牙としっぽ


まだ半数以上の教室が消灯している、静謐な朝。

3階の最奥にこしらえる教室も同様ほの暗く、一番乗りした女子生徒が、どこか優越感なるものを湧かせながら電気のスイッチを切り替える。

LEDライトが点灯する……よりも早く、窓際後方の角にぽつんと明かりが差す。人魂のように浮いたそれに、女子生徒はぎょっと壁にへばりつく。涙目になりながらおそるおそる目を凝らした。

怪しい光を放つそれは、鈍い金色をした、髪の毛だ。

なんだー髪かー、と流しかけたところ、稀に見る色合いにつと我に返る。

ぱっと電灯が稼働すると、先ほどにも増して涙腺が荒ぶり出した。


やつだ。

そこにやつはいる。


まるで台所でGと遭遇したように、電気も点けずにいた先客を見た。

いっそ人魂であったほうが、実体がない分、まだ害がなかったかもしれない。

何せその先客、底知れない攻撃性を持つ男。金髪長身イケメンと属性てんこもりな不良、綿貫たまきなのだから。


全身から雷鳴のとどろく彼は、入学初日からブイブイ言わせ、1-Aに精神的な被害をおよぼした。

顔も見たくないと思うこと数知れず。昨日撮ったクラス写真は、配布されたら直視せず、見るときは半目で慎重にいこうとクラスメイト一同誓いを立てた。


とても良く言えば、不良の鑑。

でありながら、今のところ遅刻欠席はなし。ましてや、登校時間はいつもきまって朝礼開始15分前。サボり常習犯な不良のパブリックイメージを覆す規則正しさだ。


それがどうだろう、4日目にしてその規則性が崩されたではないか。

女子生徒は黒板の上にかけられたアナログ時計を確認する。まだ8時なりたて。朝礼まで1時間もある。自分と同じく予習のために早く来たならまだしも、たまきの机にはシャーペンさえ置かれていない。

いったいどんな心境の変化だろう。


とにもかくにも、女子生徒はカバンを盾に身を護った。許可なく電気を点けたこと、不用意にひとりの時間を邪魔したこと、もしかしたら呼吸していることすら、不良の逆鱗に触れかねない。

睨み・舌打ち・ため息・脅し、どれが襲いかかってもおかしくなかった。


だが蓋を開けてみれば、小鳥のさえずりのほか何もなく、のどかな朝が延長した。

そもそも、電気のスイッチは許可制ではないし、教室は学校の所有だし、何も悪いことはしていないのだから責められる筋合いもない。わずか3日で確立された従属関係が、常識感覚を狂わせていた。


お咎めなしなのはもちろん喜ばしいが、今までとちがうとそれはそれで不安になる。

女子生徒は意を決して、ちらっとたまきのほうをうかがった。

いつもは人の目に過敏ですぐに殺気立つたまきは、今日はどこか上の空だった。

実際に窓の向こうの青ざめた天空を眺め、ぼーっとしている。おそらく2人目の入室者に気づいてすらいない。教室の電気についても念頭から抜け落ちていただろうことが、容易に推察できた。


4日目のこの異変の多さ。

昨日何かあったのだろうか。でも何が? 知る手立てがない。

女子生徒はせっかく早起きしたのに、まったく予習が手がつかなかった。


その後、クラスメイトが続々と登校してきても、たまきは変わらずたそがれていた。

全体的に覇気がなく、たまに手のひらに落ちる瞳は、空の色を染み込ませたように瑞々しい。

クラスメイトはみな、にわかに信じがたく、黒板前にて緊急ミーティングが開かれた。


「え、ちょ、何? 何かあった?」

「あれ本当に俺たちの知ってる、東の金鬼ヤンキー!?」

「剣山だと思ったらハリネズミでしたーってくらいちがうくない!?」

「最初からずっとあんな調子だよ……逆に怖い」

「何か悩みごとかな? 不良も、一応人間だものね……」

「眠いんじゃねえの? 睡魔には物理攻撃効かねえし」

「じゃあなんで朝イチでいるのよ」

「やっぱり昨日何かあったんじゃない? 駅で騒ぎがあったって聞いたよ」

「気になる……けど聞きに行く勇気は、私には……」


円陣を組んでひそひそと話し込む最中、


「何が気になるって?」


メガネをかけた顔が、文字どおり首を突っ込んだ。

渦巻き模様のレンズをはめこんだメガネに、クラスメイト一同、息を合わせて叫ぶ。


「は、灰田くん!!」


キタ、救世主!

垢抜けない小兵なナリをしていながら、器のでかさはクラス一、いや日本一とも言える男。たまきの隣の席をかれこれ3日間勤め上げている、灰田九のご出勤だ。

彼がいれば百人力。他力本願な活路に心苦しさはあるものの不安解消にはこれしかない。

お勤めご苦労様です! とクラスメイトが足並みそろえて頭を下げる――一歩手前、空の青さに浸っていたたまきの眼が、急にグワッと前方に振られた。

鬼のツノがにょきっと生えたように覚醒した面貌に、多くのクラスメイトの口から魂が抜けていく。


「あっ、たまき!」


しかし、対たまきのスペシャリストにかかれば、スマイル(¥0プライスレス)で鬼退治できる。

決まりが悪そうに目を逸らしたたまきに、追撃するかのごとく、九は挨拶もなしに近寄った。


「昨日はごめんなー?」


黒板前から身動き取れずにいるクラスメイトは、耳をピクリと疼かせる。

昨日。それは今まさに物議を醸していたトピックではないか。


「話したいことあったんだけど、つい居眠りしちまって。電車ってなんでああも寝やすいんだろうな? 起きたらもうおまえいないし」


九は自席にリュックを放ってすぐ、たまきの机に両手をついた。


「だから今日こそ言う! 俺さ、おまえに――」


まるで告白でもしかねない気迫に、オーディエンスは胸を熱くさせる。

肝心の受け手の目線は、新品同然の机の上にあった。

艷めく木目に突如咲いた、端の赤らむ白肌の手に、たまきは5枚の花びらで成る可憐な桜を連想する。


「ちっちゃ……」


口が滑り、あっ、となる。

九も思わず「あ!?」が出た。


「おまっ、人が気にしてることを……!」


傍から見れば、ヤンキーに盾突く陰キャの図。

周囲はさっと肝を冷やした。


(灰田くんストップーーー!!!)

(何を言われたのかわからないけど、ここはこらえて! 命を無駄にしちゃだめよ!)

(怖いもの知らずにもほどがある……!)

(ああ……この教室はもうすぐ血の海になるんだろうね……)

(さっきまであの不良に動きがなかったのは、いわゆる嵐の前の静けさってやつだったのかな……)

(今日まで他人任せにしすぎた罰かもしれねえな……悪かったよ、灰田……)

(せめて今のうちに降伏してくれ、後生だから)

(謝って済めばいいけど……)

(クラス全員で土下座でもしようか。みんな一緒なら怖くないよ。嘘、怖い。超怖い)


やっぱり、今日も今日とて荒れ模様。寒暖差が激しく、ブレザー一枚では耐えがたい。

クラスメイトが熱心に合掌しても、頼みの綱である九に引く気は見られなかった。


「今言ったのはこの口か? あぁ?」


九は利き手でたまきの両頬をがっつりつかみ、無理やり自分のほうに顔を向かせた。

この状況でたまきは真顔でいる。

クラスメイトはこの世の終わりを悟った。


「自分が背ぇでかいからっていい気になんなよこんにゃろ」


九はかまわずアクセルを踏み続ける。

至近距離で突き合わせた顔、ぐんと下降させた声色。どうやら先ほどの発言を身長のことだと勘違いしていた。


「い、いや、ちっ……」

「ん? もっぺん言わせる気か?」

「……」


花のようにかわいらしい外形に、無数に秘められた棘。

だんだんと深くのめりこんでいく。

たまきは口をつぐんだ。というか、ホールドされた顎がびくともしない。


(……不良やめたんじゃねえのかよ)


元ヤンの名残を肌に感じ、たまきはなんとも言えない気まずさがあった。

教室を血の海にするとしたら、それはたまきではなく、かつて西の辰炎と警告されていた九のほうだ。

だがここで下手に抵抗したら、罪は一手に現役のたまきにおよぶだろう。あらぬ誤解を生むのは極力避けたい。


それに、一応、失言をした自覚はある。

例のちっちゃい発言。誓って故意ではないし、悪意もない。ただ、昨日のことを思い返していただけだ。

そしたら昨日のキーマンの呼び声が聞こえてつい、サンタを待ちわびた子どもみたいなリアクションを取ったり、仲良しでもないのにつないだあの手が視界に入ってふと、第一の感想をリフレインしたりしてしまった。

どんな顔をすればいいのか、何と言えばいいのか、わからなかった。とりあえず失言の非を認めようにも喋らせてくれないし。


たまきの視覚にドアップで映る九の顔は、そのほとんどをメガネが占めている。

素顔を知ってしまったたまきには、メガネ越しにどうしても人相書きの絵がよぎった。


あの顔がきっかけで、昨日は早めに帰宅できたと言っても過言ではない。

そのおかげでストレスは少なく、ひさしぶりに8時間ぐっすり熟睡したし、今朝も目覚まし時計が鳴る前に起床できた。

だからだろうか、特に過去を隠しているわけでもないのなら、メガネなんかしなくてもいいと思ってしまう。どうせダテだろうし。


そっちのほうが好みとかではなく。

断じて。


生粋の“顔はこだわらない”派であるたまきは、意識なく黒縁の飾りを睨んでいると、ふっと顔下にかかる力がゆるんでいった。代わりにムニムニとたいして弾力もない頬をつままれる。


「いいし別に。ミケよりでかけりゃそれで」


タコの口になるたまきにつられ、九の唇もつんと尖る。

あらやだかわいい。

と思ったのは、三途の川を渡りかけたクラスメイトのうち真っ先に息を吹き返した、本日2番目の登校者である女子生徒だ。リアルでも目覚めが早かったのが祟ったのか、窓辺で雨降って地固まる光景を天国と見紛えた。

だって、先入観なく見たら、あんなの実質イチャコラだろう。


「……ミケ?」


されるがままのたまきが問うたのは、九の行動ではなく言葉のほうだった。昨日電車でそんな寝言を聞いたような記憶が、うっすらと浮き上がったためだ。

すると九の手がまた勢いをつけた。グイッと顎を持ち上られ、今でさえ近い距離がメガネの当たるすれすれまで引き寄せられる。


「気になる!?」


レンズの壁があってないようなものだった。

ぱっちりと開かれた瞳の、その細かな色の変化までありありと伝わる。

たまきは自分の心音が変わったのがわかった。何かのスイッチが作動したのだろうか。音の鳴りが身体を盛り上げる。


「写真あるよ。見る?」


九の握力上昇が止まらない。

頬の痛みにハッとして、たまきは九を押し返した。思いのほか強度な衝撃が加わってしまい、あわてて九の身を案じるが、当人はといえば涼しげにたたずんでいる。引きはがされた利き手を華麗にひるがえし、ズボンのポケットからスマホを取り出してみせた。


「はー、しゃーねえなー。いいよ、見せてやるよ。特別だぞ?」


九も変なスイッチが入ったようで、たまきを置いてけぼりにして話をどんどん進めていく。


「んー、どの写真がいいかな」

「い、いや……」

「まあ待てって。今選んでっから」

「な、何……」

「ミケのベストショット、見せてやるよ」

「だからミケって……」

「どれもめっちゃかわいいんだけどな!」

「……」


スマホとにらめっこする九は、たまきと話しているようで話していない。

先ほどまであれほどたまきに釘をつけていた目は、今はすっかりスマホの向こうにいる「ミケ」に骨抜きにされている。

たまきは眉をひそめ、反対方向の窓側へ首をねじった。


「……いい」

「あっ、これなんかいいかも!」

「いらねえっつってんだろ!」


語気を燃やして言い放ち、今日初の舌打ちをこぼす。

1-Aの教室だけ湿度が著しく低下していく。

マイペースな九も、さすがにスマホから顔を上げた。


「なにカリカリしてんの?」


(知らねえよ。おまえのせいだよ)


左右の脳で矛盾を生じさせながら、たまきは乾いた唇の皮を剥ぐように歯を立てた。

こころなしか胃がムカムカした。起きたのが早すぎて腹が空いていなかったから朝食を抜いてきたのだが、それがいけなかったのかもしれない。

食欲があるかと言われればそうではない。けれど空っぽな体内は何かに手を伸ばそうとしていた。


トン、と机に影が落ちた。

横目に見てみれば、そこには青と白に配色された紙パックが忽然と置かれていた。


「は……? 何、これ」

「牛乳」


見ればわかることを、九が真面目に答える。

200mlのそれにもちゃんと明記されてある。丸文字のフォントで「牛乳」と。

たまきが知りたいのはそういうことではない。


「それやるよ。よく舌打ちしてるし、カルシウム不足かもよ?」

「……」


その紙パックの牛乳は、九のリュックであたためられていたものらしい。

なぜ当たり前のようにそれをを持ち運んでいるのか。新入生テストでオール満点を取ったたまきでも、そのリュックが四次元ポケットでない限り、説明がつかなかった。


「で、これが俺の分」


黒いリュックからもうひとつ同じ紙パックが出てきた。なんだかんだ言いながら、九はやっぱり身長を気にしていた。

たまきは自分を心配してのことかと自惚れかけた意識をすぐに粉砕した。所詮、ただのついでだ。1個おまけでもらったのだろうと新たに仮説を提げる。

それでももらえるものはありがたくもらっておく。たまきは牛乳パックを手に取った。


「あと、こっちはミケの分!」


ベコッ。

3個目の出現に、たまきの手にある紙製のそれが内側に大きくへこんだ。付属のストローを刺したあとだったら大惨事になっていただろう。


「なんかうまそうだったからついでに買っておいたんだー」

「……へえ」


つまり、たまきのは、ついでのついでということ。

だとしても、もらえる事実に変わりはない。だけどいい気もしなかった。

隣でぺらぺらと紙パックの猫のイラストがかわいいだの、甘めな味らしくてミケも気に入るだの、どうでもいいことばかり語る九に、たまきは静かに牛乳パックを絞めていく。


(ミケミケって、まじで誰だよそいつ。猫みたいな名前しやがって)


まさか本当に三毛猫にミケと名付けているとは思いもよらず、たまきは九の惚気を拒絶するように中身の詰まった牛乳パックをストローでめった刺しにした。濁った液体が数滴、手元に飛び散る。

ほのかにぬるく、濃密な跡。感触は返り血とさほど変わらない。

ストローをつけたあとも、たまきはしばらく口をつけなかった。


(うーん……また勉強の相談しそびれちまったな)


九はうなじあたりを掻きながら、右手にスマホ、左手に牛乳を2個握りしめる。

愛猫だらけを保存したスマホの画面には、最近のお気に入りの寝顔ショットが写っていた。それを見て癒されながら、人猫兼用の牛乳をひとつリュックに戻し、もうひとつをごくごく飲み始める。


(先にごきげん取っておくのもありかと思ったけど……やっぱ安物じゃだめかー)


九は不良時代から基本的に手段を選ばない性格だ。

今回も、実は、私情のために物で釣る気満々だった。いろんな意味で甘い。







「はー、人生うまくいかねえなー」


酔っ払ったサラリーマンのような愚痴が、花盛りな学校の廊下にこだました。

公然と大口を叩く九の周りは、幸い、耳目のない加工品ばかりだ。

茜色の日差しを受け、いつもより200ml分重たいリュックを担いだシルエットが伸びる。千鳥足のような足さばきで、影の部分だけを踏んで歩いていく。


高校生活4日目も無事に勤めを終えた九は、一方で、いまだにたまきに勉強の相談をできずにいた。

隣の席というアドバンテージに油断していた。話せるときがことごとくないのだ。

入学したてのイベント期間中で、時間割のほとんどがオリエンテーションで埋まり、休み時間は移動か便所か購買に費やされる。放課後こそは! と勝負をかけるが、たまきは一目散に教室を出ていき、その後の所在は不明。

このままでは日がずるずると延び、「ダイエットは明日から」的な怠慢がしみついてしまう。


九は昨日の経験から駅を目指そうとしたが、たまきの下駄箱にはまだ上履きはなく、すぐさま校内に方向転換する。

たまきを捜しつつ、せっかくなので気になっていた場所に立ち寄った。

本日のオリエンテーションで案内のあった、図書室だ。県内トップクラスの蔵書数や併設された自習室など、司書の先生から直々に紹介を受け、九は心の中でお気に入り登録をしておいた。これだけ充実した設備を利用しない手はない。


今日は唾だけつけていこうと思い踏み入れた室内は、しんと凪いだ静寂に満ちていた。

奥行きのある空間に、等間隔で林立する本棚。隙間なく並べられた大量の本から漂う、自然発生の芳香。

いやでも勉学に専念できそうだが、意外と人気ひとけはなかった。


(放課後はみんな部活とか塾に行ってんのか? ってことは、ほぼ貸切!? うわー最高ー! 使い放題じゃん! あ、でもあんまり長居するとミケとの時間が減っちまうな……)


究極の2択に天秤を揺らしながら、簡易的に区切られた自習室側も覗きに行ってみる。

本来の目的を若干忘れつつあった九だが、自習室に一箇所だけ光った間接照明に、煩悩も運よく晴れた。

ちょうど会いたかった人が、中でひとり机に向かっていた。


「たまき!!」


たまきは耳につけたワイヤレスイヤホンを貫通する爆音ノイズに、否応なしに首を起こした。英文をしたためていたシャー芯がぽきりと折れる。

図書室ではお静かに、と自習室入口に貼られた注意書きに、九は小さく肩をすぼめて中に立ち入る。たまきのいる角席の隣に迷いなく腰を下ろした。


「な、なんで……」

「たまきも図書室来てたんだな」

「……あ、ああ……」


たまきはイヤホンを外しながらぎこちなくうなずく。

昨日のように駅で知り合いと出くわさないよう、ここで時間をつぶしていたのだ。

たまきが来た当初、自習室は空きがない人気ぶりだったが、金髪ピアス強面の三拍子を目にするなり、利用者はひとり残らず退散してしまった。

そうとも知らずに九は、この環境を非常においしく思った。


(俺らしかいないなら、別に好きに話していいよな? 勉強教えてもらうのもありだよな!?)


仕切りのついた勉強机にマーキングするようにリュックをドカンと据えた。さっき中に詰めこんだばかりの筆箱、教科書、ノート、プリントを机いっぱいに広げていく。


「ちょうどいいや。俺、おまえにずっと言いたかったんだよ」

「……」

「勉強! 教えてくれねえか?」

「……はっ? 勉強?」


今度ちゃんと謝礼もするし! と、物で釣る作戦も忘れずにねじこむ。

人というのは潜在的に見返りを期待している生き物だ。

今朝あげた牛乳を気に入ったならもう1個、とミケの分に用意したものを泣く泣く差し出した。たまきは食い気味に遠慮する。やはり安上がりだということか。


「なんで俺?」


ごもっともな質問だ。

この世の中には、教育指導者はごまんといる。学校の先生、家庭教師、塾、あるいは家族がそうである人もいるだろう。

加えてここは進学校、図書室の設備からもわかるとおり福利厚生を手厚く完備している。

あえて同級生を選ぶ必要がないはずだが――九の場合は、ちがった。大人への信用度が限りなく低く、たいがいが対象外なのだ。


そんななかでも家庭教師や塾を試案してはみたが、喧嘩の賭博がなくなり、小遣いがほぼない。ミケの生活費もやっとな状態で、今日持ってきた牛乳は九にとって贅沢品も同然であった。

稼ごうにも地元には顔が割れていてどこも雇ってくれず、かといって今さら裏稼業に片足を突っ込む気持ちもない。唯一世話になっている動物病院にダメ元で願い出たものの、今は人手が足りているらしかった。


現在、学校近辺に範囲を広げてバイト先を探している。

働くならできるだけ早いほうがいい。

金はいくらでも必要だ。大学の学費も貯めたいし、ひとり暮らしもしたい。いつも留守番してくれているミケのためにおもちゃや家具もほしい。

現状の養育費だって、いつまで工面されるかわかったもんじゃなかった。たとえ明日家を差し押さえされても、九は驚かない自信があった。自分の親はそういう人間なのだ。


小学2年生のころ、当時の担任の先生に一度だけSOSを出したことがあった。何の意味もなかったけれど。

大人はどこまでも大人の味方だった。

ただそれだけだった。


九は単純バカであり、純粋バカではない。

頼る相手はもう間違えない。


「俺は、おまえがいい」


顔を引き締めて告げた九は、いつになく凛々しい静けさをまとっていた。図書室ならではの風情によく溶けこみ、厳粛と言葉を慎ませる。

だが数秒も持たせず、大げさにほころびをつくった。


(それになんたって学年トップだし! 隣の席だし!)


雰囲気が二転三転し、たまきの目は瞬間的に瞬きの回数を増す。シャーペンを握る手元を灯す、黄色いライトもチカチカと濃淡をつけた。

たまきは軽く咳き込んだ。


「お……おまえって言うな」


ふはっ、と九は噴き出す。おどけたように謝り、たまきの名前を連呼すると、うるさいと怒られる。理不尽。


「俺のことも気軽に呼んでくれていいから。あ、名前覚えてねえか? 俺は別におまえ呼びでもいいけど」

「……九だろ。灰田九」

「おおー! フルネーム覚えてくれてんだ!」


ピンポンと正解の効果音の代わりに手を打ち鳴らす。賞賛のハードルが幼稚園児並みでかえって胡散臭い。


「からかってんのか」

「え? まさか。だって俺、クラスのやつらの名前、まだ全然わかんねえもん。たまきだけだよ。ちゃんと覚えてんの」

「…………嘘つけ」

「ほんとだって」

「じゃあ俺の苗字は」

「えっ。……わ……め…………あーっ、そうそう今日の宿題! まったくわかんなくてさ!」


たまきの机の上に乗った英語のプリントに、九は強引にフォーカスを合わせに行く。おい、と半目で斬りかかるたまきに、豪快に笑って肩を小突いた。


「冗談だって。ワタヌキだろ。ワタヌキタマキ。調べたからわかるよ」

「調べたのかよ……」

「わからないことはすぐに調べる。インテリの基本さっ」


メガネを人差し指でクイッと上げながらキメ顔。

たまきがバカを見るような目でいることに、幸か不幸か、九は気づいていなかった。

たまきはため息をつき、椅子の角度をわずかに九側に開いた。


「……どこがわかんねえんだ」

「え! 教えてくれんの!?」

「……わかるところならな」


(それって全部ってことじゃーん!)


依頼承認の言質、ゲットだぜ。

九はすかさず両手でたまきの手を握り、ぶんぶんと上下に振った。さんきゅー、さんきゅー! 日本語の発音で猛烈に感謝を繰り返す。

ひとしきり満足すると、たまきの手から自身の英語のプリントに持ち替え、万歳のテンションで高く掲げた。


「これ! 教えてくれ!」

「……それ、新入生テストの復習みてえなもんだぞ」

「あはは、だからわかんねえんじゃん」

「……」


これが、テストの成績1位と最下位の差である。

たまきは九に上下運動させられた手首をさすりながら、ほぼ解き終わっているプリントを見直した。最後の問10、記述問題で芯を転がした、未完成の英文。そこに単語を3つほど書き足すと、シャーペンを筆箱に帰した。

九の両手に抱えられた同じプリントは真っ白で、手垢さえついていない。たまきはその問2の項目を指でつついた。


「問1は単語の暗記メインだから、問2からでいいか」

「おう、よろしく!」


九は腕まくりをし、今からファイトするかのようにプリントと対峙する。

ありきたりな「よろしく」の4文字が、無数の金属で鞭打つたまきの耳には漢字変換されて聞こえた。


筆圧強めに学年・クラス・出席番号・名前を記入し、プチ勉強会はスタートした。

学年首席ともなると享受も教授も巧い。要所を押さえた的確な説明で、すらすらと答えに導いていく。

九自身、1年間の受験勉強で基礎がしっかり身についており、理解が早かった。解説を聞いたあとは応用問題も楽々となぎ倒している。


あまりたまきが手を煩わせることなく、あっという間に問7の読解問題に達した。

読み込みの時間のため、自習室本来の静寂が用意された。

互いの息づかいが鼓膜を焦らす。たまきは変に気にして呼吸のリズムを遅らせた。胸のあたりが苦しくなっていく。

対照的に、隣の呼吸音はずっと安定していた。

それが妙に気に障り、たまきは仕切り板から半顔をはみ出して様子を窺う。


すぅ、すぅ、と九は無防備にもゆったりと船を漕いでいた。


(またかよ……)


昨日の電車での光景と重なり、たまきは脱力して姿勢を崩した。

相変わらず九は気持ちよさそうに寝入る。

だんだん頭の揺れが深くなった。振れ幅が大きくなるにつれ、メガネの位置が沈んでいく。かっくん、と九の首が折れると、ついにメガネが転落した。デジャヴの連続。たまきはあわてて隣の机に身を乗り出し、メガネをキャッチした。


ひと息つく、ことは叶わなかった。

あらわになった九のミルキーな素顔に、息がかかる。あと1センチ動けば、足が、肩が、頬が、触れてしまいそうだった。


まつ毛の長さ、生え際まで鮮明に捉えられた。

クジャクの影絵のような模様が、目の下に描かれている。その下にうっすら塗られてあるのは、不健全に青みがかった色。

白雪の肌にいやになじんだそれは、快調な朝を迎えた今日のたまきにはない。逆に言えば、安眠できずにいた昨日までは、たまきの目元にもそれが敷かれていた。


(何時まで起きてたんだか……)


夜行性の九は、日付を超えても眠くならず、せっかくなので獣医になる夢のため遅くまで勉強していた。

その反動で行きの電車では爆睡しているが、シンデレラタイムを反しているせいか、クマがずっと目の下で冬眠している。

そういった事情を、同じ境遇であるたまきはあらかた予想できた。


不良は夜こそが主役。

寝静まる深夜の町に、夏の虫のようにうるさく喚く。嗤う。殴る。蹴る。

血があってもわからない暗闇の中。眠ったら最後、二度と目覚められない――そんな予感がひしめく。それを恐怖と取り、必死に抗う者もいれば、スリルとして味わい悦に入る者もいた。

争いは終わらない。太陽がすべてを明るみにするまで。


当然、睡眠時間は足りない。昼夜逆転生活を余儀なくされ、食習慣は乱れ、身体活動はせいぜい喧嘩くらい。

それでもたまきは、学校で居眠りしようともなるべく出席し、栄養をサプリで補い、家では筋トレをし、どうにかこうにか軌道修正してきた。

それに比べ、九ときたらやりたい放題。肌の異様な白さも、体格が平均以下なのも、おまけに脳のしわが少ないのも不摂生な生活の表れといえた。


寝られるときに寝ないといつか倒れてしまいそうなくらい九の顔は血の気がない。

起こすに忍びなく、たまきはそっと顔を離した。

視線の動線に、つと、何かが触れる。

声が、出そうになりとっさに手の甲で口を押さえた。


腕まくりされた九の手首。

そこに見つけたのは、脈を裂くような線状の傷。

左右どちらとも、同じ箇所に何本も。どれも深さはなく、赤茶にくすみつつある。


(ああ……)


たまきの縮まった瞳が、淡くかすんでいった。


(元とはいえ、グレてたんだもんな。何かがなけりゃ、なんねえよな)


不良とは、なりたくてなるものではない。気づいたらそうなっている。もはや現象に近い。

たまきもそう、自ら名乗りを上げたことはなかった。東の金鬼なんてこっ恥ずかしい二つ名はもってのほかだ。

人生、うまくいかない。

本人の意思とは関係なく、世間はそういう目で見る。見えない傷が増えていく。喧嘩で勝っても、テストで100点取っても、心の不良は治らない。


かさぶたにもならない。


(でも、それでも、こいつは「元」であって、今はちがう)


昨日も今日も、九には隠す気が見られなかった。過去を吹っ切れている証拠だろう。

素直にすごい、とたまきは思う。

どうして太陽の下でも堂々と生きられるのか。


「『ミケ』ってやつの、おかげか」

「……ん」


九の頭がうなずくように直下した。その気流に反って背骨から弾み、つられて瞼も跳ね上がる。

潤いに満ちた丸い瞳に、たまきの表情がにわかに反射する。

たまきはどぎまぎして、何もうしろめたいことはないのにドキドキして、思考がときどき飛んで言葉を成せない。母国語でない英語では難なく文章を綴り、解説もしていたのが嘘のようだ。


「あ……」

「お、起きてたよ!?」

「……」


カッ!! と九の黒目が水分を吹き飛ばした。たまきの汗とともに。


「……」

「あ、嘘だと思ってんだろ? 本当に寝てねえから!」


英語で語られた羊使いの老父の動向を、ちょっと目を閉じて考えていただけあって。

などと供述するK氏に、たまきは逆に冷静になった。


「ほらよ」

「えっ」

「メガネ。そのサイズ合ってねえんじゃねえの」


落ちたメガネが机に置かれる。

寝てる間に更地となった目元を、九はぺちぺちと触って確認した。ためらいがちに礼を言ってメガネをつけ直す。

九の小顔にはやはりひと回り大きく、一気に田舎臭さがあふれ出る。


そのダテメガネは昔、家に帰りたくなかった九が、用もないのに寄り道した古着屋で、店員に追い返される際に無理やり押しつけられた売れ残りである。

その後、九もタンスの肥やしにしていたが、進学にあわせて引っ張り出し、ここぞとばかりに使っている。

優等生キャラを立てるには最も有効的だと信じてやまない九に、遠回しに指摘してきたのは、たまきがはじめてだった。


「たまきって、やさしいよな」


あいにく額面どおりに受け取った九には、心配してもらえる喜びだけが残った。


「は……単純」

「いやだってさ、こうやって勉強教えてくれてるし、眠りこけても怒らねえし。俺ならウザくて手ぇ出ちまう」


(ウザい自覚はあんだ。……さっきの嘘を自分でバラしてることには気づいてなさそうなのに)


それでいて、手が出るというワードチョイス。爽やかな笑顔。元ヤンらしいバランス感覚である。

たまきは深く息を吐きながら、スリムな椅子にもたれかかった。

問7に居直った九は、いっそう袖をたくし上げた。指先でペンを踊らせながら、羊使いの老父の会話文に含まれる穴を埋める。ロゴのはげたシャーペンを握る拳に、始終たまきの視線を感じていた。


「そういや昨日大丈夫だった?」

「何が」

「ほら、絡まれてたじゃん。地元帰ってから何もなかったかなって思って」

「あー……まあ」


たまきは曖昧に首肯する。


「ああいうの、よくあんの?」

「いや、最近は。……あいつらくらい」

「ふーん?」


英語の長文に意識を割く九も、相槌がテキトーになる。


「あいつらに昔……いじめられてて」


ペンの走る音が、不自然に止まった。

一拍の間を置き、「ふーん」だの「へえ」だの心のこもっていないリアクションが落ちる。かと思えば、「あっ!」とひらめいたように声を上げた。

目にも止まらない速さで問7の選択肢にチェックを入れると、突然九は席を立つ。


「俺、ちょっと用事思い出した」

「え?」

「ごめん、先帰るわ」


荷物をまとめ出す九に、たまきは呆然とする。

いいけど、別にいいんだけど、けど、でも。解きかけのプリントをつかんだ九の手を、目でたどる。


「し、宿題は」

「あー、また明日教えて」

「……それ、明日までだけど」

「金曜は英語2限だろ、よゆーよゆー」


九は肥え太ったリュックを颯爽と背負う。


「今日はありがとな。また明日!」


とっさにたまきは何かを言おうとして息を吸った。だけど何も言うことがなく、沈黙を受け入れるしかなかった。

おとなしく机に向き直った。

また独りになった図書室は、先ほどよりも広く感じた。




(やっぱ、リストカットっぽいのを見ちまったのがまずかったかな……?)


唐突の解散の理由に悩んでいたら、30分が秒で過ぎていた。言うまでもなく勉強は1ミリも進んでいない。

いっそ一緒に帰ればよかった。いや、そのもっと前、自分語りをしたことがいけなかったのかもしれない。


(いじめられてたこと知って引いた可能性も……)


たまき自身としても、明かすつもりはなかった。

あれはトラウマであり、汚点であり、はじめにつけられた傷だ。

身内にもなかなか話しづらいことを、出会って数日の、ほぼ他人のようなやつにさらけ出せるわけがない――と、思っていた。あの、手首の傷を目の当たりにするまでは。


わざとではないとはいえ、片方だけ弱みを握るのは不公平だろう。

たまきは、誠実でありたかった。九が分け隔てなく接してくれるからこそ。


しかし、話をした途端、九は去ってしまった。それがこころなしか逃げていくように見えた。

あんなに嘘が下手だったのだ、本当に急用だろう。そうあらためたところで、思考回路を九に独占されていることに気づき、たまきは頭を振った。


どっちでもいいじゃないか。どう思われようと関係ない。今までそうやってやり過ごしてきた。


たまきはリセットをかけるように自習室から自身の痕跡を消した。

校舎を出て、駅に直行した。混み合った改札口を目と鼻の先に捉え、歩きながらスクバから定期を取り出す。


雑踏の手前でうずくまっている学ランの少年がいた。友人らしき2人がそばについているからか、周りは横目に案じながら改札を過ぎていく。

友人の手を借り、やっとのことで立ち上がったその少年は、たまきの姿を目視するとひどい立ちくらみを起こした。


「た、たまき……」


土色のアホ毛だらけの石頭、紫外線を吸収した阿呆面。

2日連続、亮との遭遇だった。


図書室での工作は無駄骨だった。いや、無駄と言い切るには、あのわずかな時間に九の言動が強く印象づいてしまっている。

たまきはもどかしさに駆られ、ライオンのたてがみのような髪をかき乱した。


「あ……あ……」

「……」


前回と同じミスはしない。たまきは亮の前を素通りした。


「わ、わ…………わ、悪かった……っ」


定期をかざした改札が、ビービー、泣きじゃくるようにアラームを鳴らした。


「……え?」

「だ、だから……ご……わ、わる……悪かった」


二歩ほど下がったたまきの元に届く、カードの接触エラーを知らせる機械音、そして――思いがけない謝罪の言葉。

轢き殺されたカエルのようなその声は、紛れもなく、亮のものだった。


かれこれ10年以上の付き合いになるが、亮が謝るところを見たことがない。

大っぴらにたまきをいじめていた、小学校低学年のころから、ただの一度も。


いじめの発端は些細なことだ。

勉強きらいムーブをする周りに、ひとりだけ「ぼくはすきだよ」と言った。それがたまきだった。

当時クラスのムードメーカーだった亮は、ゲーム感覚で派閥を分けた。要は、たまきを仲間外れにしたのだ。

最初はハブって笑うだけだったのが、日に日にエスカレートし、ノートを破ったり頭を叩いたり、服を脱がしたりすることもあった。

十分な犯罪であったが、亮は外面がたいそうよく、隠蔽工作もうまかったので、周りはむしろ仲がいいと思い込んでいた。


耐えかねたたまきは、ある日、亮に体当たりをして逃亡に成功。

しかし、その翌日、担任の先生に呼び出しを受けた。いじめられていた側の、たまきだけが。

どうやら亮は打ちどころが悪く、腕を打撲したらしかった。


人を傷つけてはいけません。

暴力は犯罪です。

気持ちは言葉にしましょう。


だから?

そう説教されたところでたまきに罪悪感はない。

この程度で叱ってくれるなら、いじめをやめさせてほしかった。やり返す前に、自分を止めてくれればよかった。

とうの昔にたまきの身体は悲鳴を上げていたというのに。


そこに味方はいなかった。


その後、たまきはいじめられるたび、同じやり方で回避するようになった。唯一通用した保身の術に頼るしかなかったのだ。怒られてもなんとも思わなかった。痛い思いをするよりずっといい。

体格がいい分、力が強いたまきに、亮率いるいじめっ子らはやがて直接的な加害をしなくなった。その代わり、たまきの醜聞をあることないこと作為的に拡散した。人気者の亮の発言を、みんなが信じた。


そうしてたまきは学校イチの問題児に成り下がった。

好成績を収めても、学年が上がっても、環境はひどくなる一方で、反抗心で髪を金に染めた。するとヤのつくような人に絡まれるようになったが、例の対処術は意外と誰にでも効いた。

中学では「東の金鬼」というレッテルを貼られ、もう取り返しがつかなくなっていた。


たまきを深淵に追いやった当事者は、首謀者は、諸悪の根源は、何の罪にも問われずに。


「お、俺が、悪かったよ……っ」


――問われずにいた、今日までは。


今、改札を横に逸れた先で、昨日も付き添っていた2人とともに亮は頭を低くしている。

夢ではない。なぜなら、たまきのうしろに並ぶ改札の列から、様々な感情から成る迷惑そうな視線が、痛々しく刺さっている。

さすがに無視できず、たまきは慎重につま先を向けた。


「なんで……」

「お、俺はっ! ち、ちゃんと、謝ったからな……!」


近づいて見ると、そばかすが浮くほど亮の顔色は悪かった。


「口先の謝罪ならいらねえよ」

「……ち、ちが……」


クソ、とこらえきれない本音を滑らす。左右の2人に支えられた体をよろめかせた。


「あ、あいつが……」

「あいつ?」

「あいつが――西の辰炎が、俺のもんだっつってたから……だから俺は……」

「……え?」


遡ること15分前。

部活見学を終え、駅に来た亮一行を、待ちかまえている人物がいた。途中で宿題を切り上げた九である。


『よお、昨日ぶり』


2人から本性を知らされた亮は、九の姿を認識した瞬間、視界が真っ暗になった。


『あんた』

『っ!』

『そこの真ん中の、茶髪の。そう、あんた』


あげく指名され、ブレーカーが落ちたように身体が動かない。


『たまきのこと、いじめてたんだって?』


そんなことを話すような関係性になっている事実が、九の本性とともに聞いた仮説――東の金鬼は西の辰炎のペットらしい――に説得力を与える。


『いるよな、弱い者いじめが好きなやつ』

『い、いや、俺は……』

『そういうやつこそ弱ぇのにな』

『ひ……っ』


昨日と変わらない三下の出で立ち、なのに圧倒的強者の余裕が言動の節々からダダ漏れていた。一時期、他の追随を許さなかった地区のドンの貫禄は、ブランクを経た今も健在だ。


『あいつはもう俺のもんだから。手ぇ出すなよ』


道を聞かれて教えるようにさらっと宣告しながら、殺気はちゃちな黒い枠に収めない。


『意味、通じるよな?』


――言葉が通じねえから、拳で語ろうとしたんじゃね?


西の辰炎は去るもの拒まず、飽くまでやめず。

亮たちに選択肢はない。頭で考えるまでもなく首を縦に振った。

九のぎらつく三白眼が、満足気に瞼の内に伏せられる。


『よーし、それじゃああいつに謝っておけよー』


そう言い残し、九は人混みの中に消えていった。

姿が完全に見えなくなり、亮は人目はばからずその場にへたりこんだ。どこも傷つけられていないのに、大量出血したかのように息苦しかった。

早く楽になりたかった。


「おまえらが組んでること知ってたら、何もしなかったのに……っ」


ぽかんとしているたまきに、亮ははらわたをくすぶらせながら奥歯を軋ませた。

幼いころから根底にある、優位に立っていたいプライドは、たまきだけならまだしも、ふたりがかりで来られたら捨てざるを得ない。


「とにかく俺は謝ったから! もうおまえらには関わんねえよ!」


屍のような顔にぬめついた汗を流し、亮は頭を抱えるようにしてまた壁際で膝を折った。

たまきはわけがわからないまま3番ホームに急いだ。もしかしたら九がいると思って。


(あいつが、何だって? 俺のもん!?)







同時刻、九はすでに最寄り駅に着いていた。

駅員もいない淡白な構内からスプレーで落書きされた商店街へ、鼻歌まじりに移動する。


店前や脇道でたむろしている少年少女は、髪や眉や爪の一部がなかったり制服が改造されたり、もれなく柄が悪い。

身だしなみをしっかりしているタイプの人は、はじめからこんなところに寄り道しない。

町にひとつずつそろった小中高は、右から順に不良校、不良校、不良校。校則はあってないようなもので、クラスメイトが全員そろう日は年に数回あるかないか。学級崩壊は日常茶飯事。

そんな底辺の地域で、放課後を満喫できるのは不良くらいだった。


不良の反対要素を溶かして固めたような格好の九が、のこのこ歩けば、とりわけ目立つのも必然だ。


「おいあれ」

「見かけねえ顔だな」

「あの制服、さくらのじゃね?」

「まじ? なんでこんなとこにいんだよ」

「絡んでくださいって言ってるようなもんじゃんな」


喧嘩番長だったころから1年もの時が経ち、風貌も180度変わっているために、あの少年が灰田九であることに誰も気づかない。


「お望みどおりいってやるか。おーい、そこのガリ勉くーん」

「あっ、どうもっ」


遠くからからかうヤカラたちに、九は後頭部をさすってほほえんだ。


「……なんでちょっとうれしそうなんだ?」


(あは、ガリ勉だって。褒められちった。やっぱいいことすると連鎖するもんだな〜)


ドン引きして距離を取る周りをよそに、自習帰りの達成感をメガネにこめ、通学路を闊歩していく。

物で釣る作戦は何の役にも立たなかったが、勉強の礼として、たまきをいじめていたという昨日の3人組に釘を刺したのは、我ながら英断だったと、九は自画自賛する。

元より借りを作るのは性に合わない。けれどそれを差し引いても、他人のために行動した帰りというのはとても清々しいものだった。喧嘩で圧勝したときとはまるで比べものにならない。

花弁を巻き上げる春風を、肩で切って歩いた。



「ただいまミケ!」


九が玄関の扉を開けると、そこは殺風景だった。親がいないのはいいとして、ミケは今日気分が向かない日だったようだ。

リビングでは、カーテンの隙間からこぼれる昏いひだまりに、やわらかな弧が垂れていた。

ひなたぼっこに夢中なミケに、九は堂々と足音を立てて帰宅を知らせる。リュックとブレザーを投げ捨て、名をささやいてようやく、とんがり山の耳と黄金の猫目がおっとり揺れた。


「ミケ〜いい子にしてたか〜?」

「……」

「俺もまじいい子だったぜ。はじめて人助けってやつやったんだ」

「……キゥッ」


どこか行こうとするミケに、待て待て、と力づくで抱きかかえにいく。それでも腕から抜け出そうとして、九はぎゅうっと抱きしめた。


「たまきと因縁あるやつがいて、俺がそれとなく縁切りしてきたんだ」

「キュ……」

「あ、手は出してねえよ? 俺はもう不良じゃねえ、頭のキレる優等生だからな!」

「キュゥゥ……ッ」


束縛されたミケのほうが手を上げる。シャッと九の手首に爪がかすった。

細く腫れた線が、しわのように重なる古傷を上書きした。


「ありゃ、またやっちった」


まるで自傷行為にも似た爪痕は、九とミケ独自の「体当たりコミュニケーション」であり、九は痛くもかゆくもない。

むしろもっとじゃれ合いたくて、手のひらでミケの顎を包み、5本の指で両頬を揉みしだく。九のは何もしなくてもでろんでろんにほぐれている。

ミケは傷つけた詫びのつもりか、ばたつかせていた手足を丸くした。そんなところもツボで、九は目にも止まらぬ早さでスマホのカメラ機能に永久保存した。


「ミケは今日もかわいいなあ!」

「キュゥ」


九の記念すべき初の人助けはたまきであるが、助けるという行為自体は、ミケのときがはじめてだった。

それから、九の手は傷つけるためではなく、愛でるためのものに生まれ変わった。

ミケにケガをさせられても、100倍返ししようなどとはもちろん思わない。


もう喧嘩はしない。

夢を追いかけ、愛が勝つ時代の到来。

季節は、桜満開の春である。



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