第一章:最初の疑問
京都帝国大学理学部。研究室の窓からは、東山の山並みがちらりと覗いていた。
畳敷きの一角には、低い机と、墨で満たされた硯。そして、その隣に置かれた擦り切れたノート。
正面の二枚続きの黒板には、数式が幾層にも折り重なり、異様な世界を構成している。
私の名前は真木健一郎。
東京帝国大学理学部物理学科を主席で卒業し、今は湯川秀樹のもとで、“見えないほど小さな世界”を研究している。
アルベルト・アインシュタインが一般相対性理論を提唱して以来、素粒子――この世界の極小単位――に物理学者たちの視線は集中した。
私も人並みに努力し、名門大学を主席で出たが……夢は破れた。
本物の“天才”に出会い、こうして彼の助手となったのだ。
ある日の午後。
東京帝国大学理学部・地質学教室の槇正雄から、私宛に一通の手紙が届いた。
母校からの手紙など珍しい。
物騒な世相の中だ、戦争に関する話でなければいいが……そう思いながら封を切った。
内容は――妙。
端的に言えば、「恐竜と呼ばれる、今は地上に存在しない巨大爬虫類の構造計算をしてほしい」という依頼だった。
30トンを超える陸生生物。
現代の物理法則では、とても生存できそうにない質量。
私は思わず眉をひそめた。
そのとき、背後から気配を感じた。
振り返ると、湯川が手紙を覗き込み楽しそうにほほ笑む。
湯川秀樹――物静かで、あらゆる現象に好奇心を示す男。
出世には興味がなく、ただ新しい“問い”を愛する。
「……実に、面白い」
湯川は小さく呟くと、黒板に向かい、チョークを走らせ始めた。
まるで、何かを思い出すように。
あれから、静かに三日が過ぎた。
私たちの研究室は、無口な者が三人。
実に静かだ。
天才・湯川は、この三日間ひたすら黒板と会話を続け、
助手の律子君は、黙々とその黒板の数式をノートに書き写す。
私は、物理学の観点から“あの問題”にアプローチを試みていた。
湯川のチョークが静かに止まった、その瞬間。
私の思考もまた、ひとつの形を結んでいた。
湯川は何も言わず、研究室を飛び出した。
どこかに電話をかけに行ったのだろう。
私は口から出そうになる“ある答え”を、人差し指でそっと唇に当て、湯川の帰りを待った。
湯川は、北海道帝国大学に確認を取ってきたらしい。
あの巨大爬虫類の、骨格データの正確性についてだ。
私たちの結論は、奇しくも一致していた。
――恐竜という生物は、そもそも歩けたのか?
私は天才と同じ地点にたどり着いたことに、ひそかな安堵を覚えながら、ゆっくりと黒板に歩み寄った。
仏頂面の大人がふたり。
黒板の前で数式を睨み合うこと、約一時間。
同時に、ふいに首を傾げた瞬間、
背後から律子君の、かすかに漏れるような笑い声が聞こえた……気がした。
ハワイ出身の彼女――律子君は、研究熱心で、湯川のリズムをよく心得ている。
湯川が口を開くとき、決まって彼女の手が止まる。
「……脊椎生物として、破綻している」
湯川がぽつりと呟いた。
私も、同意見だった。
脊椎動物は、歩き、食べることで生命活動を維持している。
生息地が違えど、この2つ――“移動”と“摂食”――は、脊椎動物にとって不可分の機能だ。
歩けなくなった生物は、やがて淘汰され、食物連鎖の一部となる。
他の命の礎となって、消えていく。
だが、今回の依頼対象――30トンの巨体を持つ恐竜――はどうだろうか。
現代の地球環境において、これほどの質量を持つ陸生動物が歩行可能とは、とても思えない。
仮に横たわれば、陸に打ち上げられた鯨のように、自重によって内臓が圧迫され、短時間で死に至るだろう。
にもかかわらず、これらの生物は複数個体の化石として発見されている。
つまり――これは「例外」ではない。
このサイズ、この構造の個体群が、過去に確かに生存していたという事実に他ならない。
ダーウィンの進化論では、こう述べられている。
「最も強い者が生き残るのではない。最も賢い者でもない。生き残るのは、変化できる者である」
では、この恐竜たちは、“変化”の果てに巨体を得たのか?
歩行さえ困難になるほどの進化――それを、果たして「進化」と呼んでよいのだろうか?
生物学は専門ではない。
だが、少なくとも私は、“歩けなくなる進化”を肯定できなかった。
そんな疑問が脳裏を過ったときだった。
湯川が、再び口を開いた。
「――現代の地球環境においては、」
何を至極当然のことを……そう思った、その瞬間だった。
私の脳裏に、湯川の意図が、稲妻のように貫いた。
黒板の前から、湯川がゆっくりとこちらを振り返った。
その視線が、私と合う。
……いつも、そうだ。
何かを“発見”する時の湯川は、決まって静かだった。
ただ、常識を打ち破るその着想で、世界を震わせてきた。
中間子理論。
素粒子を構成する力のひとつを見出したあのときも、
湯川は、まさに今と同じ――竹林を吹き抜けるような、静かで涼やかな目をしていた。
私は、いつもこの目に嫉妬してきた。
なぜ、お前ばかりが“その先”を見つけるのだ。
何が、お前にだけ“糸口”を与えるのか。
凡庸な私が、逆立ちしても届かないもの。
それを、この天才はまた、何の衒いもなく言おうとしている。
――奇怪で、だが、美しいことを。
湯川の唇が、静かに開いた。
「……重力というのは、定数なのだろうか?」
私と律子君の目が、丸く見開かれた。
人類はこの地球に生まれ、文明を育む中で、
長きにわたり「重力」という不可視の力に挑んできた。
そして、数多の天才たちが辿り着いた、たった二つの答え。
ニュートンの万有引力の法則。
アインシュタインの一般相対性理論。
湯川は、
その人類の重力史を――たった三日で、更新しようとしている。
湯川は天才だ。
……だが、この発言だけは、私には受け入れがたかった。
私がようやく口を開こうとした、まさにその瞬間。
湯川はすでに、黒板の向こうにいた。
万有引力の法則も、一般相対性理論も、
現代物理学の“母”と呼ばれる理論だ。
それを、そう簡単に否定できるわけがない。
だが――湯川は軽口を叩くような男ではない。
あの問いを口にするまでに、彼なりに何度も思考を反芻し、
その“是非”すら、熟慮したはずだ。
……であるならば。
私は、目を閉じた。
気づけば、
研究室はこの最初の疑問と共にいつもの風景に戻っていた。
チョークの粉が、静かに空中を舞っていた。
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