明治時代を探索と牛鍋
話は鳴海の足が完治した時、つまり今日の午前から昼のことになる。
首都の下町を出て、賑わっている銀座煉瓦街に向かった鳴海と苺。文明開化が訪れたとはいっても旧市街には、長屋や昔からある古くからの歴史的な建物や木造建築物が圧倒的多数を占める。
銀座煉瓦街にはハイカラな煉瓦作りの欧風の建物が建ち並び、異国情緒溢れる様相だった。そんな道路には馬車路線などが敷かれており、その上を馬車が行き来していて、更には汗を流しながら人力車などを引っ張る人達が居た。また街へ出ると変わるのが人の服装だ。西洋風のドレスを着込んだ女性やステッキやマントを羽織ったスーツ姿の男性などが急に増えた。
中にはざんぎり頭の学ランを着た男性や女袴を着た女性なども多い。
また新橋から日本橋、そして新橋から横浜間や東京の地方と呼べる各方面の他にも少しだが私鉄が通うようになっていて、それを見てみたいなという鳴海の気持ちがあったが、まだ実現はしていない。
異文化の空気を感じて鳴海は思わず心の中の声を口に出していた。
「うわ……明治なんだな、やっぱりここは……凄い文明開化の香りがする」
「鳴海様!」
鳴海も書生さんと同じように着慣れない袴姿なのだが、口から出る言葉は異人のそれであった。慣れない草履で歩く鳴海。草履が地面に擦れて音がする。明治といえば何回か日本銀行兌換銀券を見せてもらって感慨深い気持ちになったことは記憶に新しい。この時代にタイムスリップした時に財布やスマホなどは消え去るようになくなっていたが、もし一万円札があった場合、彼女達に見せると驚かれることになっただろう。肖像画も今を生きている人だし。よく考えると、一万円札という冗談みたいな金額の紙幣を見せなくてよかったと鳴海は近頃思っている。
「しかし、やっぱりいいね。この雰囲気は。とは言っても今後どうやって生きていくかの方が重要なんだけど……」
紙幣のことを考えていた鳴海だが、将来のことを思うと急に現実に引き戻される。そんな鳴海に苺は優しい口調で話す。
「それは、これから徐々に見つけていきましょう、鳴海様。どんな些細なことでもお力添えになりますので」
そんな苺の言葉にジーンとした鳴海は瞳に涙を溜めて頷いた。
「う、うん、あ、ありがとう」
人力車が前を通り過ぎて行くのを眺めつつ、鳴海は今日、苺に誘われている牛鍋屋に行くことにする。どうやらここら辺で美味しいお店があるそうだ。
銀座煉瓦街の大通りを暫く歩き、貴婦人や紳士、学生にぶつからないように体を避けて、暫く道沿いを歩き続けたところで苺は右へ曲がり、細道へ足を踏み入れた。大通りとは違い、小道を歩むと小道なりの静けさがあった。
そんな通りには明治ロマンが漂う煤けた木製作りのポストがあり、そこから少し足を踏み入れた先には郵便局があった。現代の機械的な建物ではなく、情緒溢れる木造作りであった。着物やスーツなどを着た様々な人達が入ったり出たりをしていた。
「うわ……明治村が現実にあるみたいだな」
「だ、だから鳴海様、ここは……」
「明治なんだよな……」
感嘆の息を漏らす鳴海に苺はここは明治であることを強調する。
「そ、そうです」
確かに街の中であまり奇妙な言動をとりながら歩くのは好ましくない。それは鳴海も分かっているので一度瞳を閉じると苺へ向かって微笑みかけた。
苺は恥ずかしそうに視線を逸らすと、気を取り直すようにして鳴海へ落ち着いた様子で言葉を掛けた。
「もう少しです。道が狭いので気をつけてください」
「ゆっくりでいいから、散歩も兼ねているし、なにせ今は時間も多くあるからね」
自分でニート感を醸し出す台詞を言って鳴海は苦笑を浮かべた。苺は鳴海が苦笑を浮かべた理由が解らず、首を少し横へ向けて、鳴海に合わせるようにして微笑みを浮かべてから頷いた。
「は、はい」
現代の東京では見られないほどに澄んだ小川が流れているのを見て、ここは自分の知っている東京ではないのだなと再度認識をさせるのには十分だった。苺に誘われるようにして歩いた先には数件の飲食店らしき店が並んでいた。
「ここです、とってもおいしんですよー」
「ほうー、いい香りだ。味噌ではなくて、醤油と砂糖をベースにした割り下の香りだ。ジューシーな肉の香りがする」
苺が指を指した先には、横書きでぎゅうなべならぎゅうなべやほんぽと書かれた木製作りの看板が掲げられていた。看板を指さした後に、苺は鳴海を連れ立って暖簾をくぐり店の中へ入った。
「いらっしゃい」
「はい、またお世話になります」
店の女性従業員と思わしき人物が苺と鳴海を出迎えた。苺も彼女に頭を下げて挨拶を返す。彼女は鳴海の姿を見ると、にやりと笑みを浮かべながら茶化すようにして言ってきた。
「おや、今日はお友達とじゃなくて、紳士と一緒かい? まさか恋人かい?」
「そそそそそ、そんな、鳴海様は、お、お、お家のお客様です……ふうーすうはー……と、突然とんでもないことを言わないでください」
「なるほどねえ。まんざらでもなさそうだね。ね、あんたもそう思うだろ、色男」
胸を撫で下ろすようにしていた苺から彼女は鳴海にターゲットを変更したようだ。
「い、色男……い、いや……うむむ」
しどろもどろになった鳴海は、そこで首を左右へなんどか振ると、一旦深呼吸をしながら正気を取り戻すかのように牛鍋の食欲のそそる豊かな香りを嗅ぎつつ、弁明をした。
「俺は単なる客人ですので、は、はい。今日はその美味しい牛鍋を食べさせにもらいに来ただけで、あのー、そのー……」
「嬉しいねえ、家の牛鍋が美味しいって言って貰えて。君代、からかうのはそこまでにして、お客さんの相手しな」
「あいよー、大将」
厨房から現れた大将は注意めいた口調でありつつ、冗談交じりの口調で君代にそう言うと、大柄な体を動かし、再度厨房へとその身を隠した。苺と鳴海は店の隅にある座敷へ案内された。
「ここならどうだい。結構良い席なんだよ」
「ここにしましょうか」
「うん、見晴らしがいいね」
二人は案内された席に決めた。鳴海は草履を脱ぎ、畳張りの座敷へ上がると、なぜか苺も隣に座る形で座ることになった。手前に空き席があるので、鳴海は疑問口調で言葉を零す。
「あ、あれ……」
「すみません、鳴海様、後々を考えるとこうした方がいいかと思いまして」
座敷形式の囲炉裏の前で二人が並ぶように座る形になった。店の中に居る他の男性客が食べている牛鍋の甘く、そしてくどいような幅と奥行きがある気品高い香りを嗅いで鳴海は唾液をごくりと嚥下した。
「いい香りだ。このすき焼きのような香りはたまらないな、なんか癒やされるー」
「あのー、すきやきってなんですか?」
「あ、ごほん、うん、ごほん。うん、ちょ、ちょっとね……」
すき焼きという言葉をまだ知らない苺。関西では既にあるらしいが、東京に伝わるのはまだまだ先の話だ。
君代は囲炉裏の中央に置かれた炭を火種で温めている。炭に火が点ると、君代は炭の一角を火箸で調整していく。そして更にその上へ炭を置く。
僅かな煙が浮かび、そして赤く燃えていく炭。火が通ると君代は更に火箸で調整していく。 その光景を見て、鳴海は自分は完全に別世界にいるのだなと痛感させられた。
何とも物珍しそうにして眺める鳴海に君代は首を傾げるとこう聞いてきた。
「あーところで、お酒でも注文するかい、色男」
「いえいえ、まだそんなことをしていられる身分ではないので」
「いいんですよ、鳴海様、お飲みになっても」
「いやいや」
「なにを遠慮してんだか、変な男だね」
君代の言葉に鳴海は苦笑を浮かべるしかなかった。
暫くして囲炉裏に牛鍋が掛けられた。鍋の中にはかなり多めの牛肉が盛られている。そんな牛肉を囲むようにして、葱、しいたけ、木綿豆腐が置かれている。そんな素材を覆うようにたっぷりと入った褐色の割り下があった。
長めの菜箸を鍋の中へ入れてから、君代は何回か往復する。取り皿と箸をお膳に載せて持ってきた君代から苺はそれらを受け取ると、まず鳴海に渡してから、続くようにして苺は自分の分を手前に置いた。
褐色の牛鍋の割り下には気泡は浮かんでおらず、どうやら囲炉裏で直に温めて食べるらしい。鮮やかな赤と白の黄金比率を保ったサシの入った牛肉についつい鳴海の目線が行く。
「よいしょっと」
苺は背を正し、着物の裾を上げてから、少し姿勢を囲炉裏側に出るようにして、長めの菜箸で肉を割り下の中へ入れていく。徐々に気泡が浮かんできた割り下の中へ肉が沈んでいく。
「煮えるまで、少しお話でもしていましょうか。時間もありますし」
「そうだね」
肉や葱が煮えるまでまだまだ時間はある。その間に二人が黙って見つめ合っても仕方がない。まず話を切り出したのは鳴海だった。
「そう言えば、良介さんはなんか仕立ての良い服を着ているけど、外務省でも相当な地位なのかなとか興味を持ったり、悪い意味ではないよ、ははっ……」
苺は少し考えるようにしてから甘い吐息を漏らした後に言葉を返した。
「父が相当な地位なのかは私にもわかりません。仕事の細かいことまでは話してくれないので」「あー、なるほど」
細かいところまで話さないことで鳴海は納得をした。外務省は言わずと知れた政治の機関だ。政治内の極秘の内容なども含まれていることが多いのだろう。
「数年前の仕事の時にドイツに渡っていたこともありまして。今はこの国での勤務ですが。すみません鳴海様、おわかりになられますかドイツのことは?」
「あ、さすがに分かるよ」
ドイツの意味を分かっているのかを苺は確認すると鳴海は、心配を掛けないように微笑みを浮かべて答えた。
ここで鳴海は考える。この時代でドイツに渡るほどになるということは相当に身分が高いのではないかと。そう考えると気さくに良介と話していたことに対して今更ながらに緊張してきた。
「しかし、仕事でドイツとなると凄いことだね」
「いえいえ、とんでもないです。やっぱり外務職員だとそれなりに良い衣装を着なければならず、そうした意味であのスーツなんです」
「だろうね……」
苺の呟いたかのような言葉に鳴海は相槌を打った。
「外国の方にもお食事を作ることもあるので、その試食として西洋料理を家で食べることもあります」
「試食って、家で作っているの?」
苺の口から出た西洋料理を試食するというキーワードに鳴海は食らいつくように反応する。これで時折家の外から洋食の香りがするときがあることに合点がいった。また試食ということは西洋風台所が必ずある筈だと考える。
「過去に政府の偉い方が、この国にはあまりにも西洋の台所がないと嘆いて、造ったと聞きます。多分その時に家の台所も造られたのではないかと……」
自信がない様子でそう語る苺。当時の明治政府がそうした行動をしたことは鳴海は知っていたので話が途切れないように相づちを打った。
(嘆いて造るように促したのは岩倉具視だったかな)
あまり変なことも言えず、かといってそんなお偉いさんの名前を出すわけにもいかないので鳴海は頷くだけにしておいた。
「なるほど」
「私もその台所の影響で、父が決まった日に連れてくる、雇われの外国人の方からお料理を習って作っているのですが、なかなか上手くいかず……外国料理は難しいです」
「ふむ……」
一夜で覚えられるほど西洋料理は簡単な物ではないということを鳴海が一番解っていたので、難しい表情になった。そんな鳴海の表情を見ながら苺は溜息交じりにこんな消え入りそうな声音で呟いた。
「ただ、この前、父が酔って帰ってきて珍しくこう言葉をこぼしました。外国人に料理を作っているのだが、まったくうまくいかない。彼の舌に合う料理を造るのは難しすぎると」
「その家で雇っている外国の料理人の方に作って貰っても難しいのかな?」
「と、いうことだと思います。あまり愚痴を言わない父だけに心配です……」
真実は違うのだが、苺は滅多に口に出さない良介のぼやきをそのように解釈をしていた。鳴海はそこで腕を組んでから考える。
「ふむ……これは難しい話だ」
ぶっちゃけたことを言えば、明治後半には日本人で優秀な西洋料理のシェフ達が誕生していくが、まだ明治の初期では習っている段階だ。
明治初期の外国人の料理人で有名な人はいるが、その人達に頼めないのかと考える鳴海。
苺に聞いてみようかと思ったが、苺の方を向くと彼女らしくもない難しい表情をしていたので聞くのは止めることにした。
父は口には出さないが、なにかと苦労をしているのではないか? と苺は内心思っていたので、ついつい気持ち的に喋りやすい鳴海へ愚痴ってしまったことを後悔していた。当の鳴海は聞き手として有名だったが、ここでもまさに聞き手の能力を余すことなく発揮していた。
後悔ついでに鍋へ視線を移すと、具材がすっかりと煮え切ってきた。ふつふつと気泡を浮かべる牛鍋を見てから苺は誤魔化すようにして鳴海へ話を振る。
「すみません。愚痴っぽい話をしてしまって、あの煮えました、冷えてしまうので、美味しい内に食べましょうか?」
「そうだね、うん、食べよう」
無理な笑顔を作っていることが分かって、鳴海はズキッと感じる程に胸が痛くなった。多分というか勘だが良介さんは外交の仕事で料理を作り、相手に食べさせる会談とかがあるのではないかと鳴海は推測する。
だからこそ、自分ならこういう風に料理を作るのにという行動を描けるのだが、実際問題、今の自分は誰かを助ける権利も自由もない。自分は記憶喪失な病人なのだから。そう思うと歯がゆい気持ちになった
苺は鳴海の分の肉や葱、木綿豆腐やしいたけを箸で皿に取り分けてその上に載せていく。具材を全て載せ終わると鳴海の前に皿を置いた。牛肉がすっかり煮えて割り下に煮込まれた影響か、色鮮やかな褐色へと変化していた。見目も麗しい葱の純白がじわりと根元まで薄い褐色に犯されていた。
そこで鳴海はふと気がついた。
「あ、俺の隣に座ったのはこういうことか」
「はい、お取り分けする為です」
「お心遣いありがとう」
「どういたしまして、鳴海様」
苺がふんわりとした柔和な笑顔を鳴海へと向ける。そんな彼女の顔を見るのが眩しくて鳴海は肉へ視線を戻す。
「おお、これは凄い」
煮えた肉にはたっぷりと脂が乗っていることが判った。鳴海は葱やしいたけの隙間に箸を埋めると隙間に埋もれているジューシーな褐色の肉を挟み取り出した。
鮮烈でありながら甘くて良い香りを浮かべる醤油ベースの割り下がゆらゆらと湯気を浮かばせる。割り下から濃厚でふくらみのある上品な香りがした。その中にはサシの入った褐色の牛肉が鎮座している。牛肉を持ち上げると滴が垂れ、皿の上へ落ちる。そんな五味を刺激する良い香りを大きく吸い込み、鼻孔から胃へと落とす。
「素晴らしい。最高の香りだ」
ふうふうーと、少し冷ましてから割り下と絡み合った脂の乗った牛肉を口に運ぶ。素晴らしいきめ細やかな肉質であり、ジューシーさと甘さが溢れるこってりとした味が楽しめた。噛めば噛むほど、柔らかくてコクのある牛肉の味が深まりボリュームのある質感と味を楽しめた。
もちもちとした肉から湧き出る肉汁と脂がとてもおいしい。脳髄を刺激されるような味わいで、じんわりと五臓六腑に染み渡る。
「うおおおおおおおおお、うまい!」
「な、鳴海様!」
「し、失礼」
鳴海は口に入った肉の味に再度身を捩らせ悶えた。
「おほ、おほう、これこれ、これだよ。普段の和食も最高だが、これも最高だ! あ、これはご飯が欲しくなるな。気品高い割り下のエキスをふんだんに含ませた牛肉を溶いた卵液へ通し、黄金色と褐色の色合いを楽しみつつ、それを熱々のご飯と共にかき込む! これも最高なんだよなー」
褒められた食べ方とは言えないが、確かに酒のおかずの他にこうした食べ方をするのも美味と言えた。
更に鳴海は現代の日本人だ。魚などの和食はこよなく愛するほどに好きだが、やっぱり肉も食べたくなる。肉による和食も素晴らしいものだと鳴海は自分が置かれていた現代日本の食卓を思い出しこう呟く。
「日本の洋食は魔改造されているからな。これが牛丼へと変化したんだしな」
「マカイゾウ? はい? ギュウドン? なんですかそれは……」
「ごほごほ、ううん、なんでもない」
苺の問いかけに咳払いをした鳴海。そんな鳴海を不思議そうな表情で見やる苺。あまり現代の日本の用語を使うのはよくなさそうだと考えると、そう言えばと料理に想いをはせる。
牛鍋が皮切りになったといってもよかった。鳴海の目の前に数々の美味しそうな料理が浮かんでくる。明治に来てからそういう料理とは無縁になっていたので、なお思い出すと食欲をそそらせた。
(ぷりっぷりの海老、そして噛み応えのあるイカ、ボリューム溢れる口の中で蕩けるような茄子なんか揚げて、皮の余韻を楽しみつつ、濃密で香ばしい香りや辛味や甘味がするくどいタレを天丼の飯にたっぷりと吸い込ませて、食べてみたい)
湯気を上げる天丼。口の中でサクサクと衣が破け、肉厚でぷりぷりの身が弾ける海老。そんな甘く潮の香りがする淡泊な海老にタレがかかり白米に染みこんでいる様がイメージできる。ご飯と食べると格別なあの味、思い出しただけで涎が垂れてくる。
(前に最高の牛鍋があるのにもかかわらず、こうも他の物が食べたくなるのか)
現代の食事を思い出すと、次から次へと連想されるように数々の料理が浮かんでくる。
「鳴海様? どうなされましたか?」
しかしそんな苺の声も鳴海の耳には入っていなかった。鳴海は食事を思い浮かべる。
(さくさくに揚げられたとんかつ。香ばしい香りと共に前に出されるあの瞬間。ソースをかけると特別なんだよな。パチパチ、しゅわしゅわと跳ねる油の中で揚げられたとんかつ。そんなとんかつを熱々の状態でザクザクと切り分け、灰色の肉から溢れる肉汁と脂を楽しみつつ、湯気が出ているうちにふうふうしながら頬張る。ずっしりとした重量を持つとんかつを口の中で切り分け、泣けるほどの重厚な味とやや豚の香りがする肉を頬張る、脂身も楽しんだ後にライスを頬張る。甘辛いソースと絡み合って最高なんだよなー)
「カツレツでも今は構わない、カモン揚げ物」
「あのー鳴海様、鳴海様、鳴海様……」
妄想の世界へ突入してしまった鳴海。そんな鳴海を苺は健気な様子で懸命に呼び戻そうとする。
「ああっ……旨そうだなあ」
鳴海の表情が怪しいといえる程に自然な笑みを浮かび始めていた。料理への執着が既に口から吐いて出ていることに鳴海は気がつかない。
心配する苺は突然無言になったり語り始めたりする鳴海の肩を何回か叩いた。
「な、鳴海様、どうなさったんですか?」
「へ、へ?」
自分が今何をしていたのかを忘れるほどに現代日本食を脳内に浮かべていた鳴海。明治に来てからのあまりの期間、遠ざかっていた食への渇望が牛鍋を発端にして坩堝のように湧き出てしまった。食べられない物に対する物ほしさは現代人ならではのストレスと化している程だった。
今の自分はとんかつどころかハンバーガーやラーメン、カップ麺や焼きそばさえ食べられないということに寂しさを感じた。
だからこそ食への渇望が生まれる。カップ麺は無理だが、なんとかこうした料理も自分が持ちうる最大の技術と腕で作ってみたいという激しい渇望に駆られる。
「……うむ、やっぱり俺って根っからの料理人なんだな……」
そして鳴海は思う。自分の料理を披露してこの明治の人達をこんな風に喜ばせたい。それは料理人にとっては本望なことだ。急に小難しい顔して黙り込む鳴海の顔を苺は困惑顔で見やる。
(やっぱり、将来のことを考えると、ここで自分は料理の記憶だけはあることを打ち明けて、台所を使わせてもらった方がいいのではないか? そこから一から修行でもいい、料理の世界に飛び込む、これしかない)
そんな考えになっていく鳴海。好きな料理のことになっていくと考えが止まらない。
鳴海はごくりと生唾を飲み込み、苺の顔を伺うようにしておどおどとした様子で呟く。
「あのさ」
「はい?」
「実はさ」
「はい」
「お、俺、料理の知識だけはあるんだよねー……」
「そ、そうですか、どんな料理なんですか?」
「西洋料理とか洋食とか和食とか色々、他にもたくさん作れる……驚くよね、記憶がないのにさ」
「え、いえ、まあ、はいです……」
記憶喪失である男が突然料理を作れる、それだけのみならず西洋料理や洋食も作れると本来ならいっちゃいけない言葉が満載な気がしたことを言った後に気がつき始めた。鳴海は苺の表情を見やるとご多分に漏れず困惑をしていた。
困惑するのはもっともだと鳴海は苦笑を浮かべる。でも言ってしまったことは撤回できないと思った、だから鳴海は苺にダメ元で聞いてみた。
「あのさー……」
「は、はい」
「外国人の方が作っている台所があるよね」
「は、はい」
「図々しいのは百も承知だが、お、俺にも貸して貰えないだろうか、そして今度料理を作らせてもらえないだろうか? どうかそこで俺の未来を決めると思って」
真剣な表情と瞳に涙を浮かべて苺に手を合わせて懇願する鳴海。苺は一瞬だが鳴海から視線を逸らした後に、顎に指を当て考え始めた。そんな苺を見てから鳴海はどもりながら言葉をはっした。
「あ、あの、あのー、そのー……む、無理ならい……」
無理ならいいと言いかけて鳴海は自分の発言を飲み込んだ。そんなことを言っていてはいつまで経ってもなにも解決もしない。苺は少し考えた後に鳴海の瞳を真剣な表情で見やる。
「そのやっぱり鳴海様は記憶喪失じゃないですか……」
「う、うん」
「やっぱり火を使うとか危ないと思うんですよね……」
言っていることはもっともだ。自分が苺のケースに置き換えて、その人物に台所を貸すかと言えばノーだ。
「で、でも、そのー、父様に聞いてみましょうか? 父様の許可がないと貸せるとも言えないですし」
「え? え?」
苺からは意外な答えが返ってきた。完全なお断りの返事が返ってくると覚悟をしていたが全然違った。
戸惑う鳴海。しかし苺はそんな鳴海の瞳を見ながら凜とした表情を崩さずに鳴海に言葉を掛ける。
「それが鳴海様の生きる道の道しるべなのであれば、私はご協力を致します」
「……」
「許可は取れるかどうかは別問題ですけど、私は全力でお力添え致します」
「う、うっ……」
ありがたい言葉に鳴海はじんわりと瞳に涙を溜める。苺はすっと手を差し出してきて鳴海の瞳の涙を拭う。
「泣かないでくださいませ」
「ありがとう……ありがとう……」
正直不安だった。この先どうやって生きていけばいいのか。好きな料理も出来ず。なんの保証もない毎日。小野田家の皆が優しいから今があると、もしそれがなかったら自分は今頃生きていないだろう。こうして牛鍋なんか食べられるなんて夢のまた夢だ。
それでも、自分はこの先どうなるんだろうというプレッシャーが鳴海の双肩に重くのしかかっていたのは確かなことだった。
「鳴海様の顔を見れば判ります。嘘やでたらめなんていっていないって」
「君は、優しい子なんだね……普通なら断るよ……」
「もし、それが鳴海様の人生を決めることだった場合、私の勝手な考えで潰すことなんてあってはならないです」
そういう苺の瞳は凛としていた。苺とて元武家の娘である。決めるときはすぱっと決める。そういう大和撫子の部分を彼女は持っていた。そんな苺の英断に鳴海はただひたすらにお礼を述べた。
「ありがとう、本当にありがとう……」
「いえいえ、真剣に父様と話しましょう。きっと分かってくれますから。父様も考えが早い人なんですよ」
「う、うん」
「さあ、鳴海様、牛鍋が冷めてしまいます。食べましょう」
「そ、そうだね、う、うん」
いい子だ。自分の面倒を見ていることに時間を割かせるなんてこと自体がもったいないぐらいの優しい子だ。
鳴海は苺の笑顔に誘われるようにして牛鍋の肉を再度口の中へ入れて咀嚼した。なぜか先ほどよりかなり上手く感じて不思議な気持ちになった。
葱に手をつけると程よく弾力が残っており、噛むと中からあつあつの割り下と身が飛び出てくる。甘みを帯びたそれは、程よく柔らかくもありザクザクと口の中で切られていく噛み応えを感じさせる。そんな感触を鳴海は必死に冷ましながら楽しんでいく。
「……うまい……」
心が少し晴れやかになった鳴海にとって、今の牛鍋は最高の味になっていた。
「お酒でもお飲みになられますか? 少しは気分的に楽になるかもしれませんよ」
「いや、君の優しさとこの牛鍋だけでいいよ。今の俺にはそれだけで十分だ」
この判断が後に功を奏するとは鳴海は知る由もない。苺は自分の皿に盛られた牛鍋を持ち上げると、口の中へ牛肉を入れて咀嚼をして飲み込んだ後にこう言うのだった。
「やっぱり、ぎゅうなべならぎゅうなべやほんぽですね」
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