終わる世界の『起』⑥――青


 うずくまってしまうほどの笑いが収まると、オレは何事もなかったかのように素早く立ち上がった。

 笑いながら考えていたのだ、母親の顔を見にいこうと。当然心配だからじゃない。復讐のためだ。一年ほど前から険悪だった両親は、親父の浮気発覚により離婚した。オレはいつ二人が離婚届を出したのかすら知らされていない。お袋は半年前に買い物に出かけていって、それきりだ。

 専業主婦だったお袋は、オレにとっての祖母の家に転がりこんでいるのだろう。他の祖父母はオレが物心つく前に離婚したり亡くなったりで面識がない。オレにとっての唯一の祖母も、オレが引きこもりになる少し前に他界した。

 祖母が残した家を「古くて買い手がつかない」と苛立ち混じりにオレに零していたお袋は、そのときはまだ離婚する気はなかったのかもしれない。それとも、売却して入ってきた金を離婚資金にする心積もりだったのだろうか。どちらにせよ、まさか自分がその家に住むことになるとは考えもしていなかったはずだ。移り住んだとき、売れなくてラッキーと考えたかはオレには判らないけれど。



 東京都西部、祖母の家がある青梅市に向けて出発する。数日ほど進んだところで、食料調達のため立ち寄ったコンビニ前に鍵が刺さったままの原付バイクを発見した。即行で確保し――そのせいでつい腹が減っていたのを忘れてしまった――、昼も夜もなく走らせ続ける。

 急いでいるのは変な輩に狙われないためだ。ガソリンがなくなるまでの移動手段でもバイクは貴重だ。さっさと使いきってしまうに限る。お袋のことなんかどうでもいい。オレだってまだ生きてるとは考えていない。精々死に様を拝んで、今までの恨みを晴らすぐらいだろう。

 道標には電車の線路を使った。方位磁石だと、瓦礫やトラックで塞がっている道を迂回するたびに進路を修正しなければいけなくなって面倒くさい。偶然突き当たった青梅市行きの線路沿いに進むほうが、以前何度も電車で祖母の家に行ったことのあるオレには判りやすかった。それでも途中何度か大きな隕石落下跡のクレーターにぶち当たって、途切れてしまった線路を探すのに苦労した。

 そこそこの期間をかけ、ようやく祖母の住んでいた町に入った。バイクのガソリンもまだある。というか、よく考えるとその辺に放置されている無事な車やバイクからガソリンを抜きとればいいだけの話だった。それに気付いてからは尚更バイクの貴重性が増したため、おいそれと食糧確保のためにバイクから離れたり、満足に睡眠をとることもできなくなってしまったが。

 オレの懸念をよそに、人にはまったく会わなかった。大分間引きも進んできたらしい。隕石落下時の災害を逃れた人間はオレ以外にもそれなりにいたようだが、平凡なヤツらはすぐに群れたがる。一瞬の油断で、何かの拍子で、単に無知なせいで、あっさり接触してジ・エンドだろう。

 この調子じゃやはりお袋も望みは薄い。オレは恨み言のひとつも直接は伝えられないようだ。別にそんなことどうでもいいが、せめてスライムじゃなく人型は保っていてほしい。スライムになっていたら、見分けがつかなくて生きてるか死んでるかも判らなくなってしまうじゃないか。

 知っている道に出た。崩れているが、真っ黒こげではあるが、それでも確かに何度も通った道だ。それが判るということは、この辺りは比較的隕石の被害が少ないということだ。もしやと思った瞬間、道の先にオレが知っているままの小さな平屋がポツンと建っているのが見えた。

 隣近所は隕石が降ったらしく消し炭のクレーターになっている。それなのに、祖母の家だけは記憶にある佇まいのままだ。開け閉めすると軋み声を上げる門扉も、玄関先の申し訳程度の庭に窮屈そうに植えられた柿の木も、安っぽい窓のサッシも、日焼けしたレースのカーテンも、玄関先に置いてある小さな植木鉢でさえ。

 何も知らなかった子供の頃に戻った気がして息が詰まった。しばらくバイクに跨ったまま、身動きもできなかった。

「そうだ……」

 我に返って、独り言つ。模様入りすりガラスの嵌った玄関の引き戸は閉まっている。フラフラとバイクを降りて、引手に指をかけるも動かない。つまり鍵が閉まっている。中にいるんだ!

「母さん……!」

 声を上げながら引き戸を叩き、すぐに玄関脇に置いてある大きな陶器製の植木鉢を抱えた。居間の窓ガラスを割り、そのまま侵入しようとすると、ビリビリという耳障りな音が聞こえなぜか部屋に入れない。音のする場所に視線を向けると、上着がガラスの切っ先に引っかかり、破れているのに気が付いた。じれったい思いでクレセント錠を外して窓を開ける。

 入りこんだ部屋もオレが知る当時のままだった。懐かしい居間。いない。懐かしい廊下。いない。懐かしい寝室――家の右奥にあるここも、オレが昔泊まったときのままだ。ただひとつ。一か所だけ家具の位置が変わっていた。

 祖母の嫁入り道具の大きな洋服箪笥。祖母は「黒檀でできていて、すっごく重いの。六人がかりで運びこんでもらったのよ」と自慢していた。しかしオレは壁の一面を占領している黒々としたそいつが、一人で寝ている隙に妖怪になって襲いかかってきそうで、子供心に恐ろしかった覚えがある。

 それは本当に妖怪だったのかもしれない。お袋は上半身は傷ひとつなく、そして下半身はまるでなかった。箪笥の妖怪に踏みつぶされ――いや、隣に落ちた隕石の衝撃で倒れたのだ。妖怪なんていない。呪いなんてありえない。

 凄惨な光景のはずなのに、オレは五感が麻痺してしまったのか、まったく現実味がなかった。匂いもしないし、うつ伏せに倒れているお袋の顔なんか菩薩のように優しげに見える。まるでついさっき事切れたみたいに。

「お母さん……」

 思わず手を伸ばして、その頬に触れようとした。少しやつれて見える。もしかしたら母さんもオレを置いてきたこと、後悔――。

 指先がとまった。現実感が更に遠のく。お袋の腕の中に何かいた。大事そうに抱えられた柔らかな肉塊。赤子だ。すでに息がない。何も知らない無垢な目蓋で。

 フラリと身体がかしいだ。眩暈で目の前が真っ暗になり、その視界のまま寝室をあとにする。祖母の家をあとにする。

 バイクに乗る。エンジンをかける。出発する。フラフラする。眩暈が。治まらない。

 何も考えられない。いや、考えられないと考えている。オレは考えている。考えることをやめられないでいる。いまだに。どうして。

 祖母の家は変わらなかった。不釣り合いなものは見当たらなかった。暮らし向きは質素で、男物もなく、再婚してる様子なんて。

 親父と離婚したのは半年前だ。実はお袋もこっそり浮気していた? 親父との子供?

 どちらかは判らない。だが、どちらでも同じこと。


 オレは母に見限られ、あの赤ん坊は選ばれたのだ。


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