日常との決別

マリが来てから八週間目の金曜日、昼休みの終わりが近づいた頃だった。


アリアは中庭でマリと一緒に弁当を食べていた。マリが今朝作ってくれたサンドイッチは、いつものように心のこもった優しい味がした。手作りのハムサンドイッチに、小さく切ったリンゴまで添えてある。その細やかな気遣いが、アリアの胸を温かくした。


「アリアお姉さん、来週の日曜日、一緒に街を歩きませんか?」


マリが嬉しそうに提案した。弁当箱の蓋を閉めながら、期待に満ちた瞳でアリアを見つめている。


「街を?」

「はい。お母さんが、アリアお姉さんにお礼がしたいって。また夕食もご一緒していただけたらって」

「それは嬉しいですが、そんなに気を遣わなくても...」

「でも私たち、本当の家族みたいじゃないですか」


マリの屈託のない笑顔を見て、アリアの胸は温かくなった。同時に、心の奥で小さな声が囁く。あの星空の下で秘密を打ち明けた夜から、本当の姉妹のような絆を感じていた。


秘密を共有できる人がいる。理解してくれる人がいる。


「この子なら、きっと理解してくれた」


その時だった。


工場の正門から、黒い制服を着た男たちが入ってくるのが見えた。二十名ほどの隊員が、整然とした隊列を組んで工場の敷地内に足を踏み入れる。その統制の取れた動きと威圧的な雰囲気に、中庭の空気が一変した。


中庭にいた職員たちがざわめき始めた。


「政府の人たち?」

「何の用事だろう」

「セレニティ・ガードじゃないか...」


アリアの心臓が激しく鼓動し始めた。血の気が引いて、手先が冷たくなっていく。まさか、自分を探しに来たのか...?


部隊の指揮官らしき男が前に出た。四十代半ばの厳格な顔つきで、冷たい灰色の瞳をしている。その視線は、既にアリアを捉えているように見えた。


「エーテル工業の職員の皆さん、我々は政府セレニティ・ガードです。重要な案件で参りました」


指揮官の声が工場全体に響く。その声には有無を言わさぬ権威が込められていた。


「感情異常者の身柄確保のため、この施設を調査いたします。職員の皆さんは速やかに避難してください」


アリアの顔から血の気が引いた。感情異常者。それは間違いなく自分のことだ。心臓が胸を叩くように鼓動している。


職員たちが慌てて立ち上がり、避難を始める。その混乱の中で、指揮官の視線がまっすぐにアリアを捉えた。


「君がアリア・ヴォーンだな」


鋭い声が彼女を貫く。アリアは立ち上がることもできずに、その場に座り込んだままだった。足が震えて立てない。


「情報提供により、君がこの工場に潜伏していることが判明した」


情報提供。誰が。いや、まさか...


アリアは避難する職員たちの中を見回した。そして、遠くの建物の陰で、マリが立ちすくんでいるのを見つけた。


マリの顔は青ざめ、両手で口を覆っている。その瞳には涙が浮かんでいた。申し訳なさそうに、でも逃げることもできずに、ただアリアを見つめている。


瞬間、アリアは全てを理解した。


星空の下で「絶対に誰にも言いません」と約束してくれたマリ。「私たち、本当の姉妹ですから」と言ってくれたマリ。初めて自分を受け入れてくれた、たった一人の家族だった人が...


「マリさんが...私を...」


信じられない現実が、鉛のようにゆっくりとアリアの心に沈んでいく。


私は...裏切られたのか。


五年間の孤独よりも、この一瞬の絶望の方がずっと深く、ずっと痛かった。


「君は感情結晶に異常をきたす危険人物として指名手配されている」指揮官が続けた。「大人しく我々と同行してもらう」


部隊の隊員たちがアリアを囲み始める。逃げ場はない。

マリは涙を流しながら、小さく首を振っている。まるで「ごめんなさい」と言っているように。


でも、もう遅い。何もかも遅すぎる。


「私は...マリさんを妹のように信頼していたのに...」


心の奥で、何かが音を立てて壊れた。五年間、必死に抑えてきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


裏切り。絶望。怒り。そして、深い深い憎悪。


マリへの憎悪ではない。『普通でいられる』と信じ込んでいた自分の甘さへの憎悪。誰も信じられない世界への憎悪。そして、こんな異常な力を持って生まれた運命への憎悪。


「なぜ...なぜなの...」


アリアの声が低く、暗い響きを帯び始めた。その声色が変わった瞬間、周囲の空気が重くなった。


指揮官が眉をひそめた。「何だ?この気配は...」


アリアの周りの空気が、次第に重くなっていく。職員たちの避難が止まり、皆が不安そうに振り返る。


「私は...ただ、普通に暮らしたかっただけなのに...」


アリアの手のひらから、小さな深紅の光が立ち上った。それは血のように赤く、美しくも恐ろしい輝きだった。


「アリアお姉さん...」

遠くでマリが呟いた。その声には恐怖が混じっている。


「誰も信じられない...」


深紅の光が次第に大きくなる。それは憎悪結晶だった。これまでアリアが必死に隠してきた、禁断の力。


「私は、ただ...ただ...」


アリアの瞳が深紅に染まった。その瞬間、周囲の隊員たちが一歩後ずさった。


「普通に暮らしたかっただけなのに!」


その瞬間、工場全体が深紅の光に包まれた。


憎悪結晶が暴発した。これまで五年間抑制してきた全ての憎悪が、一気に解放される。アリアを中心に無数の深紅の結晶片が空中に舞い踊った。


「うわあああ!」


部隊の隊員たちが悲鳴を上げる。憎悪結晶の破片が彼らに触れると、次々と理性を失い始めた。心の奥に眠っていた暴力性と憎悪が一気に表面化する。


「指揮官!こいつが悪い!いつも偉そうに命令しやがって!」


隊員の一人が剣を抜いて指揮官に向かって振り下ろす。指揮官も自分の剣を抜いて応戦し、金属がぶつかり合う鋭い音が工場内に響いた。


「俺の方が昇進するはずだったのに!」


別の隊員が同僚を工場の重いハンマーで殴りつけ、同僚も作業台から金属の棒を掴んで反撃する。金属がぶつかり合う鈍い音と、骨の折れる嫌な音が響く。


「この任務なんてクソくらえだ!」


ある隊員が怒りに任せて工場の作業台に斧を叩きつけると、それは真っ二つに破壊された。別の隊員は感情結晶の保管棚を蹴り倒し、貴重な結晶が床に散乱して砕け散る。


指揮官も憎悪結晶の影響を受け、部下たちに向かって剣を振り回している。


「使えない部下どもが!全員まとめて始末してやる!」


アリアを中心とする憎悪結晶の乱舞はまだ止まらない。避難して工場の様子を遠目に見ていた職員たちは一斉に逃げ出した。

政府の部隊は同士討ちに夢中で、もはやアリアのことなど忘れてしまっている。


工場内は戦場と化し、五年間アリアが働いた思い出の場所が、憎悪結晶の力によって瞬く間に廃墟と変わり果てた。


アリアだけが、その混乱の中心で静かに立っていた。憎悪結晶の影響を受けない唯一の存在として。


「これが...私の本当の姿...」


アリアの頬に涙が流れた。


「私は化け物なんだ..」


建物の陰で、マリが恐怖に震えながらその光景を見つめていた。アリアお姉さんが、深紅の光に包まれて立っている姿を。


「私が...私がこんなことに...」

マリの呟きは、憎悪結晶の光に飲み込まれて聞こえなかった。


アリアは振り返ることなく、工場の裏口に向かって歩き始めた。もうここにいる理由はない。全てが壊れてしまったのだから。足音が石畳に響く。一歩、二歩、三歩。数えることで、心を落ち着けようとした。


---


夕暮れ時、憎悪結晶の影響が完全に消えた頃、アリアは小さな荷物をまとめて街を出ようとしていた。持ち物は、着替えが数着と、大切な思い出の品だけ。それほど多くのものは持っていなかった。


「アリア」


聞き慣れた優しい声が後ろから響いた。振り返ると、ブラウン工場長が立っていた。その手には、温かそうな包みを持っている。夕陽が彼の後ろから差し込んで、その姿を優しく照らしていた。


「工場長...」

「君を探していたんだ」


ブラウンの顔には疲労の色が浮かんでいたが、その眼差しは変わらず温かかった。この人だけは、いつも変わらない。


「さっきのことは...政府の人たちに何かされたんじゃないですか?それにマリは?あの子は大丈夫ですか?私のせいで...」


「心配いらない。あの人たちは勝手に争っただけだ。怪我はしているが、命に別状はない。マリちゃんは君に合わせる顔がないって一人で泣いている。しばらくすれば落ち着くだろう」

「そう...ですか」

アリアは話すべき言葉が思いつかなかった。

ブラウンが静かに近づいてきた。その足音も、いつものように穏やかだった。


「これを受け取ってくれ」

差し出された包みからは、甘い香りが漂ってきた。焼きたてのクッキーの香りだ。


「妻が君のために特別に焼いたクッキーだ」


「でも、私は...」

アリアは手を引こうとしたが、ブラウンは包みを押し付けるように手渡した。


「いつも遠慮していたね。でも今日だけは、素直に受け取ってくれ」

ブラウンの声には、深い優しさが込められていた。


「君は家族の一員なんだから」


アリアの目に涙が浮かんだ。この五年間、いつも距離を置いていた自分を、それでも家族だと言ってくれる。今日、全てを失った自分を、それでも受け入れてくれる。


「ありがとうございます」


小さく呟いて、包みを受け取った。温かい布に包まれたクッキーは、まだほんのりと温もりを残している。その温かさが、手のひらから心に伝わってくる。




「どこへ行くつもりだ?」

「分かりません。でも...もう戻ってこられないかもしれません」

「戻ってきなさい」ブラウンが静かに言った。「いつでも、君の帰りを待っている」

「でも、私は異常者で...」

「君は君だ。それ以上でも、それ以下でもない」


工場長の言葉が、アリアの心に深く響いた。その言葉には、五年間変わることのなかった信頼が込められていた。


ブラウンは少し考えてから、もう一つ包みを取り出した。

「これは私が書いた手紙だ。行く当てもないだろう。喜悦特区に向かうといい。ここからは歩いて三日ほどだ。そこでルミナ・ブライトという人を訪ねてくれ」


「ルミナ・ブライト?」


「昔の知り合いでね。優しくて聡明な人だ。きっと君の力になってくれる」


ブラウンが差し出した封書は、丁寧な字で「ルミナ様へ」と書かれていた。

「感情結晶の技術にも詳しい。君が求めている答えを、きっと教えてくれるはずだ」

「ありがとうございます」


アリアは封書を大切に懐にしまった。


街の向こうで夕陽が沈みかけている。オレンジ色の光が石畳を照らし、街全体を温かく包んでいる。旅立ちの時だった。


「必ず...必ず帰ってきます」


アリアは深く頭を下げた。今度は、本当の自分を受け入れてもらえるように。今度は、もう嘘をつかずに済むように。


「気をつけて行くんだよ」


歩き始めたアリアの後ろで、ブラウンがそっと手を振っているのが分かった。振り返ると、最後に見送ってくれる人がいる。それだけで、少し勇気が湧いてきた。


街の灯りが見えなくなるまで歩いて、アリアは立ち止まった。振り返っても、もう故郷の明かりは丘の向こうに隠れてしまっている。


包みを開くと、工場長の妻が焼いてくれたクッキーが丁寧に並んでいる。一つ一つが心を込めて作られていることが分かる。


一口食べてみると、ほんのりとした甘さが口の中に広がった。バターの香りと、優しい甘さ。そして何より、作ってくれた人の温かい気持ちが伝わってくる。


「こんなに美味しかったんだ...」


涙がこぼれた。それは悲しみの涙ではなく、感謝の涙だった。

夜空を見上げると、満天の星が輝いている。あの星空の下で、マリと秘密を共有した夜を思い出す。あの時は、未来がこんなに明るく見えていたのに。


最後に、小さく呟いた。


「今度こそ、本当の自分になって帰ってくる」


アリアの長い旅が、今、始まろうとしていた。足音を数えながら、暗闇の中を一歩ずつ歩いていく。一歩、二歩、三歩。新しい人生への第一歩だった。

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