まつりと神楽、お互いの領域に踏み込む-3

 神楽はいつもの1日を過ごして帰宅し、夕食を作っていた。今晩はまつりがジョギングしたことを受けて、低脂質高タンパクのリカバリーメニューにした。ゆで卵を作り、鶏胸肉を片栗粉をつけて焼き、キュウリとナスを用意して、あとは素麺を茹でるだけという状態でまつりを待つ。


 いつもより遅い時間にまつりが帰ってきて玄関まで迎えに行くと、まつりは玄関に座り込んでしまった。


「もう動けない……」


「どうしたの?」


「筋肉痛……駅からタクシーを使おうかと考えたくらい、筋肉痛」


「それは大変だったね」


「神楽くん、引っ張って……」


「ええええ~ 引っ張るって?」


 まつりは両腕を出す。つまり、立ち上がれないから引っ張り上げて欲しいということらしい。神楽は彼女の手を取って引っ張るが、彼女が立ち上がる気配はなく、単に引っ張られて廊下に横たわる。彼女は神楽に懇願する。


「靴脱がせて」


「なんということでしょう……」


 神楽はまつりの靴を脱がせ、またまつりの両手をとってリビングまで引き摺っていく。こんなことならジョギングにつきあわせなければよかったと神楽は後悔する。どうにかこうにかまつりを椅子に座らせ、素麺を茹でて彼女の前に素麺の皿を置く。彼女はズルズルと音を立てて素麺を食べ、食べ終わるとがっくりと肩を落とした。


「本当に限界なんだね」


「本当に限界です。神楽くん、マッサージしてくれない?」


「えええええええ~~! 僕がまつりちゃんをマッサージするの?」


「お願い……」


 まつりはちらりと顔を上げて神楽の顔色を窺った。窺ったというか懇願の表情を見せている。好きな人にこんな顔をされては神楽はお願いを聞かないわけにはいかない。


 まつりはズルズルと椅子から降りて、リビングのフローリングにうつ伏せになる。何もないのでは痛かろうと神楽はクッションを持って来てまつりの上半身の下に差し込む。神楽も日々走っているだけに、セルフマッサージの基礎知識はある。身体の末端から徐々に上に揉んで、老廃物質を心臓に向けて送り出すのだ。


 今日のまつりはゆるいパンツルックなので、脱がす必要はなさそうだ。


「靴下脱がすよ」


「……う、うん」


 神楽はまつりの靴下を脱がし、まつりの真っ白な足を見て、ちょっとドキリとする。マジマジと見ることはないところだ。足の指が細くて形がよくて、きれいだなと思った。足の爪にも薄くマニキュアをしてあることに気付く。きれいに塗れていてびっくりだ。


 神楽は足の裏を親指で刺激する。足のつぼを思い出しつつ、優しく揉む。


「おお~~きもちいい……」


「それはよかったです」


 まつりの足を揉んであげられるなんてご褒美だと思う。


 足の裏を揉んだ後は足の指も引っ張る。足の指は普段、靴の中に押し込められているから伸ばしてあげるだけで血行が良くなる。


「おお……これは解放感があるね」


「血行がよくなるんだよ」


 続けて踵から足首にかけて揉む。走っていると衝撃を受ける部分なので、ダメージを受けているはずだ。特にまつりは久しぶりに走ったから、疲れを感じていると意識しているに違いない。


 まつりは気持ちよさそうにしていて、無言だった。


 そしていよいよふくらはぎに移る。最初はパンツが邪魔にならないと思ったが、下から上の方にぐーっと血流を押し上げたかったのに、緩いので逆に難しそうだ。


「まつりちゃん……短パンに着替えてきて」


「うーんそれは面倒」


「素足の方がいいんだけどな」


「じゃあ脱がせて」


「え、何を?」


「パンツ」


 衝撃の発言に神楽は凍り付いた。


「あ、いや、忘れて。ごめん! 今のままでできるマッサージにしてよ」


「う、うん」


 神楽は我を取り戻したが、ドキドキはまったく収まらなかった。


 ふくらはぎを下の方からもみ上げ始め、太ももまで到達する。まつりのふとももはふにゃふにゃだが、ラクロスをしていただけあって芯に筋肉が感じられた。


 太もものマッサージだけでかなり刺激的だが、次はお尻になる。さすがのまつりもここは躊躇するのではないかと聞いてみる。


「お尻もマッサージした方がいいの?」


「うん。よろしく」


 まつりに躊躇はない。


 いいのか、いいんだろうかと悩みながらゆるいパンツの上からお尻を揉む。自分でもよくお尻をマッサージするが、自分ではやりにくいところの1つだ。下の方は避けて、お尻のくぼんだところや腰とつながる筋肉をマッサージする。


「うえ~~気持ちいい~~こんなに凝ってるんだ、お尻~~」


 まつりが気持ちよさそうなのでいいとするか、と神楽は自分に言い聞かせる。まつりのお尻は小さくて形がいい。そして弾力がすごい。深くまで指が入る。もしパンツを脱がせてマッサージしていたら、下着だけのまつりのお尻をマッサージしていたわけで、脱がせなくて本当によかったと思う。それこそ一線を越えてしまいそうだ。それでもこの距離の近さ、ゼロ距離をまつりが安心して許してくれるのが、嬉しい。


 お尻が終わると腰だ。腰は走るときにとても重要だ。足の筋肉と腰の筋肉は連動している。だからとても疲れているはずだ。


 神楽は主に指圧をして、まつりの様子を窺う。


 驚いたことに、まつりはマッサージされながらうとうとし始めていた。眠ってくれるならそれはそれでいい。


 神楽は腰を入念に指圧し、肩甲骨の辺りまでマッサージする。ブラ紐が邪魔だが仕方がない。その後、首回りと肩周りをほぐす。ジョギングとは直接関係はないとは思うが、日々、大学の講義できっと肩周りも疲れているはず、と思ったからだ。


 まつりはすっかり眠ってしまった。シャワーも浴びず、着替えもせずに眠るのはあとで起きたときにパニックになってしまうかもしれないが、まつりを起こす気になれない。うつ伏せになって眠るまつりの横顔はとても愛らしい。


 いけないと思いつつ、神楽は自分のスマホでまつりの寝顔を撮る。マッサージした記念だ。この画像を起きたまつりに見せたら、どんな顔をするだろうか。きっと恥ずかしがるに違いない。


 神楽はまつりの部屋からタオルケットを持って来て、彼女の背中にかける。冷房するほど暑くないし、夜中はまだ気温が下がる時期だ。万が一風邪を引いたら大変だ。


 神楽はリビングの照明を落とし、夕食の後片付けを始める。まだまつりは起きず、眠ったままだ。結局、神楽がシャワーを浴びても寝息を立てていたので、神楽はまつりをリビングにそのまま寝かせ、自室で就寝する。さすがにしっかりマッサージをしたのでかなり疲れた。神楽はいい睡眠をとれたのだった。




 まつりが気が付くと窓の外が明るかった。


 最初は自分がどこにいるのか分からず、まつりはパニックに陥った。そして津守の家のリビングだとわかり、少しずつ思い出す。自分がここで神楽と一緒に暮らし始めたこと。普通の生活を取り戻しつつあること。そして昨日、神楽に付き合ってジョギングし、討ち死にし、彼にマッサージして貰ったこと――。


 まつりは時計を見てパニックになる。6時少し前だ。神楽は今日も走りに行っているに違いない。自分は夕食の後片付けもせずに神楽にマッサージをせがみ、そのまま寝落ちし、あまつさえ彼が起きたことにも気付かなかった。


 ずしーんと気持ちが落ち込む。とても保護者のやることではない。どうすれば名誉回復できるだろうか。頭の中を整理するためにもシャワーを浴び、今日出かける服に着替え終わって廊下に出ると、ちょうど神楽がジョギングから帰ってきた。


「おはよう!」


 神楽は朝から元気だった。


「……おはよう」


 体調は回復しているが、まだまつりの心は沈んでいる。神楽が心配そうに聞く。


「どうしたの? 大丈夫? 疲れはとれた? でも歩けているみたいでよかった」


「いや……情けなくって。結局神楽くんにマッサージして貰って、そのまま寝ちゃったんだね」


「よく眠れたみたいでよかったよ」


「疲れは最高の睡眠導入剤だよね……ごめんね。マッサージさせちゃって」


「ううん。まつりちゃんを合法的に触れて僕もうれし……」


 そこまで言って神楽は口を噤んだ。


「……嬉しかった?」


 神楽は首をぶんぶんと横に振った。


「ち、違う。そんなエッチなこと考えてない!」


 神楽はエッチなことを考えてくれていたらしく、まつりはとても嬉しく思う。一気に気持ちが高揚する。 


「あのね、きっと神楽くんも気が付かないだけで疲れがたまっていると思うんだ。だから、神楽くんがマッサージして欲しいときに今度は私がマッサージしてあげるね」


 それがまつりが思いついた挽回の方法だ。


「まつりちゃんが僕を?!」


 神楽はそれだけでもう真っ赤になる。何を想像しているんだろうか。まつりはハッと気付く。男子小学生を女子大生がマッサージするなんて、エッチなイタズラの構図以外の何者でもない。


「……そ、そう。神楽くんがして欲しいなーって思ったときにね。それだけ。他意はないのよ、他意は」


 強調すると余計怪しく聞こえる気がする。


「じゃ、じゃあ、そういう時が来たら……」


 神楽はしどろもどろになって洗面所に入った。これから身体を拭くのだろう。


 ではせめてその間に朝食の準備をしようではないか。


 まつりはヤカンをガスレンジにかけ、冷蔵庫から卵を2個取り出したのだった。

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