1-6 孤独の痛み

 千沙羅ちさらは、道を曲がった先の橋の上にいた。


 天の中心に居座る太陽が、光を夕陽に切り替える。

 今日は血のように赤い真っ赤な陽光となって、世界を紅に染め上げる。


 俺が横に並んだとき、千沙羅は赤い川面を見つめていた。

 その先には、皿のように丸く持ち上がっていく地上がある。

 最新のビルが建ち並ぶ第一都市エリアの中枢地区も、遠くに見える。

 その彼方で大地はさらに持ち上がり、天空へとつながっていく。


 滑らかに丸く包まれる日本球の世界。

 その全てが、毒々しい赤の夕陽に照らされている。


「なあ、千沙羅。欠損差別する奴らがむかつくのはわかるけどさ。あんまり無茶はするなよ。お前、腕が一本なんだし」


 千沙羅が、きっと俺を睨んだ。


「一本だよ。だから何?」

「いや、だからさ、いざって時に――」

「負けるって言いたいの? 弱いって言いたいの? あたし、弱くないっ! イザムが逃げ回ってた朽蟻くちありだって、あたし倒せるんだからっ」


 歯をむいて、千沙羅は俺を睨む。

 一体、何がそんなに千沙羅を怒らせたのかわからない。

 あのくだらない男達は当然だが、その後、義足の老人にも怒鳴っていた。そして今、俺にも。


 俺は千沙羅と喧嘩したいわけじゃない。

 ただ、教えてやりたいとは思う。

 欠損差別やナンバー差別がはびこるこの世界でも、差別をしない人間だっているのだという事を。


 俺は確かに肉体を失っていない。欠けているところはない。

 でも、俺には欠損差別を憎む理由があるんだ。

 それが許せない気持ちだってあるんだ。


「千沙羅。俺が言いたいのは、千沙羅が弱いとかそういう事じゃない。ただ、千沙羅に危険な目にあってほしくないんだ。強くたって怪我をする事はあるだろ? 千沙羅に怪我してほしくない。ただそれだけだよ」


 こちらに向けられていた千沙羅の目が、ゆっくりと静まっていく。

 俺は赤い川、その先に持ち上がる街並みを見た。


「こうして見るときれいなのに、なんでこの世界は、こんなに生きにくいんだろうな。時々、思うんだよ。もっと自由に生きていける場所に行きたい。世界はこんなに広いんだ。どこかにありそうだろ、そんな場所が」


 千沙羅は、じっと水面を見つめている。

 俺は空の一角を指さした。


「ほら、千沙羅。あれ、見えるか」


 千沙羅が顔を上げて、指の先を見た。


「ほら、あの辺り。海の近くにキラキラ光ってるだろ。あそこが『生産エリア』って言うんだ。俺達の食べ物とか、生活用品とかを作ってるんだぜ。それからあっち。夕陽の向こうで見えにくいけど、黒っぽいあそこが『保存エリア』。一般人は入れないんだけどさ。日本球であそこにだけ『山』っていうのがあるらしいんだ。そこにしかいない生き物もたくさんいる。いつか行ってみたいよな」


 千沙羅は俺の指に従って、視線を巡らせていく。


「それから、向こうにうっすら見えるのが『第二都市エリア』。あそこにもたくさんの人が暮らしている。ほら、世界はこんなに広い。運送屋で金を貯めたら、俺は別のエリアに行くつもりなんだ。きっと、もっと暮らしやすい場所があるよ。この世界のどこかにさ」


 その時が来たら。

 その時、まだ千沙羅が十川瀬とがわせビルで一緒に暮らしていたら。

 その時は、千沙羅を誘ってやってもいい。

 もしも千沙羅が行きたいと言うならだけど。

 こんな生きにくい場所からは旅立って、世界のどこか遠くへ行けばいい。


 そう思ったけど、それはさすがに恥ずかしくて言葉に出せなかった。


 千沙羅はゆっくりと、空から川へと視線を戻す。

 そして、ぽつりと言った。


「イザム」

「なんだ?」

「やっぱり、あたし、運送屋できない」

「そうか。別に運送屋でなくてもいいんだぞ」

「うん。わかってる。でも、それも無理なんだ」


 千沙羅が俺を見る。

 赤く染まるその顔には前髪の影が落ち、まるで泣いているような悲愴感が漂う。


「だってあたし、もうすぐこの『世界』から――、こんな『世界』から出ていくから」


 千沙羅が何を言っているのかわからなかった。

 そして、何を思っているのかも。

 だけどその時、理解した。

 千沙羅は、誰よりもこの世界で一人きりで、誰よりもこの世界に絶望している。

 世界に絶望しているのは、俺だって同じなのに。

 きっとそれすらも理解できないほど、ずっと孤独に生きてきたんだろう。

 

 そして、思った。

 やっぱりさっき誘っておいてやればよかった、と。

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