星空の下で

六週間目のある日、マリが風邪で工場を休んだ。


マリがいない作業場は、なぜかひどく広く感じられる。隣の台から聞こえてくるはずの「おはようございます!」という明るい声がない。


精製作業に取り掛かりながら、アリアは何度も隣の空の椅子に視線を向けてしまった。たった一日いないだけなのに、こんなにも心が落ち着かないなんて。


「アリア、マリちゃんの具合はどうなんだ?もしかしてこの前俺が怒ったりなんてしたから...」


コリンが心配そうに声をかけてきた。


「ふふふ。大丈夫ですよ。風邪で熱があるだけだそうです」

「そうか...最近頑張りすぎてたからな」


同僚たちも皆、マリのことを心配していた。あの子がいかに職場に溶け込んでいるかが分かる。でも、一番心配しているのは自分だという自覚が、アリアにはあった。


仕事が手につかなかった。結晶を磨く手つきも散漫で、いつもなら一時間で終わる作業に二時間もかかってしまう。昼休みになると、意を決してブラウン工場長のもとに向かった。


「工場長、マリさんの住所を教えていただけませんか?お見舞いに伺いたくて」


「そうか、優しいね」ブラウンが温かく微笑んだ。「住所はこちらだが...」


手帳から住所を書き写してくれながら、ブラウンの表情が少し曇った。その変化を見逃さずに、アリアは身構えた。


「アリア、最近は気をつけた方がいい」

「え?」

「政府の巡回が強化されている。この辺りも頻繁に見回りが来るようになった」


ブラウンはアリアをじっと見つめた。その視線には、何かを知っているような深い意味が込められていた。まるで、アリアの秘密を薄々感づいているかのような。


「特に...君のような真面目で優秀な工員は、変に目をつけられないよう注意が必要だ」


アリアの心臓がドキリと跳ねた。手のひらに冷たい汗が浮かぶ。工場長は何か知っているのだろうか?それとも、ただの親切心からの警告なのか。


「は、はい...ありがとうございます」


声が少し震えた。ブラウンはその様子を見て、さらに声を低めた。


「何かあったら、遠慮なく相談するんだぞ」


その言葉には、表面的な親切以上の何かが込められているように感じられた。まるで「君の秘密を知っても、私は味方でいる」と言っているかのような。


「政府は...何を探しているんでしょうか?」


アリアは努めて平静を装って尋ねた。でも、胸の鼓動が早くなっていくのを抑えることはできなかった。


「詳しくは分からないが...」ブラウンは辺りを見回してから、さらに声を潜めた。「何でも危険人物を探しているらしい。感情結晶に異常をきたすような者がいるのだと」


アリアの顔から血の気が引いた。息が詰まりそうになる。


「感情異常者、と呼んでいるようだ。そんな者がいるとは信じ難いが...政府は本気で探している。懸賞金まで出ているという話もある。相当な額らしい」


懸賞金。アリアの手が震えた。自分の存在に金額が付けられているなんて。


「まあ、我々には関係のない話だろうが」ブラウンは優しく微笑んだ。でもその眼差しには、何かを察しているような深さがあった。「それより、マリちゃんのお見舞い、よろしく頼むよ。君が行ってくれるなら安心だ」


その日の午後、アリアは手作りの野菜スープを持ってマリの家を訪れた。ブラウン工場長の話は気になったが、今はそれよりもマリの方が心配だった。

工場から歩いて二十分ほどの場所だった。


着いてみて、アリアは息を呑んだ。それは小さな平屋というより、ほとんど小屋に近い建物だった。壁には所々にひびが入り、屋根の一部は板で応急処置がしてある。玄関の扉も古く、塗装が剥げていた。


でも、窓辺には小さな花が植えられており、玄関前も丁寧に掃き清められている。貧しくても、心を込めて手入れされた家だということが分かった。


「すみません、マリさんはいらっしゃいますか?同僚のアリアと申します」


扉をノックすると、中から足音が聞こえた。開いたドアから現れたのは、マリによく似た中年の女性だった。服装は質素で、手には長年の労働の跡が刻まれている。でも笑顔は温かく、マリと同じ優しさが宿っていた。


「まあ、あなたがアリアさん!マリがいつもお世話になっております」

「とんでもありません。マリさんが風邪だと聞いて、心配で...」

「ありがとうございます。本当にお忙しいのに、わざわざ...」


母親の言葉に恐縮が滲んでいる。家に招くのも申し訳なさそうな様子だった。その気遣いが、かえってアリアの胸を締め付けた。


「こちら、野菜スープです。お口に合うかわかりませんが...」

「そんな、申し訳ありません」母親が慌てた。「お忙しいのに、手料理まで...」

「いえ、マリさんにいつもお世話になっているので」


部屋の家具は最低限のものしかなく、壁紙も古くて色褪せている。でも外観と同様、掃除は行き届いており、所々に小さな花が飾られていて、心のこもった家であることが分かった。


奥の方で幼い少年が静かに遊んでいるのが見えた。古い積み木を使って、一人で何かを作っている。


「こちらは私の息子のトム、マリの弟です」母親が紹介した。


「こんにちは、トム」アリアが優しく声をかけると、少年は人見知りしながらも小さく頭を下げた。大きな瞳は、マリとそっくりだった。


「トム、アリアさんはお姉ちゃんの職場の先輩よ。いつもお姉ちゃんを教えてくださってるの」


母親の説明に、トムの表情が明るくなった。


「お姉ちゃんが毎日、アリアさんのお話をしてくれるんです」母親が微笑んだ。「『今日もアリアさんが優しく教えてくれた』って、とても嬉しそうに」


その言葉に、アリアの胸が温かくなった。マリが自分のことを家族に話してくれていた。それも、嬉しそうに。


奥の部屋からか細い声が聞こえた。


「お母さん、誰か来てるの?」

「マリよ、アリアさんが来てくださったのよ」


ベッドで休んでいたマリが、母親の言葉に驚いて身を起こした。髪が乱れ、頬が熱で赤く染まっている。それでも、アリアの姿を見ると嬉しそうに微笑んだ。


「アリアさん!なんでわざわざ...」

「心配だったんです。具合はいかがですか?」


マリの目に涙が浮かんだ。

「ありがとうございます。こんなに心配してもらえるなんて...」


アリアがスープを手渡すと、マリは一口すすって、にっこりと笑った。


「すごく美味しいです。心が温まります」

「良かった。早く元気になってくださいね」


しばらく家族と談笑した後、夕方になると母親が夕食の準備を始めた。


「アリアさん、もしよろしければ夕食もご一緒に...」

「いえ、お気遣いなく」

「お願いします」マリが弱々しくも熱心に頼んだ。「せっかく来てくださったのに...」


トムも「お姉ちゃんと一緒に食べよう」と人懐っこく笑った。


母親の手作りの質素だが温かい夕食を囲みながら、アリアは久しぶりに家族の温かさを感じていた。孤児院以来、こんなに和やかな食事の時間を過ごしたことはなかった。


トムはアリアに懐いて、工場での仕事の話に目を輝かせて聞き入った。


「ねぇお姉ちゃん。感情結晶って、本当に光るの?」


「ええ、とても美しい光よ」アリアが答えると、トムは嬉しそうに手を叩いた。


「僕も大きくなったら、お姉ちゃんみたいに工場で働きたいな」

「トムは頭がいいから、きっと立派な職人になれるわ」母親が優しく髪を撫でた。


母親は感謝の気持ちを何度も口にした。

「マリがこんなに良い方に出会えて...本当にありがとうございます」


夕食を終えると、マリの母親が申し訳なさそうに言った。


「アリアさん、本当にありがとうございました。お忙しいのに、わざわざお見舞いまで来ていただいて...」

「とんでもありません。こちらこそ、温かくもてなしていただいて」

「トム、もう寝る時間よ」母親が弟に声をかけた。

「もう少しアリアお姉ちゃんとお話ししたい」トムが甘えるように言ったが、母親に諭されて素直に寝室に向かった。

「おやすみなさい、アリアお姉ちゃん!」

「おやすみ、トム」アリアが手を振ると、トムは嬉しそうに駆けていった。


母親も「早めに休みますね」と言って奥の部屋に引き下がった。

アリアとマリは小さな居間で二人きりになった。

夜の静寂が家を包み、窓の外には満天の星空が広がっていた。

どちらからいうこともなく、二人は自然と外に出て満天の星空を眺めることにした。


「アリアお姉さん」マリが星空を見上げながらぽつりと話し始めた。

「実は...私、嘘をついてました」

「嘘?」


マリの表情が急に深刻になった。熱でぼんやりしていた目が、はっきりとアリアを見つめている。


「私の家、すごく貧乏なんです。お父さんは去年亡くなって、今はお母さんが内職をしてるけど、それだけじゃ全然足りなくて...」


マリの声が震えていた。その震えが、アリアの心にも伝わってくる。


「私も感情結晶は作れるんですけど、まだ純度が低くて、売ってもほとんどお金になりません。だから精製技術を覚えて、少しでも純度の高い結晶を作れるようになりたいんです」


「マリさん...」


「早く一人前になって、家族を楽させてあげたい。お母さんとトムに、もっと良い生活をさせてあげたいんです」


マリの頬に涙が伝った。その涙が、星明かりに濡れて光っている。


「でも私、不器用だから、なかなか上達しなくて。みんなに迷惑をかけてるんじゃないかって、いつも不安で...」


アリアは胸が締め付けられた。この子は家族のために、こんなにも必死に頑張っていたのだ。


「マリさん、あなたは迷惑なんかじゃありません。一生懸命で、心が優しくて...あなたみたいな人と出会えて、私の方こそ嬉しいです」


「アリアお姉さん...」


「家族のために頑張るあなたを、私は心から尊敬します」


マリがアリアの手を握った。その手は熱があるせいで温かかったが、それ以上に心の温かさが伝わってきた。


「でも...アリアお姉さんにも家族はいるんですか?」


アリアは少し迷った。でも、マリが自分のことを話してくれたのだから...


「私には家族がいません。物心ついた時から一人でした」


「そんな...」


「孤児院で育って、十四歳の時に一人暮らしを始めました。だから家族のために頑張るマリさんが、とても眩しく見えるんです」


アリアの声が少し震えた。こんなに深いことを話すのは、初めてだ。


「私も...誰かに必要とされる存在になりたくて。でも、いつも一人で...」


「アリアお姉さん」マリがアリアを見つめた。「私にとって、アリアお姉さんは本当のお姉さんです。家族です」


その瞬間、アリアの心の壁が大きく崩れた。五年間築き上げてきた防御が、マリの純粋な言葉によって一気に崩れ去った。


「ありがとう、マリさん。私も...あなたを妹のように大切に思っています」


二人は静かに微笑み合った。星空の下で、本当の絆が生まれた瞬間だった。


「私でよろしければ、できる限りお手伝いします。一緒に頑張りましょう」


マリの顔に、今まで見たことのないような明るい笑顔が浮かんだ。


「ありがとうございます。アリアお姉さん」


そして、窓の外の星空を見上げながら、アリアは勇気を振り絞った。この子になら、本当のことを話せるかもしれない。この子なら、自分を受け入れてくれるかもしれない。


「マリさん」アリアが意を決したように口を開いた。「あなたにだけは、本当のことを話したくて...」


「本当のこと?」マリが振り返った。


アリアは深く息を吸った。五年間、誰にも明かしたことのない秘密。でも、この子になら...


「実は私...普通の人とは違うんです」


「違うって?」


「普通の人は喜悦結晶や悲哀結晶、怒怒結晶といった様々な感情結晶を作ることができます。でも...」


アリアは言葉を選んだ。心臓が激しく鼓動している。


「でも私は...憎悪結晶しか作れないんです」


マリの目が大きく見開かれた。


「憎悪結晶?でも、それって...」


マリの声は小さく震えていた。憎悪結晶という言葉が持つ恐ろしさを本能的に理解しているからこそ、でも同時に好奇心も感じているようだった。


「はい。憎悪という感情の結晶です。普通の人には作れない、危険な結晶を」アリアの声が震えた。「だから五年間、ずっと隠して生活してきました」


「そうだったんですか...それで、いつも一人で悩んでいたんですね」


マリの声に非難はなく、ただ心配の色が浮かんでいた。その反応に、アリアは少し安堵した。


「見せてもいいですか?」アリアが手のひらを差し出した。「でも、絶対に触らないでください。危険ですから」


マリは息を呑んで頷いた。恐怖と好奇心が入り混じった表情で、じっとアリアを見つめている。


アリアが目を閉じ、深く集中する。すると、手のひらの上に小さな深紅の結晶が浮かび上がった。暗闇の中で、それは不気味に光っていた。まるで血のように赤く、でも美しくもある、矛盾した輝きだった。


「これが...憎悪結晶」


マリは一歩後ずさりしたが、目を逸らすことはできなかった。美しいが、同時に恐ろしい輝きだった。


「...どんな、どんな感じなんですか?」


マリの声はおずおずとしていた。恐怖と好奇心が入り混じった複雑な表情で、言葉を選びながら質問した。


「触ったら...その、何が起きるんでしょうか?」


「工場では、毎日これが混入しないよう必死に感情を抑えています。でも時々、どうしても...」


アリアが手を握ると、憎悪結晶は消えた。その瞬間、マリの緊張も少しほぐれた。


「だから政府が探しているのは、きっと私のような人間です。感情異常者...化け物」


「化け物なんかじゃありません!」マリが強く首を振った。「アリアお姉さんは優しくて、温かくて...私の大切な家族です」


「でも、この力は危険なんです。人を傷つけてしまうかもしれない」


「だからアリアお姉さんは、毎日一人で苦しんでいたんですね」マリの目に涙が浮かんだ。「こんな大変なことを、ずっと一人で...」


「マリさん...」


「私は絶対に誰にも言いません。約束します」マリがアリアの手を握った。「これからも、ずっとアリアお姉さんの味方です」


アリアの目からも涙がこぼれた。初めて秘密を打ち明けることができた。そして、受け入れてもらえた。


「ありがとう、マリさん。あなたがいてくれて...本当に良かった」


二人は静かに抱き合った。星空の下で、真の信頼が生まれた瞬間だった。


「でも、もし政府の人たちが来たら...」マリが不安そうに呟いた。


「その時は...」アリアは微笑んだ。「でも今は、あなたがいてくれるから大丈夫です」


「はい。私たち、本当の姉妹ですから」


その夜、アリアは人生で初めて味わう解放感に包まれていた。


家に帰る道すがら、満天の星空を見上げながら、アリアは静かに涙を流していた。それは悲しみの涙ではなく、安堵と感謝の涙だった。


五年間...いや、物心ついてからずっと、自分だけが抱えてきた秘密。誰にも理解されることはないと思っていた異常な能力。それを初めて、本当に初めて誰かと共有することができた。


「受け入れてもらえた...」


マリの「化け物なんかじゃありません」という言葉が、心の奥深くまで響いていた。これまで自分を責め続けてきた長い年月。でも今夜、初めて自分を肯定してもらえた。


「私にも...理解してくれる人がいる」

「ありがとう、マリさん...」


人生で初めて、アリアは本当の意味で幸せを感じていた。

心の中にあった重い石が、ようやく取り除かれたような軽やかさだった。明日からはもう一人じゃない。秘密を共有できる家族がいる。

明日からの毎日が、少しだけ明るく見えた。

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