第1話 極貧青年と屋敷と管理人


ある、田舎町。

手の中でくしゃくしゃになったチラシを広げなおし、改めて住所を確認してから、ぼくはきょろきょろと周辺を見回した。

舗装されていない赤土の道の砂利を、裸足で踏みつけ歩きまわるのは苦痛でしかない。


「このあたりのはずなんだけどな」


ぼく――ピーター・ガルニエは、現在、無一文で無職。ほとんど服とは呼べない、ぺらぺらのぼろきれの服と、手帳とペンの他は、なにも持っていない。

両親を早くに亡くし、預けられていた孤児院を飛び出してきたはいいものの、金もなければコネもない。もちろん、住む家も……ない。


「……今日くらいは屋根のある所で寝たいんだけどなぁ……」


体のあちこちが痛くて怠いのは、一週間前からロクな場所で寝ていないからだろう。

雨水でぬかるんだ地面、野犬の吠える森、酔っ払いの屯する街の道端……。


思い出すだけで気分が悪くなってきた。

せめて屋根があって、風が吹いてきても寒くない、ちゃんとした床があって体が痛くならない場所で眠りたい。

ぼくは改めて、手に握りしめていたチラシを広げた。



『入居者募集 家賃無料、三食賄い付、たまに実験アリ ディオダディ通り 666 アイオーン館』



家賃無料。三食賄い付。

道端に落ちていたボロボロのチラシに載っていた、あまりにも魅力的過ぎるその単語に、ぼくは一も二もなく飛びついた。

お金の心配をせずに、屋根のある所で眠れて、そのうえお腹いっぱい食べられる。今のぼくにとって、それ以上に望んでいるものは存在しない。

「たまに実験アリ」という文言が引っかからないかといえば嘘になるが、前者二つの条件の前にはそんなことはどうでもいい。兎にも角にも、野犬におびえ、硬い土の上で眠るのはもうこりごりだった。


「……ここ、か?」


ただでさえ田舎の寂れた町の、さらに郊外。

背の高い針葉樹が伸び、昼でも少し薄暗い森の中の小道を行くと、黒い鉄格子の門が見えた。

針葉樹の独特なにおいが鼻を刺す。不気味な雰囲気に、住所を何度か確認するが、ここで間違いなさそうだ。証拠に、門柱に掲げられた錆びついたブロンズのプレートには「Vila Aeon」と書いてある。


門の奥に聳える屋敷は、想像以上に大きい。ずっと昔に絵本で読んだお城がこんな風だったような気がする。屋敷の白い外壁にはツタが這い、夜空をそのまま染めたような深い紺色の屋根が美しい。西の方にえんぴつのように尖った塔が立っている。かなり年季の入った建物だが、ぼくにとっては十分すぎるほどに豪邸に見えた。


門柱のプレートの横、古い呼び鈴の紐を引いてみる。

りんりんりん。思いのほかきれいな音が鳴り響く。しばらくの沈黙の後、「ハーイ!」と男の声が聞こえてきた。


「あ、あの!!突然来てすいません!!あの、ぼく、その、チラシみて」


「アァ~~!ハイハイ!!もう少々お待ちヲ!」


しわがれた男の声が、奥の屋敷の扉の奥から聞こえてくる。直後、何かドタンバタンと物の倒れる音、何かが羽ばたくようなバタバタという音、キイキイという甲高い鉄のきしむ音、ガチャガチャという何か物のぶつかり合う音が外まで響いてくる。


「あ、あの~?大丈夫ですか?」


「ンン~!問題ありまセン!すぐ!すぐに出ますトモ!」


やたらと騒がしい室内にぼくが若干ハラハラしつつ様子を伺っていると、ギッ、と音を立てて屋敷の扉が開いた。


「やあやあやあ!お待たせ致しマシたネ。チラシをご覧になっタって?」


しわがれた声の主が、姿を現した。

汚れた白衣を翻し、ひらりと扉から出てきた痩躯の男は、海藻のようにうねった深緑の髪を肩まで伸ばしっぱなしにしている。ぼくは出てきた男の顔を見ると、少しぎょっとした。


その男は、まるで、大事故にでも遭ったみたいだった。

左目の下、鼻筋、あごのライン、おでこ……顔中が、古い傷跡だらけだった。右目には眼帯を当てており、眼帯の周辺は特にひどい傷跡だらけだ。傷跡のせいでボコボコと凹凸のある土色の肌の中で、左目だけが、宝石でもはめ込んだかのように爛々と赤く輝いている。


「初めマシテ。この屋敷の管理人をしておりマス。シンシャ、とお呼びクダサイ」


「あ……ぼ、ぼくはピーターです。ピーター・ガルニエ」


シンシャ、と名乗った男――管理人さんは門を開けると、にたりと笑ってこちらに掌を差し出した。反射的に差し出された掌を握ると、ごつごつとして歪な感触がこちらの手に伝わる。視線を落とすと、掌にまで傷があり、節くれだった細長い指は歪に曲がっていた。

思わず、握手した手を引っ込める。


「う、わっ」


「お?……アァ、驚かせてしまいマシたネ。大丈夫デスよ、もう古傷デスから」


よく初対面の人にビックリされるんデスよねェ、と笑いながら、管理人さんは傷だらけの手で眼帯の周辺に触れた。


「何度か大手術をしマシテ。体中に傷跡が残ったママなのデス」


「あ……そ、そうだったん、ですね……す、すいません」


驚いてついうっかり手を引っ込めてしまったが、不愉快にさせたかもしれない。入居希望で来たのに、管理人さんにこんな態度をとるなんて、入居を断られても仕方がない。背中につうっと冷汗が伝った。

それでも、管理人さんは気にした様子もなく、明るい笑顔を浮かべている。


「ササ、こんなトコロで立ち話もナンですしね、まあトニカク中へドウゾ……荷物などは?」


「あ、えと……ない、です」


ぼくの一言に、管理人さんが真っ赤な左目を大きく見開いた。

ぼろ布の服一枚と、丈の合わないズボンと、そのポケットに無理やりねじ込んだ手帳。手に持っているくしゃくしゃになったこの屋敷のチラシ。ぼくの持ち物はそれだけだ。

靴すらも履いておらず、長い道中裸足で歩いてきた足の裏は血が滲んでじんじん痛む。髪の毛もぼさぼさ。ぱっと見は、きっと乞食やルンペンと変わらない。


……管理人さんの顔や体の傷跡を恐れる資格もないくらい、今のぼくはみすぼらしい恰好をしている。咄嗟に自分の姿を隠そうとして、腕で擦り切れたぼろ服を隠すが、体中ボロボロなので痩せた腕では隠し切れない。

管理人さんは、ぼくの足の先から頭のてっぺんまでじっくりと眺めてから、ぽつりと「カワイソウに」と呟いだ。赤い瞳に憐みの色が浮かび、涙で少し潤んで見えた。


「オヤオヤ……随分と困窮していたのデスね。スグに中に入ってクダサイ。思う存分くつろいでクレテ構いまセンからネ……」


管理人さんがぼくを屋敷に招き入れる。ぼくは管理人さんの後ろについて、この屋敷……アイオーン館に足を踏み入れた。

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