第四十八話『蛇からの誘い』

「呉乃殿ですね?」


 斐の邸を出たところで知らない男が突然話しかけてきた。


 呉乃は足を止めて男を観察する。質のいい絹を使った衣服に香り、髭までも綺麗に切り揃えられている。


 ただの平民ではないだろう。かといって貴族にも見えない。確かに上等な格好をしているが足元へ視線をやるとよく磨かれた革製の沓を履いていた。


(貴族の家人かじん近習きんじゅうの者か? だけどひとりで?)


 見るからに怪しい男を一瞥し、呉乃は警戒心を前面に押し出す。


 それでも男は特に気にすることなく既に決められていたかのように袖を合わせて軽く頭を下げた。


「我が主人あるじがお待ちです。どうぞこちらへ」


 言いたいことだけ言って男が歩き出す。あまりにも強引な態度に呉乃は言葉も出ない。


(なんだこいつ。私が無視して帰ったらどうするつもりなんだ。それとも絶対ついてくるって確信があるのか?)


 呉乃を待っている主人とやらは相当な自信家らしい。それとも、呉乃が来ても来なくても、どっちでもいいのか。


 明らかに怪しいしどう考えても罠だ。呉乃は猜疑心でいっぱいになりながらも男の背中を見つめ――やがておずおずと歩き出した。


 好奇心には敵わない。是実に知られれば確実に怒られるだろうが、どうにかなるだろうと楽観的な考えを抱いてついていく。何回か道を曲がり、石敷きの通りに出たところで停まっている牛車が視界に飛び込んでくる。


(あの網代車あじろぐるまは……)


 紋のない車には当然一頭の牛が繋がれているのだが、一目で上等な牛だと分かった。


 よく手入れされた艶のある毛並みと磨かれた角、漆黒の牛の轡には漆の飾りがついており、胸にも艶やかな色合いの房がついている。ここまで案内してきた男とは別に面布で顔を隠した牛飼い童もいる。明らかにただの貴族ではない。


 なんとなく察しがついてしまう。呉乃は腹の下に力を入れて歩き口を引き結んで牛車へと乗り込む。


「ご苦労だったな」


 聴こえてきた声に呉乃は目を見開く。顔をあげるとそこには藤原光経がいた。


 まさかとは思ったが本当にこの男だったとは。牛車の簾が降りて二人っきりとなり、呉乃はなるべく距離を開けて座る。


「こうも素直に来てくれるとは思わなかった。それとも、私が呼び出すことを知っていたのか?」


 ゆるりと余裕をのある態度で光経が問いかけてくる。前から声が聴こえているはずなのになぜか耳元で囁かれるような、奇妙な不快感だ。


 藤原光経。あの男の義理の息子で源斐の宴席にも出席していた。


 ただの女官である呉乃と藤原の次期当主と噂される光経に接点などない。だというのに呉乃は今この男の牛車に乗せられている。


 なにを考えているのだろう。光経の冷たい視線を受けながら呉乃は顔を伏せた。


「とんでもございません。私のような端女がそのような」


「ふむ、ならば誰と分からぬ者からの誘いだというのに乗ってきたのか? 身の危険を感じなかったのか?」


「身の危険は常に感じております。もしもお殿様が私に何か無体をされるとするならばすぐにでも逃げ出す準備もできております」


「案ずるな。そのようなことはせぬ」


 呉乃の失礼な物言いに対して光経は特に怒ることもせず冷たい返事をする。


 威圧感やねばつくような視線は相変わらずだが、思っていたよりも話が通じるらしい。獣というわけではないようだ。


「ではなぜ私のような者をお呼びになったのです。失礼ながら私は藤原の方とはなんの接点もございませぬ」


「ほう、なぜ私が藤原の者だと分かる?」


 光経の切り返しに呉乃は思わず顔をしかめる。迂闊なことを言ってしまった。


 なぜ分かったのか説明はできるがここでそれをすればまた面倒なことになる予感がする。


 しかし黙り込むわけにもいかない。呉乃はおずおずと顔をあげ気まずい表情のまま口を開いた。


「簡単です。推測するまでもありません」


「牛の飾りに我が家の紋が刻まれていたか? 車に使われているものか? ここまで案内してきた男の刺青でも見たか?」


「いいえ、先ほどの宴席で私は光経様のお荷物を預かりましたのでお顔は憶えております」


「……なるほど、言われてみればそれもそうだ。なに、呉乃といったか、そなたに興味があったのだ。だから呼び寄せた」


 思っていたよりもずっと単純な理由に呉乃は眉を顰める。


 同時に光経が身に纏っていた怜悧な雰囲気が和らぐ。


 無邪気、とまではいかないが、どこか子供らしい面影を覗かせ、光経が優美に笑う。


「先の髪盗り鬼の騒ぎ、犯人を捕らえたのは是実だと聞いているが、実際はそなたがあの女房の企みを暴いたそうだな。それに宇季の邸での騒ぎも見事収めたと聞いている。そして此度の宴席での行いだ。大納言の息子を助けるばかりか、源斐の疑いを晴らした」


「私はただ、主人あるじ耳目じもくとなりて動いただけにすぎませぬ」


「ほっ、是実の耳目とな。そなたはあの色狂いの犬よりも格段に優れておるだろう」


 容赦のない言葉に呉乃は顔をしかめる。臣下の前で仕えている主人の悪口とはまさに藤原の者らしい驕りだ。


 自分よりも地位が低い者の部下が反論することなどない。そう思っているのだろう。


 しかし実際言い返せないのは事実だ。ここで呉乃が歯向かえば罰せられるのは主人である是実になる。下手なことは言えない。


 とはいえこのまま黙るのも面白くはない。呉乃は怒りを抑え込んで冷たい顔を作ってみせた。


「確かにあのお方は色狂いではあります。女人のためならばなんの躊躇いなく動くでしょう。そういう意味では犬というのもあながち間違いではないかと」


「良いのか? 仕えている主人に向かってそのような言い草は」


「あのお方のお傍で見ていたからこそ分かることでもあります。ですがそれで言えば宮中の貴族も大して変わりませぬ。帝のため、国のため、家のためと言いますが本心はただ自らの欲を満たすためでしょう。内裏という庭を駆け回り吠え合う様はまさしく犬のよう」


 呆れた調子で言って最後は小馬鹿にするように小さく息を吐く。


 普通に聞けばあまりにも無礼な物言いだが、ここは誰が乗ってるかもわからぬ網代車の中だ。公の場ではなく私的な空間。なにより――

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