第2話 スノードームの街

世界が終わっても、雪は降っていた。

風は白く街を削り、建物の輪郭を曖昧にしていった。

すべてがゆっくりと、音もなく、ひとつのスノードームの中に閉じ込められていくようだった。


この町には、もう誰もいない。

ただひとり、時計職人の女が残っている。

時間の止まった世界で、彼女は今もなお、「記憶を閉じ込めるガラスの球体」を作り続けていた。


回らないオルゴール。

光らない街灯。

笑わない人形。


それでも、今日も手を動かす。

それが何のためなのか、分からなくなったとしても。

ただ――誰にも見えないこの小さな世界に、かつての温もりを封じ込めておきたかった。


そしてある夜、動かないはずのその人形が、微かに、笑った。


 


彼女の作るスノードームは、単なる飾りではなかった。


それぞれの球体には、小さな景色が閉じ込められていた。

路面電車の走る交差点。

バスの車内で寝ている子どもと、肩を貸して眠る母親。

パン屋の店先に並んだクロワッサン。

小さな公園で、祖父の押すブランコに笑う少女。


どれももう、この世界のどこにも存在しない。


記憶の奥底から引き上げ、指先で形にしていく。

過去に見たほんの一瞬の情景を、壊れた時計の歯車やオルゴールの残骸から生まれ変わらせる。


もう見られない光景だからこそ、それは美しかった。

実際の空は、こんなに澄んでいなかったかもしれない。

子どもは、もっとぐずっていたかもしれない。

パンは焼き過ぎで、硬かったかもしれない。


でも、記憶の中では、すべてが完璧だった。

それは現実よりずっと小さくて、ずっと静かで、そして、ずっとやさしい。


彼女はそれを知っていた。

記憶というものは、削ぎ落としていくほどに、鮮烈に透明になっていく。

 して、その透明さが、最後には人を救うこともある。


スノードームは、そんな祈りのようなものだった。


 


部屋の棚には、完成した球体がいくつも並んでいる。

まるで一つの街の縮図のように、それぞれの中で静かに雪が降り続けていた。


誰にも見せるつもりはなかった。

けれど時々、彼女は火を落とす前に、棚の前に座って、球体のひとつひとつを眺める。


灯りに照らされた小さなガラスの中で、降り続ける雪の向こうに、今はもう会えない人たちの影が見える気がした。


彼らは笑っていた。

何も知らずに、今日という日を過ごしていた。

そこには破滅も終焉もなく、ただ「日常」が息づいていた。


ほんの数秒間だけでも、彼女はその景色をもう一度見ることができる。

それだけで、また翌日も手を動かす理由になる。


 


ただ、それがどこへ届くのか。

本当に意味があるのか。

それは、彼女にも分からなかった。


「どうして私は、これを作ってるんだろうね……」


誰もいない部屋で、ぽつりと独り言が落ちた。

声は、白い吐息となって、すぐに消えた。


それでも、指先は止まらない。

今日もまた、ひとつ、スノードームが生まれていく。



朝になると、彼女は窓の霜を削り、外の雪を確かめる。

昼には、時計の部品を磨き、欠けたガラスの補修をする。

夕方、日が沈むころになると、火を落とし、静かに棚に座る。


その晩、彼女はいつもより少し長く棚の前に座っていた。

ガラスの球体の中で、粉雪がゆっくりと舞っている。空気も、音も、心さえも凍るような夜だった。


ふと、視線の端で何かが動いた気がして、彼女は顔を上げた。


作業台の端に置かれた、小さなスノードームの中。

そこに入っている人形──街角で手紙を配る配達人を模した、古い陶器の人形──が、微かに、口元を緩めていたように見えた。


気のせいだ、と最初は思った。

でも翌朝、彼女がその人形を見つめたとき、やはり“笑っている”ように見えた。ほんの、少しだけ。

作った当時は、そんな表情は与えていなかったはずなのに。


もちろん、動くはずはなかった。

からくりでも、ゼンマイ仕掛けでもない。

それなのに、人形はまるで、夜のうちに何かを見てきたような顔をしていた。


 


その日から、彼女は作業台の隅に、その人形の入ったスノードームを置くようになった。

ふとした瞬間に目が合うたび、言葉のない何かが交わされる気がした。

呼吸のように、声なき返事のように。


人形は何も語らない。けれど、確かに「そこにいる」。

 雪に閉ざされたこの町で、それは奇跡にも似た出来事だった。


 


しばらくして、彼女は新しいスノードームを作りながら、人形に話しかけるようになった。


「今日はね、交差点の角を作ったの。昔、花屋があった場所。覚えてないでしょうけど」


「パン屋の匂いは、もう再現できないけど、クロワッサンの形は意外と覚えてたわ」


あなたにも、残ってる記憶ってあるのかしら?」


もちろん返事はない。

今では誰をモチーフして作ったスノードームであるのかも覚えていない。

けれど、話していると、手の動きがすこしだけ軽くなるような気がした。

寂しさが減るわけではない。孤独が消えるわけでもない。

それでも、誰かに見てもらっているという感覚が、彼女を支えていた。


 


そして、ある日。

新しく作ったスノードームに、彼女は初めて自分の姿を入れた。


壊れた時計塔の下。

ひとり座ってスケッチをする、小さな女の人形。

雪が降り、世界が静まり返った街のなかで、ただひとつ動く気配を持つ存在として、それはドームの中心に置かれた。


「……滑稽だよね。自分の姿なんて入れるなんて。まるで自分で、自分の墓を彫ってるみたい」


そう呟いて、彼女は小さく笑った。

それでも、不思議と悲しくはなかった。

そこにはただ、終わりを受け入れた人間だけが持つ、静かな清らかさがあった。


 


夜が更け、火が小さくなる頃。

棚の人形が、またこちらを見ていた。

その笑みは、やっぱり気のせいなんかじゃない。

口元が、ほんのわずかに柔らかくなっていた。

そしてその視線の先には、彼女が作った自分自身のスノードームがあった。


 


その晩、彼女は久しぶりに夢を見た。

誰もいないはずの街角で、人形が立っていた。

そして彼女に、口を動かさずに何かを言った。


言葉は聞こえなかった。

けれどその意味は、なぜか胸に染みて分かった気がした。


「あなたの手が、たしかに世界を残している」――そんな、言葉にならない言葉。


 


翌朝。

棚に並ぶスノードームのひとつが、少しだけ傾いていた。

彼女は何も言わず、ただそれを見つめ、ランプに火を入れた。

今日もまた、手を動かす。

たとえそれが、誰に届かなくとも。


 


外は雪。

街は静かに凍りついている。

それでもこの小さな小屋のなかで、またひとつ、記憶のスノードームが生まれていく。




雪の降る日が、少しずつ増えていった。

手のしびれや、腰の重さに気づいたのは、いつからだったか。


それでも、彼女は変わらず作業を続けた。

記憶のかけらを集め、丁寧にガラスの中に閉じ込めていく。

息苦しさも、指先のかすかな震えも、見て見ぬふりをして。


「もう、あまり長くはないかもしれないな」

ぽつりと漏らした独り言に、人形が、また笑ったように見えた。


それが気のせいでも、気のせいではなくても――

彼女にとって、それは十分だった。

彼は、今日もそこにいてくれる。


 


ある日、手を滑らせて、スノードームの材料を床に落とした。

拾い上げようとしたとき、立ち上がるのにひどく時間がかかった。

膝が重い。息が浅い。胸が少し、締めつけられる。


「……あらあら、年ね」

笑いながらそう言ってみる。

誰かに聞かせるわけでもない、ただの気休め。


 


作業台の端には、あの「配達人の人形」が、相変わらず鎮座している。

変わらず、静かに微笑んでいるようだった。

声はないが、そこにいるだけで、彼女は今日も手を動かせた。


ガラスの中の世界を作るという行為は、祈りにも似ていた。

もう戻らない日々、誰も見ていない光景、それでも残したい記憶たち――


「きっとね、誰かが見つけてくれるの。

 いつか、遠い未来の誰かが。

 そう信じて、続けてるのよ」


また返事はない。けれど人形の笑みは変わらず、彼女の胸のなかを、すこしだけ温かくした。


 


そんな日々が、静かに積もっていった。

外の雪のように、音もなく、白く、柔らかく。


ある夜、目が覚めると、体がまったく動かなくなっていた。

喉が乾いているのに、水まで届かない。

指先すら、動かせない。


――ああ、とうとう来たのね。


怖くはなかった。むしろどこか、ほっとしていた。

すでに覚悟はしていたし、悔いもなかった。


目を細めて、枕元に置いたスノードームを探す。

最後に仕上げた、自分自身を模したドーム。

時計塔の下でスケッチをしている、小さな自分。


ゆっくりと手を伸ばし、その球体を胸元に抱いた。

冷たいガラスが、優しく心臓の音を反射する。


「ありがとうね」

誰にともなく、そう言った。


オルゴールは回らない。人形は話さない。

それでも彼女は、誰かに見守られている気がしていた。


 


目を閉じる。

外は雪。風の音も、もう聞こえない。

ただ静かに、深く深く、眠りに落ちていく。


スノードームを抱きしめたまま、

彼女は心地よいまどろみに包まれて、そっと、生に幕を下ろした。


 


夜が明ける。

棚には、彼女が残したガラス球体たちが並び、

その中で、静かに、今日も雪が降っている。


世界は終わりに向かっていた。

けれど、ここには確かに、小さな永遠があった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る