終わる世界のミッドポイント②――青


「私はここの感染症専門医だ。怪しい者ではないから、その物騒なものを下ろしてくれないか?」

 世代の離れた女の歳はよく判らないが、恐らくその女は三十代前半。喋り方と同じく高圧的な身長ときつそうな目付きをしているものの、大人から見れば美人の分類に入るんだろう。髪はカラーもパーマもしていないショートカットで、ろくに化粧もしていないから、本人は色恋に興味などなさそうではあるが。

「あ、そうですか。オレも変なあの、アレとかじゃないです。その、すいません」

 とりあえず危険な人間ではなさそうだから、整髪料の缶とライターをポーチにしまう。

 医者の話によると、隕石墜落からずっと院内であの紫色に光る何かの研究をしていたらしい。ここも隕石が落ちて様々な設備が壊れてしまったため詳しい研究はできていないそうだが、それでも判ったことがいくつかあるようだ。

「どうやらシシンキンは隕石に内包されていた地球外の細菌……というより、今はミトコンドリアに近いものだ。ミトコンドリアに抗生物質が効かないように、既存の薬では効果がない」

『シシンキン』。いきなりよく判らない単語が出てきたが、大方紫色に光る細菌なにかのことだろう。そんなことより、気になるのは話の内容だ。

「ミトコンドリアというと、ほとんどの生き物のアレ、細胞に組みこまれてるヤツですよね。つまり、あの、紫の細菌も細胞に組みこまれてしまってる……っていう?」

「そうだ。詳しいな」

 ――馬鹿にしてるのか? それぐらい中学でも習う。

 少しムッとするも、医者は気付かず話を進める。

「ミトコンドリアも元は別種の細菌だった。今はシシンキンがミトコンドリアになり代わって、酸素からATPを作り出している」

 ATPとはアデノ……なんちゃらとかいう物質だ。『生体のエネルギー通貨』と呼ばれ、生物の活動に必要なエネルギーの貯蔵と放出を行う。ついでにミトコンドリアも酸素から直接エネルギーを生み出すワケではなく、栄養素を分解したエネルギーを使ってATPを生成していたはずだ。呼吸代謝も受け持っている。今はそれらをミトコンドリアの代わりに紫色に光る細菌がこなしているということだろう。

 この医者は優秀そうではあるが、学者肌のようだな。自分の知っていることは無意識に省略してしまうから、説明が説明になってない。

「ミトコンドリアって体内の一割もある……あったんですよね。じゃあ今はあの紫のヤツが一割も?」

 自分で言ってて、なかなかにゾッとしない話だ。実感がないのは救いではあるが。

「本当に詳しいな、君は」

 オレが話を遮らずについてくるのが嬉しいらしい、医者が笑顔になった。確かにいつもこの調子じゃ、普段は変人扱いされていたに違いない。オレもそうだったからよく判る。いつの世も優秀な人間は孤独なものなのだ。

「シシンキンも平常時では体重の一割だ。だがある条件下で、何倍にも何万倍にも数が膨れ上がる」

「熱ですね?」

「そうだ」医者の声にも熱がこもる。「実験したところ、おおよそ三十二度以上の熱で活性化し分裂を始める。高熱に晒されるほどスピードは上がる」

「人同士の接触は? それほど高温でもないのに」

「そこだ! ヤツらは体内のミトコンドリアを捕食し、個々の細菌、唯一無二の新たなミトコンドリアへと変異する。普段は大人しくATPを作っているが、他の変異したヤツらが生成した熱エネルギーを感知すると、突如として牙を剥く! 防衛本能・侵略本能により増殖爆発を引き起こすのだ!」

 打てば響くようなオレの合いの手に、医者は息継ぎなしで言いきると感極まったように拳を強く握りしめた。

 医者の言葉足らずな力説をオレの知識で補完してみると、紫に光る細菌はミトコンドリアのDNAを取りこんでそれぞれに変異するようだ。変異菌の保菌者同士が接触し、その体温を感じとることで急激に増殖する。その結果、生物は原形を留められずに膨張して溶け落ちてしまうのだろう。ただの熱湯などの熱源の場合増殖暴走まではしないから、接触した箇所が溶ける程度で済むらしい。

 ミトコンドリアの暴走というと、瀬名秀明の『パラサイト・イブ』を思い出す。オレの持ってるミトコンドリアの知識も、あの小説から得たものが多い。ミトコンドリアのDNAは母性遺伝だから、それを取り入れて変異するなら、母子関係だと接触時の過剰反応が抑えられるのかもしれない。とはいえ、ただの熱源と違って接触した瞬間連鎖的に全身に増殖暴走が起こるようだし、DNAのすべてが一致するワケでもないから、スライム化が少し遅くなる程度だろうが。

「熱エネルギー……体温を感知して激化するということは、変温動物に触れても大丈夫ってことですか?」

「そうだ。体温が必要ない昆虫や変温動物に対してシシンキンはほぼ熱エネルギーを生産しない。ちなみに植物には体温があるが、分厚い雲に遮られて三十二度以上に上がることはない。よって変温動物や植物のシシンキンがこちらの体温によって激化し、一方的に溶け落ちてしまう結果となる。当然、変温動物や植物同士では激化しないがな」

 植物の体温とは光合成による太陽光の吸収のことだろう。変温動物同士の接触で溶けないことはすでに予想していた。昆虫や植物まで感染していたとは驚いたが、当然ミトコンドリアはそれらの中にも存在している。よく考えてみると、これまでだって野営で雑草が肌に掠ることもあっただろうし、身体に虫がとまることもあったはずだ。生き物のカテゴリーに虫や植物が入ることを失念していたから、近くで溶けていたことがあったとしても気付きもしなかったのだ。

 迂闊な己に少し反省しながら、質問を続ける。

「保菌者自身の体温で延々と増殖しないのはどうしてですか? 三十二度超えてますけど」

「それもミトコンドリアとなり替わった時点で共生状態になるからだな」

「そういえば、元々のミトコンドリアも宿主細胞に分裂をコントロールされてるんでしたっけ」

「その通り。それは変異前のシシンキンも同じで、感染時に過剰に増殖することはない。シシンキンが混入している水なんかも細菌ろ過機を使用すれば除去は可能だ。だが、感染後だと意味はないな。シシンキンを体内に取りこんでも、非活性時のものならミトコンドリアになり替わった菌が死滅させてしまうから」

 実際に攻撃するのは免疫細胞だろう。感染時はすり抜けていた免疫反応も、ミトコンドリアになり替わった細菌によって攻撃対象だと書き換えられてしまうようだ。

「紫に光る熱湯はどうですか? 恒温動物との接触と同じく危険ですよね?」

「ただの熱湯よりかは。だが実験結果によると、恒温動物同士の接触のほうが激化する傾向にある」

「実験ですか……」

 院内にいるネズミなんかを捕まえ、経過を観察したのだろう。慣れているだけあって世間話みたいな口ぶりだ。オレだってカエルたちで実験しているが。

「一応防御策はある。体温の伝わりを遮る物が間にあれば、保菌者に接近しても溶けることはないようだ」

「たとえば、裏ボア付きの分厚いコートとか?」

「恐らく。これに関しては素材や体温でも変わる上、自分で境界線を確かめるワケにもいかないから、断熱材の厚みの最小値が判らないんだ。まあネズミが大丈夫なのだから、人間でも問題ないだろう」

 やっぱりネズミか。確か人より一、二度ほど体温が高かったはずだ。

「保菌者自身も体温で常にシシンキンが活性化しているから、激化はしないが体液はかすかに光ってるぞ。君も覚えがあるだろう。色に個体差があるんだ。個々に変異した差だな。青紫から赤紫の範囲で、私は青が強い紫だ。君は?」

「紫です。赤とか青に寄ってる感じはしなかったな」

「それは興味深い。何十匹と解剖してきたが、どちらかに寄っているものばかりだった。検査させてくれないか?」

「解剖って……」

「いやいや大丈夫。君は尿を調べる」

「嫌ですよ、それも」

 医者はオレの顔だけ見て話す。オレの隣で実験動物の扱いに胸を痛め、悲しそうな顔をしているミィのことはさっきからガン無視だ。まあ話し始めてからここまで、ミィは話についていけずポカンとしていたり難しい顔をして唸っているだけだったから、この学者肌の医者には石ころも同然なんだろうが。

「あ、発光。発光するのはなんでですか? 判りやすくていいですけど」

 話を逸らすために言ってみた。

「未知の蛍光タンパク質を生成するからだ。深海にいるクラゲなんかと一緒だな。そうそう、それと――」

 医者はあっさり乗ってくる。自分の研究成果を披露したくて堪らないらしい。

「――傷の治りが感染前より早くなっているだろう? それもシシンキンの長所だな。人の体温程度だと、擦り傷の治りが早くなる程度だが」

 それについては覚えがある。なるほど。勘違いなどではなく、手当てする前に粗方治っていたのか。

 この地球上でいまだに感染していない生物はいないのだろう。隕石落下と衝突の熱エネルギーで細菌はおびただしく増殖し、川や海、雲や雨、空気にも蒸発した水分と共に浮遊しているはずだ。これから地球は、変温動物と虫と植物が幅を利かせる惑星になっていくのかもしれない。

 この考えを口にすると、しかし医者は首を横に振った。

「これから寒くなるからな。シシンキンは己が活動するために水分と栄養があればある程度熱エネルギーを生成するが、環境内の温度が五度を下回るか水分量が不足すると、細胞壁を硬化させて仮死状態になる。そうなれば変温動物たちも生きてはいられまいよ」

 だから気温の低下が予想よりも遅いんだ。それでも氷の世界は確実に……。

「あ、氷。もしかしてさっきの煙って、液体窒素が気化したものですか?」

「よく判ったな。シシンキン入りの熱湯に液体窒素を注いだんだ。仮死状態になったヤツらは非活性化時と同じく無色透明だが、硬化膜の影響で光を屈折させる。その内ダイヤモンドダストみたいな雪が降るぞ。さぞかし綺麗だろうな」

「全然嬉しくありません」

「まったくだ。七月に入ったというのに寒くて敵わん」

 目の前で濡れた防護服を脱ぎ出した医者の言葉に目を見開く。「え、今七月なんですか?」

「そうだが? 何かあるのか」

 医者が手をとめてオレを見た。防護服の下にも使い捨ての防護服を着こんでいるようだ。

「別に。なんで日付が判るのか不思議に思っただけです」

 視線を逸らすと、不織布の立てる音に混ざって医者の声がする。

「毎日チェックしていたからな。暦の喪失は文明の喪失だ。それで、ここには何を……そうか、シシンキンを調べにきたのだろう。よし、まずは顕微鏡で実物を見てみせてやろう!」

「違います!」

 ツナギの簡易防護服をゴワゴワいわせながら、一人で勝手に通路を歩いていこうとする。研究熱心というより、最早マッドサイエンティストだ。

「確かに情報は欲しかったですけど。シシンキンシシンキンってさっきからなんなんですか!」

「言ってなかったか? 名前がないと不便だろう。紫の心と書いて紫心菌だ。ハートマークみたいな結構可愛い形をしていてな。私以外にも発見した医者や学者が好き勝手に名付けているかもしれんが、一番特徴をとらえたネーミングだと自負している」

「はあ……」

 なんか顔と性格に似合わずメルヘンなとこあるな、この人。

 呆れているオレに構わず、医者はなおも一人で研究の苦労話を語っていたが、不織布に覆われた腕を組み大きなため息をついた。

「だが、それもここまでだ。薬品があればもっと実験できるのだが」

「え、ないんですか?」

 聞き捨てならないセリフに瞬時に反応する。医者はオレを見下ろして頷いた。

「ああ、薬品管理室は隕石が直撃してしまったからな」


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