第2話: ふざけるなよ!? 俺が輪になっただと!? 嘘だろう!!!
【1239年、 バシレイア・トーン・ローマイオン(ローマ帝国)】
ブルーサ郊外の小さな農家の木小屋にて――
どれほどの時が経ったのか分からない。だが、身体に鋭い痛みが走った瞬間、俺は目を開けた――いや、おかしな話だが、目の前の光景は“見えて”いるのに、目を開けたという感覚がまったくなかったのだ。
「パパ、見て見て!うまくできたよ?」
「うん……すごく綺麗だ。でももっと良くなるかも。手伝おうか?」
優しげな中年の男が、そばにいる小さな男の子ににっこりと微笑みかけていた。
すると、その子の口から、幼いながらも元気な声が飛び出す。
「ううん、自分でやるの!ぼく、ちゃんとできるようになって、パパの役に立ちたいんだ!」
……この子の声――たぶん、あの男の子がこの人生での俺の兄弟で、男は父親ってところだろう。
でも……どういうことだ? 俺自身も子どものはずなのに、
視界が、ずっと古い作業台の上に張りついてんだよな……
……いや、まさか……これって……邪教の儀式!? 生贄にされるやつか!?
もしそうじゃないなら、もしかして……俺、モノに転生したってことか!?
いや、そんな馬鹿なこと……せめて人間には生まれ変わってるよな!? なあ!?
だが、刃物が削る音と身体を裂くような痛みが、無言のまま答えを示していた。
空間を舞う木屑。汗だくで笑う少年の顔。俺は――叫びたいほどの痛みに耐えていた。でも、声すら出せない。
動こうとしても、手も足もないことに気づいた。存在そのものが希薄だ。
終わりの見えない、まるで永遠に続く拷問のような激痛が、意識の奥底まで突き刺さってくる。俺は声すら出せず、ただその苦しみに耐えることしかできなかった――そんな時間がどれほど続いたのか。やがて、あの男の子が満足そうに笑みをこぼした。
「パパ!できたよ!この車輪すっごく綺麗でしょ!これでまた車が動くよ!」
「おお、イオアンニス、本当にいい子だな。すごくよくできてるよ!」
俺の視点が急に持ち上がる。そして目の前に中年の男の顔が――彼がじっと俺を見つめ、クルリと二回ほど俺を回した。満足げな顔で頷くと、息子の頭を撫でながら、俺を肩に担いで外へ運び出した。
――この瞬間、ようやく理解した。
俺、この世界じゃ……人間ですらない。車輪だって!? そんなのアリかよ!?
いや、いやいや、待て待て! きっと俺には何か特殊能力があるはずだ。変身能力とか、車輪戦隊シャリンジャーとか、爆走レンジャー・タイヤンとか……仮面ライダーだって変身できるんだぞ!?
これは異世界転生の物語だろ!? 俺がただの車輪で終わるわけが……いや、あるのか? 嘘だろ……!
……そう思った矢先、現実が遠慮なく俺のツラぶん殴ってきやがった。
男は俺を、タイヤの一つが欠けた荷車に取りつけた。
すると……何も起きない。ただ、俺は転がり始めただけだった。
視界は――たしかに、影響を受けてはいなかった。
それなのに、地面に転がるたびに感じる石の感触が、とにかく不快でたまらない。
剣もなけりゃ、魔法もない。ましてや美少女なんて、影も形も見当たらない。
あるのは……前世と大差ない、見るからに貧乏くさい父子コンビだけ。
なにが異世界だよ、なんだよこれ、転生してまで“半端な庶民の輪っか”ってどういうオチだよ!?
てか、この時代の道路、ボロすぎだろ!?
「パパ〜、いつコンスタンティノウーポリスに戻れるの〜? あそこの海、見たいよ〜」
「うーん……まだまだ先だな、坊や。俺たちの軍が、あのラティノイ(ラテン人)の異端を追い払ったら、きっと戻れるさ。ロメイオイ(ローマ人たち)は、負けないんだよ。」
「ほんとに!?」
「ああ、嘘じゃないさ。ほら、ここ数年ずっと豊作だろ?これはいい兆しだし、神さまの祝福なんだ。
今日だって、これから市場で収穫物を売るんだ。今年のブドウとオリーブは特に出来がいいから、きっと高く売れるさ!」
父と子の楽しげなやり取りを聞いていると、胸の奥にぐっとくるものがあった。
そういえば――俺はここ数年、息子とまともに時間を過ごしてこなかった。
社長に言われたあの言葉……あれは確かに刺さった。
でも、それ以上に辛かったのは、子どもが俺の忙しさをちゃんと理解してくれていたことだ。
それでも――客観的に見れば、俺は「父親としての役割」を果たしていたとは言えない。
理由がどうであれ、事実は変わらないんだ。
「僕も売るの手伝う!えへへ、売ったらおいしいの買ってくれる〜?」
「まったく……ほんとに、お前ってやつは……可愛いやつめ」
男が笑いながらそう言って、気がつくと、俺は二人の影をただ見つめていた。
彼はそっとイオアンニスの頭を撫で、イオアンニスは嬉しそうに、父の胸元に体を寄せた。
「やった〜! ぼくの勝ち〜!」
――その瞬間、ふと思った。
あれ……こういうのも、案外、悪くないかもな。
穏やかな田園の風景、頬を撫でるやさしい風、親子の微笑ましいやりとり。
異世界転生して“輪”になる――まさかのスローライフ。
うん、今のところは……わりと、悪くない。
……でも、その幸せな気持ちは、わずか数分でぶっ壊された。
二人は倉庫みたいな場所に到着し、収穫した作物を次々と俺の上に積み上げてきた。
重っっっっっっっっっ!!!
ちょっ、マジで勘弁してくれ!
いや、俺もう人間じゃないし、「重くて死ぬ」じゃなくて「重さで潰れる輪」じゃねーか……
何だよこれ、どんな転生だよ、労災案件だろこれ!!
ともかく、この市場への道のりは過酷そのものだった。
いや、二人にとってじゃない――俺にとって、“めちゃくちゃ転がりづらい”道だったのだ。
山ほど積まれた収穫物の重みで、今にも潰れそうになりながら、文句のひとつも言えず、ただただ物理法則に従って転がり続けるしかない。
前世は、社畜として歯車のように24時間働き続け――
今世では、農民一家の“車輪”として地面を転がり続ける……
これ、完全に階級レプリケーションってやつだろ!?
「着いたよ〜、イオアンニス、起きて〜、ブルーサに着いたよ〜!」
日差しの中、男の影がそっと息子の肩に触れ、やさしく声をかけた。
俺たちは街に入り、広場の市場は人で溢れかえるほどの賑わいを見せていた。
男は空いた場所を見つけて荷車を止め、売り物を手際よく並べ始めた。
「新鮮なブドウとオリーブだよ〜!市で一番の品質、今を逃すと後悔するよ〜!」
男は勢いよく声を張り上げ、人々に呼びかけていた。
すると、その声に反応するように、一人の女性が振り返り、彼のもとへと近づいてきた。
「ちょっと、それ言いすぎじゃない? 一番のオリーブとブドウって……何、それ、自信ありすぎじゃない?」
疑いの眼差しを向ける女性に対して、男は営業スマイルを浮かべ、何か言い返そうとした――その瞬間。
イオアンニスがニコニコしながら、かごから一粒のブドウと一粒のオリーブをつまんで、すっと彼女の前に差し出した。
「綺麗なお姉ちゃんには、綺麗な果物っ!
全部うちで作ったんだよ〜。
あまくて、おいしいよ〜!
ママも綺麗だけど、よく食べてるからだよ!
はい、お姉ちゃんも食べてみて〜!」
俺はその場でじっと見ていた。女性の表情は、疑いの色からふっと柔らかくなり、笑みを浮かべる。
彼女は手に取ったブドウをそっと口に運び――
ブドウを口にした彼女の目が、ぱちりと見開かれた。その視線が、まっすぐ俺をとらえる。――驚いてる……!
「……ほんとに……おいしい……!
えっ、これ……どうやって育てたの?
……じゃなくて、いくら!? 一房いくら!? 三房ちょうだいっ!!」
「お姉ちゃん、今日は特別だよっ!
ひと房はアッサリオン銀貨1枚なんだけど、
3つなら――アッサリオン2枚とオヴォロス2枚でいいよ〜っ!
お姉ちゃんがもっと綺麗になりますように〜♡
よかったら、他の人にも教えてね〜っ!」
「まあ、なんて可愛い坊やなの……♡ はい、これ、ご褒美ね。お釣りはいらないわ♪」
彼女は微笑みながらアッサリオン銀貨を3枚差し出し、イオアンニスの頭を優しく撫でると、ブドウを手にしてその場を後にした。
その直後、地面が微かに揺れた――と思ったら、人だかりがわーっと押し寄せてきた。どうやら、店の前に群がってきたようだ。
「おじさんっ!ブドウとオリーブ、まだある!?4房ずつちょうだい!」
「こらっ、俺の方が先だぞっ!」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ケンカしないで〜!ちゃんと並んでね〜!いっぱい持ってきたから、だいじょうぶだよ〜!」
イオアンニスの無邪気な声が響き、騒がしかった群衆は次第に列を作っていった。やがて、商品の山は見事に完売した。
「イオアンニス、ありがとうな。今日は本当に助かったよ。」
「にししっ、ぼくすごいでしょ?パパ?」
「ああ、君は僕の誇りだよ。愛しい子。」
俺は、男の影がイオアンニスの影にそっと重なり、額に優しくキスするのを見つめていた。
「パパからもらったから、次はママの番だ〜!家に帰ったら、ママにもチューしてもらうんだ〜!」
「きっとママは、ぎゅ〜ってしてくれるさ。ははは!」
「楽しみ〜!それから、もっとお勉強する!絶対に裁判官か兵隊さんになって、パパとママを楽にしてあげるんだ!」
「ほんと、バカだな……そんな先のことより、今を大事にして、いっぱい笑って生きるんだぞ。」
夕焼けに照らされた帰り道、荷車はどこか軽く感じた。親子の温もりが伝わってきて――気づけば、胸の奥に、羨ましさと、やさしいあたたかさがじんわり満ちていた。
……ほんとに、少しだけど、羨ましいと思っちゃった。
俺たちが家の前に戻ると、ひときわ長い人影が門のそばに立っていた。
「ママ〜!!聞いて〜!今日ね、たっくさんブドウとオリーブ売ったよ〜!」
イオアンニスが飛びつくように駆け寄り、女性は彼を高く抱き上げた。俺の目には、ふたりの頭の影がひとつに重なったように映った。
「あなたはママの自慢の子よ、ほんとうにえらいわ〜!」
「イリニ、帰ったよ。今日は本当にいい日だった。今夜は、ちょっといいもの食べられるかな?」
「もう、アレクシオスったら……そんなこと言われたら、張り切っちゃうじゃない♪もちろんよ。イオアンニス、お父さんと荷車を片づけてね。一緒に晩ごはん、作りましょっか!」
「はーい!」
俺は、彼女の影がそっと彼の頬にキスをするのを見届けた――あの、温かい仕草の残像が、胸に染みた。
……毎日がこんなふうだったら、案外、悪くない人生かもな。
この日々が、いつまでも続いてくれたらいい。
俺はただの車輪だ。だけど、前みたいに、意味もなく転がってるわけじゃない。
今の俺は、誰かを乗せて、誰かと一緒に、前へ進んでる――そんな気がしてた。
この瞬間、俺はようやく、自分がここにいる意味を見つけた気がした。チートもハーレムもないけどさ――でも、ある意味……俺、ヒーローだろ?
この幸せが、どうか続いてほしい――そんなふうに願わずにはいられなかった。
けれど、運命ってやつはいつだって気まぐれで、理不尽で……
そのせいか、心のどこかでずっと怯えていた。
あまりにも穏やかすぎる日々。あたたかすぎる時間。当たり前すぎる幸せ。
まるで、静かすぎる海みたいに。……その向こうに、嵐が隠れているような気がしてならなかった。
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