第二十八話『二人の赤子』
「名雪の家のことが分かった」
二日ほど経った日の夜、赤子の面倒は久しぶりに乳母である小菊に任せ、呉乃は是実の部屋で酌をしていた。
だが是実は酒を飲みながらも心ここにあらずといった様子で疲れた顔をしている。
あまりいい結果ではなかったのだろうか。呉乃が覗き込むと主人は目を伏せてため息を吐いた。
「どうやら名雪の娘が夫の親戚から不義密通の疑いをかけられているらしい」
「不義密通、といいますと身分の卑しい者と子を作ったということですか?」
「いや、話はもう少し複雑でな。なんでも既に子は亡くなっているのだ」
「……どういうことですか?」
意味が分からなかった。不義密通を疑っているのに、子供はもうこの世にいない。その親戚連中は一体なんの話をしているのか。
「夫である
「え? し、しかしあの子は女です。決して見間違いは」
「そうだ。産まれたのは男であったが、世話をする間もなく衰弱して死んでしまった」
是実の口から語られる重々しい話に呉乃も思わず目線を下げる。生まれたばかりの子を亡くしたのだ。母親である紗弓の心痛は計り知れないだろう。
「みな悲しみに暮れたそうだ。時高殿は遠征先で喪に服し、名雪も紗弓も物忌みに入った。だがその数日後の夜に子が産まれたのだ」
「……は? え、あの、どういうことですか? 産まれた子は亡くなったのでは」
「あぁ、だから二人目だ。一人目が産まれて五日後、二人目が産まれてきたらしい。そしてその二人目は性別こそ違えど、顔立ちは瓜二つだったらしい。まるで双子であったかのようにな」
思わぬ展開に絶句する呉乃。一人だと思った子は二人いた。
夫とは別に男がいたのか。いや、それは考えづらい。すでに紗弓は身籠っていたのだ。そこへ他の男が入る余地などあるとは思えない。
ならば双子だとでもいうのだろうか。しかしだとしたらなぜ同じ時に産まれ落ちなかったのか。
「問題はその後だ。遅れて産まれてきた片割れの姫君に対して親戚達は紗弓を責めた。こんな短期間で子を宿すわけがない。どこかから貰い受けた子だとな」
「そう……そうでしょうね。正直私も信じられません」
「私もだ。だが実際に名雪とその女房達が取り上げているし、その証拠が我々のもとにいるではないか」
そう言われ、呉乃はふすま越しに自分達が寝ている部屋を見る。今は小菊がややの世話をしている。きっとまたどこか機を探って泣き出すはずだ。
「紗弓は当然身の潔白を訴えてはいるが、受け入れてくれぬだろうな。遅れて産まれてきた双子など聞いたことがない」
「……真実はどうであれ、不義密通だと断言されれば親戚にこの子を取り上げられるか捨てられてしまう。そう思った紗弓様と名雪様は唯一の頼りである是実様のもとへこの子を送った。ということですね」
「あぁ、名雪本人からの文にはそう記されていた。夫が帰ってきたところで事情を説明して、ほとぼりが冷めれば……いや、もしかすると、子だけでもと思い、私のもとへと送り届けたのかもしれぬ」
是実が眉間に皺を寄せる。もしも
「呉乃よ、どうにかならぬか?」
是実がいつになく弱気な声色で頼ってくる。憂いを帯びたそのまなざしに呉乃はやられないよう咄嗟に目を逸らしながらも、苦々しく口を引き結んだ。
「名雪とその娘はもちろんのこと、あの赤子までもが憂き目に遭うなど私もそなたも本意ではないだろう」
「無論です。しかし言葉だけでどうにかできるのなら、あの子はここへ送られていないでしょう。人同士の諍いにて完璧な身の潔白を示すというのは存外難しいことなのです。それは是実様もよくお分かりかと」
「……そうだな。しかしこのままだと……いや、杜雄が名雪から文をもらうついでに家の様子を見てきたそうなのだが、随分と殺気立っていたようでな、下手すると名雪の命すらも危ういかもしれないのだ」
やれやれと是実が姿勢を崩して困ったように息を吐く。
赤子とその母である紗弓もそうだが、是実としてはやはりかつて世話になった名雪が心配なのだろう。
移り気でなおかつ気の多い性格ではあるが、決して軽薄ではない。どの女人も是実なりに深く想っているのだ。
「早急に手を打つべきかもしれませんが……妙ですね。なぜそこまで殺気立っているのでしょうか」
呉乃の今更な疑問に是実は崩していた身を起こし、小首をかしげて覗き込んできた。
「なにを申す。親族からすれば待望の男児を産んだと思えば死なせ、しかも物忌みの最中に知らぬ男の赤子を育てようとしていたのだぞ。それが真実だとしたら怒り狂うに決まっている」
「だとしても名雪様までというのは些かやりすぎです。不義密通だと騒ぎ立てている親族というのは一体誰なのですか? 妻と夫で立場が強いのはどちらの家なのですか?」
「騒ぎ立てているのは夫の時高殿の親族らしい。といっても名雪は勘当されているからな、あちら側の親族は名雪の夫と娘しかいない。当然立場は夫の方が上だ」
「ならばますますおかしいです。言い方を選ばなければ名雪様の家は格下で所詮は下賤の血と言えるでしょう。ならば離縁しても夫の家に不都合などないはず。しかし殺すなどしてしまえば刃傷沙汰になり問題がこじれます」
「それにあの夫婦はまだ若い。たとえ今回が駄目だったとしてもまだ子を産む機会などいくらでもある。と向こうは考えるはずだ。そう思うと殺すのは確かにやりすぎだ。しかし、だとすると向こうはなにが狙いだ?」
是実の疑問に呉乃は無言で首を横に振る。そして首を回し、赤子がいる方を向く。
ちょうど図ったかのように向こうから赤子の泣き声が聴こえてきた。
「そうか、狙いは紅姫、というわけだな」
「母親も外戚も必要ない、ということでしょう。欲しいのは赤子だけ。女の子にそこまで執着するのはやや不自然ではありますが」
「いや、そんなことはない。女ならば家を継がせる必要などないし、男に比べれば操りやすいと思っているのだろう。あるいは政の駒として使うつもりかもな」
あまりにも残酷な思惑に呉乃は怒りではらわたが煮えくり返りそうだった。
あんなにも小さくてか弱い赤子を自らの醜い欲のために利用するなんて、到底許せることではない。
夜の薄暗い部屋の中で夜泣きをする赤子の顔を思い出す。それだけではない。呉乃の髪を引っ張ったり、じたばた動いて笑ったりするあの温かいとき。呉乃にとってはなにもかも初めてで、大変ではあったがそれ以上にかけがえのない時間だった。
そして呉乃は思い出したのだ。かつての自分を。今は亡き母と共に過ごした過去を。
呉乃の母は優しい人だった。幼き呉乃が都に巣食う鬼どもに利用されないよう自らの死を偽装してまで手を尽くしてくれたのだ。
このまま放っておけばいずれ赤子の居所を突き止められてしまうだろう。高篠の家で預かっている以上滅多なことにはならないとは思うが、それでも油断はできない。
なによりあの赤子が家族を失ってしまう。呉乃と同じように。
「名雪様だけでも邸から連れ出すことはできないのでしょうか?」
「無理だ。紗弓の言を信じている名雪もまた疑われておる。妙に首を突っ込めばこちらが怪しまれ、最悪の場合紅姫の居所がばれて二人は用済みとして殺されて――」
「是実様、今なんと仰いましたか?」
「いや、最悪の場合だな、紅姫の居所がばれて二人は用済みとして殺されると。呉乃よ、なにか策でも思いついたのか?」
「……そうですね。上手くやればあの子を親族から引き離せるかもしれません。無論母親も父親も、名雪様も」
「なんと、ならばすぐにその策を仕掛けるぞ。なにか私に手伝えることはあるか?」
待ち望んだ機会の到来に前のめりになる是実。呉乃は袖で手を隠しながら考え込み――やがて、いつもの冷淡な表情で言った。
「もちろんございます。ですがその前に、紗弓様と赤子には死んでもらいます」
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