第5話
片山中学校、2年3組の教室。
5時間目の数学の授業が終わり、ざわざわと生徒たちが自席に戻る。
その時、教壇の前で声が上がった。
「なあ、井上。それ、お前の消しゴムちゃうやろ」
振り返ると、クラスメートの那須(なす)悠真が、鋭い目つきで睨んでいた。
「……え? 何のこと?」
「その消しゴム。名前書いてあるやん。“村上”って」
井上の手元にあった、青いMONOの消しゴムの側面には、確かに油性ペンで「村上」と書かれていた。
教室の空気がピリつく。
「え……? でも、これ……机の中に入ってたやつで……」
「言い訳すんなよ。村上、最近消しゴムなくなったって言ってたし、お前、疑われてたんやぞ」
村上は無言で立ち上がる。その顔は驚きよりも、戸惑いに近かった。
「お、おい……俺、盗ってないって!」
井上の声は震えていた。
教室の隅で、誰かがヒソヒソと笑っている。
その昼休み。
井上は、校舎裏の階段に座っていた。手の中には、例の消しゴム。
「……なんで、こんなことに……」
机に入っていたというのは事実だ。ただ、それが誰のものかまでは知らなかった。
人の名前が書かれたものが自分の手元にある。
それだけで、こんなに簡単に“犯人”にされるのか。
「俺、そんなことするような奴に見えたんかな……」
涙がこぼれそうになるその時――
「斬ってやろうか?」
ぬっと現れたのは、草履を履いた、着流し姿の男――宮本武蔵だった。
「な、なんで……」
「心に、悔しさと疑いの炎が灯っておる。それが闇となる前に、問いただしておきたい」
「……俺、何もしてへんのに、盗人扱いやで……。なすの奴、最初から俺がやったと思ってるみたいやし……」
武蔵は井上の消しゴムを手に取り、じっと見た。
「名とは、外に書くものでなく、内に刻むものじゃ」
「……は?」
「この“村上”と書かれた道具は、誰の物でもあるし、誰の物でもない。“名”で人を裁くことの愚かさを、お主、自ら知ったであろう」
井上は黙って頷いた。
「では、闇を見てこよう」
武蔵は、教室へと去っていった。
昼休みの終わり。教室では、那須がまだ生徒たちに井上の“疑い”を広めていた。
「なあ、これ証拠やろ。“村上”って書いてあるし」
その時、ドアが開いた。
「拙者、宮本武蔵。尋ねたいことがある」
一瞬で静まり返る教室。
「那須。お主、なぜ“村上”の名を知っていた?」
「……は?」
「他人の消しゴムを見ただけで、それが“盗まれたもの”と即断した理由はなんじゃ。まさか、元々机に入れておいたのではあるまいな?」
「なっ……!」
教室がざわつく。那須の顔色が変わる。
「人の罪を捏造するには、まず“物”が要る。“名前”が書かれていれば、証拠になる――そう考えたのではないか?」
「……証拠なんか、ないやろ……!」
「では、この話はどうじゃ?」
武蔵は、教室にいた村上を見た。
「村上。お主、この消しゴムに自分で名前を書いた覚えはあるか?」
「……ない。俺、消しゴムに名前なんか書かん。しかもこの字、俺の字と違う」
その一言で、空気が変わった。
那須は黙ったまま、顔を伏せる。
「“名前”を利用して、人を裁く。そこに真の正義はない。人は、もっと深く見ねばならぬ」
放課後。校舎裏で。
「……ありがとな」
井上は、武蔵に頭を下げた。
「別に、俺を庇ったわけやないんやろ?」
「うむ。闇を斬っただけじゃ。お主の中の光は、己が守れ」
「……ちょっと、かっこええな」
井上が笑うと、武蔵はふっと目を細めた。
そして次の“闇”を求めて、また別の教室へと歩いていった。
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