第二十四話『初めてのお世話』

 門前に赤子が捨てられていた。


 麻で織られた籠の中で真っ白な襁褓むつきにくるまれた小さな子。小さな手で手布しゅふを握っていて、なぜこんなところに赤子がと思ったところでびぇびぇと泣き出したのだ。


 放っておくわけにもいかず呉乃はひとまず籠ごと赤子を拾い上げた。軽くて小さくて柔らかくて、とにかくか弱いその存在に呉乃はどうすればいいか分からず籠を持ったまま立ち尽くすしてしまう。


 そうして成り行きで赤子を拾い、拾った以上死なすわけにはいかないので女房頭である秋葉に相談した。彼女は是実が生まれたときから高篠に仕えている女房だ。家事や育児に関しては呉乃よりもずっと多くのことを知っている。


 まずは乳母を探しなさい――秋葉の言葉に呉乃はほとほと困り果てた。


 呉乃はただの女官だ。それも普段は是実について仕事をしているので知り合いらしい知り合いなど滅多にできない。


 頼るのなら宇季家の姫である恭子だが、彼女とてまだ子を産んではいない。乳母の用意なんてしていないだろうし、たとえしていたとしても大納言の家の者だろう。おいそれと貸してくれなんて言えば大納言にいらぬ借りを作ることになる。


 ならば誰に頼ればいいのか。泣き疲れて眠っている赤子を見下ろしながら焦っていると、邸に来客が訪れた。


 それは大畝家の使いの者だった。是実の手腕によって見事解決された髪盗り鬼の騒ぎの正式なお礼をということで、それなりの品と共に現れたのだ。


 だが今は取り込み中。それでもなんとかお客様の対応をしていた呉乃だったが、やはり赤子が泣き出してしまった。


 恥ずかしながらと事情を説明する呉乃。それを聞いて相手は苦笑いしながらも帰って行き、そしてすぐにまた別の女が邸を訪れる。


 その者は大畝公治の妻である珠江が雇った乳母だった。さらに珠江からの文を携えていて、そこには『親も名も知らぬややが飢えぬために、この者を使ってほしい』という旨の言葉が書かれていた。乳母の派遣は『紅袖くれないそで』へのお礼ということらしい。


 自分がしてきたことが思わぬ形で実を結んだ。呉乃はそのことに驚きつつも不思議な高揚感に身を包まれた。


 こうして乳母も見つかり、拾った赤子の命はどうにか繋がったのだが――


「ふぇえぇえぇ……ぶぇえぇ……」


 夜中、うつらうつらと舟を漕いでいたところに赤子の泣き声が聴こえてくる。


 呉乃は意識を無理やり引き起こし、赤子を寝かせている大きめの座布団に近づく。


「びぇえぇえぇ! びぇえぇえぇ!」


「どうしたの? 起きちゃった? お腹空いた?」


 遠慮なしに泣く赤子を抱き上げて語りかける呉乃。しかし名も知らぬややは薄暗い部屋の中で泣き続けるだけだ。


 ひとまず抱き上げて立ち上がり、部屋の灯りの周りをうろつきながらあやす。


「もううしの刻ですよ。眠りませんか?」


「びぇえぇえぇ! びぇ、びぇ……んびゃぁー!」


「まだ寝ないよねぇ? そうだよねぇ」


 大きく口を開けて赤子が泣きわめく。呉乃は天井を見上げながら上半身だけを揺らした。


 さっきからずっとこの調子だ。なにかを求めるわけではなく泣き、疲れて眠ったと思ったら起きてまた泣く。


 最初は眠った隙をついて少しでも眠ろうと思っていたが、すぐに泣いて起こされてしまうのでもはや眠るのは諦めた。


 ただ諦めたと言っても眠気が失せるわけではない。つまるところ、気がつけば寝ていたという状態から赤子の夜泣きで意識を引っ張り上げられ、あやすうちに瞼が降りてくるという始末だ。


「呉乃さ~ん? 大丈夫ですかぁ?」


 部屋の外から乳母の小菊の声が聴こえてくる。


 格子戸が開いて小菊が現れる。呉乃は元来信心が薄く、神仏もろくに信じていなかったが、今だけは彼女に後光がさして見えた。


「こ、小菊殿……その、ややが中々泣きやまず……」


「そうみたいですねぇ。どれどれ……」


 助けを求めて小菊へ赤子を渡す。未だ元気に泣いているややを抱いて揺らす姿を見て呉乃ははぁとため息をつく。


「ん~あんたも元気だねぇ……ん? あぁ、呉乃さん。襁褓を替えてあげなきゃ。多分おおじゃないですかね」


 小菊が笑って呉乃に言う。座布団の上におろして襁褓を脱がし、白布を剥がすと確かにそこが汚れていた。そもそも白布も色が変わっている。


「あっ、そうだったんですね……だから泣いてたんでしょうか」


「それもあるかもしれませんねぇ。まぁさっきたくさん乳を飲みましたし。さっ、呉乃さん。私が拭いておきますから替えを」


「は、はい。すぐに」


 呉乃はあらかじめ部屋に用意しておいた替えのおしめを取る。そうしている間に小菊は湿らせた布で綺麗に赤子の尻を拭く。


 手慣れた動きに呉乃は思わず見入ってしまう。全て拭き終えると先ほどまで泣いていた赤子は段々と大人しくなり、小菊も笑みを浮かべて再び赤子を抱き上げた。


「あ、あの。小菊殿、替えのおしめを」


「ありがとうございます。それじゃあ着けてあげてください」


 呉乃は頷き座布団の上におしめを敷いた。赤子をおろしてもらいおぼつかない手つきでどうにか巻き、最後に細い紐で緩く結ぶ。


 小菊と比べるとやはり時間がかかってしまうが、どうにか替えることができた。呉乃は今日で何度目になるか分からない安堵の息を吐き、額に浮かんだ汗を拭う。


 その姿を見て、小菊がくすりと笑う。


「呉乃さん、少し力が入りすぎですよ。そんなに気を張っていたらこの子も怯えてしまいます」


「そ、そういうものなのでしょうか。失敗するわけにはいかないと思うとどうにも……」


「赤ちゃんは近くにいる人の気持ちを感じ取りますから」


 だからあまり気を張りすぎないでください――小菊にそう言われるが、呉乃としては中々受け入れられなかった。


 そもそも赤子の世話など初めてなのだ。呉乃が普段相手にしている『大きな赤子』は大きくて頑丈だし泣きわめくこともない。


 それに比べて赤子というものは、あまりにも小さく、脆く、柔らかい。少しでも力加減を間違えれば大惨事となる。


 ゆえに呉乃は慎重になりすぎてしまう。こんなにもか弱い生き物。乳母の存在がなければあっという間に消えてしまう小さな命は呉乃の冷静さを根こそぎ奪い取っていった。

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