騒とは裏腹に、俺の日常は相変わらず静かで、そして孤独だった。教室の隅に座る俺の周りだけが、まるで透明な壁で隔てられているかのようだ。授業中も、昼食も、放課後の自習時間も、俺は常に一人。周囲は俺を避けるかのように距離を取り、その視線は凍てつくように冷たいか、あるいは好奇と嘲笑に満ちているかのどちらかだ。
(これも、いつものことだ……生まれた時から、ずっと)
教科書を広げ、書かれた文字を追う。隣の席は空席で、誰も近づこうとしない。それが俺にとっての“特等席”だった。この国の公爵家の次男として生まれた俺は、物心ついた頃から常に人々の好奇と期待の目に晒されてきた。完璧であることを求められ、少しでも感情を表に出せば「公爵家らしからぬ」と非難された。やがて俺は感情を押し殺し、誰とも関わらないことで自分を守る術を覚えた。それが「冷たい」「傲慢だ」と誤解され、孤独を深めていく悪循環。もう、どうすればいいのか、不器用な俺には本当に分からないのだ。
休憩時間になれば、生徒たちはグループを作り、楽しげに談笑する。その弾けるような笑い声は、俺の耳には遠く、まるで別の世界の出来事のように響いた。俺はそんな輪から離れ、窓の外を眺める。空はどこまでも青く、雲一つない。まるで、俺の心とは対照的な、清々しい世界が広がっているようだった。この、どこまでも完璧で刺激のない世界に、俺の居場所はなかった。
「やあ、リオン」
不意に、背後からかけられた声に、俺は肩を震わせた。この、蜂蜜のように甘く、しかしどこか底意地の悪い声には聞き覚えがある。
振り返ると、そこに立っていたのは、やはりエリオット・ノヴァリスだった。彼がそこにいるだけで、薄暗かった教室の隅が、まるで太陽の光を浴びたように輝く。周囲の生徒たちが、一斉にこちらに注目しているのが分かった。エリオットの完璧な笑顔と、俺の無表情な顔。その対比に、彼らは興味津々といった様子だ。
「……何用だ」
俺は努めて冷たく言い放つ。昨日の交流会での出来事が、脳裏をよぎる。あの男は、俺の結界をあっさりと破ってきた。関わってはならない、そう直感が告げている。
エリオットは、俺の言葉など全く意に介さないように、ふわりと笑った。
「何用って、友達の挨拶だろう? 君こそ、そんな仏頂面で大丈夫かい? せっかくの学園生活だというのに」
「友達、だと? 冗談はやめろ。貴方のような軽薄な人間と、俺が友達になるはずがない」
「おや、厳しいね。でも、そんな冷たい言葉を投げつけられても、僕は君が面白いから構わないよ」
そう言って、エリオットは俺の空いている隣の席に、するりと腰を下ろした。俺の身体が、一瞬硬直する。その隣の席は、これまで誰も座ろうとしなかった、まさに不可侵領域だったはずだ。
「おい、離れろ」
俺は低い声で威嚇するが、エリオットは全く動じない。
「どうして? 別に迷惑はかけていないだろう?」
「……そこにいるだけで、迷惑だ。貴方が近づけば、周りが騒ぐ」
実際、周囲のひそひそ声が、さらに大きくなっているのが聞こえる。
「ノヴァリス様が、フェルゼン様と……!」
「ノヴァリス様に話しかけられているというのに何よあの仏頂面。きっとフェルゼン様に悪態をついているんだわ!」
「やっぱり、あの人って陰湿よ……」
まただ。また俺のせいだ。俺はぎゅっと拳を握りしめる。この、どうしようもない状況に、胸が締め付けられるようだ。
エリオットは、そんな周囲の反応をまるで楽しんでいるかのように、愉快そうに目を細めた。
「ふふ。面白いね。君は、自分の意思とは関係なく、勝手に周りに評価されることに慣れているようだ」
その言葉に、俺の胸がチクリと痛んだ。的を射ていたからだ。
「……貴方に、俺の何が分かる」
「さあね。でも、君が少しばかり退屈しているのは分かるよ。この学園も、周囲の生徒も、君にとっては刺激が足りないだろう? 僕と同じように」
エリオットの瞳が、俺の目を真っ直ぐに捉える。その目には、いつもの完璧な笑顔の裏に隠された、どこか深い洞察力のようなものが宿っていた。まるで、俺の心の奥底を見透かしているかのように。そして、その言葉の響きには、彼自身もまた同じ「満たされない感情」を知っているという、微かな諦念が混じっていた。
(この男は、一体……!? 僕の気持ちが、わかるというのか……?)
俺は言葉に詰まる。彼の言葉は、あまりにも俺の本質を突いていたからだ。心臓が、微かに跳ねた。
昼食の時間も、エリオットは俺につきまとった。
俺はいつも、人が少ない学園裏の庭園で、一人静かに昼食を摂る。そこだけが、俺が唯一、心の平静を保てる場所だった。
だが、今日は違った。
俺がベンチに座ってサンドイッチを広げると、すぐに彼の気配がした。
「やあ、リオン。ここが君の秘密基地かい?」
まただ。エリオットは、当然のように俺の隣に座る。彼のランチバスケットからは、俺のサンドイッチとは比べ物にならないほど豪華な料理の香りが漂ってきた。
「……何のつもりだ」
俺は忌々しげに睨みつける。
「友達と昼食を摂るのは、当然のことだろう?」
「俺は、貴方の友達ではない」
「そうかな? 僕は君を友達だと思っているけどね。それに、君は本当にいつも一人で寂しいだろう? 僕もそうだったから、わかるよ」
エリオットの言葉に、俺の胸の奥が、またチクリと痛んだ。寂しい。その通りだ。俺は、ずっと一人だった。誰にも理解されず、誰にも寄り添ってもらえない孤独。その虚しさを、この男は「わかる」と言うのか。
「……余計なお世話だ」
俺は視線を逸らす。こんな言葉、言われたくなかった。認めたくなかった。
「ふふ。素直じゃないね。でも、そういうところも面白い」
エリオットは、楽しげに笑う。そして、不意に、俺のサンドイッチを指差した。
「それにしても、ずいぶん質素だね。フェルゼン公爵家の次男にしては、驚くほどだ」
「……俺は、これで十分だ」
「そうかい? なら、僕のをお裾分けしてあげよう」
そう言って、彼は躊躇なく自分のランチバスケットから、豪華なローストチキンを一切れ取り出し、俺のサンドイッチの上にポンと置いた。
「おいっ!」
俺は慌ててそれを払いのけようとしたが、エリオットは素早く俺の手を掴んだ。
その指先が、僅かに触れる。その瞬間、ぞわりと背筋を這い上がった、説明のつかない熱に、俺の心臓が大きく跳ねた。
「そう警戒しなくてもいい。僕は君を傷つけたりしないよ。むしろ、君をこの単調な日常から救い出してあげたいんだ」
エリオットの声は、どこまでも甘く、しかし俺を射抜く視線は、有無を言わさぬような、強い支配力を帯びていた。その瞳の奥には、彼自身が持つ「満たされない感情」と、それを打ち破る存在としての俺への「飢え」が見え隠れしているように感じられた。
その日の放課後、俺は図書館にいた。静かで、誰にも邪魔されない空間。俺にとっては、何よりも落ち着く場所だ。歴史書を広げ、文字の羅列に没頭する。
「まさか、君が図書館にいるとはね。意外だ」
まただ。エリオットの声。なぜこの男は、これほどまでに執拗に俺につきまとうのだ?
「……貴方には関係ない」
俺は本から視線を上げずに答える。
エリオットは、俺の向かいの席に座った。そして、自分の持っていた本を開く。
「そうかい? でも、僕は君を退屈させているわけではないだろう?」
「……俺は、貴方といると、気が散るだけだ」
「ふふ、それは残念だね。僕は、君といると面白い発見ばかりなんだけど。むしろ、君と話していると、この完璧で予定調和な世界が、少しだけ鮮やかに見えるんだ」
そう言って、エリオットは俺が読んでいる本を覗き込んだ。
「これは……古い歴史書か。随分と難解なものを読んでいるんだね。理解できているのかい?」
「……まあ。小さいころからずっと読んでいるから。本は俺がどんな人間でも、態度を変えないでいろんな話をしてくれるだろう」
ほんの少しだけ、大好きな本について話していたからか微笑んだリオンの顔を覗き込んだまま、エリオットはふとつぶやく。
「君は本当に、周りの人間とは一線を画している。僕と同じように」
その言葉は、まるで褒めているかのように聞こえたが、俺には彼の真意が分からなかった。俺が周りから浮いていることを、彼は面白がっているだけなのだろうか? あるいは、本当に彼も同じように満たされない感情を抱えているというのか? 俺の心を揺さぶるような、彼の言葉の裏には、何が隠されているのだろう。
翌日、昼食のために学園裏の庭園へ向かっていた、その時だった。
角を曲がったところで、数人の上級生が俺の前に立ちはだかった。彼らの顔には、明確な悪意が浮かんでいる。
「よお、フェルゼン。今日も一人か?」
「相変わらず、陰気な奴だぜ」
彼らはニヤニヤと笑いながら、俺の進路を塞ぐ。
「何の用だ」
俺は努めて冷静に問いかける。
「何の用って? お前みたいな根性曲がりの悪役令息が、のうのうと学園を歩いているのが気に食わないんだよ」
その言葉と共に、一人の生徒が俺の胸を突き飛ばした。俺の身体はよろめき、持っていた昼食のバスケットが手から滑り落ちる。中身のサンドイッチが地面に散らばり、泥にまみれた。
「あっ……!」
俺は呆然と散らばったサンドイッチを見つめる。
「はははっ! みろよ、汚ねえな!」
「これで今日の昼飯はなしだな、悪役令息!」
彼らは大声で笑い、俺を囲んで見下ろす。屈辱と怒りが込み上げるが、何もできない。ここで抵抗すれば、さらに悪評が立つだけだ。
(まただ……また俺のせいだ。なぜ、こんなことに……! 俺は、いつまでこんな目に遭わなくてはならないんだ……!)
俺は、俯いて拳を握りしめる。この状況から逃れたい。しかし、どうすることもできない。誰にも、俺の苦しみなど、分かりはしないのだ。
その時だった。
「おや、何の騒ぎだい?」
涼やかな声が、上級生たちの笑い声をかき消した。
上級生たちが、ハッと息をのみ、一斉に振り返る。そこに立っていたのは、エリオット・ノヴァリスだった。彼はいつもの完璧な笑顔を浮かべ、しかしその瞳の奥は、どこか冷たく、嘲るような光を宿している。
「ノヴァリス様……!」
上級生たちの顔から、一瞬にして血の気が引く。彼らの態度は一変し、まるで氷漬けになったかのように硬直する。
「君たち、随分と楽しそうだね。僕も混ぜてくれないか?」
エリオットは優雅な足取りで近づき、散らばったサンドイッチを一瞥する。
「これは、リオンの昼食かい? ずいぶん派手に散らかしたね。まさか、いじめに興じていたわけではないだろうね?」
彼の言葉は丁寧だが、その声の冷たさに、上級生たちはゴクリと唾を飲んだ。
「い、いえっ! め、滅相もございません! 私たちはただ……その……」
しどろもどろになる上級生たちに、エリオットはフッと笑みを深めた。
「そうか。それは良かった。まさか、このノヴァリス家の僕が見ている前で、友人に粗相をするような真似はしないだろうからね」
彼の言葉に、「友人」という単語が含まれていたことに、俺は驚いて顔を上げた。
エリオットは、周囲の上級生たちを威圧するように見回すと、俺の方へと向き直った。
「大丈夫かい、リオン? 君の昼食が台無しになってしまったようだね」
そう言って、エリオットは俺の傍らに膝をつくと、ポケットから真新しい菓子パンを一つ取り出した。それは、学園の購買では見かけない、高級そうな包装がされたものだった。
「今日は僕もパンを持っていたんだ。これも完璧な昼食の一部だけど、君の代わりにはなるだろう?」
彼は微笑み、そのパンを俺に差し出した。
「おい、何を……!」
俺は慌てて止めるが、エリオットは構わない。
「君は不器用だからね。こういうのは僕がしてあげよう。それに、君の昼食が食べられないのは困るだろう? 僕は君に、もっと色々見せてもらいたいと思っているんだ。それに、僕も完璧で予定調和な日常には少しばかり飽き飽きしていてね。君が僕の心を、揺さぶってくれる気がするんだ」
彼の行動は、まさに完璧な王子様そのものだった。周囲の上級生たちは、顔を青くして固まっている。ノヴァリス家のご子息が、悪名高いフェルゼン家の次男に、まるで王子様のようにパンを差し出している。その光景は、彼らにとっては信じられないものだっただろう。
「ほら、これ。あまり美味しくないだろうけど、何もないよりはマシだろう?」
そう言って、エリオットは高級そうな菓子パンを俺に差し出した。その手は、どこまでも優しく、そして、どこか俺の行動を誘うかのように、甘く震えていた。
俺は、差し出されたパンと、その手を見つめる。誰からも疎まれ、助けてもらうことなど諦めていた俺に、この男は、こんな形で手を差し伸べてきた。その行動は、俺が求めていた「救い」と、どこか重なる。
警戒心は消えない。彼の真意は読めない。しかし、俺の胸の奥で、今まで感じたことのない、微かな温かさがじんわりと広がっていくのを感じた。それは、まるで凍てついていた心に、初めて触れた太陽の光のようだった。
(この男は……本当に、何なんだ……!? 僕の世界を、壊そうとしているのか? それとも……)
その温かさと、混乱に、俺の心臓は、これまでになく速く鼓動していた。エリオットの存在が、俺の孤独な日常に、奇妙な波紋を広げ始めている。まるで、水面に落ちた一滴の雫のように。
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