第二十九話『母と子の行方』

 紗弓は未だ赤子をどこへやったのか口を割らない。


 どんなことをしてもいいからとにかく訊き出せというのは主である時高の叔母上殿だ。


 とはいえだ。この家の女官のひとりである橋田の胸中は複雑そのものだった。


 いくら不義密通の疑いがあるとはいえ、あのようなまだ若い妻に非道なことなどできるはずもない。


 とはいえ、お偉方の命に背くわけにもいかない。一番いいのは紗弓が橋田のことを信用して全部話してくれることだが、そう簡単にはいかないだろう。


 根気のいる仕事だ。橋田は今日も紗弓のもとへ通い、赤子の居場所を――


「きゃあぁあぁあぁ!!!」


 邸内に女性の叫び声が響いた。


 声の元は紗弓の部屋からだ。橋田は慌てて若妻である紗弓の部屋のふすまを開ける。


「あぁっ……あぁあぁあぁっ……」


 本来なら紗弓がいるであろう部屋で彼女の母親である名雪が泣き崩れていた。


 なぜここに母親である名雪殿が。いや、そんなことよりも今の状況だ。橋田はおそるおそる部屋に入り、室内を見回す。


 紗弓がいつも座っている場所に誰もいない。文机の上にはなにか記された紙と細い紐が置かれている。


「あ、あの……名雪様?」


 崩れ落ちて泣いている名雪へ声をかける。紗弓の母親が振り向くとその顔は涙で濡れていて、髪も随分と乱れていた。


「そなたは、確か」


「紗弓様のお世話をさせていただいております、橋田と申します。あの、紗弓様はどちらに……?」


 橋田の質問に名雪は答えない。涙を流しながら首を横に振り、また袖を濡らす。


 困った。これでは事態を把握することすらできない。橋田は名雪を気遣うようにしゃがみ込むが、その目は文机の上にある紙を見ていた。


「名雪様、お気を確かになさってくださいませ。一体紗弓様になにがあったというのですか? この文と紐はなにか関係があるのですか?」


 とりあえず訊くだけ訊いてみるが名雪はやはり答えてくれない。しくしくと泣いているだけだ。


 励ますふりをしつつ紙に書かれた文を心の中で読み上げる。


 それはまさしく紗弓の遺書だった。時高の親族からの責め苦や、我が子を失った苦しみに耐え切れなかった。そして自らの潔白を証明するためこの身を捧げると、そう記されていた。


 まずいことになった。紗弓が自ら死を選んだのはともかく、傍らに置いてあるこの紐。おそらく遅れて産まれてきた赤子を包んでいた襁褓の細紐だろう。


 こんなものを遺書と共に置いているということは、もしかしたら紗弓は赤子と共に身を投げたかもしれないのだ。


 あの赤子はこの家の姫君として仕立て直すつもりだったというのに。赤子まで死んでしまっては意味がない。


 このことを急ぎ主人達に伝えなくては。橋田はすぐに立ち上がり、悲しみに暮れる名雪を放って部屋を出た。




 ~・~




 紗弓の遺書が見つかった日の夜。京の都より遥か東へと進んだ地にある常陸国のとある邸では一人の男が書類仕事に追われていた。


 野分と洪水はこの地に甚大な被害を及ぼし、民の間には飢えと怯えが広まり、日々の仕事もままならない。


 国司より報せを受けて朝廷は民部少輔である時高を派遣した。


 主上おかみからの勅令だ。断るなんて発想がそもそもない。またとない機会と受け取り、時高は身重の妻を置いてはるばる常陸までやってきたのだが。


 着いてすぐに邸の者が報せを寄越しにきた。産まれた赤子が死んだと。


 あまりに悲しい報せに時高は仕事などろくに手につかなかったが、それでも最愛の妻を想い、自身が当主を務める家を想い、どうにか日々を過ごした。


 そうして悲しみを抱えながら目の前の仕事へ一心不乱に打ち込んでいると、次第にしなびていて心が張りを取り戻してくる。


 そう、遠征先での仕事は子を失くした不運に直面する時間がとれぬほどに忙しかった。


 無論、忘れたわけではない。だけど今はそれよりも主上からの任を務め、全てを片付けたうえで妻の元へ帰りたいと思っている。


「むっ、いかんな。そろそろ休まなくては」


 灯りが消えかかっていることに気づき時高は墨と筆を片付ける。


 明日も洪水によって流された田畑の検地をしなければならない。書類仕事だけやっているわけにもいかない。


 時高は仕事で使っている部屋を出て寝所へと向かう。薄暗い廊下を歩き、部屋に入ると既に床の用意がされていたのでひとまず横になる。


 早く仕事を片付けて妻のもとへ帰りたい。明るく笑う紗弓の顔を思い出し、時高はゆったりと眠りについた。


「――かさま――きたかさま」


 意識が深く沈んだところでどこかから声が聴こえてきた。


 女性の声だ。時高を呼んでいる。


 時高はまどろみの中に意識を置いたままどうにか目を開けた。


 ぼやけた視界の中に真っ白な衣に身を包んだ人が立っている。長い黒髪を揺らして時高を見下ろしている。


「時高様」


 白装束の女が名前を呼ぶ。妙な夢だと思いながら時高は女を見上げた。


「お許しください。時高様」


 やがて白装束の女が時高へと迫ってきた。枕元で膝を曲げ手で顔を覆いさめざめと泣く。


 髪が近くで揺れて香りが漂う。その瞬間、時高はまどろみの中から起き上がった。


「紗弓……そなたなのか?」


 女の香りはまさしく妻である紗弓と同じものだった。上体を起こして覗き込もうとするが、灯りもないので判別がつかない。


 ただそれでも、匂いと雰囲気から紗弓だと時高は思った。同時になぜこんなところに妻がいるのか疑問を抱く。


「時高様、私がお慕いしているのはあなた様だけでございます。どうか、信じてください……私と、私の子を。どうか……」


 吐息を交えながらか細い声で言葉を並べる紗弓。時高が肩を抱こうと手を伸ばしたところで白装束の妻は立ち上がる。


「紗弓、なぜここにいるのだ。一体何があったというのだ」


 時高が問いかけるが紗弓はなにも答えない。そのまま暗闇の中へとけるように消えていき、やがて遠くでふたつの青い火が浮かび上がってきた。


 鬼火。人の情念が火となって現れたその怪しい火に時高は背筋が凍る。


 いるはずのない妻が夢枕に現れ、そして意味深な言葉を残して消えていった。残ったのはふたつの鬼火だけ。


 その怪しい火もやがて消え、時高の視界は再び真っ暗になる。


 慌てて灯りを点けると、枕元になにかが置いてあった。錦の飾り刺繍がついた手布。紗弓と同じ香りがした。


「まさかこれは……」


 おそるおそる、時高は手布を手に取る。錦の飾り刺繍。産まれてきた赤子のために紗弓が設えたものだ。


 紗弓らしき姿の女と残された手布。時高は妙に嫌な予感がしてその日はろくに眠ることもできなかった。

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