第11話 カレーと肉じゃが「姉妹」
レアリスとの戦闘後に、運ばれた医療室で鏡花は目を開ける。
視界には、見慣れない白い天井が広がっていた。
上半身を起こそうとした瞬間——。
「っ……!」
脇腹に電撃のような痛みが走った。
思わず声が漏れ、布団の端を握りしめる。
その痛みに
無意識に顔をベッドに埋め、恐怖と苦痛に耐える。
じんわりと汗が滲み、荒い呼吸がシーツを湿らせていく。
しばらくして痛みが引いた頃、鏡花は壁のパネルに目をやった。
【09:30】
……もうこんな時間?
思考が整うより先に、身体が反射的に動き出す。
脇腹が内側から引き裂かれるように叫びを上げた。
つかんだベッドの柵が軋むほど、指に力が入る。
起き上がった鏡花は、そっと足をベッドの外へ滑らせた。
その時、AIの警告音が鳴ったがそれさえ雑音のように遠くに感じた。
床に足が着いた瞬間、全身がぐらりと揺れる。
「エリスの……朝ごはん、作らなきゃ…….」
呟きは、痛みと共に吐息に混ざって消える。
そして、鏡花はゆっくりと前に進んだ。
「エリス、きっとお腹すかせてるもんね……」
そんな、彼女の小さな背中を支えているのは——誰かのための習慣だった。
ふらつく足取りで歩いていた鏡花は、ようやくエスルームの扉を開く。
脇腹を庇うように中へ入ると、ソファにちょこんと座る小さな影が、静かにこちらを見ていた。
——エリスだ。
両腕で人形をぎゅっと抱きしめながら、その大きな瞳で鏡花の姿を見つめている。
「……おはよう、エリス」
それに、エリスが小さい声で答える。
「鏡花ちゃん、おはよ……」
あれ、駆け寄ってこない……?
ソファのクッションに沈み込んだままの小さな体。
それは、彼女なりに“なにかを察した”証でもあった。
その小さな違和感に、少し首を傾げた鏡花は無言でキッチンに向かい、朝食の準備を始める。
包丁の音、鍋の音だけが、広い部屋に気まずく響いた。
「肉じゃが、できたよ」
「うん、たべる」
食事ができあがり、テーブルに二人は並んで座る。
けれど、会話はない。
エリスが小さなフォークでジャガイモをつついていた。
やがて、エリスがおずおずと一枚の紙を差し出す。
昨日描いていた絵だ。
「……これ、鏡花ちゃん」
エリスが差し出したその絵を見て、鏡花の手が一瞬止まる。
太陽のまわりで手をつなぐ家族たち。
みんな笑っていてそこには自分もいた。
あれ……? 笑って答えてあげなきゃ……せっかくエリスが頑張って書いたのに。
嬉しいはずなのに、喉の奥がずしりと重くなる。
自分は、あの輪の中にずっといられるだけの力を持っているんだろうか。
“才能のない私”。
いつか、違う部屋に移されてしまうかもしれない私。
そんな私が、この絵の中にいていいのかな……?
そう思った瞬間、絵の中の世界が、どこまでも遠く感じられた。
ごめんエリス……なんだか今の私、皮肉だ。
「……うん、ほんとに上手」
鏡花は、そう言って笑ってみせた。
けれど、自分でもわかるほどぎこちない笑顔だった。
ああ、もっと喜んであげなきゃなのに……。
頭ではわかっている。でも、心が追いつかない。
鏡花から出たのは、それだけの言葉だった。
エリスはしょんぼりと絵をしまい、また黙々と肉じゃがを食べ始める。
……やってしまった。
鏡花は胸の奥に広がる後悔を押し込めるように、そっと唇を噛む。
食べ終わったことで、空になった皿へと視線を落とす。
エリスの今の表情を、直視することができなかったからだ。
ほとんど会話が交わされずに終わった朝食の後、洗い物をしてる鏡花に声がかかる。
「鏡花ちゃん、その、合同訓練に行ってくるね」
鏡花は明らかに気を遣われていた。
「……うん、いってらっしゃい」
部屋を出て行く元気のない小さな背中。
それを見送る鏡花は、心配よりも焦りを抱えていた。
エリスは、もう合同訓練まで始めてる……。
一人きりになった部屋を見渡して、鏡花は壁際に背を預け、ぎゅっと目を閉じる。
できることなら、このまま座り込んでしまいたい。
それでも彼女は、その衝動を必死でこらえた。
自分が気を遣ってあげられないのに、エリスに気を遣わせてしまう不甲斐なさ。
C評価の烙印からくる、焦り。
落ち込んでいた、エリスの背中。
そのすべてが、彼女を追い詰めていく。
「……やらなきゃ」
箱庭を起動した鏡花に、電子音声が即座に反応を示した。
『被験体S03-1の身体は、戦闘許容値を超えています。訓練は許可できません』
鏡花は、かすれるように応じた。
「いいから……始めて」
その言葉と共に、音声モニターへノイズが生じる。
『何をそんなに焦っているのですか?』
「……あの部屋に残るためには、今のままじゃダメなんだ」
『エスルームは確かに、全員が能力的に優れた被験体で構成されています。その分、与えられる任務はより命懸けのものになります。それを理解したうえで、なお望むのですか?』
「……そんなのわかってる」
それを、わかっているからこそ。
鏡花の声に、わずかに熱が混じる。
『でしたら、他の部隊に配属された方が己の身を守るためには、よろしいのではないのですか?』
「……大切な人たちが戦ってるのに、自分だけ楽な場所には行けないよ」
『その想いがときに、大切な人たちの足を引っ張る可能性もありますよ』
「だから……! そうならないように今……」
頑張っている。鏡花はその言葉を飲み込む。
いや、そんなのは、ただの言い訳だ。
間を埋めるために、彼女は言葉を続ける。
「……それにエリスだって、いずれは戦場に出される」
『被験体エリス。確かに、彼女の実力であれば、貴方より早く前線に配属されるでしょう。ですが——』
その一言が、鏡花の中の何かを静かに凍らせた。
頭が真っ白になり、なにも聞こえてこない。
ただ、冷たい恐怖が背を這う。
「……そう。なら、お姉ちゃんも頑張らないと、だね」
鏡花からでた言葉は、自分を奮い立たせるような呟きだった。
「レアリスとの戦闘訓練、始めて。……これは命令だよ」
『命令ですか、了解しました。』
AIは短く応答を返し、それに従う。
——再び現れる、灰に沈んだ都市の訓練場。 目の前に、青髪の少女・レアリスが顕現する。
「今度こそ……」
鏡花は痛む身体に、鞭を打って炎を放つ。
だが、焦りに任せた攻撃は精度を欠き、ことごとくかわされる。
(もう一度だけ、あの時みたいに……)
前回、奇跡のように一度だけ成功した“
それが再び起きると信じて。
——いや、そう信じなければ、もう立っていられなかった。
その執念が、もはや訓練ではなく、自傷行為に近いものへと変わっていく。
レアリスとの戦闘は、何度も、何度も繰り返された。
炎を放ち、かわされ、倒される。
そのたびに、すぐに立ち上がった。
ただ、その繰り返し。
それがどこまでも果てしなく遠い道のりに思えた。
鏡花の動きは徐々に鈍くなり、意識は霞み、呼吸は細くなっていく。
彼女はそれでも戦闘を止めない。
この痛みが限界の証なら、限界なんてとっくに超えていた。
そして、何度目かもわからない敗北の末、無表情の少女に見下されながら、地に伏してる鏡花。
暗転する孤独な世界で、静かに疑問をもった。
なんで、みんなと違って私はこんなにも弱いの……?
* * *
どれほどの時間が経ったのか。
よろよろとおぼつかない足取りでエスルームの扉を開くと、そこには、静かに立つエリスの姿があった。
その瞳は、心配と悲しみで潤んでいる。
「鏡花ちゃん……! もうやめてよ……。
そんなに、ぼろぼろになって……エリスそんな鏡花ちゃん、みたくない」
駆け寄ってきたエリスが、心配そうな瞳を浮かべながら鏡花の服の裾を掴む。
その澄んだ瞳が、今の鏡花には耐えられなかった。
強者の余裕。天才の同情。
そう感じてしまった。
「みたくない……?」
鏡花の声が、震えた。
彼女の心の中で怒り、悲しみ、嫉妬が混ざりあう。
「エリスにはわからないよね……出来損ないが、どれだけ努力しなきゃいけないかなんて……」
「違う!! 鏡花ちゃんは出来損ないなんかじゃない!!」
「何も違くない!! 私がどれだけ惨めな思いをして、血反吐吐きながら足掻いてるかなんて……」
——やめて。
言っちゃダメだ。
でも、彼女は止まれなかった。
「あなたに何がわかるの…… 何もせずにAを取れる人に、Cの気持ちなんてわからない……」
エリスの唇が小さく震え、潤んだ瞳が大きく揺れる。
そして、言ってはいけない言葉が
「天才のエリスには、わからないんだよッ!!」
エリスの小さな体がビクッと震えた。
掴んでいた服の裾から、そっと手が離れていく。
……静寂。
エリスは何かを言おうと口を開きかけたが、言葉が見当たらない。
代わりに、大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
そして、か細い声で呟く。
「……ごめ、なさい……」
それだけを残し、エリスは踵を返し、自室の扉の向こうへと消えた。
バタン、と閉まるドアの音が、鏡花の胸を押し潰すように響く。
しんと静まり返った部屋。
鏡花は立ち尽くす。
……ああ、私はなんてことを……。
最も傷つけたくなかったはずの、大切な妹を自分の手で——。
胃から逆流してくるなにかのせいで、息ができない。
この部屋に、もう自分がいていいのかすらも、わからなくなっていた。
そして、その場から逃げるように踵を返す。
いっそ、このまま……。
鏡花は、まるで夢遊病者のように、再び「箱庭」へと歩き出す。
心の痛みを消し去るため。
自分を罰するように。
『バイタル、危険域です。繰り返します──』
AIの声はもう届かない。
箱庭の深い闇に、光のない瞳の少女が静かに吸い込まれていった。
* * *
二度目の白い天井。
鏡花はもう何も考えない。
ただ、自分の義務を果たすために壁を伝う。
必死で扉に向かって歩く鏡花に向かって電子音声が冷たく声をかける。
『被験体A136199。現在の貴方との接触は情緒的リスクが高いと判断し、こちらでS6の元へと移送しました』
「エリスを……ソイル兄さんの元へ……?」
言葉を言い終わるより早く、鏡花の身体は動いていた。
痛みを忘れて走り出す。
エスルームの扉が開いた瞬間、鏡花は息を呑む。
いつもなら、温かい光に満ちているはずの空間。
それが今は、薄暗い闇に沈んでいたからだ。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく響く。
毎日、当たり前のように迎えてくれるエリス。
いつもそこに在ったはずの温もりも、何もかもがこの場所から消え失せていた。
「誰もいない……」
ここにはもう、誰もいない。
その事実が、鉛のように重くのしかかる。
彼女は今、人がいない空間に息苦しさを感じていた。
薄暗い部屋。
机の上にぽつんと残された家族の絵。
太陽のまわりを囲むように並ぶ手を繋いだ兄姉たち。
鏡花はそれを両手で、大切なものを扱うように抱きしめると、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「私のせいで……」
脳裏には、大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼれ落とす、エリスの表情が強く蘇る。
「みんないなくなっちゃった……」
鏡花は涙も流せなくなっていた。
そんな彼女は、現実でさえ、慰める声も、手も失ってしまった——。
* * *
時は少し
鏡花が仮想訓練に没頭していた頃。
その頃、部屋で枕を濡らしていた少女に、女性の電子音声が優しく問いかけた。
『……エリス、大丈夫ですか?』
「……鏡花ちゃん……おこらせちゃった」
『それは、お辛いですね。今の彼女とは、しばらく距離を置いたほうが良いかと思います』
「でも……それは、いや……」
『あなたが“天才”であることが、彼女を追い詰めているのです』
「……エリスより、鏡花ちゃんの方がずっとすごいもん」
静かに、けれどまっすぐに言い切る。
エリスは、何よりも大切な答えを知りたくて、問いかける。
「……ソル。どうしたら、鏡花ちゃんと仲直りできる……?」
『一度、距離を置くことをおすすめします。あなたには、頼れる兄や姉たちがいるではありませんか』
その言葉に、エリスははっと顔を上げる。
そして、AIであるソルは彼女の望む答えを正確に差し出す。
『必要であれば、ソイル兄さんのところへ移送しますか?』
「……いく!」
そのときのエリスは、まだ知らなかった。
自分のその行動が、鏡花をさらに追い詰めてしまうことを——。
* * *
エリスと離れてから二日がたった。
暗くなった医療室。 もう何度目の天井だろうか。
彼女は“それ”を数えるのをやめていた。
いつものように、感覚の鈍くなった身体を持ち上げる。
だが、自動で開くはずのドアは、沈黙を守ったままだ。
「……開けて」
『これ以上に身体を酷使することは、あなたの“将来”に深刻な影響を及ぼします』
「……将来?」
鏡花は間を埋めるように言葉を続けた。
その声には、熱も冷たさもなく、空洞があった。
「私の将来って……なに?」
『兵器として、戦場でその機能を全うすることです。』
「……そうだね。私たち戦うために生まれたかもしれない」
鏡花は、虚ろな瞳で虚空を見つめながら、その事実を噛みしめるように繰り返した。
「でもね、そんな私たち”兵器“にだって心はある。どうせ逃れられない
音声モニターからの返答はなかった。
ただ、その静けさだけが、彼女の言葉の余韻を飲み込んでいった。
「……私はね、みんなが、私の知らないところでいなくなってしまうのが怖いの」
その言葉と共に、ゆっくりと自分の手のひらへ視線を落とす。
彼女の心を支配していたのは、見えない未来への恐怖。
かつてはこの手で、家族を守れると信じていた。
だが今は、目の前にある手のひらでさえ、見失いかけている。
「一緒に笑って、一緒に怒って、一緒にばかやって……そういう日常が、ある日突然、奪われるくらいなら……”兵器としての将来“なんて、私はいらない」
彼女の声は震えていた。
「この間違いだらけの世界でも、みんなには笑っててほしい。そのために、私は——」
——兵器として戦う。
そう言いかけた瞬間、脳裏に浮かんだのは、大粒の涙を流していたエリスの表情だった。
私が守りたかったはずの家族の笑顔。
なのに……それを壊した。
胸の奥で何かが軋む。
痛い。
それは、レアリスに身体を貫かれた時より、遥かに痛かった——。
鏡花の瞳がその場で大きく揺れ動く。
そこに戦う理由が、まだ残っているかを確かめるように。
もう一つの理由はすぐに光となり蘇る。
リアルリンクで見た、あの光景。 危険を顧みず、ただ一人の少女を救うために向かっていった、あの優しい背中。
あの人が、どんな場所にいても優しくいられる世界。
そのために私は戦うんだ。
あの人を守るために。
——でも、どうやって?
心の奥底から、冷たい声が嘲笑う。
——C評価である出来損ないの貴方が守るの?
そっか、今の私には……何もないんだ……。
守るための力も、資格も何一つない。
見つけたはずの光が、足元から崩れて消えていく。
戦う理由は、もうどこにも見当たらない。
壊れかけた少女はもう涙すら、浮かべなかった。
「だから……」
鏡花はドアに額を押しつけ、体重を預ける。
「邪魔しないでよっ……」
理由など無くても、戦わなければならない。
そんな彼女の奥底から出た想いは、願いだった。
そして、その言葉を合図にしたようにドアが静かに開く。
薄暗い室内に、外の光がそっと差し込む。
それはAIの応答ではない。
外部からの干渉だった。
支えを失った鏡花は、なすすべもなく前方へと倒れ込む。
衝撃を覚悟した、その瞬間。
ふわりと、柔らかな何かに身体が受け止められた。
「おっとと、大丈夫かい?」
聞こえたのは、鈴が鳴るような、可憐な声。
顔を上げると、そこには白髪の少女が立っていた。
月の光を編んだような髪に、サファイアのような青い瞳。
その隣には、月に照らされた静かな湖面を思わせる薄い水色の髪の少女。
二人は心配そうな表情を浮かべて、こちらを見ている。
だが何よりも、鏡花は彼女たちの服の色に目を引かれていた。
二人とも、“白の特殊服”を身にまとっていたからだ——。
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