初恋の君と偽装結婚

神辺真理子

第1話 春の霰

玄関から男の野太い声と女の甲高い声がする。

「シンさん。母ちゃんが相手しているうち早く逃げろ。俺が案内してやる」

荷物をまとめていた新之介に、この家の坊やが声をかけた。

「母上にありがとうとお伝えください」

「わかったから早く」

新之介は坊やに追い立てられるように家の裏口から逃げる。

坊やは隣家との隙間をするすると進んで行く。

新之介は男にしては細身だが坊やのようには行かない。

荷物を抱えながら、なんとか坊やについて行く。

「シンさん早く。こっちだ」

坊やが手招きする方へ向かうと、坊やは他人の家を開けて「おっちゃん、追われている人がいるんだ。邪魔するよ」と下駄を脱いで家に上がる。

「おう。大変だな」

夕食を食べていたと思われる年配の男は気にする様子もない。

「失礼します」

新之介はおどおどしながら下駄を脱いで男の家を通る。

「おい。下駄忘れてるぞ」

男に言われて新之介は「あ、そうでした」と、自分の下駄を持った。

そんな新之介の様子を見て男は

「お人好しもほどほどにしとかないと生きていけねぇぞ」

と、言って笑った。

「はぁ・・・・・・。失礼しました」

新之介は何も言い返せずに家を出る。

「ここなら大丈夫だ。シンさん、この線路を真っ直ぐ行くと新橋だ」

坊やの指す向はもう暗くなって来ている。

新之介は風呂敷から小さな包みを出して坊やに持たせた。

「咳が出たら飲みなさい」

「うん。シンさん、必ず帰って来いよ」

「あぁ。ありがとう」

新之介は坊やの頭を撫でた。

坊やが帰る背中を新之介は見送る。

さて、何処へ行こうか。

今までは得意先に匿ってもらったが、この先に知り合いはいない。

新之介は当てもなく歩き始めた。



新之介は横浜で九十九屋つくもやという薬屋を営んでいた。

横浜という土地柄、漢方の材料から舶来品はくらいひんまで手に入りやすかったので、漢方薬と西洋薬の両方が揃う大店おおだなだった。

昔は将軍様の御典医ごてんい典薬寮てんやくりょう御用達で、現在は築地の外国人居留地の病院からも評判の名店である。

経営は順調だったが、御維新後に両親が相次いで病死。

幼い頃から薬学に関心の強かった新之介は、得意の漢方薬に加え、英文やポルトガル語を勉強して西洋薬まで揃え、両親亡き後も評判を落とさなかった。

ところが、女学校へ通っていた姉が大店の若旦那に見初められて結婚することになると状況が一変。

老舗の薬屋とはいえど、後ろ盾のない新之介は姉が恥をかかないように立派な花嫁支度をしたいと、商売を広げ始めた。

そこに、滅多に手にはいらない漢方の材料が手に入るという情報が入った。

高値の物だったが、借金をして買っても必ず売りさばくことができる自信がある。

新之介は店を抵当に入れて借金をした。

ところが、品物が手に入ることはなく金を渡した相手にも逃げられた。

残った金でなんとか姉を嫁に出すことはできたが、店は取られ膨大な借金だけが残った。

新之介が借金をした相手は御維新前から両替商をしていた藤堂という金貸しである。

最近は土地の売買や建設業を始めていた。

この藤堂には以前から悪い噂があった。

なんでも借金が返せないと裏稼業を手伝わされるという。

そんな噂があることを知らずに新之介は借金をしてしまったのである。

嫁にやったとはいえ、実家がなくなり心細い思いをしている姉を思うと裏稼業の手伝いはできない。

そもそも借金取りから逃げていることが知られただけでも離縁されかねないのである。

新之介は長い線路沿いをひたすら歩いた数日後、新橋駅に辿り着いた。

新橋に辿り着いたものの行く当てがない。

途方にくれた新之介は新橋駅の近くに座り込む。

そこに人力車が通った。

「よぉ、九十九屋さんじゃないか」

野太い声がして新之介の肩がビクッと震えた。

のろのろと顔を上げると借金をしている両替商の若旦那、藤堂晋作だった。

「藤堂様」

「なんだ。何も食ってないのか。来いよ。話がある」

新之介のか細い声と顔色の悪さに、晋作は眉間に皺を寄せた。

「・・・・・・。はい」

新之介は観念して晋作の言うとおりにした。



大きな屋敷の庭には蝋梅ろうばいが満開である。

新之介は見たこともないような美しい女性の前にひざまずいていた。

外見は日本家屋だが、部屋は緞通だんつうの上にソファーと大きなテーブルが置いてあり、和箪笥わだんすやコーヒーテーブルがある和洋折衷な部屋だった。

この屋敷で倒的な存在感を放っているのは鷹栖家の御令嬢、結子である。

鷹栖家とは御維新前は大名家で、御維新後は伯爵の位を賜っている華族である。

しかも、結子の母は宮家から降嫁された内親王殿下。

結子の父は内務省警保局ないむしょうけいほきょくの局長である。

内務省警保局の局長とは内務次官、警視総監と共にいわゆる内務三役の一つであり、明治政府の中でも権力を持っている。

つまり数ある華族の中でも名門中の名門なのである。

そんな両親を持つ結子は、濡れ羽色の髪を桃割れに結い、濃紺に御所解文様の振袖に七宝文様の帯を合わせ、天女のごとく美しい。

新之介はソファーには座らずに正座をして、型どおりの挨拶を済ませた。

「本日よりよろしくお願いします」

新之介は緊張で喉がカラカラになりながら言い終えた。

すると結子が無言で立ち上がると、懐から黒い塊を取り出して新之介へ突きつけた。

「・・・・・・。ひぃ・・・・・・」

新之介は目の前にあるものが銃だとわかるまでに時間がかかった。

「岩のような顔をした男が来ると思ったら、違う人が婿に来たわ。一体どんな趣向かしら」

新之介が身代わりだとバレていたらしい。

新之介は藤堂晋作に「借金をチャラにしてやるから、鷹栖結子と結婚しろ」と持ちかけられたのである。

なんでも成金と蔑まれている藤堂家は、なにがなんでも伯爵家である鷹栖家と姻戚関係を結びたいらしい。

だが、晋作は問題を抱える結子とは結婚したくないという。

そこで新之介は、身代わりになったのだが・・・・・・。

「・・・・・・。も、申し訳ありません。・・・・・・。い、命だけはなにとぞ・・・・・・」

新之介は両手を広げて正座のままひっくり返りそうになる。

そんな新之介を見て結子は口元に笑みを浮かべた。

「勘違いなさらないで。あの岩男いわおとこと結婚せずに済むならそれでいいわ。ただし、誓いなさい。わたくしが死ぬまで裏切らないと」

銃を新之介に突きつけながら結子がすごんだ。

造作の整った顔立ちだけに凄みが増して恐ろしい。

しかし、新之介からしたら渡りに船である。

成金の藤堂と組むより伯爵家である鷹栖家と組んだ方が良い。

「承知しました。お嬢様のことは死ぬまで裏切りません」

新之介は頭をこすりつけながら誓いを立てる。

結子は銃を下ろすとソファーに座わると笑い出した。

「ふふふ。死ぬまでなんて嘘よ。ただ、私の父上が決めた間は言う通りにしてもらうわ」

新之介には結子の言う意味がわからない。

それでも頷くしかなかった。

「承知しました」

「そうね。貴方は外では私の夫、家では下働きをしてもらうわ。それから、掃除や薪割り、私の足を揉む仕事でもお願いしようかしら」

「・・・・・・。承知しました」

新之介は漢方と一緒に按摩や鍼灸も勉強しているので、按摩は得意である。

新之介の返事を聞くと結子は手を叩いた。

すると、島田を結った着物姿の老婆と洋装の老紳士が現れ、テーブルに紙と筆、数冊の書物を置いた。

「この紙に貴方の花押を。それから、これは居留地のマナーが書いてあるから覚えてちょうだい」

「は、はい。ちなみに、居留地のマナーとはどのようなものでしょうか」

「私は居留地に友人が多いいから、パーティーに呼ばれるのよ。パーティーは夫婦同伴とされているから、貴方にエスコートしていただかないといけないのよ。くれぐれも鷹栖の家に泥を塗るような真似をしないでちょうだい」

キッパリとした口調で話す結子は、一般的な淑女とは違うらしい。

「承知しました」

「それから、私は貴方を旦那様なんて呼ぶつもりはないわ。そうね。シンさんとでも呼ぶわ。貴方も私を奥様とは呼ばないでちょうだい」

「はい。では結子様と呼ばせていただきます」

どこまでも不利な立場だが、身分が違うのだから仕方がない。

「分からないことは、女中頭の吉乃と執事の蒔田に聞いて。この2人は住み込みだから。吉乃、蒔田、あとはお願い」

吉乃と呼ばれた老婆と蒔田と呼ばれた老紳士は黙って頷いた。

2人に倣って新之介も返事をする。

「・・・・・・。はい」

結子は結婚のためか鷹栖家の離れに住んでいた。

離れとはいえ九十九屋の店舗兼住宅より大きな屋敷なのに住み込みが2人とは少ない。

だからこそ自分のような男が必要なのだろう、と新之介は納得した。

「お嬢様」

話が終わったところで吉乃が結子に声をかけた。

「何?」

「藤堂家から送られてきた物はいかがいたしましょう」

「古道具屋に売ってちょうだい」

「かしこまりました。では、女中達は」

「女中?そう、貴方1人では不安ということね」

結子は新之介を見て口元だけで笑う。

新之介は確かにそうだろうと思うが口には出さない。

「そうね。とりあえず古道具屋へ売って来てもらって。それから、不要な服から子供服を仕立ててもらいましょう。あとは、居留地で働きたい子がいれば私から紹介するわ。他の屋敷で働きたい子は、母宮様ははみやさまの所で躾をしてから紹介状を持たせてあげましょう」

母宮とは結子の母のことである。

離れでは結子の母を、母宮または宮様と呼んでいた。

「仰せの通りに。シンさんは用意してある部屋でよろしいのですか」

「えぇ。服は明日、いつもの店で仕立てるわ」

テキパキと指示を出す結子に新之介は感心した。

藤堂家からの荷物をあっさり古道具屋や古着屋へ売るところにも驚いたが。

その後、新之介は蒔田に家の中を案内してもらい、腰を抜かした。

鷹栖伯爵が住む母屋から結子が住む離れの間には、大きな蔵が3棟と、使用人の独身寮が建てられている。

しかも、母屋と離れを囲う塀を隔てて建てられている家は、すべて鷹栖家の使用人が住んでおり、その土地も鷹栖家の持ち物だという。

新之介は敷地の広さと用意された部屋の豪華さに驚嘆するばかりだった。



新之介と結婚してから10日後。

結子は自室で翻訳の仕事をしていた。

「失礼したします。お茶の時間でございます」

吉乃が日本茶と和菓子を持って入って来た。

お茶の時間というのは、結子が根を詰めて仕事をしないように設けられた時間である。

ちなみに、結子はアフタヌーンティーと呼んでいるのだが、吉乃は覚えられないらしい。

「・・・・・・。あら、もうそんな時間」

結子は、ふと窓の外を見た。

それから、懐から手鏡を出して髪を直す。

広大な日本庭園で、新之介が草むしりをしているのが見えたからである。

「シンさんは役に立っているのかしら」

ソファーに座ると結子は吉乃に訊ねた。

「えぇ。そりゃ、もう働き者ですよ。いつも穏やかで、何を頼んでも嫌な顔ひとつ見せません。それに、人あしらいも上手いですから通いの女中達にも評判が良いですよ」

吉乃はお茶を淹れながら答えた。

「そう。それは良かったわ」

結子は窓の外に目を遣る。

「それにしても、お嬢様はよく手鏡をご覧になるようになりましたねぇ」

「そんなことはないわ」

結子はそっぽを向く。

結子の前で新之介は必要なことしか話をしないし、目も合わせない。

初対面で銃を突きつけたのだから、当然なのだが・・・・・・。

本音では寂しく思うが、結子の性格では口に出せない。

「ただ、夫になった方を下働きに使っていることで、結子様のことを誤解する者が出てきております」

吉乃は心配そうに結子を見る。

いくら蒔田が

「鷹栖家の仕来しきたりや、結子様の過ごし方を知っていただくために下働きをしていただくことになっております」

と、説明しても女中達からすればやりにくいし、疑問にも思うだろう。

「私のことはどう思われても構わないわ」

自分をどう思われようが結子は気にしていない。

ここで働く吉乃や蒔田、通いの女中など皆、鷹栖家で働いた経験のある者ばかりである。

吉乃は元々結子の母宮に付いていた乳母であり、蒔田は鷹栖家で執事をしていた。

その鷹栖家にいた女中の中でも、母宮が信頼の厚い者を結子付きに選んでいる。

仕事が出来て、空気が読めるうえに口が堅い。

仕事中にはいろいろな話をするものの、外で噂話をするような者はいない。

そのうえ、結子の状況に同情的な者ばかりである。

それは、この家を出入りする植木職人や御用聞きも同様である。

その者達なら今は誤解をしていても、最後には理解してくれると結子は考えていた。

「しかし、お嬢様が誤解されるのは心苦しいです」

吉乃は胸を押さえて苦しそうに言う。

そもそも吉乃は結子の母付きの乳母として結婚後も母宮と一緒に鷹栖家へ来た。

母宮が産んだ結子の発達がおかしいことに気がついたのも吉乃である。

その後、左手足に軽度の麻痺があることが判明した。

この時代、障害のある子供は家の奥に閉じ込めておくか、寺へ預けるのが常である。

当主である結子の父は、結子を尼寺へ預けると決めた。

その決定を母宮と吉乃が覆したのである。

まず母宮が、お産の辛さに「子供は産めない」と言い出したのである。

さらに吉乃が、側室や愛人を作るようなら天子様にお願いして離縁すると結子の父に告げた。

もともと、母宮は結子の父ではなく、父の兄と結婚するはずだった。

ところが、結婚式に現れたのは結子の父。

結婚式当日に花婿は「自分には荷が勝ちすぎている」と出家してしまったのである。

結婚式当日ということもあり急遽、結子の父が花婿になった。

だが、これは宮家を愚弄する行為であると宮家側は猛抗議した。

そこで鷹栖家は条件を出した。

側室や愛人は作らない。

さらに、母宮の意向に沿った暮らしを提供することで結婚がまとまったのである。

つまり、結子の父は母宮と吉乃には逆らえないのである。

結果として、結子を総領娘として残して婿を取るために手元に残すことになったのである。

しかし、母屋に結子を置けばどこで人目に触れるかわからない。

そこで結子は離れで育てることになった。

だが母宮は母屋を離れることはできない。

そもそも、宮様育ちの母は自分の手で子育てをすることを知らない。

自分は乳母の吉乃に育てられたうえ、実の母と父に会えるのは年に1度。

両親と同じ建物にすら入ることを許されないような環境で育っていた。

父から、結子に構わず母屋へ戻って来いと言われて、すぐに母屋へ戻ってしまったのである。

仕方なく養育に当たることになったのが吉乃と蒔田だった。

吉乃は昔から昵懇にしている医者にだけでなく、外国人居留地の医師にも相談をして血の巡りを良くし、積極的に動かすようにすると良いと聞いた。

吉乃は蒔田と離れに住み、結子の手足に良いことは片っ端から試した。

2人のおかげで結子は1人で歩くことができるようになった。

しかし、学校に通わせてもらうことはできなかった。

ところが、結子は利発な子供だったので外国人居留地の医師に勧められ、結子は学校に興味を持った。

どんな事にも興味を示さなかった結子が関心を抱いた。

それだけに吉乃と蒔田は熱心に母屋の両親に掛け合った。

結子の父は渋ったが国政が不安定な昨今、嫡男が無事に家督を継ぐとは限らない。

身分を隠すことを条件に女学校への入学を認めた。

結子は華族の女子が通う学習院ではなく、できたばかりのカトリック系女学校へ通い英語を身に付けた。

この時代、女学校を卒業するよりも結婚が決まって退学するのが普通である。

しかし、鷹栖家に隠された存在の結子は無事に卒業した。

そんな結子の境遇を不憫に思った女学校の教師が、自分の元へ来ている翻訳の仕事を結子に回してくれているのである。

そのおかげで結子は、度々外国人居留地へ赴くことが多くなったが、結子の身元は明らかにされていない。

「そうそう。お願いしていた件、父上から何か言って来た?」

「はい。結子様の良いようにと」

「そう。それで藤堂家は?」

「蒔田から案内状を出させました。そろそろ返事が届くかと思います」

「そう。まぁ、断るとは思わないけれど」

結子は「ふふふ」と笑う。

「そうですねぇ。馬脚を現すような真似はなさらないでしょうね」

吉乃も含み笑いをした。

結子と新之介は名家と富豪の婚姻というのに、祝言を挙げていない。

結子は人前に出たくないからという理由で、婚姻を結ぶにあたり条件を出した。

祝言は挙げない、鷹栖家の離れに住む、夫に服従しなくても良いなどなど。

しかし、これ幸いとばかりに偽者を送り込まれて黙って受け入れるわけにはいかない。

そこで、祝言を挙げていないが鷹栖家と藤堂家の合同写真だけでも撮影したいと、藤堂家に申し出たのである。

結子は藤堂家が断ることはないと読んだ。

だからこそ、新之介がこの家に来た翌日、呉服屋とテーラーで紋付きとスーツをオーダーしていた。

そして、結子や吉乃の予想通り藤堂家も撮影会に参加すると伝えて来た。



撮影会当日。

結子は髪を揚げ巻きに結い、振袖は深緑色に鞠と扇子の総刺繍。帯は金糸で菊の刺繍を施し、帯締めと半襟、簪を茜色で統一して華やかさを加えた。

花嫁なのだからもっと若々しい色の振袖を吉乃や母宮は薦めたが、数えで20歳の結子が着るにはこのぐらいの方が落ち着いていて良い。

何より結子の凜とした美しさが際立つ。

新之介はあつらえたばかりの紋付き袴である。

いつもは左右に分けている癖のある髪を、後ろになでつけた。

普段の新之介はシャツにズボンに下駄という書生のような格好をしているので、正装をすると端正な顔立ちをしていることが良く分かった。

庭の桜が満開ということもあり、撮影会は結子と新之介が住む離れの日本庭園で行うことになった。

母屋は家屋も庭も広大なのだが、庭には池や小川、石灯籠が置いてある。さらに小さな橋が架けてあったり砂利が敷かれていたり、小さな山があったりと足の不自由な結子には歩くのが大変なのである。

一方、離れの庭は小さな池と茶室、四季折々の花や木が植えられているぐらいで、砂利道もなければ坂道もない。

これは、幼い頃から結子の歩行訓練をするために庭を平にしたためである。

この平坦な庭だからこそ、ガーデンパーティーができると考え、写真撮影後は外で軽食を食べられるように椅子やテーブルを並べた。

庭に鷹栖家と藤堂家の人間が集まった頃を見計らって結子は、縁側の沓脱ぎから庭へ出た。

すると新之介がすぐに手を差し出した。

「ありがとう。シンさん」

「夫の務めですから」

「早速エスコートしていただけるとは思わなかったわ」

結子は微笑む。

結子の微笑に新之介は最近の下働きで焼けた顔を、ほんのり赤らめた。

その様子を見て結子はまた微笑む。

新婚の初々しいやり取りを野太い声が邪魔をした。

「なんだ。晋作。お前は嫁に気を遣ってるのか。いいか、晋作。お前は婿に入ったのではない。嫁にもらったのだ」

邪魔者は藤堂晋作の父だった。

結子は晋作が偽者だと離れの全員が知っているのに、まだ芝居をするのかと呆れる。

「まぁ、義父様おとうさま。晋作さんは私には勿体ない良くできた方ですから、我儘を聞いてくださっているだけですわ」

結子は帯から扇子を抜き、口元を隠しながら義父に答えた。

「・・・・・・。そうか。しっかりやるんだぞ。晋作」

吐き捨てるように言うと藤堂家が集まっている輪へ戻った。

「・・・・・・。シンさん。今日は私から離れないように」

結子はエスコートする新之介の腕を掴み直した。

「承知しました」

新之介は結子の足元に注意して歩きながら、所作や頭の回転の良さに感服する。

結子は新之介の6歳下だが、気丈で堂々としている。

何より話す内容がそこら辺の娘達と違った。

新之介は商家の出ながら東京大学予備門(一高)に通っていたし、新之介の姉も女学校に通っていた。

姉は身内の欲目もあるが、頭の回転が速く気の利く姉である。大店の若旦那に見初められるのも当然だと誇っていたが、結子は格が違う。

結子は生まれながらにして、人に示することが身についている。

それに、常に周囲がよく見えていた。

先日、新之介と一緒に藤堂家から送り込まれた女中達には、藤堂家から送られた物から好きな物を退職金代わりに持たせ、あとは古道具屋や古着屋へ売り払った。

さらには、子供服を作らせて孤児院へ寄付させている。

そのうえ、宮家出身の母に女中を預けて躾直してもらい、1人1人に紹介状を持たせて再就職させた。

女中の中には居留地で働きたいという者がおり、結子の伝手で女中として働いている。もちろん、仕事に必要な英語を自ら教えてからである。

藤堂家から送り込まれた女中達は、結子に感謝して新しい仕事先へ向かった。

女中という密偵を懐柔して追い出すとは天晴れとしか言いようがない。

写真撮影は滞りなく終わった。

その後はガーデンパーティーという名の親睦会となった。

だが、鷹栖家に藤堂家と親睦を深める気はない。

両家は左右に別れて身内同士で話をしている。

結子と新之介は2人だけ上座に座って食事をしていた。

そこへ、藤堂の義母が現れた。

「晋作さん。結子さんと仲良くやっているようで良かったわ」

義母は品定めをするような目で2人を見る。

「えぇ。なんとか」

新之介は曖昧に答えた。

藤堂家の人々と会ったのは、晋作の話に乗って替え玉になることを決めた1回だけである。

「結子さん。たまには藤堂家にもいらしてくださいね」

義母は心にもないことを言った。

「ご無沙汰をして申し訳ございません。せっかくのお誘いですが、今は互いを知る時間が私達には必要ですわ」

結子はまた扇子で口元を隠しながら話す。

「まぁ、そうね。いないことにされている方ですもの。私達も今日まで結子さんが、こんなに綺麗な方だと存じませんでしたわ」

義母は意地悪く笑った。

「私もシンさんが働き者だとは知りませんでした。噂は当てにならないものですわ」

結子も負けてはいない。

新之介は上流階級の嫌な部分が見えて、晋作に「会社に出社する必要はないし、藤堂家に顔を出さなくて良い」という条件を付けてもらって良かったと思う。

藤堂夫妻と晋作の人柄を知る度に、この一族と関わりたくないと思う。

「まぁ、晋作のどんな噂を聞いたのかしら。今度じっくりお話したいわ」

「あら、今でも構いませんよ。仕事より遊郭が好きで、駆け落ちされたとか・・・・・・」

「まぁ、失礼な」

結子の挑発に義母はまんまと掛かった。

「あら、噂ですわ。駆け落ちが本当でしたら、私の隣にいる方はどなたでしょう?」

結子は扇子を仕舞うと首を傾げてみせた。

「まぁ、私ったら洋酒で酔ったのかしら」

義母は「ほほほ」と笑って去って行った。

「ずいぶんと素直な方ね」

結子は義母を見送りながら、作り笑いから普段の表情に戻る。

「・・・・・・。素直、というのでしょうか」

新之介は困惑した。素直というより失礼ではないか、と思う。

それに引き換え結子の気遣いは素晴らしい。

命令口調だが、新之介が1人で藤堂夫妻と接触しないように気を配り、藤堂夫妻が接触してくれば、さり気なく新之介に代わって対応してくれている。

新之介は身代わりとはいえ、結子と一緒になれて幸せだと思った。



風呂上がりの結子は、いつも縁側に置いた木製のロッキングチェアに座っていた。

結子が風呂を出たと聞いた新之介は沸かし立ての湯をたらいに張って、手拭いを持って結子の部屋を訪れる。

「失礼します」

新之介はいつも声を掛けているが、結子は返事をしない。

なので新之介は黙って部屋に入る。

お湯を張った盥を結子の足元に置き、腕まくりをした新之介が膝をついて手拭いを熱湯にさらす。

沸かし立ての湯を張った盥はまだ熱いが、熱湯にさらした手拭いを左手に被せ、その上から左手を揉む。

盥の熱湯がちょうど良い湯加減になった頃、結子の両足を浸けると右足を軽く揉み、左足を丁寧に揉む。

頭寒足熱という養生の基本に基づき、結子の血の巡りを良くすることを目的としている。

「今日はいつもよりもお疲れになったのではありませんか」

「これくらい平気よ」

そう言いながらも結子はうとうとしている。

結子には生まれつき左手と左足に小児麻痺がある。

麻痺の程度は軽度だが左手より、左足の方が重い。

それでも、結子は幼い頃から試行錯誤しながらも必死の思いで訓練をしてきた。

気をつけて見なければわからないくらい自然に歩いている。

だが本来、伯爵家にこのような事情を抱えた人間が居てはならない。

つまり、晋作が結子と結婚したくなかった理由は、結子が鷹栖家にとって隠さなければならない存在だったからである。

晋作は結子の姿を見ずに醜女しこめだと思い込んでいたのだろう。

実際の結子を見たら、結子の障害など些末なことにすぎない。

新之介は結子の障害が少しでも軽くなるように願いながら足を揉む。

障害のある左足だけではなく、無理をして庇って歩く右足も丁寧に揉んでいる。

「やっぱりシンさん、上手いわね。おかげで眠ってしまいそうになったわ」

結子は欠伸をかみ殺した。

新之介が来る前は吉乃が結子の足を揉んでいた。

しかし、男性の手は女性と違って大きく力強い。それでいて、新之介の手は繊細で優しい。

結子はうっとりしながら訊ねた。

「シンさんは、漢方の他に按摩にも詳しいのね」

「・・・・・・。漢方と按摩や鍼灸を組み合わせると、病が早く治りますから」

新之介はいつ漢方に詳しいと話をしただろうか、と首を捻る。

だが、鷹栖伯爵なら身元調査なぞ朝飯前だろうと思い直した。

手拭いで結子の足を丁寧に拭き、浴衣の裾を直す。

「他に辛いところはありませんか」

いつもであれば「ありがとう。下がっていいわ」と言われ、新之介は盥と手拭いを持って部屋を出る。

「辛いところはないけれど、眠れそうにないから相手をしてちょうだい」

「・・・・・・。はい」

新之介は予想外の申し出に一瞬硬直した。

新之介と結子が1日のうちに顔を合わせるのは、食事と足を揉む時間だけである。

しかし、会話らしい会話をすることはなく、目も合わせない。

目を合わせたのは、誓いを立てたあの対面時だけである。

新之介は取り敢えず片付けを済ませ、イスに座る結子の足元で正座をして結子の出方を待つ。

しかし、結子はふっと視線を庭へ向けたまま、何も語らない。

結子は風呂上がりで藤柄の浴衣に鳶色のしごきを締めているだけである。

このまま起きていたら体が冷えてしまう。

「結子様。ひとまず、お布団に入りましょう」

新之介は結子に声を掛けると立ち上がる。

「そうね」

結子は視線を部屋に戻した。

「失礼します」

新之介は断りを入れると結子を抱き上げる。

「え?ちょ、ちょっと何を・・・・・・」

結子は慌てて新之介の首にしがみついた。

「体が冷えてしまっては元も子もないですから」

新之介は平然と言うと布団をめくって結子を横たえる。

結子はホッとした表情をした。

新之介は丁寧に肩まで掛け布団をかける。

「話ならこの状態でもできます」

「・・・・・・。そうね」

先程までうとうとしていたのに、眠れそうにないというのは昼間の興奮が残っているのだろう。

「でも、先程のように急に持ち上げられるのは困るわ。危ないでしょう」

結子はムッとした顔で新之介を見上げる。

「早く温まって欲しかったので・・・・・・。申し訳ありません。」

新之介は頭を下げた。

「私を持ち上げて貴方に怪我をされたら困るわ」

「えぇっ。結子様は軽いので怪我をするようなことにはなりません」

新之介は、結子自身が怪我することではなく、新之介の体を気にしていたことに驚いた。

「それより、見下ろされて話すのは不愉快だわ」

結子は布団から手を出すと部屋の隅にある丸イスを指さす。

「申し訳ありません」

新之介は丸イスを結子の枕元に移動させると新之介は腰を下ろす。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

しかし、結子は何も言わない。

沈黙が辛くなった時、新之介は今日のお礼を言っていないことに気がついた。

「今日はありがとうございました。結子様がご一緒していただいたおかげで、あちらの方々と関わらずに済みました」

「別に、礼を言っていただくようなことはしてないわ」

「そもそも、身代わりだと分かっていてお屋敷に置いていただいて・・・・・・」

「ちょっと待って」

「はい」

「貴方を置いているのは私の都合よ。感謝されても困るわ」

結子の言い方は容赦ない。

だが、顔を合わせて話をする時間が少なくとも結子の性格はわかって来ている。言い方は冷たいが、優しくて気遣いのできる女性なのである。

「それでも、感謝しかありません」

新之介は思いを込めて言った。

身代わりがバレて藤堂家に突き返されたら、一生働いても借金を返せないような日銭で働かされていたに違いない。

結子はちらりと新之介を見てから話題を変えた。

「それより、按摩は誰かに習ったの?」

「あぁ、それは知り合いに。按摩と鍼灸を生業なりわいにしている方がいるので教えていただきました」

結子は特別関心を持った様子もなく「ふうん」と聞いている。

「ところで、結子様はどうして自分が漢方に詳しいと知っていたのですか」

「初めて会った時に、貴方から漢方の匂いがしたわ。それから、両手に色がついていたわ」

結子はすらすらと答えた。

「あぁ、なるほど」

生まれてからずっと漢方に囲まれて育って来たので分からなかった。

そんな新之介の体には、漢方の匂いが染みついているのだろう。手も同じだ。ずっと漢方を扱っていれば、漢方の原料である植物の色がつく。

「医者になろうとは思わなかったの」

「医者ですか。そういえば、思いませんでした」

新之介は自分で考えながら笑ってしまう。

それだけ自分には九十九屋しかなかったのである。

1人で笑う新之介を怪訝な顔で結子が見つめている。

「申し訳ありません」

「別に怒っていないわ。それより、今でも漢方は煎じることはできるの?」

「漢方ですか・・・・・・。道具と原料があれば可能ですが、どこか体の調子が悪いのですか」

新之介は結子が湯冷めしたのか、疲れが出て具合が悪くなったのか、目を凝らして結子の顔色を伺う。

「違うわ。ただ、腕があるのに活かさないのはもったいないでしょう。蒔田に言って道具と材料を集めて漢方を煎じてちょうだい。うちの女中達は皆、家族がいるのよ。子供は良く病気になるでしょう。お年寄りと一緒に暮らしている者もいるから、漢方を渡してあげられたら、助かるでしょう。もちろん、吉乃や蒔田も」

「それは素晴らしい案ですね。お力になれると思います。ただ、作業するとお屋敷に匂いがついてしまいます」

新之介は自身から漢方の匂いがすると指摘されたことを思い出した。

「それなら、茶室を使いなさい」

「茶室ですか」

「えぇ。庭にあるでしょう。私がこの家にいるうちは誰も使わないわ」

結子の視線が一瞬だけ寂しそうに落とされた。

だが、すぐに凜とした眼差しを新之介に向けた。

「そうですか。明日にでも見てきます」

新之介は茶室に入った経験がない。

「茶室に水道はないけれど、近くに井戸はあるし。お湯が沸かせるようになっているから、火も使えるわ」

「そうなのですか」

新之介は井戸が近くにあったのは知っているが、茶室で火が使えるのは知らなかった。

水と火が使えて、保管場所さえあれば4畳半ぐらいの広さで十分である。

「そろそろ、寝るわ」

「えぇ、それがよろしいですね」

新之介が立ち上がると、結子は瞼を閉じた。

新之介は音を立てないように盥と手拭いを持ち、ランプを消すと部屋を後にした。



窓の外に見える木々が美しい新緑へと変わってきた頃。

いつものように結子が翻訳の仕事をしていると規則正しいノック音が響いた。

吉乃や蒔田はノックをせずに入って来るので、結子は訝しみながら「どうぞ」と返事をした。

「失礼します。結子様。お茶の時間です」

部屋に入って来たのは新之介だった。

「吉乃はどうしたの」

「母宮様のお茶会に呼ばれて出掛けて行きました」

母宮は乳母だった吉乃を定期的に呼び出すのである。

「そう。母宮様もいい年をして乳母離れができないのね」

結子は呟くとソファーに移動して座る。

新之介は吉乃に習ったとおりにお茶を淹れて出した。

「シンさんも付き合って」

新之介は結子の分だけを淹れて立とうとしたので結子は引き留めた。

「は、はい」

新之介は先程とは打って変わって無造作にお茶を淹れた。

その様子がおかしくて結子は吹き出してしまう。

「・・・・・・。な、何かおかしかったでしょうか」

「・・・・・・。いいえ。なんでもないわ」

そう言うと結子は笑うのを止めた。

初めて結子の笑い顔を見た新之介は残念に思った。

だが、一瞬でも大輪の花が咲いたような笑顔が見られたことで良しとした。

新之介は迷いながら結子の向かい側に座った。

「・・・・・・。今度、私の恩師がホームパーティーを開くの。シンさん。エスコートしてくださらない?」

「えっ、パーティーですか・・・・・・」

新之介は躊躇した。

「ホームパーティーと言っても内輪だけの集まりだからかしこまるような場所ではないわ。洋装を着て、エスコートをしてもらうけれど」

新之介は腕組みをして考え込む。

「どうかしたの?」

「・・・・・・。そこまでしてしまうと、本当に夫婦だと思われてしまいますが、結子様はよろしいのでしょうか」

「えぇ、構わないわ。だから招待を受けたの。それに、居留地では私を鷹栖家の人間と知っているのは一握り。その人達も私の正体を隠してくれているから心配はいらないわ」

「・・・・・・。そうですか。では、ご一緒します」

新之介は覚悟を決めた。

「良かったわ。ありがとう」

結子は満面の笑みを見せ、新之介は再び見とれるのだった。


ホームパーティー当日。

結子はバッスルスタイルのデイドレスを身に纏い洋装の靴を履く。

その姿を見た新之介は驚いた。

美しさはもとより、足元が不安定な靴を間近に見るのが初めてだったからである。

「この靴は危ないのではありませんか」

「何を言っているの?洋装ならば靴を履くのが当然でしょう」

「ですが、これではつま先だけで歩いているようなものではありませんか。危ないですよ」

心配する新之介に結子はムッとした顔で言った。

「私はこの靴でも歩けるように幼い頃から訓練しているわ。シンさんに心配されるようなことにはなりません」

ぴしゃりと言うと結子は、足が不自由なことを忘れさせるように美しく歩いた。

新之介は結子の姿に驚きつつ、蒔田に教わったように結子をエスコートして人力車に乗ると居留地へ向かった。

ホームパーティーの会場は留地の一角にある家の庭だった。

結子達が着くとすでに20人程度の外国人が集まっていた。

どうやら、洋館のリビングを開放して庭と行き来できるようになっているようである。

リビングに着いた頃には、結子は新之介の左腕にしな垂れかかるように右腕を絡めている。

結子の右半身が密着するので、新之介はドキドキしながら歩いた。

新之介は枯茶からちゃ色のスーツに、薄桜うすざくら色の手袋をはめていた。

居留地では、初対面の人間と握手をして挨拶を交わす。

新之介の手に漢方薬の色が付いていると失礼ではないかとテーラーが気を利かせたのである。

体に染みついた匂いは、次第に薄まっている。

だが、指摘された時には「こう」の香りと返事をするように結子から言われていた。

新之介は結子をエスコートしながら、パーティー会場をゆっくり歩く。

「シンさん。ちょっと待っていて」

結子はそう言うと、飴色の髪をした女性を呼び止めた。

2言3言交わすと、2人で新之介の元へ戻って来た。

「シンさん。こちらイザベラ。私に翻訳の仕事を回してくれている恩師よ」

「えっと・・・・・・」

英語で話すべきか悩んでいるとイザベラが笑った。

「初めまして。大丈夫よ。私、日本語上手だから」

「あぁ、良かった。新之介です。シンと呼んでください」

新之介は握手を交わしながら挨拶をした。

新之介は東京大学予備門に通っていたし、仕事で薬の輸入もしていたので英語はできる。

だが、そこまで明かして良いのかわからない。

新之介は目立たないようにすると心に決めていた。

そのため、新之介は居留地に入ってから知り合いがいないか確認しながら歩いていた。

そして、イザベラとの挨拶が終わり、女性同士で話し始めたのを機に、キョロキョロしていたので結子が自分のことを紹介していた内容を聞き逃してしまった。

そこへ外国人に混じっていた日本人の男が近づいて来た。

「鷹栖伯爵のお嬢様が結婚されたとは知りませんでした」

その男は挨拶もなしに声をかけて来た。

結子は断りもなく話しかけてきた無礼な男を睨んだ。

「どなたかしら」

しかし、紳士は睨み付ける結子に怯む様子を見せなかった。

「私を甘く見ていると父上に恥をかかせますよ。何しろ私は柏木伯爵家の人間ですから」

胸を張って威張る男に結子は平然と言い切った。

「本当に伯爵家の方なら、このような場所に居る時間はありませんわ。それこそ、私の結婚という些末な事に時間を割く暇などある方はおりません」

唖然とする男を置いて新之介を促してその場を離れる。

「不愉快だわ」

少し離れた場所で結子が呟いた。

「大丈夫でしょうか。柏木伯爵家の人間と名乗っていましたが」

新之介が心配をするが、結子はあっけらかんとしていた。

「伯爵家の人間といっても末席の人よ。本物の華族は身分をひけらかさないし、威光にすがらないわ」

「・・・・・・。なるほど、そういうものですか」

「えぇ、そうよ。あら、ジェンキンスご夫妻だわ」

ジェンキンス医師と聞いて新之介は青ざめた。

九十九屋の上得意である。

だが、新之介はどう対応しようか悩む間もなく、結子は新之介を置いてジェンキンス夫妻の輪に加わってしまった。

置いていかれた新之介は、リビングの隅で茶を飲んで時間を潰すことにした。

結子は対面の壁際で椅子に座ってジェンキンス夫人と話をしている。

遠目に見ても美しいと新之介は見とれていた。

そこへイザベラが声をかけた。

「シン。少し私の相手をお願いしてもいいかしら」

イザベラは人懐っこい笑みを見せる。

「もちろんです」

新之介は、結子のことを知りたいと思っていたので快く頷いた。

「ユイのように賢い妻の相手は大変でしょう」

「・・・・・・。いいえ。運が良かったと思います」

新之介は正直に答えた。

イザベラはまぁ、と目を見開く。

「日本人の男性に惚気られたわ」

「あ、いえ。そういうわけでもありません」

新之介は正直に答えただけで惚気たわけではなかったが、勘違いをされて慌てた。

「まぁ、シンは正直なのね」

イザベラは優雅に笑った。

「あの、ユイ、さんの恩師というのはどういうことでしょう」

結子様と呼びそうになって飲み込んだ。

そんな新之介をイザベラは面白そうに見つめる。

「私は普段、女学校で教鞭きょうべんを執っているの。ユイはそこの生徒だった。入学前から、身元を明かしたくないというから、偽名で通っていたのよ。でも、あの態度でしょう。分かる人には分かるわよね」

「・・・・・・」

新之介は黙って頷いた。

「他の女学生は怖がって近づかないし、勇気を出して話しかけると追い払われるし、いつも独りだったわ。そのうえ、同級生はお嫁に行くから退学していくけれど、ユイにはそんな話はない。だから、卒業後も英語を学びたいという彼女に貿易関係の翻訳をお願いすることにしたのよ」

「そうだったのですか」

新之介は人を遠ざけなければならない結子の境遇を残念に思う。

宮家や大名家の血を引くから気高くあれ、五体満足な人に負けてはならないと育てられたせいで、人づきあいもままならないのである。

「シンはユイをどうするつもり?」

イザベラの問いに新之介は少し考えてから答える。

「・・・・・・。わかりません。ユイ、さんが決めることです。彼女は行動力もありますし、学もある。今のまま身を隠すように生きるのはもったいないとは思っています」

イザベラは新之介の答えに満足そうに笑った。

「シンには、お説教しなくていいみたいね」

「え?」

「他の日本人男性みたいに、男の言うことを聞いていればいい、と言ったらお説教してやろうと思っていたのよ」

茶目っ気たっぷりにイザベラは笑う。

「それは怖ろしい・・・・・・。ところで、イザベラ先生の国では彼女のような人は外で働くことはできるのですか」

「・・・・・・。日本とあまり変らないわね」

イザベラは哀しそうに視線を落とした。

「そうですか」

国が違っても同じらしい。

新之介はがっかりした。

結子が望めば海外へ出ることもいいかも知れないと新之介は思ったのである。

結子の才覚なら海外でもなんとか生活できるのではないか、と思ったが現実は厳しい。

「残念よね。ユイのような聡明な人が力を発揮できないなんて」

「えぇ。でも、ユイ、さんはイザベラ先生と出会えて幸運だったと思います」

「私もユイの夫がシンのような人で良かったわ」

イザベラは笑ってその場を離れた。

するとジェンキンス医師が近づいて来た。

ビクビクする新之介にジェンキンス医師は片目を瞑って見せる。

どうやら身代わりだということを黙っていてくれるらしい。

「やぁ、君がユイのパートナーか」

ジェンキンス医師は初対面の振りをしてくれた。

「初めまして。シンと呼んでください」

新之介はドキドキしながらジェンキンス医師と握手をした。

「あぁ。ユイから聞いたが君は漢方に詳しいそうだな」

「え、えぇ」

「実はユイに漢方薬の翻訳を頼んだのだ。君も力を貸してやってくれ」

「はい。わかりました」

生真面目に答える新之介をジェンキンス医師は愉快なものを見るように笑う。

「ユイのことを頼む。それから、暇を見てうちにも寄ってくれ」

ジェンキンス医師はそう言うと、小さく「Good luck」と言って新之介の肩を叩いて夫人の元へ戻って行った。

新之介は疲労と安堵が混じった溜息を吐く。

対面の壁際では外国人が、結子の手に口づけをするような仕草や、抱きつくような仕草をしている。

外国人達が結子に馴れ馴れしく触る度に新之介は不快な思いになった。

新之介は、畏れ多くて結子に触ることすらできない。

イザベラは自分を結子の夫と呼んだ。

結子が親しくしている人に夫と認められるのなら、もっと夫婦らしいことをしてもいいのではないか。

結子の知らないところで新之介は、偽装夫婦からの脱却を考え始めた。



それから数日後、新之介は人と会うと言い残して日が暮れても帰って来なかった。

普段、結子と新之介は夕食を一緒にとるのだが、その時刻になっても帰宅する気配はない。

仕方なく、結子は1人で夕食を済ませた。

女中達の間では「新之介は藤堂の間者だったのではないか」と話す声が聞こえたが、結子はそんなはずはないと思いつつ不安にかられた。

吉乃に勧められて風呂を済ませて足を揉んでもらう。

「こうして結子様の足をお揉みするのも久しぶりですね」

「・・・・・・。そうね」

努めて明るく話す吉乃だが、結子は上の空だった。

ただぼんやりと、新之介の手は吉乃よりも大きくて力強かったとか、強さも絶妙だったと思い出していた。

するとドアから規則正しいノック音がした。

誰と問わずとも結子には相手が分かった。

結子は立ち上がる。

「結子様」

結子のただならぬ様子に慌てふためく吉乃を置いて結子はドアを開けた。

そこに新之介が立って驚いた顔をしている。

「ただ今、帰りました」

取り敢えず帰宅を告げた新之介の頬を結子は打った。

新之介が驚いたのは叩かれたことではなく、結子が涙ぐんでいたからである。

「結子様。申し訳ございません。まず、中に入りましょう。ここでは風邪をひいてしまいます」

涙ぐむ結子を新之介はソファーに連れて行く。

吉乃は羽織を結子に掛けた。

手焙りてあぶりの近くにあるソファーに座った結子は、涙を見せたことを忘れたように平然としている。

「何をしていたのか説明してちょうだい」

新之介はソファーに座らず緞通の上で正座をした。

「心配をおかけしました。誠に申し訳ありません。実は先日のパーティーでジェンキンス医師から、漢方薬の翻訳を結子様が請け負ったと知り、漢方のことをエゲレス語にした一覧を番頭が持っていたことを思い出したのです。それで、番頭から港湾労働者が原材料を英訳した一覧を持っていると聞いて、書写しに行っていたらこの時間になってしまいました」

新之介は弁明すると書写してきた一覧表を結子に渡した。

その紙はざっと見ても20枚以上はある。

「まぁ、こんなに・・・・・・」

結子は何も聞かずに手を上げたことを後悔した。

「だったら初めから、この一覧表を手に入れてくるとか、場合によっては泊まりになると言っていけばいいじゃない」

「はい。そうでした。今後は気を付けます」

「今後、翻訳のことで出掛けるなら私に許可をとってからにしてちょうだい。私が行った方が早いこともあるでしょう」

「そうでした。申し訳ありません」

「もういいわ。夕食がまだなら吉乃に言いなさい」

結子は手で新之介と吉乃に出て行くように指示する。

新之介は頭を下げながら部屋を後にした。

結子は一覧表を眺めながら自己嫌悪に陥っていた。

なぜ、自分は素直に「ありがとう」と言えないのだろう。

そして新之介には悪いことをした、と思う。

他人に手を上げたことのない結子の手は今もジンジンしている。

だが、他人に頭を下げてはならないと教え込まれている結子は、どう行動すればいいのか分からなかった。


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