収歛の唄 ー世界のあとでー
まっぴ
第1話 灯をつける人
あの夜、世界は静かに終わった。
何の爆音もなく、何の警告もなく、ただ、ひとつ、またひとつと灯りが消えていった。
それから十二回目の12月が来た。
雪は相変わらず降り、風は冷たく、空は広いままだ。人々の声が消えても、季節はなお律儀に巡ってくる。まるで、誰かがまだそれを必要としていると知っているかのように。
丘のふもと、壊れかけた街の外れ。
錆びた街灯の根元に、小さな木の小屋がぽつんと建っている。屋根は傾き、壁の板には風穴が開いている。それでも、小屋の中では、毎晩決まった時刻に、ひとつの灯りがともる。
オレンジ色の、柔らかな手回しランタン。
老人はその灯りを、ひとり、灯し続けていた。
もう電気のないこの世界で、毎晩欠かさず。
誰かが来るわけではない。見ている者もいない。
それでも彼は、決してそれを怠らなかった。
「灯りってのはな、人のために点けるもんじゃない。……人が、戻ってこられるように点けとくもんだ」
そう呟く彼の目は、かつて誰かを待った者の目をしていた。
雪がまた、音もなく降り始める。
世界が終わっても、灯りはまだ、そこにある。
ランタンの芯に火をつけるとき、老人は必ず左手で風よけをつくる。誰に教わったわけでもない。ただ、ずっとそうしてきたから、今日もそうする。ただそれだけだ。
火が灯ると、ランタンの内側のガラスがほんの少し曇る。息がかかったのだと気づいて、老人は袖で曇りを拭った。年季の入ったセーターの繊維がガラスに引っかかり、細い毛糸が一本、しゅるりと垂れた。
「またか……ま、ええか」
手回しダイナモのハンドルをゆっくりと回す。カリカリ、カリカリ……かつて誰かが懐かしんだ音も、今は世界にただ一つの響きだ。
ランタンを窓辺に置く。風の隙間から雪が少し吹き込むが、それでも灯りは揺れることなく燃え続けた。どこか遠くを照らすには頼りないが、「ここにいる」と告げるには十分だった。
老人は椅子に腰を下ろし、ランタンの光を見つめながら、古びた懐中時計を取り出した。時を刻まなくなって久しいその時計を、彼はなぜか毎晩見つめる。針はもう動かない。けれどその止まった時刻にこそ、彼の「願い」が閉じ込められていた。
20時43分。
――あの夜、家族と最後に見た時計の時間だった。
*
昔、この丘には小さな展望台があった。冬でも人気の少ない場所で、電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られてたどり着く。見晴らしがよく、星がきれいに見えた。
最後に家族で訪れたのは、ちょうど12年前のこの日だった。妻が好きだったホットワインを持ち、娘が作ったクッキーをリュックに詰め、三人で肩を寄せ合って、夜空を見上げた。
「パパ、ここ、また来ようね」
娘の声が風の音と混じって、耳に残っている。あのとき、自分は何と答えただろうか。覚えていない。ただ、娘の笑顔と、妻の横顔と、その夜の冷たい空気だけが今も心に残っている。
翌朝、世界は止まった。いや、「止まりはじめた」のかもしれない。最初に都市の電気が途絶え、次に物流が止まり、やがて放送も、インターネットも、医療も、教育も、すべてが静かに消えていった。
多くの人が「最後の日」を迎える中で、老人はこの丘のふもとに戻ってきた。
それから、十二年。
何人かは、近くを通り過ぎた。物を求めていた者もいたし、ただ泣きながら歩いていた子どももいた。けれど、誰一人としてこの灯りに戻ってくることはなかった。
それでも老人は、灯りを点け続けた。
ここにいる、と。
戻ってきてもいいんだ、と。
あの日の約束は、まだここにある、と。
雪は静かに降り積もり、小屋の外はもうすっかり白かった。
扉が、トン、と叩かれたのは、その晩だった。
まるで長い間閉じていた物語のページを、誰かがそっとめくったような音。
老人は立ち上がり、ゆっくりと扉に近づいた。
この世界に“来訪者”という概念が消えて久しい。だからその音は、風が板を叩いたのだろう、と最初は思った。
けれど、もう一度、トン。はっきりと。今度は、迷いのある叩き方だった。
「……まさか、な」
声に出してから、自分がまだ“期待”という感情を持っていたことに気づいた。
扉を開けると、そこに一人の少年が立っていた。
年の頃は十六、七。濃紺のマフラーをぐるぐるに巻き、目だけがこちらをしっかりと見据えていた。
左手には空になった水筒、右手にはぼろぼろの地図。
肩に雪を積もらせたその姿は、まるで誰にも気づかれぬまま何日も風の中を歩いてきた旅人だった。
「……人が住んでるとは思わなかった。入れてもらえないだろうか。」
少年の声はかすかに掠れていたが、張り詰めたものがあった。
飢えよりも、寒さよりも、他者と接するということに対するためらいが、その声に宿っていた。
老人は、ゆっくりと頷いた。
「こんな小屋でよければな。寒かろう、火に当たるといい。」
それは長く誰とも言葉を交わしてこなかった人間にしては、ずいぶん自然な言葉だった。
だが実際のところ、彼もまた、誰かが訪ねてくることを、どこかで願っていたのかもしれなかった。
少年は小さく頭を下げてから、小屋の中に一歩だけ足を踏み入れた。
火の近くに置かれた木の椅子には座らず、床にそのまま腰を下ろした。
マフラーを解くことなく、じっと炎を見つめる。
しばらくは、ただランタンの明かりと、風の音と、火を回すハンドルのカリカリという音だけが、空間を満たしていた。
少年がしゃがんだその姿を、老人は横目で見た。
細くて軽い。風に飛ばされてもおかしくないような体だった。
旅の途中で見捨ててきたものが、きっといくつもあるのだろう。
けれど、この雪の夜に、自ら火のそばを選んだその行動だけでも、この少年がまだ“信じたいもの”を心に残していることがわかる気がした。
やがて、少年がぽつりと声を落とした。
「……あんたが、この灯りを?」
「……ああ」
老人は、手を止めることなく答える。手回しのハンドルが小さく鳴る。
「なんのために?」
「誰かが、帰ってくるかもしれんからな」
「その“誰か”は、まだ生きてるのか?」
「さあな。……わしにも、もう確かなことは分からん」
それきり、またしばらく沈黙が落ちた。
少年の影が火に照らされて、床に長く伸びている。
窓の外では雪が止まず、ただ静かに、何もかもを覆い隠していた。
「……でも、なんでまた、こんなところで?」
少年は顔を上げた。
火に照らされたその瞳には、単なる興味だけではない、何か混じった感情が宿っていた。
迷い。疑問。あるいは――小さな期待のようなもの。
「どうして、ここにいようと思ったんだ?」
老人は、手を止めた。
ランタンの火が、ごくわずかに揺れる。
「……ここはな、家族と来た場所なんだ」
「家族?」
「ああ。あれは、十二年前の冬だった。……この丘に展望台があってな。星がよく見えるんだ。娘がまだ小さくて、わしは妻と三人で来た」
「……あんたにも、家族がいたのか」
「いたさ。……世界がまだ、ちゃんと回っていた頃にはな」
老人は、膝の上に手を重ねた。ゆっくりと、かすかに指が動く。
ランタンの灯りがその手元を照らし、節くれだった皮膚の中に刻まれた時間の深さを浮かび上がらせていた。
「その夜、娘が言ったんだ。“また来ようね”って。わしも、うなずいた。……それが、最後だった」
「それから、何があった?」
「次の朝、すべてが止まった。都市の灯りが消え、列車が動かなくなり、通信も、放送も、何もかもが……」
言葉が、ふと途切れた。
静寂が、焚き火のはぜる音に浸食される。
「……そんで、一人になったわけか」
少年の声には、どこか自分にも言い聞かせるような響きがあった。
「で、それでも戻ってきたんだ、この場所に」
「ああ。わしが最後に灯りを見た場所でもあるからな。娘と妻と、三人でいた場所。……だから、この灯りはその続きだ。あの夜に“また来ようね”と言った、その言葉の、答えなんだよ」
少年は、しばらく口をつぐんでいた。
窓の外では、雪がまたひときわ強くなり、風が小屋の板壁を鳴らした。
「……後悔が、あるのか?」
声はまっすぐで、尖ってもいない。ただ深く沈んでいた。
老人はランタンの火を見つめたまま、ゆっくりと息をついた。
老人は手を止めた。
火が、ごくわずかに揺れる。
「あるさ」
その答えは、迷いのないものだった。
「もっとできたことがあったはずだ、って何度も思った。あの晩、戻らずに家にいればよかったとか、あの朝すぐに避難していれば助かったんじゃないか、とかな」
カリ、カリ、とハンドルの音がまた静かに響く。
「でもな。……仮に、あの日に戻れたとしても、わしはまた、同じ道を選ぶと思うよ」
少年が、顔を上げる。
「なんで?」
「だって、わしはあいつらと、あの夜を過ごせた。笑って、星を見て、“また来よう”って言葉を交わせた。……それは、後悔と引き換えにしても、失いたくない記憶なんだ。それに…」
「それに?」
「何よりあの瞬間を愛してしまった。
どうしようもないくらい。もし戻れるとしてもあの瞬間はもう来ないだろうと確信している。
それが――あのときのわしにとっての、いちばん正直な“愛し方”だったからだ」
その言葉を、少年はしばらく黙って受け止めていた。
夜が更け、風が止んだころ、少年は立ち上がった。
「……ありがとう。火と、水と、話と」
「ここを出るのか」
「ああ。……長く一つの場所にはいられない性分でね」
マフラーを巻き直し、地図を折りたたむその動きは、もう迷っていない。
老人は立ち上がり、そっとランタンを持ち上げた。
玄関先で、少年を見送る。
「……“間違えてない愛し方”だと思ったよ、あんたの灯りは」
「そうか」
「また来ることがあったら、家族の話の続きを聞かせて」
そう言い残して、少年は背を向け、雪の道を歩き出す。
老人はうなずき、ランタンの灯りを少し高く掲げた。
足跡が、白い地面にぽつりぽつりと刻まれていく。
少年の背に、ゆっくりと火を向ける。
小さなオレンジの光が、雪の中を照らす。
それはまるで、旅路を導く灯台のようだった。
老人はしばらくその背中を見送っていたが、やがてまた椅子に戻り、ランタンの芯を整えた。
火は弱くなっていたが、まだ消えていなかった。
手回しのハンドルを、カリリ、と一度だけ回す。
「灯りってのはな、人のために点けるもんじゃない。……人が、戻ってこられるように点けとくもんだ」
そう言った自分の言葉を思い出しながら、老人は火を見つめる。
雪は静かに降り始めていた。
あの日と、同じように。
世界が終わっても、灯りはまだ、そこにある。
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