第2話

 体育館に、笛の音が響き渡る。四月上旬のスポーツテスト。三年生にとっては、受験を控え、体力維持の重要性を再認識させられる機会でもあった。壮介は、長距離走のグループがスタートするのを見送った後、自分の番が来るまで壁際でストレッチをしていた。運動は得意な方だが、故障研究に没頭するあまり、最近は体を動かす機会が減っていた。


 「結城くん、ちょっといいかな?」


 不意に背後から声をかけられ、振り返ると、クラスメイトの佐々木梓が、顔色を悪くして立っていた。彼女は普段から体が弱く、体育の授業でも無理をしないようにと教師から言われている。


 「どうしたの、佐々木さん? 顔色が悪いよ」

 壮介が心配そうに尋ねると、梓は力なく首を振った。

 「ごめん、ちょっと貧血みたいで……。次のシャトルラン、無理そう」

 彼女の額には、うっすらと汗が滲んでいた。


 壮介は迷うことなく、梓に手を差し伸べた。

 「保健室まで送っていこう。立てる?」

 「う、うん……」

 梓はか細い声で答えたが、その足元はふらついていた。


 壮介は、梓の同意を最低限の確認で得ると、彼女の体をそっと抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこだ。梓は驚いたように目を見開いたが、すぐに壮介の胸に顔を埋めた。彼の腕の中で、彼女の体が少し震えているのが伝わってくる。


 「大丈夫。すぐに着くから」

 壮介は、彼女の不安を和らげるように優しく声をかけた。彼の腕の中の梓は、まるで壊れやすい宝物のように小さく、そして温かかった。彼は、彼女を安全な場所へ運ぶという、純粋な責任感に駆られていた。


 保健室へ向かう廊下で、何人かの生徒が壮介と梓の姿に気づき、ひそひそと囁き始めた。壮介は気にする様子もなく、ただ梓を保健室のベッドに寝かせることだけを考えていた。


 保健室の先生に梓を預け、壮介が体育館に戻ると、今度は小林遥が、足首を捻ったと訴えていた。遥は泣きそうな顔で壮介を見上げ、助けを求めた。壮介は再び、遥を抱き上げ、保健室へと運んだ。彼女の体温が、彼の腕にじんわりと伝わってくる。


 その日一日、壮介はまるで保健室の使い走りのように、怪我や体調不良を訴える女子生徒たちを次々と保健室まで運んだ。お姫様抱っこで運ばれた女子生徒は、佐々木梓、小林遥の他にも、高橋梨花、山本結衣、伊藤楓といった凛の友人たちも含まれていた。彼女たちは皆、壮介の優しさと頼りがいのある姿に、感謝と尊敬の念を抱いた。壮介は、彼女たちの「ありがとう」という言葉や、安堵した表情を見るたびに、無自覚ながらも「頼られていること」への喜びを感じていた。彼は、ただ困っている人を助けたいという一心だったが、その行動が、女子たちの間で彼の好感度を急上昇させていることには、全く気づいていなかった。彼の頭の中には、凛のことしかなかったからだ。


 一方、凛は、壮介が次々と女子生徒をお姫様抱っこで保健室に運んでいく様子を、複雑な表情で見ていた。

 「また壮介が……」

 彼女は小さく呟いた。

 壮介は、凛にとって「許容範囲の相手」であり、将来の候補の一人に過ぎなかった。しかし、彼の行動は、彼女の予想を超えていた。他の女子たちから向けられる壮介への熱い視線、そして彼が運ぶ女子たちの嬉しそうな顔。凛の胸に、じわりと焦燥感が広がる。


 「せっかくキープしている“許容範囲の相手”が、友人たちに奪われてしまう」


 その危機感は、凛の独占欲を刺激した。壮介は、自分の「下僕」として囲い込んでいるはずなのに、その「下僕」が、自分の友人たちにも手を差し伸べ、しかもそれが彼女たちの好感度を上げている。それは、凛のプライドをかすかに傷つけ、同時に、彼に対する「所有欲」のような感情を芽生えさせていた。


 放課後、下駄箱で壮介と凛が並んで帰る準備をしていると、梨花が駆け寄ってきた。

 「結城くん、今日は本当にありがとう! 助かったよ!」

 梨花は満面の笑みで壮介に礼を言い、壮介も照れたように頭を掻いた。

 その様子を横目で見ていた凛は、心の中で舌打ちをした。壮介の価値が、彼女の知らないところで、どんどん高まっている。このままでは、本当に「キープ」どころではなくなってしまうかもしれない。


 凛は、壮介の腕を掴み、少しだけ力を込めた。

 「さ、壮介。早く帰るわよ」

 その声には、普段よりもわずかに、焦りの色が混じっていた。


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