第5話

 教室でハンカチを見つけた後、駅までの帰り道を俺たちは並んで歩いていた。


 春の風が、もう一度ふたりの間をすり抜けていく。けれど、その隙間はほんのわずか。


 彼女の肩が、たまに俺の肩に触れるたび、心臓が一瞬だけ跳ねた。

 わざとなのか、偶然なのか。


(いや、こんなの意識する俺がおかしいのか)


「ねえ、伊吹くん」


 梓がふいに立ち止まった。

 その声色には、どこか甘えが混じっていて、俺の足も自然と止まっていた。


「ん?」


「ジュース、おごってくれるって話、まだ有効?」


「それ、俺が言ったんじゃなかったっけ?」


「そうだったね。でも、今の気分はふたりで買って、半分こかなって」


 そう言って、梓はふわっと笑う。

 その無邪気な笑みが、夕暮れの光に照らされて、やけにまぶしく感じた。


 ずるいな、ほんと。そんな顔見せられたら、断れるわけがない。


 俺はちょっとだけ呆れたふりをして、でも内心は嬉しさでいっぱいだった。

 鼓動がさっきからうるさい。抑えが効かない。


「じゃあ、駅前の自販機な。あそこ、種類多いし」


「うん、あそこのね。ミルクティー、あるといいな」


 彼女はそう言って、小さく歩幅を合わせてくる。

 俺たちは自然と、指先が触れそうな距離になった。


 今なら、手を伸ばせば、届く。

 そのことが、なぜか心の奥に温かく沁みた。


 駅前の自販機の前。


 俺がポケットから小銭を取り出すと、梓がすっと寄ってくる。

 距離が近い。横顔がはっきり見える。

 髪の香りが、ふと鼻をかすめて、思わず息を呑んだ。


「じゃあ私が選んでいい?」


「任せた」


 迷いもなく、彼女はミルクティーのボタンを押した。

 自販機からボトルが落ちる音がして、梓がしゃがんでそれを取る。


「はい、伊吹くん。キャップ開けて」


「自分で開けろよ」


「えー、開けてほしいな。なんか、そういうのが、いいの」


 まったく、こいつ、狙って言ってるだろ。

 言葉の一つひとつが、いちいち刺さる。


 俺は何も言わずにキャップをひねった。

 素直じゃないようでいて、こんなことを頼んでくるのが、ほんとずるい。


「ありがと」


 彼女がペットボトルを受け取り、くいっと一口飲む。


「ん、じゃあ次、伊吹くんの番ね」


「え?」


「ほら、さっき言ってたでしょ。半分こするって」


「言ったっけな」


「言ったの。だから飲んで」


 梓が俺のほうにボトルを差し出す。

 その手はどこか期待しているような、わずかに恥じらいを含んでいて。


(口、つけたばっかりじゃん)


 意識するな、するなと思いつつも、受け取って一口だけ飲む。

 甘さと温かさが、喉を通ったはず。でも、味なんて全く分からなかった。


「この飲み物、味、変わってないよな?」


「ふふ、なにそれ。間接キス、意識しちゃった?」


「してねーし」


「うそ。耳、赤いよ」


「うるさい」


 言い合いながら、でも自然と肩がぶつかる距離に戻っていく。

 この距離感が、なんだか心地よかった。


 駅の手前にある横断歩道。信号が赤になり、俺たちは立ち止まる。


 そのとき


 ふと、彼女の手がスカートの裾で小さく動いた。

 袖をつかむ、あのしぐさ。まるであの日の再現みたいだった。


 だけど今回は、俺のほうから。


「梓」


「ん?」


「手、つないでもいい?」


 一瞬、彼女がきょとんとした顔をして、すぐに少しだけ視線を逸らす。


(やっちまったか?)


「ダメって言ったら?」


「少し、へこむかも」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。けど、もう引けない。


「じゃあ、ダメって言わない」


 その言葉に、俺の胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 そっと、彼女の手を取った。


 手のひらは、思っていたよりも小さくて、そして冷たかった。

 その冷たさごと包み込むように、俺は彼女の手をしっかりと握った。


「伊吹くんの手、大きいね」


「そうか?」


「昔は、私のほうが大きかったのに」


 一瞬、胸がちくりと痛んだ。


 あの頃、握った手の記憶。

 頼られていたのは、きっと俺のほうだった。

 だけど今は、違う。


「今は俺が、エスコートするよ」


 口をついて出たその言葉に、自分でも少し驚いた。

 けれど、不思議と後悔はなかった。


「そういうの、ほんと、ずるいんだから」


 頬を赤く染めながらも、彼女は手をほどこうとはしなかった。


「伊吹くんってさ、変わったようで変わってないよね」


「え、どういう意味だよ」


「昔も、私がハンカチ落として泣きそうになったとき、黙って拾ってくれたでしょ」


「そんなこと、あったっけ」


「うん、幼稚園のとき。でも私、今でも覚えてるよ」


 梓が少しだけ、顔をほころばせる。

 懐かしいような、恥ずかしいような、その笑みが、どうしようもなく愛しかった。


 こんな笑顔、守りたいって思った。


(今度こそ、本当に)






最新話まで読んで戴きありがとうございました。


もし、結構面白い! 続きが気になる!


と思ってくださいましたら、

★評価とフォローをお願いします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る