初めての妹
その日の朝、アリアはいつもより五十分早く目を覚ました。寝つきが悪かったせいか、まだ頭がぼんやりしている。小さな部屋の窓から差し込む朝の光が、壁の悲哀結晶の鏡をほんのりと青く照らしていた。
五年前に初任給で買った鏡だった。憧憬結晶の鏡のように理想の姿を映すわけではないが、ありのままを映してくれる。嘘のない鏡を選んだのは、せめて自分の顔だけは本当のものを見ていたかったからかもしれない。
洗面台の前に立つと、鏡には十九歳の女性が映った。栗色がかった茶髪が肩まで流れ、寝癖で少し跳ねている。大きな茶色い瞳は、いつも少し不安げだ。小さな卵型の顔に刻まれた表情は、昨夜からの緊張を物語っていた。
髪をそっと手で整えながら、鏡の中の自分に話しかけた。独り言の癖は、五年間の孤独が育てたものだった。
「今日は新人さんが来る」
眉間にわずかな皺が寄る。
「指導を任されるなんて...私で大丈夫かしら」
声に出すと、不安がより現実的に感じられる。髪を後ろで結びながら、深く息を吸った。工場長の信頼は嬉しいけれど、自分のような秘密を抱えた者が人を指導するなんて。
鏡の中の自分と見つめ合う。その瞳の奥で、何かが揺らめいていた。
「きっと、その人も不安だと思う。新しい職場で、知らない人たちの中で」
自分の五年前を思い出した。初めて工場に来た時の、息ができないほどの緊張と恐怖。あの頃の自分にとって、優しく声をかけてくれる先輩がどれほど心の支えになったか。
「私にできることがあるなら、ちゃんとやってあげよう」
表情が少しずつ穏やかになる。眉間の皺が消えて、控えめな微笑みが浮かんだ。人のために何かをする。それは、自分の存在価値を確認できる貴重な機会でもあった。
茶色のエプロンドレスに袖を通す。質素だが清潔で、アイロンもきちんとかけてある。身だしなみを整えることで、少しずつ心も整っていく。
「今日も平穏な一日でありますように」
いつものように自分に言い聞かせる。この五年間、毎朝続けてきた呪文のような言葉だった。
(大丈夫)
心の中で繰り返す。大丈夫。きっと大丈夫。
部屋を出て、石畳の道を工場に向かって歩き始めた。足音を数えながら、今日という新しい一日に向き合っていく。
工場に着くと、いつもより早い時間だというのに、ブラウン工場長が既に正門で誰かを待っていた。朝の霧の中に、その温和な笑顔がぼんやりと浮かんでいる。アリアが近づくと、工場長の隣に十六歳ほどの少女が立っているのが見えた。
短い茶色の髪を耳の後ろに束ね、大きな瞳を緊張で見開いている。手に小さな鞄を握りしめ、時々不安そうに工場の建物を見上げていた。その仕草に、アリアは自分の初日を重ね合わせた。
「おはよう、アリア」工場長が振り返った。「紹介しよう。こちらがマリ・アンダーソンちゃんだ」
少女が慌てたように向き直る。その動きの中に、幼さと必死さの両方が見て取れた。
「は、初めまして!マリです!よろしくお願いします!」
声が少し上ずっている。早口で、息継ぎを忘れそうなほど一気に言い切った。アリアは穏やかに微笑んで軽く頭を下げた。昨日の朝の決意が心を支えてくれている。
「アリア・ヴォーンです。よろしくお願いします」
声のトーンを意識的に落ち着いたものにした。相手の緊張をほぐすために。
「アリア、マリちゃんの指導をお願いします」工場長が言った。
「はい。精一杯やらせていただきます」
マリがぱっと顔を明るくした。その表情の変化が素早く、まるで花が開くようだった。
「アリアさん!すごく優しそうな方で安心しました。感情結晶の精製って難しそうで、朝から緊張しっぱなしで」
その自然体の明るさに、アリアは少し驚いた。五年間、同僚たちとは当たり障りのない会話しかしてこなかった。こんなに率直に、屈託なく話しかけられるのは久しぶりだった。この子は、心に壁を作ることを知らないのかもしれない。
「最初は誰でも緊張するものです。丁寧にやれば必ず上達しますから」
アリアは自分の作業台にマリを案内した。歩きながら、マリが工場内をきょろきょろと見回している様子を横目で見る。その好奇心に満ちた表情が、なぜか心地よかった。
「精製作業のコツは、結晶に無理な力を加えないことです」
アリアは手にした喜悦結晶を見せながら説明した。黄金色の結晶が朝の光に美しく輝いている。マリの瞳がその光を映して、きらきらと光った。
「感情結晶は繊細なので、優しく扱ってあげてください。この工場では、他の地域で生成された結晶を精製して品質を向上させるのが仕事です」
マリは真剣な表情で頷いた。眉を少しひそめて集中している姿が、どこか愛らしい。
「なるほど...アリアさんって、すごく分かりやすく教えてくれますね」
その言葉に、アリアの胸が少しだけ温かくなった。人に褒められることに慣れていない自分にとって、素直な感謝の言葉は新鮮だった。
「まずは工具の使い方から覚えましょう」
アリアは精製用の小さなやすりを手に取った。持ち方、角度、力の入れ具合。一つ一つを丁寧に説明していく。
「これで結晶の表面の不純物を取り除きます。力を入れすぎると欠けてしまうので、軽く撫でるように」
マリが工具を受け取って、慎重に結晶に当てた。最初はぎこちなかったが、アリアの指導を受けながら少しずつコツを掴んでいく。その集中した横顔を見ていると、なぜか胸がきゅんとした。
「上手ですね。その調子です」
「本当ですか?嬉しいです!」
マリの屈託のない笑顔に、アリアは思わず微笑み返した。
近づきすぎてはだめ。それが五年間の経験で学んだ、唯一の安全策だった。
昼休みになると、アリアはいつものように少し離れた場所で一人、弁当を食べた。マリは他の職員たちと一緒に食事をしている。その明るい笑い声が中庭に響いていた。
「あの子、すぐにみんなと打ち解けたんだな」
コリンの声が聞こえる。
「ああ、人懐っこい子だよ。アリアが丁寧に教えてくれてるから、安心してるんだろう」
自分の指導が役に立っている。それは嬉しいことだった。でも、マリが他の人たちとも自然に接している姿を見ると、なぜか少しだけ寂しさも感じる。
午後の作業でマリが工具を落としてしまった時、アリアは静かに拾って手渡した。
「ありがとうございます。アリアさんって、いつも落ち着いていらっしゃいますね」
「慣れですよ」
アリアは短く答えて、自分の作業に戻った。親しくなりすぎるのは危険だった。でも、その冷たい態度をとる自分が嫌でもあった。
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三週間が過ぎると、マリの技術は目に見えて向上していた。
「マリさん、随分上達しましたね」
「アリアさんのおかげです!最初は全然だめだと思ったんですけど」
マリは嬉しそうに自分の作業した結晶を見つめた。まだ完璧ではないが、確実に進歩している。その成長を見守ることができるのは、アリアにとって新しい喜びだった。
「でも、他の方と比べるとまだまだで...」
マリの声に少し落胆が混じった。
「そんなことありません。マリさんの作業、とても丁寧で心がこもっているんです。技術は後からついてくるものですから」
「アリアさん...」
マリがアリアを見つめた。その眼差しには素直な感謝が込められている。そして、それ以上の何かも。信頼。憧れ。尊敬。
「私、アリアさんみたいになりたいです。いつも冷静で、頼りになって」
「そんな...私なんて全然立派じゃありません」
アリアは慌てて視線を逸らした。こんなに純粋に信頼されると、罪悪感が胸を突き刺す。自分はこの子に嘘をついている。毎日、毎日嘘をついている。
四週間目のある昼休み、マリが一人で弁当を食べているのを見かけた。他の職員たちは別の場所で食事をしているようだった。いつもの明るい笑い声は聞こえない。
アリアは迷った。普段なら関わらずにいるところだが、マリの一人でいる姿が気になった。でも近づくのは危険でもある。距離を保つ。それがルールだった。
結局、アリアは自分の場所で弁当を食べ続けた。でも時々、マリの方に視線が向いてしまう。その横顔が、なぜかとても寂しそうに見えた。
四週間目の金曜日、マリが残業を申し出た。
「残業?なぜ?」
「もう少し練習したいんです。私、今日もまた結晶を欠けさせちゃった。アリアさんの迷惑にならないよう、もっと早く技術を身につけたくて」
よく見ると、精製作業用の工具を持つマリの手が微かに震えている。緊張しているのか、それとも疲れているのか。
「大丈夫です。最初はみんなそうですから」
アリアは優しく声をかけた。
「他の人みたいに上手くできない...私、向いてないのかな」
マリの声に深い落胆が滲んでいた。その声音が胸を締め付ける。アリアは思わず手を伸ばしそうになったが、寸でのところで止めた。近づいてはいけない。でも、このまま見過ごすこともできない。
「マリさんの作業には心がこもっています。それが一番大切なことです」
「アリアさん...」
マリが顔を上げた。その瞳に涙が浮かんでいる。大きな瞳いっぱいに溜まった涙が、今にもこぼれそうだった。
「ありがとうございます。アリアさんがいてくれて本当に良かった」
その言葉に、アリアの心の壁が少し揺らいだ。五年間築き上げてきた氷のような壁に、小さなひびが入っていく。この子は本当に純粋で、一生懸命で...
でも同時に、恐怖も感じていた。もしこの子が自分の秘密を知ったら、きっと離れていってしまう。この温かさも、信頼も、全て失ってしまう。
「無理をしてはいけませんよ」
アリアは絞り出すように言った。声が少し震えた。
「大丈夫です。アリアさんも残ってくださるんですよね?」
マリの期待に満ちた眼差しに、アリアは頷くことしかできなかった。断る理由も、断る勇気も見つからなかった。
その日の夜、二人だけになった工場で、マリはアリアに話しかけた。月の光が窓から差し込んで、工場内に長い影を作っている。
「アリアさんと話してると安心するんです。お姉さんがいたら、こんな感じかなって思います」
その言葉にアリアの心は大きく揺れた。お姉さん...私が誰かのお姉さんに...
物心ついたときから一人で育った自分には、兄弟姉妹という存在がどんなものか分からない。でも、この温かい気持ちがそれなのだろうか。
「私もアリアさんみたいになりたいです。いつも冷静で、頼りになって」
「そんな...私なんて全然立派じゃありません」
心の中では、もっと複雑な感情が渦巻いていた。この子を守りたい。この子の笑顔を守りたい。でも、近づけば近づくほど、傷つけてしまう可能性も高くなる。
「そんなことないですよ!私、アリアさんを尊敬してます」
この子にとって、私は頼れる存在なんだ。誰かに本当に必要とされている。
次の週のある日の午後、事件が起きた。
マリが精製中の結晶を床に落として割ってしまったのだ。黄金色の喜悦結晶が作業台から滑り落ち、石の床に当たって粉々に砕け散った。鋭い音が工場内に響く。
「あ...」
マリは青ざめて立ちすくんだ。周りの作業員たちの視線が一斉に集まる。手が震えて、持っていた工具を落としそうになった。
「おい、新人!何やってるんだ!」
ベテラン作業員のコリンが怒鳴った。普段は温厚な彼も、貴重な結晶が無駄になったことに苛立ちを隠せない。
「あれは高品質の結晶だったんだぞ。一体いくらの損失だと思ってる!」
「すみません、すみません!」
マリは涙目で謝り続けた。その声は震えて、今にも泣き出しそうだった。
「謝って済む問題じゃないだろう。ミスも多いし、本当に向いてないんじゃないか?」
別の作業員のハリーも加わった。普段なら優しい彼も、作業の遅れにイライラしていた。
「そうだよ。こんなに不器用じゃ、工場の足手まといだ」
「家が貧乏だからって同情で雇ってもらったのに、これじゃあ恩を仇で返してるようなもんだ」
周りの職員たちからも厳しい声が上がる。マリの顔が真っ青になった。唇をかみしめて、必死に涙をこらえている。
アリアは冷静に状況を見極めてから、静かに前に出た。心臓は激しく鼓動していたが、表情は落ち着いていた。
「コリンさんの仰る通りです」
アリアの意外な言葉に、マリが驚いて顔を上げた。他の作業員たちも困惑した表情を見せる。まさかアリアまでマリを責めるのかと思ったのだ。
「確かにマリさんには経験が足りません。でも、それはコリンさんのような熟練の職人の方々にご指導いただけるからこそ、きっと上達できると思うんです」
コリンの表情が少し和らいだ。怒りの矛先を向けられると思っていたのに、持ち上げられて戸惑っている。
「コリンさんでしたら、結晶の扱い方の細かいコツもご存知でしょうし」アリアは相手を立てるように続けた。「私なんかより、ずっと的確な指導ができるはずです」
「まあ、確かに俺は二十年やってるからな...」
コリンが得意げに胸を張った。先ほどまでの怒りが、誇らしさに変わっている。
「そうです。工場長も『みんなで新人を支えるように』と仰っていましたし、マリさんの成長は私たち全員の責任だと思います」
周りの作業員たちの雰囲気が変わってきた。責める側から指導する側へと、立場が自然に変化している。アリアの言葉が、場の空気を完全に変えていた。
「それに」アリアは振り返ってマリを見た。「マリさんの結晶への向き合い方は、とても丁寧で心がこもっています。技術は後からついてくるものですから」
「そうだな...」ハリーが頷いた。「俺たちだって新人の頃はミスばかりしただろう」
「確かに。最初はみんな同じようなもんだった」
「マリさん」アリアは優しく声をかけた。「コリンさんに結晶を持つ時の手の角度について教わってはいかがですか?私もまだまだ勉強中ですから、一緒に教えていただきたいです」
コリンが少し照れたように咳払いをした。
「まあ、教えてやらんこともないが...」
「お願いします」マリが涙声で頭を下げた。
「よし、じゃあまず基本から教えてやろう」
コリンが工具を手に取る。先ほどまでの怒りは完全に消えて、今度は指導者としての誇りが表情に現れていた。
「結晶ってのはな、力で押さえつけるもんじゃない。こう、優しく包み込むように...」
その時、ブラウン工場長が現れた。
「どうしたんだ、みんな集まって」
「工場長、マリちゃんが結晶を割ってしまったんです」ハリーが説明した。「それで、コリンがコツを教えているところで」
工場長はマリとアリアを見て、それから指導しているコリンを見た。
「そうか。コリン、頼もしいな。ベテランの技術を伝承してくれるのは有り難い」
コリンがさらに胸を張った。
「マリちゃん、怪我はないか?」
「は、はい...大丈夫です」
「それなら良かった。結晶はまた作ればいい。人は替えがきかないからね」
工場長の優しい言葉に、マリの目に涙が浮かんだ。
「みんな、仕事に戻ろう。コリン、指導をよろしく頼む」
「お任せください、工場長」
マリの安堵した笑顔を見て、アリアも静かに微笑んだ。大切な人を守ることができた。それで十分だった。
休憩時間になると、マリがアリアの元にやってきた。
「アリアさん、ありがとうございました」マリが深く頭を下げた。「私、もうだめかと思いました。でもアリアさんが...」
「大丈夫ですよ。コリンさんたちも本当は優しい人たちですから」
「でも、アリアさんがいなかったら...」マリの目に涙が浮かんだ。「本当に、本当にありがとうございます」
「マリさん」アリアは優しく微笑んだ。「私たちは仲間ですから。困った時はお互い様です」
その瞬間、マリの表情が明るくなった。まるで太陽が雲間から顔を出したような、これまでで一番美しい笑顔だった。
その夜、家に帰ったアリアは自分の部屋で悲哀結晶の鏡を見つめていた。鏡に映る自分の表情は複雑だった。嬉しさと不安が混じり合って、どちらが本当の気持ちなのか分からない。
マリの優しさが嬉しい。あの純粋な笑顔が、心の奥を温かくしてくれる。でも近づきすぎるのは危険だ。この子を傷つけるわけにはいかない。
「どうすればいいんだろう」
鏡の中の自分に問いかけたが、答えは返ってこなかった。ただ、心の片隅で小さな声が囁いている。
もしかしたら、この子なら...
もしかしたら、本当のことを話しても...
アリアは顔を振った。
だめだめ。このことは考えないようにして、早く寝ないと。
しかし、その夜はなかなか寝付けなかった。
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