【SF短編小説】テセウスの消失、あるいは彼女の存在確率 ~観測されない殺人~

藍埜佑(あいのたすく)

序章:背景になる男

 その島が、特に僕を呼んだわけではない。


 ただ、本土のウェブサイトで見つけた、ありふれた求人広告の時給が、他の似たような職種より、僅かに高かっただけだ。


 それが、僕、苅部かるべ浩一こういちが、この太平洋の地図にも載らないような孤島『テセウス』の管理人になった、唯一の理由だった。


 かつて僕は、大学で哲学を専攻していた。


 現象学、構造主義、分析哲学。

 世界の成り立ちを、言葉と論理だけで解体し、再構築しようと試みる、無謀で、しかし美しい試み。


 僕はその魅力に取り憑かれていた。だが、ある一点で、僕は決定的に挫折した。僕がどれだけ思考を重ね、精緻な論理を組み上げても、それは結局、僕の頭蓋骨の内側で完結する、ただの知的遊戯に過ぎないのではないか。現実という名の、巨大で、無慈悲で、美しくもない塊の前では、僕の言葉はあまりにも無力だった。


 卒業後、僕は思考することをやめた。


 本を売り払い、議論を避け、ただ、世界の歯車の一つとして、誰かの作ったシステムの中で、決められた役割を淡々とこなすだけの人間になった。


 肉体労働は性に合っていた。思考の入り込む隙がないからだ。空っぽの頭で、与えられた作業を繰り返す。それは、一種の救いだった。人は部品になれば全体のことを考えずに済むのだ。


 だから、この島の仕事は、僕にとって理想的に思えた。


「業務内容:研究施設の維持管理全般。ただし、専門知識は不要。最も重要な資質は、研究の邪魔をせず、施設の静謐な環境に溶け込めること」


 溶け込む。

 背景になる。

 存在感を消す。


 それは、僕がここ数年、ずっと目指して実践してきた生き方そのものだった。


 テセウスは、表向きは海洋物理学研究所とされている。だが、僕を迎えに来たチャーター船の船長は、意味ありげな笑みを浮かべてこう言った。


「あの島に行く人間は、二種類だけだ。。あんたは、どっちだい?」


 僕は答えなかった。

 僕は、どちらでもなかったし、どうでもよかったからだ。


 島は、想像していたよりも、遥かに無機質だった。


 自然のままの海岸線を除けば、島のほとんどは、白いセラミックとガラスで構成された、巨大な幾何学的な建造物で覆われていた。木々はなく、土も見えない。聞こえるのは、風の音と、波の音、そして、建物の内部から微かに響く、空調か何かの低周波だけ。


 ここには、数人の選ばれた研究者たちが、世界の喧騒から完全に隔絶された環境で、物質存在の根源を探る、ある究極の実験を行っているという。


 彼らのリーダーは、ドクター・アリア・クオン。


 ノーベル賞に最も近いと言われる、天才物理学者。

 彼女は、この島の、絶対的な女王だった。


 僕の仕事は、彼らの邪魔をしないこと。そして、この静かで、清潔で、どこか非人間的な空間の、背景になること。


 僕にとって、それは、ひどく居心地の良い役割のはずだった。


 あの事件が起こる、その日までは。


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