第6話
昨日のことが、ずっと頭から離れない。
放課後の帰り際。俺は梓の手を握ってしまった。
あのときの感触ほんのわずかな、けれど確かなぬくもりが、まだどこかに残っている気さえする。
思い出すたびに胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
彼女にとっては幼馴染との何気ないことだったのかもしれない。けれど、俺にとっては、それだけで充分だった。いや、充分すぎた。
彼女の笑顔は、いつもと変わらない。明るくて、人懐っこくて、誰にでも優しくて。
だけど、それがノートに従った結果だと思うと、どこか空っぽに感じる自分がいる。
(こんな風に、決められた道を歩くだけでいいのか?)
頭ではわかってる。
これまでこのノートの指示に従っていればよかったし、今後もきっとノートに従うのが最善の選択肢だって。
でも、気持ちはそう簡単には割り切れない。
(俺はノートがなければ、何もできないのか)
そんな問いが喉の奥に引っかかって、言葉にならないまま消えていった。
放課後。
静まり返った図書室に足を踏み入れる。空調の低いうなり音と、紙のこすれる音が心地いい。
以前なら、この場所が俺にとっての安全地帯だった。
誰にも邪魔されず、ひとりでいられる。静けさと本の匂いに包まれて、安心できる場所だった。
だけど、今は違う。
彼女がいる。それも、未来ノートの指示とともに。
俺の中で、図書室は安全地帯から戦場になった。
息をひそめながら、期待と緊張を隠しきれずに、この場所へ来たんだ。
机に座ると、カバンの中からノートを取り出す。
その重みが、ただの紙束ではないことを思い出させる。
ページをめくると、今日の予定が書き込まれていた。
『藤崎梓が図書室で脚立を使う → 本が落ちる』
(また、だ)
思わず、ため息が漏れる。
このノートは確かに的中してきた。
そのおかげで梓と距離を縮めてきたのも事実だ。
でも本当にこれでいいのか?
誰かが敷いたレールの上を歩くだけの恋に、意味はあるのか?
悩む気持ちはある。けれど、それ以上に思う。
(彼女と、仲良くなりたい)
たとえそれが、誰かの仕組んだ未来だとしても、今この瞬間、彼女と向き合いたいと思うのは、俺の本心だ。
だから俺は、今日もノートを信じて、ここにいる。
「よいしょ、あとちょっと……!」
棚の向こうから聞こえてきた声に、顔を上げる。
梓だった。
脚立に立ち、最上段の本に手を伸ばしている。
華奢な体に、白いブラウスがふわりと揺れて、頬にはうっすら汗のにじむような赤みが差していた。
その姿が、あまりにも絵になっていて
ほんの一瞬、息をするのを忘れた。
(綺麗だ……)
自然と、そんな言葉が心に浮かぶ。
ノートの内容と、ぴたりと一致する場面。
一歩、二歩と近づいたそのとき
グラッ、と脚立が揺れた。
バサッ、と分厚い図鑑が棚の上から滑り落ちる。
「危ない!」
俺は反射的に手を伸ばし、倒れそうな梓を支える。
彼女はあの頃よりずっと重くて、腕にずしりとのしかかる。けれど、間に合った。
「っ、ありがとう、伊吹くん」
目の前には、驚いたままの梓がいた。
栗色の瞳が、ぱちぱちと瞬いて、どこか心細げに揺れている。
(こんな顔も、するんだ)
「無理すんなって。危ないだろ」
そう言いながら、俺は脚立に登り、彼女が取ろうとしていた本を代わりに取って手渡した。
触れないように注意していたのに、ほんの一瞬、指先が重なる。
そのとき
「伊吹君。昔より、背、伸びたよね」
梓がふと呟いた。
見上げる彼女の瞳は、どこか懐かしくて、でも今の俺をしっかりと見つめていた。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
(ああ、そうか。俺たち、昔は……)
夏祭りの帰り道だった。
あの頃の梓は、俺よりもずっと背が高くて、元気で、何よりまっすぐだった。
浴衣の帯を揺らしながら、
「いっくん、遅いよー!」
そう言って、ふと立ち止まった梓が、俺の手をつかんだ。
それは、ぎゅっと強くて、まるで引っぱられる側が自分なんだと教えられたみたいで。恥ずかしいような、でも不思議と安心するような、あのときだけの気持ちだった。
金魚すくいで溺れそうになった金魚を助けようとして、店のおじさんに怒られて。
綿あめの袋が風に飛ばされて、二人で駆け回って。
帰り道には、「大人になったら結婚しよっか」なんて冗談みたいに言われて
何も返せなかった自分が、今でも少しだけ悔しい。
あのとき、もっと素直だったら。
もっと、まっすぐ言葉を返せていたら
今の自分は、違っていたのだろうか。
「俺はもういっくんじゃないからな。背も、梓より伸びたし……」
「え?」
「前はうるさいくらい、いっくんって呼んでたのに」
梓は目を細め、少しだけ口元を緩めた。
その笑顔に、心臓が跳ねた。
「呼んでほしいの?」
「いや。別に。もう子どもじゃないし」
「ふふっ。うん、知ってるよ」
笑いながらも、ほんのり赤く染まった彼女の頬に、胸がざわついた。
(ずるいよ、そんな顔されたら、また期待してしまう)
あの日の約束も、あの手の温度も、気にしているのは俺だけなのかもしれない。
でも、今この瞬間、彼女が俺の隣にいることだけは、本物だ。
帰り道。長く伸びた影を見つめながら、心の中でそっと呟く。
(昔より背が伸びて、大人になったはずなのに、好きって、どう伝えたらいいのか、わからない)
風が吹いた。
夕暮れの空気が、少しだけ肌に冷たかった。
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