第2話 梅雨の月
パーティーから1ヶ月が過ぎた頃、東京は梅雨に入った。
蒔田は持病の腰が痛いと自室で新之介の治療を受けていた。
さらに吉乃は孫娘のお産だと出掛けることになった。
「初産だというのに、母親は母宮様のお風邪が良くならないから行けないというのですよ」
吉乃の孫娘から見て母親に当たる人は母宮の乳姉妹で、今も侍女として仕えている。
「あら、そう。それは不安でしょう。あの子の気が済むまで付き添ってあげて」
「結子様のお言葉を聞いたら喜びます」
吉乃の言葉に結子は「そんなことはない」と心の中で反論する。
そんな結子に気がつかないまま吉乃は出掛けて行った。
吉乃の孫娘は一時期、結子の遊び相手だった。
しかし、結子の手足が思うように動かないことを認識すると、吉乃の孫娘は結子のことを「気持ちが悪い」と言い始めた。
勝ち気な結子は吉乃に孫娘を離れに連れて来ないように言いつけたのである。
以来、一度も顔を合わせていない。
それでも、お産のことを知っていながら祝いを出さないわけにはいかない。
しかし、自分からの祝いをもらっても嬉しくないだろう。
むしろ母宮から贈ってもらった方が良い。
今上帝の妹からの祝いの品をもらえば、嫁ぎ先にも喜ばれるだろう。
そう考えた結子は、母宮の風邪見舞いの手紙に吉乃の孫娘に出産祝い送って欲しいと添えることにした。
その午後から強い雨が降り出した。
就寝時には雷が鳴り出し、雷が嫌いな結子は寝室で震えていた。
そうとは知らず、新之介は蒔田に代わって戸締まりをして歩いていた。
「きゃあ」
新之介の耳に結子の悲鳴が届き、慌てて結子の寝室へ飛び込んだ。
突然部屋の扉が開いたので、結子は驚きのあまりベッドから落ちそうになった。
新之介は寸での所で結子を受け止めて抱きとめた。
「どうしました」
慌てる新之介に結子は消え入りそうな声で答えた。
「雷が・・・・・・」
誇り高い結子は弱みをさらすのが恥だと思っているので、そこまで言うのが精一杯である。
新之介は腰をかがめて結子が安心するように視線の高さを合わせる。
「人知の及ばない物事を恐れるのは当然のことです」
そう言って結子の背中をさすった。
ところが再び雷鳴が轟くと結子は声を上げず、耳を塞いでにベッドで丸くなって震える。
新之介は幼い頃、姉が同じように震えていたことを思い出した。
その度に父は姉を抱きしめて床に入っていた。
さすがに結子と床に入るわけにはいかない。
それでも、雷が鳴る度に震える結子を新之介は抱きしめる。
大きな雷鳴が轟き、暴風で家が揺れる。
結子は新之介に抱きしめられていることより、恐怖の方が勝っているらしく新之介を突き放すようなことはしない。
そこで新之介は、自分の部屋にランプを置いたままであることを思い出した。
ランプが倒れたら火事になりかねない。
「部屋のランプを消してきます。すぐに戻ります」
新之介が結子の元を離れようとすると、結子は無言で浴衣の袖を引く。
「・・・・・・」
一瞬、新之介の心が揺れた。
だが、火事を起こすわけにいかない。
「申し訳ありません。すぐに戻ります」
新之介は言い残すと部屋の扉を開けたままにして出る。
新之介の部屋は結子の向かい側である。
ランプの火を消すより持って行く方が早いと、ランプを掴む。
ついでに半纏を肩にかけて結子の元へ戻った。
「きゃあ」
ドーンと大きな雷鳴が轟き結子は悲鳴を上げ、戻って来た新之介に抱きつく。
「だ、大丈夫ですよ」
結子を受け止めながら、新之介は結子の匂いや体の柔らかさに心の臓が高鳴った。
このままではいけないと思うが結子が離れない。
新之介の心の臓は、尋常ではない速さで鼓動を打ち始める。
それでもなんとか新之介は、結子を引き剥がした。
「結子様が眠るまで側にいます。体が冷えるので床に入ってください」
「そんな・・・・・・。眠れないわ」
結子はいつになく弱々しい返事をする。
「・・・・・・。大丈夫です。・・・・・・よく眠れるように按摩をしましょう。さぁ、横になってください」
「・・・・・・」
結子は不満なのか返事をしない。それでもベッドに潜り込んだ。
「少し失礼します」
新之介は結子が冷えないように掛け布団を少しめくると、足のツボを指圧する。
「こんなに冷えて・・・・・・」
新之介は結子の足を両手で包む。
ちょうど雷鳴が遠くへ去ったようで音が小さくなり、風や雨も弱くなり始めていた。
「・・・・・・。ちょっと待って」
「はい」
新之介は結子の足から手を離すと掛け布団を掛け直した。
「これでは新之介さんが冷えてしまうわ」
結子は隣の枕を叩いた。
「一緒に寝れば2人とも温かくなるでしょう」
新之介は天を仰いだ。
これは罠なのだろうか。
そこで、ふとホームパーティーの光景を思い出した。
ユイと呼ばれた彼女は異人達から手に唇を寄せられ、抱きしめられていた。
だからこの誘いに深い意味はないのかも知れない。
だが、天女と崇める女性と一緒に寝て平静でいられるだろうか。
心は平静でいられても体は・・・・・・。
新之介が逡巡していると結子が苛立ったように枕をポンポンと叩いた。
「どうかしたの?」
「・・・・・・。あの、いえ、なんでもありません」
さすがに誘われていると思っていいのか、とは言えない。
自分は
新之介は自分に言い聞かせながらベッドに入った。
ベッドに入ったもの新之介は「気をつけ」の姿勢のままである。
「・・・・・・。ランプは消しましょうか」
「好きにしていいわ」
「・・・・・・」
新之介は理性を保ちながら、ランプを消すために起き上がる。
ふと新之介は、姉が女学校の同級生が閨事に疎いという話をしていたことを思い出した。
「娘さん達は1つの布団に2人で寝れば子供ができると思っているから、驚かせるようなことをしたらダメよ」
予備門の卒業を間近に控えた頃、薬屋の娘として医学にも精通していた姉に言われたのである。
なぜなら、卒業が決まると遊郭へ繰り出す同級生が多かったからである。
在学中に出入りしていた悪友もいたが・・・・・・。
きっと結子も閨事には疎いのだろう。
そう結論づけると新之介はベッドに戻る。
「ねぇ、蒔田は良くなった?」
「・・・・・・。あ、はい。今日のような天候だと腰や脚、肩の痛みを訴える人が増えるのです。心配はいりません」
「そう。私の結婚相手がシンさん良かったわ。女中さん達の家族も元気になってきたみたいよ」
「・・・・・・。それは、私が薬屋だからですか」
「違うわ。シンさんがシンさんで良かったということよ」
暗闇の中、結子の声が心地良く響く。
新之介はランプを消して良かったと思う。
間違いなく赤面している。
「あの、結子様」
「なに?」
「これから嵐の日は私を呼んでください。一緒に居ることしかできませんが、1人で我慢することはありません」
「えぇ、そうするわ。吉乃と蒔田に暇を与えようと思っていたし。シンさんが居れば安心だもの」
結子はそう言うと、新之介の方を向いて寝返りをうった。
「・・・・・・。」
新之介の鼓動が破裂しそうになる。
だが、結子の方からは規則正しい寝息が聞こえて来た。
「・・・・・・。はぁ」
新之介は朝日が昇るまで一睡もできなかった。
翌日の午後、新之介がお茶の時間を告げて部屋に入ると結子は翻訳の仕事をせず、ソファーで横になっていた。
「どこか悪いのですか」
新之介は慌ててティーセットを置き、結子の手を取ると脈を診る。
「大丈夫よ。少し眠くなっただけ」
結子は怠そうに起き上がる。
「お休みになるのでしたら、ベッドでお休みください。風邪をひきますよ」
新之介は安堵しながら結子の側を離れ、紅茶を淹れ始めた。
「そうするわ。ところで、吉乃から連絡は来た?」
「いいえ。お産が長引いてるのかも知れません」
「でも、陣痛が来たとの知らせを受けて出掛けて行ったのよ。・・・・・・。あぁ、産まれた後も忙しいから人手が足りないのかしら」
結子は新之介が淹れた紅茶に口をつける。
新之介はソファーに座らず、緞通の上に正座をする。
「陣痛が丸2日続く方もいらっしゃいますよ」
「あら、そうなの。やっぱりお産って大変なのね。ねぇ、シンさんもお茶飲んでいいのよ」
「・・・・・・では」
結子はどこか他人事である。
それもそのはずで、結子のように体が不自由な人がお産をするのは難しい。
医学的にも世間的にも。
そのことに新之介はやりきれなさを感じる。
ところが、結子の一言でその気持ちが吹き飛んだ。
「そういえば、昨日、あの後よく眠れたの。今日から一緒に寝ましょう」
「・・・・・・。はい?」
新之介は呆気に取られて結子を見る。
結子はほんのりと頬を赤らめている。
新之介は結子に思い切って訊ねることにした。
「結子様。自分と一緒にベッドに入ることは、
すると結子がそっぽを向いて言い放った。
「・・・・・・嫌ならはっきり仰って」
「何を仰っているのですか。自分が結子様に不満を持ったことは一度もありません」
結子は手足の麻痺を気にして言ったのだろうが、新之介が気にしたことはない。
そんな素振りを見せたことはないはずだが、晋作と同様の人間と思われるとは心外である。
思わぬ言葉に新之介は大きな声を出してしまう。
「・・・・・・」
結子は新之介の大声に驚いたような顔を見せる。
だが、すぐにいつもの表情に戻って言った。
「だったら何も問題はないでしょう」
結子は平然と紅茶を飲む。
新之介はそれ以上訊ねることができなくなってしまった。
その結果、新之介は結子のベッドで一緒に寝ることになった。
数日後に帰宅した吉乃が、腰を抜かすほど驚いたことは言うまでもない。
新之介は偽者とはいえ、結子の夫である。
その夫を蒔田や吉乃は母屋へ使いに出していた。
食料の運搬もあるので高齢の吉乃や蒔田は無理だ。
他の手伝いを見渡しても、男で1番若いのが新之介なので仕方がない。
そう割り切って母屋へ向かうが、母屋の執事の目は冷ややかなものである。
新之介が偽者の夫だと知っているので当然なのだが・・・・・・。
しかし、今日はその執事に珍しく丁寧に対応された。
「新之介様。旦那様が風邪気味なので漢方を処方していただけませんでしょうか」
「自分のような廃業した薬屋ではなく、お医者様にかかった方がよろしいと思います」
新之介は即座に断った。
鷹栖伯爵は国の中枢にいる人物である。
そのような御仁は、居留地にいるジェンキンス医師のような優秀な医師に診てもらうべきである。
ところが執事は淡々と言った。
「旦那様は大の医者嫌いです。元将軍家の御典医様どころか居留地の医者などもってのほかと言って聞いてくださいません。お願いいたします」
いつも冷ややかな執事に頭を下げられて新之介は断れなくなってしまった。
「漢方は効かなければ意味がありませんが、効きすぎても体に良くありません。自分に診せていただけるのなら処方します」
さすがに、偽の夫に旦那様を診察させないだろうと思ったのである。
しかし、執事の声が晴れ晴れとしたものに変わったので新之介は驚いた。
「ありがとうございます。新之介様。診察には何か必要な道具があるのでしょうか。すぐに離れに取りに行かせます」
「それにはおよびません。紙と筆があれば十分です。薬は離れで調合してからお届けに参ります」
「さようですか。それでは、どうぞお上がりください」
執事は女中に指示を出すと、新之介を部屋まで案内した。
新之介は半信半疑で通された部屋へ行くと執事が慌てた。
「宮様。なぜ、こちらに」
執事の言葉に新之介は耳を疑った。
宮様とは結子の母だろう。
新之介はここに来て服装を見直す。
綿のシャツに黒いズボンという書生のような姿だが、洗濯はしてある。
今朝は力仕事をせずに母屋へ来たので汗臭くはないはず・・・・・・。
それでも、腰に掛けていた手拭いは畳んでポケットに入れた。
「宮が見学したいと言ってきかないのだ。いいから、入ってもらえ」
鷹栖伯爵の指示で新之介は襖の前に正座をしてお辞儀をする。
新之介がいつも生活している離れと違い、母屋は純和風の造りである。
新之介が通された部屋も和室だった。
上座には結子の母宮が座り、上座に近い襖の前に女中らしき女性が座っていた。
部屋の中央に鷹栖伯爵が小さな文机を前にして座っている。
部屋に入って挨拶をしようとする新之介を鷹栖伯爵は手で制した。
「診察とやらをさっさと済ませてくれ。宮に風邪をうつしたくない」
「承知しました」
新之介は挨拶もそこそこに、文机を挟んで伯爵の前に座る。
新之介はまず鷹栖伯爵に問診をした。
その後、舌や
すると、背後で衣擦れの音がした。
「新之介様、今は何をしておられるのかと宮様がお訊ねです」
新之介に声をかけたのは襖の前に座っていたはずの女中だった。
いつの間にか母宮の近くに座っている。
「今は舌や瞼の色を診て体の状態を確かめております。この後、首や肩を触ってさらに体の状態を確かめます」
新之介は母宮の方を向いて、失礼がないように説明をした。
母宮は無言で頷くと微笑む。
母宮は内面から品の良さが光輝いている。
それは、新之介のような庶民には近づきがたい雰囲気だった。
新之介は頭を下げて伯爵に向き直ると、首や肩を触って診察をした。
新之介はさらさらと鷹栖伯爵の状態を紙に書く。
といっても自分だけがわかる覚え書きである。
「風邪のひき始めでしょう。滋養のあるものを食べて、安静にしてください。くれぐれも、体を冷やさぬようになさってください。とかく武士の方は早朝に素振りをなさる方が多いですが、風邪が治るまではいけません」
「何?素振りは基本だ。休むとさらに調子が悪くなる」
伯爵がきつい口調で言い、新之介が困った表情をすると上座からパンパンと音がした。
新之介が思わず上座を見ると、母宮が畳んだ扇子で掌を叩いたらしい。
新之介は失礼なことをしたのでは、と慌てて伯爵の方へ向き直る。
すると、鷹栖伯爵は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「・・・・・・。仕方あるまい。言うとおりにしよう」
新之介は「なるほど。これが夫婦というものなのか」と、感心しつつ母宮様に感謝した。
とてもではないが、自分では伯爵を説得する自信がなかった。
「ありがとうございます。では、後ほど漢方薬をお届けに上がります」
「その漢方はどこで手に入れている」
「漢方ですか。昔の伝手で材料を手に入れて煎じております」
「金はどうしている。蒔田にもらっているのか」
「いいえ。・・・・・・その、藤堂家からいくばくか戴いておりますので、その金で買っております」
新之介は何か悪いことをしているような気持ちになった。
伯爵と面と向かって話をするのは、写真撮影の時を除けば2度目である。
1度目がお白州に引き出されたようなやり取りだったので、緊張するなという方が無理である。
「藤堂家からか。その金を使う必要はない。それで漢方はどこで煎じている」
「主に茶室を使わせていただいております。しかし、明かり取りの窓が少ないため日中しか使えませんし、夜間は煎じることができません。離れで煎じると匂いがしますので結子様のご迷惑になってしまいます」
新之介は素直に話した。
「そうか・・・・・・。だったら茶室を改装すればいい。明日にでも棟梁を離れに遣る。使いやすいように直してもらえばいい」
「恐れながら伯爵様。どういうことでしょうか」
何やら話が進んで行くが、新之介には話の内容が見えない。
「せっかく良い腕を持っているのだ。使わないのはもったいない。それに、
「はぁ。ありがたいお話ですが、藤堂家に知られたら大変なことになります」
「あぁ、その藤堂家に関係する家もあるのだ」
そこでようやく新之介にも話の内容が見えて来た。
「そういうことでしたら、ぜひ、やらせていただきます」
新之介は頭を下げた。
「こちらから渡す物があるから用意しておく。供を連れて来るように」
「・・・・・・。承知しました」
新之介は伯爵が何を用意するのかわからないまま新之介は母屋を辞した。
その足で知り合いの元を訪ねて漢方薬に必要な材料を手にして離れに帰宅した。
帰宅した足で新之介は、結子に鷹栖伯爵が風邪気味であることを伝え、漢方を煎じて持っていく旨を伝えた。
「父上が風邪を召されるとは珍しいわね。私のことは気にしないで。でも、手伝えることがあったら言ってちょうだい。吉乃や蒔田でもいいわよ」
表情は変えないものの結子は父のことが心配なのか、手伝うと申し出た。
そのことを少し意外に思いながらも新之介は漢方薬を煎じ始める。
新之介は、鷹栖家の簡単な経緯しか聞いていない。
だから、栖伯爵に見捨てられた結子は、伯爵のことを恨んでいると勝手に考えていたのである。
だが、鷹栖伯爵は結子のことを気に掛けているように思えた。
新之介には分からない絆があるのかも知れないと思った。
新之介が台所を覗くと、夕食が出来上がっていた。
新之介は、後は自分と吉乃がやるので帰っていいと女中達に告げ、台所で漢方の材料を切り始めた。
あとは服用前に煮出してもらうだけ、という状態まで準備を終えると新之介は少し憂鬱な気持ちで自室へ向かう。
新之介は、漢方の煮出し方や服用方法、滋養のある食べ物を記して執事に渡そうと考えていた。
だが、新之介の
とてもではないが、鷹栖伯爵やあの冷たそうな執事に見せられるものではない。
それでも文机に向かい、書いては捨て書いては捨てとやっていると、廊下から「失礼します」と声がかかった。
「どうぞ」
新之介は女中だろうと思って返事をしたが、女中達は帰ったはずである。
すると音もなく襖が開き、流れるような所作で結子が入って来た。
新之介の部屋は和室である。
当然のように結子は正座で入って来た。
手足の麻痺を感じさせない洗練された所作に新之介は感動すら覚える。
「どうかしましたか。あっ・・・・・・」
結子は散らばっている紙を手に取った。
「あら、シンさんらしい心配り」
結子の口元に笑みが浮かんだ。
「ですが、読みにくい文字でして・・・・・・」
新之介は穴があったら入りたいと、小さくなる。
「でしたら、私が書きましょう」
「本当ですか」
新之介は顔を輝かせた。
ちらりと翻訳を見ただけだが、結子は見事な
「えぇ、もちろん。何をどう書けばいいのか教えてちょうだい」
結子は新之介ににじり寄り、文机に向かおうとする。
「結子様のお部屋に移った方が良いのではありませんか」
結子の部屋なら椅子付きの机がある。
「そんなことをしていたら時間がかかるわ。父上に早く持って行かないといけないのでしょう」
「えぇ」
「でしたらこのまま続けましょう。それとも、私が書き終わるまで正座ができないと思っていらっしゃるの?」
挑むように見つめられ、新之介は「いいえ」としか答えられなかった。
漢方薬と結子が書いた手紙を持ち、新之介は車夫を連れて母屋へ向かった。
その新之介の応対をしたのは執事と女中だった。
玄関横にある小さな部屋に通された新之介は、執事に漢方の服用方法を説明した。
執事は無表情で説明を聞き終えると、風呂敷包みを2つ渡した。
風呂敷包みは意外と重く新之介は何が入っているのか訝しんだ。
そんな新之介をよそに、女中が紫色の
ずしりとした袱紗を受け取った執事が新之介をじっと見つめて説明する。
「こちらには紹介状と指示書が入っております」
「ありがとうございます」
緊張した面持ちで新之介が受け取る。
さらに執事は懐から分厚い紙入れを出して新之介に渡す。
「当面の資金だそうです」
「・・・・・・。え?」
「茶室の修繕は
「承知しました」
店を破綻させているので信用がないのは仕方がない。
納得しながら新之介は重そうな紙入れを懐にしまった。
新之介は丁寧に礼を言って離れを出た。
風呂敷の山を抱えて出て来た新之介に、一緒に来た車夫が驚いて荷物の半分を持った。
車夫は風呂敷包みの中身を知りたがったが、新之介は懐の紙入れが気になって落ち着かない。
車夫の問いには答えず、急いで離れに戻るように告げた。
翌朝、新之介は結子と吉乃、蒔田の前で風呂敷包みを広げた。
「あら、洋服」
結子は驚いた顔をした。
結子が言ったとおり、風呂敷包みの中には男性物の洋装一式、医者が持つ診療用の鞄、レンズの入っていない眼鏡が入っていた。
「変装用です」
指示書を読んだ新之介が説明すると、結子は一瞬考えて答えた。
「変装?あぁ、岩男の身代わりと分からないようにするためね」
岩男とは藤堂晋作のことである。
結子は名前すら呼びたくないらしい。
「それから、旦那様から離れの茶室を、漢方を煎じる部屋として改装して良いとお許しをいただきました」
「あら、そう。そういえば棟梁が来るって言っていたわ」
結子が蒔田に目配せをすると蒔田が頷いた。
「母屋から
「あと、こちらをいただきました。漢方の材料費だそうです」
新之介は一晩中抱いて寝た紙入れを出した。
結子が手に取って中身を改める。
「そう。・・・・・・。そういえば、今までの漢方薬の材料はどうしていたの?」
結子は蒔田に紙入れを私ながら新之介に訊ねた。
「藤堂家からいただいていたお金を使っていました」
藤堂家と聞いて結子の目が厳しくなる。
「なんですって。蒔田。すぐに返しなさい」
「大丈夫ですよ。藤堂家から預かったお金は私が管理しております。新之介様が使った分は、当家のお金から補充してあります。ですから、藤堂家から預かった1,000円はそのままです」
蒔田は穏やかに結子を宥めた。
「それでいいわ。今後も蒔田が管理してちょうだい」
すでに自分が持っていた紙入れは蒔田の手にあるのに、と思いながら新之介は頷いた。
「旦那様からもそのように指示を受けております。ただ、薬屋なのだから、利益を上げるようにとも言われていますので、そのあたりも管理していただけると助かります」
新之介が蒔田に向かって頭を下げる。
しかし、蒔田は考え込んだ。
「
「・・・・・・。そうですか」
新之介は肩を落とした。
九十九屋の時は昔から働いてくれていた番頭と姉が大福帳を管理していた。
その番頭が隠居し、姉が嫁ぐことになった途端に新之介が騙されて九十九屋が傾いたのである。
しかも、利益を上げるなどどうすればいいのか見当もつかない。
「だったら、私が大福帳を管理するわ」
「結子様。お分かりになるのですか」
今まで黙っていた吉乃が驚嘆する。
「えぇ、翻訳の仕事では経営学の書籍もあるのよ。知識はあるわ」
「翻訳のお仕事とは違うのではありませんか」
吉乃が心配そうに結子の顔を見た。
「あら、翻訳とは異国の言葉を私達の言葉に直すだけではないのよ。わかりやすい言葉に直すためには、私が本の内容を理解していないといけないの。だから、イザベラ先生や他の先生に教えていただくために居留地へ行っているのよ」
「そうだったのですか」
吉乃と蒔田は、幼い頃から世話をしてきた結子に、自分達が知らなかった一面があった事実に唖然としている。
「では、結子様。お願いいたします」
新之介は嬉々として結子に頭を下げた。
やはり結子は自分にとって天女だと新之介は思う。
ただ美しく気高いだけではない。
知性と教養を兼ね備えたうえに、努力家でもある。
このような女性の側に居られることは
「では、さっそく父上の漢方薬代を計算しましょう」
「えぇ、旦那様に請求なさるのですか」
結子の発案に蒔田が驚き、茶を飲んでいた吉乃がむせた。
「旦那様の分は請求しなくてもよろしいのではありませんか」
吉乃の背中をさすりながら、新之介が問う。
「まぁ。父上に請求なんかしないわ。ただ、今後どのように請求するのか、考えるために使うのよ。練習問題のようなものよ」
「あぁ、そういう意味ですか」
「それならよろしいかと」
蒔田と吉乃、新之介は胸をなで下ろす。
なにしろ鷹栖伯爵が渡してきた紙入れには、藤堂家が渡して来た何十倍もの金額が入っていたのである。
それは、九十九屋を再建できるような金額だった。
お茶の後、新之介は結子に今回使った材料費を伝え、結子は利益計算や請求書のひな形を作った。
それから数日、新之介は離れの手伝いをしながら、漢方薬の材料を買い付けに行くなど忙しなく働いていた。
その間、吉乃は母屋へ行く機会が増え、結子の世話をする者が足りなくなっていた。
なぜなら、吉乃の孫娘は無事に出産したものの、産後の肥立ちが悪く床に伏せっていた。
孫娘は浅草寺の門前で団子屋を営む店へ嫁いだために、孫娘とその子供を面倒見る者がいない。
そこで、吉乃の娘が嫁ぎ先に滞在して面倒を見ていた。
吉乃の娘は母宮に仕えていたので、今は吉乃が母宮の世話をしている。
「遅くなって申し訳ございません。結子様。お茶の時間です」
新之介は帰宅早々、結子が部屋から出て来ないと言うのでお茶を運んだ。
「あら、もうこんな時間。吉乃がいないと困るわ」
結子は肩や首をさする。
ずっと同じ姿勢だったので首や肩が凝ってしまったようだ。
「血流の流れをよくするために、今手ぬぐいを蒸しています」
仕事から戻った新之介が顔を出して告げた。
結子の生活や性格が分かってきた新之介は、このように先回りして準備をする。
「シンさんって人の世話や看病は優秀なのに、数字に弱いのよね」
先日、どうすれば利益が出るのか2人で話し合った際、新之介は利益よりも患者優先で、自分が損することを考えていないことが分かったのである。
つまり、優しすぎるのだ。
「その辺は結子様にお任せします。本日の診療内容です」
新之介は診療鞄から、診療内容の覚え書きを出した。
結子はジェンキンス医師が診察にも金銭を取っていたので、新之介にも診察代を取るように提案した。
新之介は渋ったが、診察ができるようになるまで山ほど勉強して身につけた技術なのだから、技術料を取るべきだと説得したのである。
ただし診察料は、患者の暮らし向きによって松竹梅に分けて取るようにした。
もちろん、漢方薬代もしっかり取る。
ただし、これは鷹栖伯爵の紹介した人間だけである。
女中や長屋に住む人達からは、漢方を煎じたお礼しか取らない。
つまり、金持ちからしっかり利益を得、その分を庶民に還元することにしたのである。
このような仕組みにすることで、新之介も納得して薬屋家業に専念できるようになった。
「今日も父上のお客様ね。あら、この方は?」
新之介の覚え書きに、結子が目を瞠る。
鷹栖家とつき合いのない華族の名前を見つけたのである。
「えぇ、途中でジェンキンス医師に会いまして、西洋薬で良くならない患者がいると連れて行かれました」
居留地へ行かなければ、お茶の時間までに帰宅できたのである。
「そう。それで、良くなりそうなの?」
結子の問いに新之介は少し考え込んでから答えた。
「まぁ、病気というより、体質のようなものでしたから」
「あらそうなの」
結子は疑問に感じたが、詳細を聞いていいのか分からなかったので、興味のない振りをした。
すると、新之介が話題を変えた。
「ところで結子様。ウメという女中を覚えていますか?」
「えぇ、居留地で働きたいと言って英語を勉強したウメちゃんでしょう」
藤堂家から派遣された女中の中で1番若い女中だった。
「はい。そのウメです。居留地で働いていたのですが、主人が本国へ帰ってしまい、今はジェンキンス診療所を手伝っているのです。できれば、診療所ではなくお屋敷で働きたいと言っているのですが・・・・・・。私の得意先で女中を探していれば紹介しいて欲しいとジェンキンス先生に頼まれたのです。吉乃さんの代理にどうですか」
ウメという女中は結子より年下で好奇心旺盛な少女だった。
短い期間だったが、素直で物覚えが良い彼女を結子はウメちゃんと呼んで可愛がっていた。
「そうね。彼女ならいいわ」
結子はふっと笑みを見せた。
「そ、それは良かった。早速ジェンキンス先生に伝えます」
思いがけず結子の笑みを目にした新之介は慌てて目を逸らす。
「ねぇ、なるべく早く来て欲しいわ」
なぜか結子は頬が熱くなるのを感じて目を逸らした。
「ではそのように伝えます」
そう告げると新之介は、漢方を届けるために家を出た。
帰宅後、新之介は結子の手足を揉みながら報告をする。
「あの、昼間にお話したウメのことですが、夕方に居留地を訪ねたところ明日にでも来てくれるそうですよ」
「まぁ、本当?あちらは大丈夫なのかしら」
「診療所とウメなら大丈夫ですよ。何よりウメが結子さんの侍女になれることを喜んでいました」
「あら、本当?嬉しいわ」
使用人には本音と建て前があることを結子は良く知っている。
結子の前では良い顔をしながら、足や手のことを馬鹿にした人間は数知れず。
その度に傷つき、絶対に普通の人と同じように歩き、障害に気づかれないようにしようと心に決めたのだ。
そんな結子の心境を悟ったように新之介は言う。
「ウメは素直な気性ですから、嘘ではないと思いますよ」
「そうね」
それでも結子の心が変ることはない。
結子は素っ気なく返事をした。
「さぁ、体が冷えないうちに横になってください」
新之介は火鉢の近くで温めた掛け布団を持って来ると、横になった結子に掛けた。
梅雨寒とはいえ、火鉢で温められた布団は少し暑いくらいである。
「おやすみなさい」
新之介はベッドサイドのランプを消す。
「おやすみなさい」
結子は引き留めたい思いで新之介の背中を見送る。
はしたない真似はできない。
寂しさを押し殺して目を瞑る。
そんな結子の気持ちを知ってか知らずか、新之介は黙々と火鉢の後始末と部屋の灯りを消すと、部屋を出て行った。
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