第十話『紅袖の記憶』

「しかし公治きみひろ殿も危なかったものだ。もしなつの思惑通り妻が捕まっていたらお役を解かれていたかもしれぬからな」

「公治殿が、ですか? それはいったいどういう……」

 思考の途中で是実の言葉が引っかかった。

 なぜ妻のとがで夫の役目が解かれてしまうのか――少し考えこんだところで答えに辿り着き、是実が「そうだ」と答える。

「そもそも公治殿が兵衛尉ひょうえのじょうになれたのは奥方である珠江殿の家の助けがあってこそだった。ゆえに醜聞しゅうぶんなど起きてしまえば珠江殿にどんな沙汰さたが下されようと、少なくとも公治殿は後ろ盾を失うだろう」

「そうなれば公治様が邪魔な者はこぞってお役目から引きずり下ろそうとするでしょうね」

「そしてそんなことを考え、実際に引き起こす貴族を私は知っている」

 是実の険しい表情に呉乃も同じく手に力を込めた。

 なつの仄暗い想いを叶えさせるふりをしながらも、実際は政敵を排除しようとしていた。大胆不敵で傲岸不遜なやり口。

「……やはり藤原ですか」

「その可能性は高いだろう。公治殿は後ろ盾を手にしてから異例の出世だったからな。能力に見合う見合わないに関わらず、出てくる前に潰そうとしたわけだ」

 呉乃が思い出したのは薄暗いやしきでねばつくような笑みを浮かべるひとりの男だった。

 藤原宗通むねみち。京の都を席巻する藤原北家ほっけの現当主。あの男ならこんなことを仕掛けてきても不思議ではない。

 いや、むしろ今回のやり口は甘い方だ。やるなら徹底的に、誰にも知られずやり遂げるだろう。

「自らの手は汚さないのがまた藤原らしいというか。あの男ならやりかねませんね」

「……あぁ、そうだな」

「……是実様?」

 主人の返事がどうにも歯切れが悪い。呉乃は気になって顔を覗き込むと、是実はいつものように顎に指を添えて考える素振りを見せた。

「いや、少し気になってな。確かにあの自らの手は決して汚そうとしないのは藤原のやり口ではあるのだが、どうにも宗通がやったとは思えなくてな」

「どういったところに違和感を?」

「宗通が仕組んだものにしてはどうにも手ぬるい。それに、あの狒々爺ひひじじいが藤原以外の人間を利用とするとは思えぬ」

「それは……確かにそうですね。ですが、だとしたら誰が」

「……息子の光経みつつねかもしれん」

 是実の口から出てきた名前に呉乃は顔を思い浮かべようとして首を傾げる。

 藤原光経。藤原北家宗通の義理の息子で、次期当主候補と噂されている人物らしい。

 ただの女官である呉乃はまつりごとの中心地である内裏だいりへと出仕しゅっしする機会など当然ないので光経とはなんの面識もない。ただ、是実がわざわざ言及しているのだから警戒に値すべき人物ということなのだろう。

「あの男のやりそうなことだ。計略がはまってもよし、嵌らずともよし。そうやって足がつかない範囲で動き、ゆるりと追い詰めてくる」

 もし是実の言うことが本当ならば、呉乃はそんなただの暇を紛らわすような適当な計略に嵌ってしまったのだ。

 見事目論見を挫いたとはいえ、あの男の描いた通りの動きをさせられたのもまた事実。言い表しがたい悔しさに呉乃は歯噛みする。

「それにしても呉乃、此度は肝が冷えたぞ」

 呉乃がまだ見ぬ脅威に身を守る計略を組み立てていると是実が軽やかに笑いながら声をかけてきた。

「なにか無茶なことをしましたか?」

「したではないか。相手に揺さぶりをかけて知らない墨の名前を見事聞き出した。あれがなければどうなっていたことか」

 是実の言葉に呉乃は昨日の記憶を思い出す。そう、あの女が言うまで墨の名前など一度もだしていなかったのだ。

「あぁ、そのことでしたら最初から特定できていました」

 だがそれは初めから計算のうちだった。あっけらかんとした呉乃の様子に是実はがくりと項垂れて盃を置く。

 呉乃はすぐさま酒瓶を傾け主人へ酒を注いだ。

「なんだと? 最初から? それはつまり、珠江殿と話したときからということか?」

「はい、匂いからして松煙墨しょうえんぼくの一級品だろうと」

「一体どこでそんなものを。押収したものを私も見たがあれはかなりのものだったぞ。それこそ、帝からのたまわった逸品のような……そうか、そうだったな。紅袖くれないそでよ」

 自分で言って自分で気づく是実。呉乃は寂しい表情を浮かばせまつげを震わせて目を伏せた。

「母がよく使っていました。時折私も使わせてもらっていた。今でも憶えています」

「……そうか、母君がそなたに……すまぬ、思い出させてしまったな」

「いえ、大丈夫です。私にとって大切な記憶ですから。それに、あのときの思い出が此度の騒ぎを解決するに至ったのです。喜ぶのならともかく、疎ましく思うなど」

「そなたが望むのならすぐにでもかつての暮らしに――」

「いいえ、是実様」

 ゆっくりと首を振る呉乃。気遣うように視線をやる是実を見て袖で口元を隠して笑う。

「今の私はただの呉乃です。少将様の紅袖。それ以外の何者でもありません。それに、私がいなくなったら是実様はどうやって女人とのいざこざを解決するのですか」

 呉乃の冗談に是実は目を丸くする。しかしすぐに肩を震わせて笑い、はらりと髪の毛が抜けた。

「そのときが来ないよう、上手く立ち回らなければ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る