第3話 硝子のような日々

 婚儀から数ヶ月が経ち、唐の都にも、少しずつ春の気配が宿りはじめた。


 乾いた風にわずかな湿り気が混じり、石畳のあいだからは小さな草が芽を出している。薄紅の花が街の外れの並木を染め、遠くの山肌には雪が残る。


 天陽は相変わらず政に追われていた。朝はまだ月が空にあるうちに出仕し、夜更けに帰ってきても、書を広げたまま机に伏せる日も少なくなかった。けれど、優夜はその生活に静かに馴染んでいった。


 誰に急かされるでもなく、誰に認められようと努めるでもなく——


 庭の草花を調べ、異国の薬草に興味を持ち、書を紐解いては煎じる日々。水の加減や火の強さにも、少しずつ慣れてきた。香の違い、葉の形、味に残るわずかな渋み。学ぶことは尽きなかった。


 初めの頃、侍女たちは彼女を遠巻きに眺めていた。静かで、控えめで、まるで音もなく歩くような人。その穏やかさが掴みづらかったのかもしれない。


 だが、優夜は誰にも声を荒げず、命じるような口をきくこともなく、困った者には自然と手を貸した。ある侍女が誤って薬瓶を倒したときも、優夜は怒るどころか、こう言って微笑んだ。


 「よかった。あなたに怪我がなくて」


 それ以来、ひとり、ふたりと、彼女に心を寄せる者が増えていった。やがて彼女の周りには、控えめな笑い声や、温かな気配が生まれるようになった。


 そして、ある日。


 春まだ浅い昼下がり。陽の光はまだやわらかく、風がふと吹けば、庭の桃花が一輪、ふわりと枝から離れた。


 天陽が、珍しく、昼に屋敷へ帰ってきた。


 書院の扉をくぐり、庭先まで足を運んで、その姿を見つけたとき——優夜は、薬草を手にしたまま、振り返った。


 「……今日は、会議が早く終わったのです」


 そう言った天陽の声は、どこかぎこちなく、少し照れたようでもあった。優夜は瞬きを一つして、それから、ほわりと微笑んだ。


 「おかえりなさいませ。お昼の膳を整えますね」


 気負わず、詮索せず、ただその日常を受け入れてくれる。その柔らかさが、天陽にはひどく心地よかった。


 ふと、優夜が呟く。


 「……あの、唐の花の香り、好きです」


 そう彼女が言ったのは、風がふわりと香りを運んできたときだった。


 「ああ、それは“桃花”ですね。日本では……梅に似ているかもしれません」


 「少し似ています。でも、すこしだけ、甘いですね」


 言葉を交わす二人の間を、春の気が通り抜けていく。天陽はその横顔を見つめながら、何かを言いかけた。けれど、言葉にならなかった。代わりに、目を伏せ、ほんのわずかに息を吐いた。


 それでも、彼の胸の奥では、たしかなものが芽吹いていた。目立たず、音も立てず、けれどしっかりと根を張るように。


 ——この人となら、長い日々を重ねていけるかもしれない。


 そう思ったのは、初めてだった。


 遠くで鳥が鳴いた。風がもう一輪、桃花をさらっていった。


 それはどこか、ささやかな約束のようにも思えた。

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