第一章:存在の登録

 島に着いた初日、僕は奇妙な儀式を受けた。


 僕を案内したのは、楫野かじのという、神経質そうな男だった。痩せた体躯に、度の強そうな眼鏡。白衣の袖から覗く手首は、病的に白い。彼は、僕の存在そのものが、この清潔な空間を汚染する異物であるかのように、常に僕と一定の距離を保っていた。


「苅部さん、島のメインシステムにあなたの


 楫野は、僕を真っ白な壁と床だけの部屋へといざなった。中央に、黒曜石のような光沢を放つコンソールが一つ、鎮座している。

 彼は僕に、指紋、虹彩をスキャンさせ、唾液からDNAサンプルを採取して、コンソールに接続された小型の分析装置にかけた。装置が静かな駆動音を立て、数分後、コンソールのスクリーンに、僕の身体に関する膨大なデータが表示された。


「処理を開始します」


 楫野がスクリーンに触れた瞬間、僕の全身の毛が逆立つような、強い静電気が走る感覚があった。なんだこれは? 不快であると同時に、とても奇妙な感覚。


 まるで、僕という存在の輪郭が、一度曖昧に溶け、そして、より強固な実体として再定義されたかのような。


「これで、島のメインシステム『アルゴス』があなたの存在を認識しました。ここでは、アルゴスにQID――クォンタム・アイデンティティが登録されていないマクロスケールの有機物は、


 彼の言っている意味は、まるでわからなかった。


 だが、登録が完了すると、それまで感じていた、船酔いにも似ためまいと、軽い現実感の喪失が、嘘のように消え去った。足が、確かに研究所の床についている、という強固な感覚。僕の身体が、この場所に「在る」ことを、許可されたような感覚だった。


「どういう意味ですか?」


 僕は尋ねた。彼の言葉は、まるでSF小説の一節のようだったが、僕の身体が感じた変化は、紛れもない現実だった。


「あ、えーと……」


 楫野は困ったように眼鏡を中指で押し上げた。


 「そのうち、ドクター・アリアが直接説明してくださるでしょう。あなたは、我々とはようなので」


 その言葉に含まれた、かすかな嫉妬の色を、僕は見逃さなかった。


 翌日、僕は小さな、しかし決定的な事件を目撃することになった。


 施設の清掃ルートを確認していると、ガラス張りのラボの一つで、一人の男が何かの実験をしているのが見えた。榎園えのきぞのという、若いプログラマーだと楫野から紹介されていた。癖のある髪に、少年のような顔立ち。しかし、その瞳には、年齢にそぐわない、狂信的な光が宿っていた。


 彼の目の前には、内部の気圧や温度が精密に制御された、透明なアクリルケースが置かれている。中には、一匹の白いマウスが、落ち着きなく動き回っていた。


 僕の視線に気づいた榎園は、悪戯が成功した子供のように、にやりと笑って手招きした。


「見ててください、苅部さん。面白いものをお見せしますよ」


 榎園がコンソールで何かをタイプすると、マウスの動きが、まるでコマ送りの映像のように、ゆっくりと、不自然に鈍くなっていった。必死に足を動かそうとしているようだが、その動きは粘度の高い液体の中をもがいているかのように、ぎこちない。そして、数分後、マウスはぴくりとも動かなくなり、静かに横たわった。


「……死んだのですか?」


 僕は尋ねた。


「いいえ」


 榎園は、恍惚とした表情で首を横に振った。


「死んだのではありません。んです。今、アルゴスのシステムから、このマウスのQIDを削除しましたから。ただそれだけで、こうなる。すごいでしょう?」


 死ではない、存在の終了。

 その言葉は、僕の思考の奥深くで、忘れていた哲学の概念と不気味に共鳴した。


「でも、身体は残っていますよね?」


 僕の問いは、純粋な好奇心からだった。

 僕はこの現象の「構造」を知りたかった。


「ああ、これはと我々が呼んでいるものです」


 彼は、まるで神の奇跡を語るかのように言った。


「システムから高次の生命情報――生命活動を統合し、一つの個体として成り立たせるための、いわばソフトウェア――が削除されたため、この個体は情報的にはもう存在していません。この残留物質も、生命としての統合性を失っているので、エントロピー増大の法則に従って、やがては構成原子レベルまで自然に分解されていきます。我々が今、のは、既にの、物理的な抜け殻なんです」


 僕は身震いした。

 死ではない、もっと根源的な消失。


 それは、僕がかつて本の中でしか知らなかった、純粋な概念の世界の出来事が、現実の物質世界に侵食してきたかのような、冒涜的で、しかし、抗いがたいほどに美しい現象に思えた。


 僕の反応が、他の人間とは違うことに、榎園は気づいたようだった。


 彼は僕の目をじっと見つめ、同類を見つけたかのように、嬉しそうに小さく頷いた。

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