終わる世界のミッドポイント⑦――青
「もう少ししたら、お風呂の用意ができるから。また他の人が呼びにくると思う」
ひよこ男は相変わらずのボソボソ声でそう言うと、車椅子を操作しこちらに背を向けた。オレのタオルだけを膝に置き、慌てた様子で引き返していく。
何をしにきたんだ、アイツは。噂のミィを見にきたか……もしかしたら自分のできることを探しているのかもしれない。そうだよな、みんなが忙しなく働いているのに、自分は自分の面倒すら見きれないごく潰しだ。肩身が狭くて当然だろう。自分で尻の殻も外せないなんて、ある意味名は体を表していると言える。
あまりの惨めさに多少の憐憫がこもった眼差しで男の背中を見送ってから、外に置きっぱなしだった濡れたバッグ類の中身の確認をすることにした。寒いから部屋で待っていろと言ったが、「ミィもやる!」と聞かない猫娘と共に、部屋の前にある岩にそれぞれ腰かける。
メインのリュックは川で手放したから、あるのはミィの鞄とウエストポーチだけだ。ミィの鞄は本人に任せ――といっても、普段持ち歩いているのはオレだが――、武器とサバイバルのための小物が入ったウエストポーチのファスナーを開く。
方位磁石は中に濁った水が溜まっていた。折角改良したのに、使う間もなく壊れてしまった。メイン武器の片方である整髪料のスプレー缶は無事だったものの、相方の百円ライターは歯車のようなヤスリの部分が濡れて固まってしまっている。
「あらまあ、壊れちゃったの?」
何度も回そうとしていると、籠を抱えた中年女が通りざまに声をかけてきた。
「でもちょうどよかったわね。これからは火をおこすなんて危険なことは大人に任せてちょうだいね」
オレが返事をする前に一人で勝手に話しきると、忙しそうに小走りに去っていく。ほら、早速これだ。口の中で鈍く舌打ちする。子供扱いしやがって。まあいい、乾けば使えるようになるだろう。
サブ武器の使い捨てカイロは袋で密封されているから被害はなかった。電池やメタルマッチも問題ない。確認が終わって出した物を一旦ポーチにしまい、ミィのほうを見てみると引っ張り出した『星の王子さま』を前に背中を丸めていた。
「蒼太……本濡れちゃった。まだ読んでもらってないのに」
確かにページを捲ってみると、砂が挟まり全体的に茶色に染まってしまっている。
「まあなんとかなるだろ。文字が滲んだ程度なら、内容覚えてるから補完できるし。とりあえず干しとくから貸せ」
「うん」
本を洗濯ロープに吊るしながら、リュックに入れていた『トリフィド時代』のことを考える。今の今まで忘れていた。一時は世界のすべてのような存在だったのに。
引きこもり時代に布団の中にスタンドライトを引き入れて読んでいたときのこと。異変後クラスメイトや学年アイドルを探す途中で、眠れずに懐中電灯の灯りの下、ページを繰っていたときのこと。当時の記憶が次々と思い出されてくる。
あのときの周囲の暗闇に飲みこまれそうな心持ち……。どこか甘美で、だけど心は空虚だった。『星の王子さま』と同じように、どこかでまた巡り合うことがあったとしたら、そのときオレはあの本を鞄の中にしまうだろうか――。
「あれえ?」
とりとめのない思念は、ミィの素っ頓狂な声で霧消してしまった。視界に飛びこんできたのは、雨に洗われた大きな瓦礫上に並べられたびしょ濡れの下着類だ。犯人はミィ本人だろうが、こんなところに並べるなよ。川の水で汚れて、女子の下着にあるまじき色になっちまってるし。
洗えば落ちるだろうかと考え、かぶりを振る。洗濯ロープは張ってあるものの、ここに干すのは考えものだ。陽キャむっつり野郎や変態根暗男が盗みにくるかもしれない。
その間にミィは鞄から赤茶色のものを引っ張り出している。
「なんだろ、これ。知らないのが入ってる」
色が変わっていて一瞬判らなかったが、花菱柄のヘアゴムだ。
「ああ、それか。忘れてた。和菓子屋で見つけたんだ。もう使えないけどな」
絹のような布地でできているため、洗ってもよれてしまうだろう。
「捨てるから寄越せ」
手を差し出すも、「やだ!」とミィは背後に隠してしまった。
「蒼太がくれたんだもん! 使う!」
「……使い方知ってるのか、お前」
「えっと、こう?」
首を傾げながらミィが頭の上にヘアゴムを載せた。傾げていた首を元の位置に戻すと、当然ぽとりと地面に落ちる。
「惜しい――くはねえな。それは髪をくくるゴムだ」
「髪……こうだ!」
オレが拾おうとしたゴムを搔っ攫って――接触するかと思った。危ないな、たく――、自分で髪をくくる。しかし中途半端な位置に通されたヘアゴムは白い毛を巻きこんで絡まり、アホ毛も盛大に飛び出す始末だ。
こんなに不器用で普段どうやって髪をくくっているのか。そういや、髪を解いてるとこって見たことねえな。もしかして一回もまともに洗って……いやいや、それはさすがに。薄汚いっつっても、そこまで酷くはねえし。
「寄越せって、そんな汚ねえもん。もっといいヤツまた探してきてやるから!」
不吉――というか不潔――な想像を振り払って、逃げ回るミィを追いかけていたら、「待たせたな」と声がかかった。振り返ると白鷺が近づいてきている。
「楽しそうだな。でもそんな恰好で鬼ごっこなんてしてると風邪を引くぞ」
自分こそ、ドブネズミ色になった不織布のツナギを着たままのくせに。
「全然楽しくも、遊んでたワケでもないです!」
棚上げ白鷺さんの思いこみを全力で否定する。
「さあ、風呂に行くぞ」
相変わらずこの人、人の話を聞きやしねえ。
「そのあとは食事だ。ミィを借りるぞ、蒼太」
「勝手に持ってってください。別に返さなくていいです」
手を振って追い払う仕草をしたら、赤い瞳がオレを見上げてきた。
「……ミィ、あの先生に持ってかれちゃうの?」
「比喩だ、馬鹿。いいからさっさと風呂入ってこい。先生に迷惑かけんじゃねえぞ」
「わ、判った! 頑張る……!」
気合を入れて一歩踏み出したミィが勢いよく振り返る。
「ミィがいない間にどっか行かないでよ!?」
「行かねえよ。オレだって風呂入るんだから」
「じゃあミィも蒼太と一緒にお風呂入る!」
「馬鹿! いいからはよ行ってこい!」
なんつーことを言い出すんだ。また勘違いされちまうだろうが。
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