元ヤンと現役

マポン

少年と猫


出会いの季節、4月。

奥ゆかしく咲いた小ぶりな桜は、あくまで引き立て役として、本日高校入学を果たした新入生を祝す。長く厳しい受験生活を乗り越えた新入生には、校門にそっと色を添える痩せた桜の木が、受験シーズン真っ只中に点灯された大都会のクリスマスツリーよりも輝かしく見える。

かつてその桜の木が若く、シマの象徴となっていたころに創立された公立高校――さくら高校。安直なネーミングセンスとは裏腹に、地元では進学校といえばここと言われるほど評判高く、毎年数多くの生徒を名門大学に合格させている。


そんなスマートでグレートなエリートたちが、約200名、本日新たに迎え入れられる。

狭き門をくぐり抜けただけあり、新入生はさくら高校の肩書きを背負うに足る見識があり、道理がある。

つい先月、薄紅のつぼみも目立たなかったころは、まだ中学生だったとは思えない。

おはようございます、ありがとうございます、よろしくお願いします、はじめまして――当たり前のことを当たり前のように口にし、人当たりのよい笑顔を向け、その延長で教室にたどり着く前から早速友だちができた人も多くいた。

まさに、期待に胸打つ、出会いの季節。


晴れやかな風が、たしかに校内に吹いていた。

入学日ということもあり、余裕をもって登校する生徒が大半を占め、新1年生の教室の並ぶ本校舎3階はすでに活気づいている。どこの教室も、こそばゆい緊張感と背伸びした愛嬌で、ほどよく浮ついた雰囲気があった。


――が、3階の突き当たりにかまえる「1-A」の教室だけは、どこか様子がちがった。


「……」

「……っ」

「お、おはよう……」

「う、うん……」

「……」


浮ついているというか、浮いている。


他愛なくにぎわう他クラスと比べ、誰も積極的に話そうとしない。むしろ口を慎んでいる節さえある。

挨拶もはばかられ、しいて近隣の席同士でアイコンタクトを交わす程度。一周まわって、歴戦をともにしたチーム感を思わせる。

もちろんしたくてしているわけではない。できることなら他クラスみたく「どこ中出身?」「髪型かわいいね」「なんて呼べばいい?」なんて定番のトークテーマで徐々に仲を深めていきたい。せっかくのクラスメイトなのだから。

だけど、どうしてもできなかった。


窓の外は雲ひとつない青空だというのに、1-Aの教室に限り、低気圧が押し寄せ曇天に沈んでいる。

始まりにして終わっている空気。

そうなった原因は、火を見るより明らかだ。


「……チッ」


マッチをこすったような舌打ちが、いやに響いた。各席で縮こまる1-Aの生徒は、一様にびくりと震え上がる。

誰もが神経を尖らせるのは、窓際のうしろ。その角席にどっしりと身を置く少年に、緊張を通り越して恐怖を覚えていた。


周りの視線を舌打ちで蹴散らす喧嘩腰な態度に似つかわしく、その少年は、頭からつま先まで見事にオール校則違反な出で立ちだった。


まず目につくのは、乾いた金色の髪。生え際が黒く、見るからに地毛ではない。ぱさついた襟足は、痛い痛いと言わんばかりに外側に跳ねていた。

進学校と名高いさくら高校は、メイク・ネイル・ヘアカラーは原則禁止。ましてや入学初日にぶっちぎりでイエローカードを決める問題児は、さくら高校の長い歴史上初である。


そんな派手な髪の毛をもってしても、耳にじゃらじゃらとついた安全ピンのようなピアスは隠しきれない。今にも血が流れてきそうで、クラスメイト、主に女子は顔面蒼白になる。

それだけでなく、ボタンを過剰に開けた制服から覗く鎖骨にも、釘のようなピアスが貫通している。

現状、ほくろの数をピアスが上回っている事実に、「いい趣味してんな!」と京風のツッコミをかませる猛者はいそうにない。むしろ校章の入ったブレザーに律儀に名札をつけていることに、「あ、そこはちゃんとするんだ」と感心してしまいそうな雰囲気だ。


幅を広くとって組まれた長い脚は、机におさまりきらず、右の上履きだけ机の上から少しはみ出ている。下ろしたてだろうに、かかとが思い切りつぶれていた。

今後クラスで幅を利かせ、逆らうやつはこの上履きみたいにつぶすから覚悟しておけ! ――という新手の意思表明と取ったクラスメイト、主に男子はちびってトイレにも行けない。


まるで絵に描いたような不良。

今まで勉強に部活に励んできた真面目なエリートたちにとって、その存在はとうてい理解に苦しむものだった。

心を開く気のない仏頂面は、はっきりとした目鼻立ちにすっきりとした輪郭で、生まれ持った造形の美しさが際立っている。だからこそ、感情をどこかに捨て置いた表情に、尋常ではないほど恐怖心を煽られた。


いやいや見た目で判断してはいけないだろう!

と、心やさしき少女がひとり、勇者のごとく立ち上がったことがあった。

しかし、


「あ、あの、はじめまして……、あの、わ、わたし……」


ギロッ。


「ひぃっ……」


たったのひと睨みで、あえなく撃沈。

半泣き状態の少女をすぐさま保護したとある少年は、どうやら有識者――金髪の少年と同中だった――らしく、わざわざ廊下にかくまい彼の話を聞かせてあげた。


いわく、隣の地区では知らない者はいない有名なワルだという。

郊外の地区を東西南北に分けた町のうち、東にある中学をすべて拳でまとめあげた番長。人呼んで「東の金鬼キンキ」。

気に入らないやつは男女問わず血祭に上げ、両手では足りない人数を不登校に追いこんだらしい。


伝聞されるエピソードというのはたいがい脚色されがちだが、有識者の証言には同中出身ならではの臨場感と説得力があった。さらに、本物の「東の金鬼」たる気迫を目の当たりにしたこともあり、心やさしき少女はすっかり臆病風に吹かれてしまった。

廊下に聞き耳を立てていた他のクラスメイトにも話はあっという間に拡散され、やがて誰もが怒りを買わないよう口を閉ざすようになった。


(無理無理、怖すぎ! なんで不良がいるの!? ここって進学校じゃなかったっけ!?)

(うう……ただでさえわたし、イケメン苦手なのに……)

(迫力やばすぎだろ。これから1年間これ? まじ?)

(前の席の人かわいそう……。隣の席の人は……まだ来ていないみたい)

(僕だったら、金髪ヤンキー見た瞬間、卒倒して家に帰るよ)

(あーもうだめ……この空気耐えられない!)

(誰か……)

(誰でもいいから空気を変えてくれ!)

(せ、先生……! 早く先生来て……!)


まだ見ぬ担任の先生に助けを求めるほど生徒たちは追い詰められていた。

その願いが通じたのか、チャイムが鳴る1分前、閉ざれた前方の扉に人影が差した。

ガラガラと扉が開かれる。

入ってきたのは、皮肉にも、いかにも冴えない少年であった。


少しボサついた黒髪に、牛乳瓶のふたのような分厚いレンズのメガネ。シャツは第一ボタンまできっちり留められ、背負っている黒いリュックは、男子にしては小柄な体系にはやけに大きく見えた。


(不良に一番に狙われるタイプだ……)


満場一致の感想だった。


(あーーあいつじゃだめだーー! 逆に悪化するーー!)

(がっかり……。い、いや、彼が悪いんじゃないんだけど!)

(ごめんな、第一印象で決めつけて。でも……)

(100パー陰キャだよね)

(陰キャとヤンキーなんて、水と油くらい相性最悪だよ! どうすんの!?)

(どうかあの不良が弱い者いじめしませんように……!)

(メガネくんも! お願いだから空気読んでくれ! 頼む!)

(おはようって言いづらいから会釈だけでもしておこう。がんばろう、お互い。ほんとに。まじで)

(てか待って! 空いている席って、あとあそこしか……!)


黒板に貼られた座席表を見て移動し始めたメガネの少年に、一同ハッと息を呑み、頭を抱えた。

少年が一列ごとに通り過ぎていくにつれ、周囲はぽつぽつ雨が降り始めたように冷や汗を流していく。せめてもの抵抗に、必死に念を飛ばした。


行くな! そっちに行ってはいけない!

なぜなら、そこには、金の鬼がいるのだから!


メガネの少年は、やはりと言うべきか、テレパシーを使える超人類ではないようでちっとも効き目はなく、着実に近づいてしまっていた。

不良の待つ、窓際角の隣の席へ。


というかそもそも、念という不確かなものに頼らずとも、あれほどわかりやすくラスボス感が漂っているのだからいつ足が止まっておかしくない。

なのに少年は停止も後退もせず、ずっと一定の速度で進んだ。機械仕掛けのようにスピードを保たなければたどりつかないと、自分を叱咤しているようにも窺える。それにしたって足取りは軽く、スムーズだった。


あっさりと最後列にたどりつくと、あまつさえ空いている自席にドン! と音を立ててリュックを置いた。クラスメイトは声にならない悲鳴を上げる。

案の定、隣の席に座る金髪の少年は、ダサいメガネめがけて目をきつく吊り上げる。

メガネの奥にひそんだ黒目が、それに気づくと、


「……」


黙りこんでしまった。

悪目立ちした金色から目が離れなくなる。


怖くて声も出ないのだろう。同様の症状に悩まされるクラスメイトの共感の声が今にも聞こえてきそうで、金髪の少年はチィッ!! と長ったらしく舌を打った。

それに驚いたようにメガネの少年の口が開かれた。


「あ、はじめまして」


予想に反して、実にあっけない声。

金髪の少年の猫のような双眸が、丸くすぼめられる。

やにわに緊張の糸が少しゆるんだ。


「隣の席同士よろしく、えーと……」


メガネの少年はへらりと笑みを浮かべながら、さりげなく視線をすべらせる。

おそろいの桜の造花を飾った、お隣さんの胸ポケット。縫い留められた名札には、「綿貫 たまき」と彫られてあった。


「めん……わた…………うん、よろしく、たまき!」

「あ?」

「まだ先生来てないよな? はー、よかったー、間に合ったー」


動揺のかけらもなく、メガネの少年はさも平然と席に着いた。

会話だけ聞けば、どこにでもある平凡な日常。……だが、隣にいるのは、間違いなく金髪ヤンキー。

そのちぐはぐした光景を始終見守っていた周りのクラスメイトは、今日イチの興奮を覚えていた。


(あ、あいつすげーーー!!!)

(あのヤンキーをいきなり呼び捨て!? タメ口!?)

(コミュ力バケモン!)

(怖いものなしかよ!)

(陰キャじゃなかったんだね!)

(わたしと同類だと思っててごめん! 全然格上! 救世主!)

(あれがギャップ……!!)

(かっけえ……かっけえよメガネ!!!)

(あとでお礼を言いに行かなくちゃ!)


1-Aの教室にもついに日が昇った。

声を出せたなら歓声を上げていたし、席を立てたなら輪になって踊っていた。不良が怖くてできないけれど。

ある意味、クラスの心はひとつだった。入学式前だとは信じられないくらい。


一方、金髪の少年、たまきは、生ぬるくなった空気感にあてられ、しばし呆然としていた。未知の生物と遭遇したような気分だった。

無意識のうちに隣をちらちらとうかがっている自分がいる。

隣の席にいるのは、いったい何者なのか。

進学校に入学しながら「綿貫ワタヌキ」という苗字を読めなかった愚者バカなのか、出会い頭に泣かれ謝られ逃げられる現役のヤンキー相手にごくごくふつうに話しかけられる道化師バカなのか。

まったくもって計り知れなかった。


(……なに考えてんだ、こいつ)


一瞬にして注目の的となったメガネの少年。

その頭の中はといえば、


(こういうとこにも金髪のやつっているんだ。金髪っつうか、茶金? うちの猫にそっくり。かわいー。俺もまた染めてー)


盛大に平和ボケしていた。

天候の移ろいの激しいクラスの機微なんぞ知るよしもない。


(はっ、いかんいかん! 俺にはもう好き勝手遊び呆けてる余裕はねえんだ! 髪染める暇があんなら英単語を1個でも多く覚えるような、そんな生活にしなければ!)


せっかくメガネもかけてきたんだし、と耳にかけた黒いつるを得意げに上下させる。チャイムが鳴るといっそうやる気をみなぎらせた。


(俺はもう足を洗ったんだ――目指せ、ガリ勉!)


一見地味なこの少年。名を、灰田 九ハイダ キュウ

こう見えて、心臓に毛の生えた元ヤンである。







九は、1年前まで悪名高い不良だった。


元々、生まれ育った町が、治安の悪さで有名なところだった。

さくら高校のような名門校を誇る都市は、比較的に生活水準が高く、住みたいランキングにも常に上位にランクインしている。しかしエリアを一歩外れると、追いやられたかのように一気にランクが下がる。

その底辺に位置づけられる地区の西の町に、九は産まれた。あげく親ガチャにも失敗。ヤンキー街道まっしぐらになるのは必然といえた。


気まぐれに髪色を変え、耳に穴を開け、学校をサボり、喧嘩を買っては売り、自分の身体をボロボロになるまで痛めつける日々。

そうして中学に上がるころには、誰も手をつけられなくなっていた。学校のネット掲示板には「この顔を見たらご用心!」と九の人相書きが出回っていたほどだ。


そんな生活を続けていた、とある早春の日のこと。

いつものように柄の悪いヤカラに絡まれ、殴るなり蹴るなりして全滅させたあと。家路についた九は、アパートの自室が点灯していることに気づくや、玄関に血反吐を吐き捨て、来た道を引き返した。

空はもう真っ暗で、まばらに星が散っていた。

立ち寄った近場の公園には、人っ子ひとりいなかった。

鳥のフンがアートっぽくこびりついたベンチに寝そべり、羊の代わりに星を数える。いっこうに睡魔は来ず、口腔内にしみる鉄の味が濃くなるばかりだった。


「家には親がいるから帰りたくねえし、公園で寝る以外にすることねえし、でも寝れねえし……はーあ、どうしよっかなあ」


錆びついたブランコやジャングルジムを、満足に楽しめる年齢はとうに越してしまった。

どうしたもんかと身をよじる。凍てついた風が傷口に障った。春先といえど夜はまだ寒い。これからさらに冷えこんでいくだろう。


「暇だし、どっか風よけのある場所でも探しに行くか」


途方に暮れた九は、とりあえずベンチから起き上がった。

ギシリと木製の板が軋み、砂埃が立つ。


「――キュゥ」


そのとき、名前を呼ばれた。……気がした。


「え?」

「キュゥ……キュゥ……」

「え??」


モスキート音ほどに甲高く、それでいて風音で簡単に消え入るか細い声。それでも夜のしじまの中では、クリアに聞き取れた。空耳でもなければ、幽霊の類でもなさそうだ。

泣き声にも似たその小さな短音は、九しかいない公園の一角に繰り返し響いた。


九は暇つぶしがてら音の出どころをたどってみる。どうやらベンチの下から音が鳴っているようだ。

屈んで覗いてみれば、キューウ、と呼び留められた。


ダンボールに入った、小さな猫に。


「……は? 猫?」

「キュゥ」


あれか、捨て猫ってやつか。

はじめて遭遇した九は、なんとなく他人ごとのように思えなかった。

キュゥと鳴くたびに弱まっていく声。やせ細った胴体はぷるぷると震え、ダンボールの下に敷かれた新聞紙でかろうじて暖を取っていた。

どこにでも毒親というのはいるものだ。

人も猫もたいして変わらない。


「……にしたって、わざわざこんな見つかりづらい場所に置くこたぁねえのになぁ」


九はダンボールをつかみ、引っ張り出した。微妙にやわらかい感触が手に伝う。ダンボールは水気を吸い、くたびれつつあった。

そういえばその日は午前中、雨が降っていた。


「あー……なるほどね。どっかの親切な誰かが、雨よけにそこに入れてやったのか」


んでその人はまるっと拾ってやりはしなかった、と。

合点がいった九に、正解と言わんばかりに猫が鳴いた。

ダンボールの中には猫と新聞紙以外に何も入っていなかった。ベンチで雨はよけられても、飢えからは逃れられない。せいぜいそこらへんの水や草でしのぐしかないが、どうせいずれ毒に当たって終いだ。


「俺も何度腹痛に耐えてきたことか……。なんで生きてんだろうな」


地面に尻をつきカラカラ笑う九を、猫はただじっと見つめた。

今夜の月みたいに半分欠けた、緑がかった金色の目。

逆立った白い毛に点在する、色素の薄い黒や茶のまだら模様。

いわゆる三毛猫という種類にあたる。


「あっ、三毛猫ってたしかオスがちょーめずらしいんじゃなかったっけ」


オスなら高値で売れるかも。そしたらこいつも新しい飼い主が見つかってウィンウィンじゃん。

見え透いた下心で猫を抱きかかえる。


「……なんだ、メスか」


ペチ。


「いてっ」


肉球が力なく九の頬を叩いた。

こころなしか猫の顔が険しくなっている。


「ご、ごめんて。女の子にすることじゃねえよな。うん。失礼しましたー」


あわててダンボールに戻そうとすれば、またペチペチ当たられた。

いったいどうしてほしいんだ。

困り果てていると、猫は九の手をすり抜け、あぐらをかく足元にうずくまった。


「え、ちょ、立てないんですけど」

「……キュゥ」

「その鳴き方もやめてくんね? 俺の名前に似てて気まずいんだけど。猫ならふつうニャーだろ」

「キューゥ」

「なんもやめてくんねえじゃん」


こうなったら無理やりどかすしかない。

手を伸ばすと、対抗するように猫の舌が伸びた。

喧嘩帰りで生傷だらけの手の甲を、ざらついた舌先に舐められる。


「……傷、治そうとしてくれてんの?」


消毒もせず放置していた傷口に、獣臭い唾液が混ざる。傷口からじわりと赤色がにじみ出て、すぐに手を引っこめた。

猫は名残惜しそうに自分の足を舐め、そして九の太ももに身をすり寄らせた。


「キュ……キィユゥ」

「……」

「キュゥゥ」

「……俺と、来たいの?」


観念して問えば、垂れた三角の耳がピコン! と跳ねた。人語を理解しているとしか思えない反応速度である。


「まあ、別にいいけどさ……」

「キッ、キュウ!」

「俺んち、まじ最悪だよ?」

「キューゥ」


猫は太ももからふところあたりまでのぼり、ぐったりもたれかかった。

後悔しても知らねえぞと脅しても離れる気配はなく、泥だらけの学ランにどんどん毛を貼りつける。


九は仕方なく猫を抱きかかえたまま公園で夜を明かした。

朝になったらスーパーに行き、稼いだ金――喧嘩の賭銭――で水とキャットフードを買った。わざと時間をかけて家に帰ると、明かりはすべて消えていて、安心して中に入れた。


猫は九の部屋で飼うことにした。

親にいちいち報告はしなかった。あまり家に長居しないし、端から関心もないことはわかりきっていたから。


(それに……長くは持たねえよどうせ)


水を注いだ皿に顔を突っこむ猫を、九はどこか冷めた目で見ていた。

視線に気づいた猫は、ゆっくり近づいてくる。うしろ足を引きずりながら。

汚れの目立つ白い毛にところどころ付着した赤い血。九のがついてしまった……というわけではなさそうだった。

体重も軽く、軽すぎて、いなくなっても気づかなそうで。実は、家につくまでちょっとひやひやしていたのだ。


いつどうなってもおかしくない。

九の行為は傍から見れば単なる偽善だった。

いや、気まぐれに拾っておいて、適切な療養は施さないのだから、かえってたちが悪い。

所詮、墓の場所が移っただけに過ぎなかった。

それなのに刷り込まれた雛鳥のように懐く猫を、バカみたいに思っていた。


猫との共同生活は想像以上に面倒だった。

家で髪を染めていれば染料に猫の手が伸び、耳たぶの穴を拡張しようとすればピアッサーをくわえて逃げられ、寝坊したまま学校に行かずにいれば口うるさく鳴かれ、喧嘩帰りは決まって傷を舐められた。

実の親にもそんなにかまわれたことのない九は、今までにない疲労感に振り回された。だからといっていやな感じはなく、ふしぎと毎晩よく眠れた。


1週間が経ったころ。

実態のつかめない疲労を発散させるように喧嘩に明け暮れ、ひさしぶりに朝帰りになった。

くたくたになって玄関を上がり、ふと違和感が浮かぶ。いつもなら九の部屋の扉をガリガリ引っ掻く音と、キュゥキュゥと鳴く声が聞こえるのに、その日は物音ひとつしなかった。


(……まさか)


急いで自室に駆けこんだ。

九の脱ぎ捨てた服のそばに、ぽつん、と毛むくじゃらな塊があった。

猫だ。

服の裾に頭を置き、横たわった猫は、目を閉じたままぴくりとも動かない。衰弱した体は呼吸するのがやっとの状態で、九の帰宅にも気づいていなかった。


長くは持たない。

そんなことわかっていた。わかったうえで拾った。意味なんかない。傷をほったらかしにしていたのも、そう。

同じように考えていた。傷だらけの自分と。


でも。


いざそうなると頭が真っ白になった。

血の気がすっと下がり、視界がぼやけていく。

たった7日、一緒にいただけなのに。

その日はやけに傷口がひりついた。


気づいたときには、脱力した猫を床に落ちた服ごとすくい上げ、病院へ向かっていた。


「ごめん……ごめんな」


道中、走りながら何度も、呂律の回らない言葉をこぼしていた。

自分で自分の感情がわからなかった。

猫を抱く腕はいつになく震えていた。


地元の動物病院は、早朝に悪い噂の耐えない不良が来たことにはじめこそ警戒したものの、猫の容態に気づくなりすぐに診察を始めた。

注射がどうの栄養がどうのと説明してくれたはいいが、九は半分も理解できず、最後に大丈夫と言われてようやくほっと肩の荷を下ろせた。


特に重傷だったらしい足のケガの治療を終え、1時間ほど待合室でひとり座っていると、どこからか聞き覚えのある声が届いた。


「キュゥ……」


ハッとして立ち上がった九を、獣医の先生が入院室に案内した。

そこには、ついさっき目を覚ましたばかりだという猫が待っていた。


「キュッウ」


ケージの中で安静にしていなければいけないのに、今すぐにでも飛んでいきたそうに喉を鳴らし、しっぽを振る。

バカな猫だと、九はしみじみ思った。


(でもそれはお互い様か)


春。

出会いの季節。

公園の桜が、芽吹き始める。


(俺……もっとおまえといたいみたい)


そのとき、九は心に決めた。――そうだ、獣医になろう!

そうすれば猫をちょっとは長生きさせてあげられる。そう信じてのことだった。

九もたいがい単純バカな男だ。


猫が退院してからというもの、一念発起して勉強に打ち込んだ。

中学3年生になる九は、受験生でもある。

獣医とはつまり医者なので、偏差値は高ければ高いほどいいにちがいない! といういかにも頭の悪い考えで進路を決め、片っ端から問題集を解きまくった。

三度の喧嘩より英語のリスニング、数学の定理、現代文の解読。そして、たまの猫休憩。

幸い、今まで学習らしい学習をしてこなかった九の脳みそは、スポンジのようになんでも吸収した。


そうしているうちに髪は地毛に戻り、ピアスホールは埋まり、授業は毎回出席し、絡まれる頻度は減り、猫への愛情が育まれ――自然とヤンキー街道を抜け出したのだった。





高校の入学式を終え、2階建てアパートの一室に借りた実家に帰った九を、白黒茶を無作為に配色した子猫が出迎えた。


「ただいまーミケ」

「キュゥ!」


三毛猫だからミケ。

さくら高校とどっこいどっこいなネーミングセンスである。


本格的に飼い始めて以降、予想どおり親は何も言ってこなかった。それをいいことに、九の自室以外もミケに開放することにした。

それからはこうして玄関で九の帰りを待っている……こともある。ミケの気まぐれだ。猫の特性か、主人に似たのか。

ただし、親が帰ってくるときは、九が何も言わなくても九の部屋でおとなしくしている。もしかしたら九より頭がいいかもしれない。


1年でぽってり肉をつけたミケは、ぴんと背を張っても丸みのあるフォルムをしている。

九の胸ポケットを彩るピンクの花飾りに、両手を伸ばす。

きれいに毛づくろいされた顔が、ゆるく傾げられた。


「まったく。かわいい顔しやがって」


九は呆れ半分にミケの頭を撫で回した。


「おまえのせいで入学式遅刻しそうだったんだからな」

「キュ?」

「何のこと? ってとぼけてるつもりかおい」


早く出ないといけない日に限って、ミケはかまってちゃんモード。ついかまい倒していたら、時間がぎりぎりになってしまった。

そのせいで駅から学校まで全力疾走するはめになり、髪はボサボサ。最悪な滑り出しだ。ミケがかわいいので許したが。


洗面所で手洗いうがいするついでに、九は鏡を確認した。

思っていたより髪の毛が暴れている。3日連続で髪を染めたときと同じくらいまとまりがない。

この状態で晴れ舞台に立ってしまったことに若干ショックを受ける。


「せっかくいい子ちゃんぽくさら〜っと整えたのにな。ドンマイ俺」


何ごとも形から入るタイプの九は、今日この日のために優等生らしさを研究し、七三分けにメガネのスタイルを形成させた。

ミケというイレギュラーがなければ、学年1位の風格を醸し、周りをあっと言わせていたであろう。

だが、視力2.0でメガネとは無縁だった九に、ダテメガネは邪魔でしかなく、逆に見えづらく感じることも少なくなかった。とはいえ優等生キャラ作戦――という名の内申点稼ぎ――には必須なアイテムだ。


ダテメガネを外し、疲れた耳と鼻上をほぐしつつ、前髪をかきあげる。

自室にリュックを置き、ピンクベージュのブレザーを壁にかけたあと、九はベッドに腰かけひと息ついた。

ずっとあとをついてきていたミケが、九の膝に飛び乗る。


「なあ、聞いてくれよミケ」

「キュゥー」

「俺の隣の席、金髪だったんだよ。ピアスもバチバチでさ。くぅーっ、イカしてたなー! 俺と同じ不良だろうなー」


一拍置いて「同じじゃねえか、元か」と過去形に言い直す。


「なんか、ミケに似てたよ。ミケをでっかくして、イカつくした感じ」


つぶらな猫目がきゅっと眇められる。

そういえばたまきもそんな目つきをしていた。九は記憶に新しい顔を思い出し、笑みを膨らませる。


「仲良くなれる気ぃする」


自信が湧いてきた。ついでに、煩悩も。


(あわよくばタダで家庭教師やってくれたら最高〜)


ダダ漏れていたのか、ミケがパンチして成敗する。肉球がぷにっと九の膝小僧を弾いた。これぞ本当の猫パンチ。

ただただかわいくて、かえって九のツボを突いていた。


「じ、冗談だよ」


なだめながらも、笑顔は隠せていない。

家庭教師はさすがに盛りすぎたが、勉強を教えてもらいたいのは本当だった。


進学校といえばここ! という噂を聞いてさくら高校を受験し、このとおり入学できた九だが、実は補欠合格だった。

1年前まで宿題提出率0どころかマイナスレベルだった不良が、補欠だろうと進学できたことが奇跡に近い。本にしたらきっと大ヒットするだろう。


だが、この先も運任せでいくわけにはいかない。

実力主義の喧嘩と同じ。力をつけてこそ勝ち上がれる。

物理はいけても頭脳はまだまだからきしな九は、効率的なレベル上げが必要だった。


「そもそもたまきって頭いいんかな?」

「ゥゥ」


ミケはふてくされた顔して床に飛び降りた。リュックを踏み越え、九に一瞥を寄越す。

半分開きっぱなしだったリュックのチャックから新入生テストの便りがはみ出ていた。



新入生テストとは。

その名のとおり、新入生の学力を測るためのテストのこと。

さくら高校では入学式の翌日に実施される。

教科は英数国の3教科。中学課程の復習がメインだが、春休みに課せられた宿題も出題範囲に含まれる。

成績にも影響するらしい。


いわば新入生格付けチェック。

偏差値65オーバーの名門校が独自に作成した試練テストは、受験戦争の解放感を、持つ価値無しと切り捨てにかかる。


いまだかつて全問正解した真の一流はいないというが――


「なんとこのクラスに、新入生テストでオール満点という偉業を成し遂げた者がいる!」


――満を持して現れてしまったようだ。


担任の先生による発表に、1-Aの教室はわっとボルテージを急上昇させた。


入学式、新入生テストと連日イベント目白押しで、入学から3日経った本日も、午後イチにクラス写真の撮影という大事な予定がある。現在は、その撮影の順番待ちを兼ね、ホームルームをしている最中であった。

新年度にありがちなイベント疲れがたたっているのは、何も生徒だけでなく、どちらかというと計画進行を任されている先生のほうが重症だ。

にもかかわらず、たった1日で200名近い生徒の採点を終わらせた仕事の早さ、時間管理の上手さに、九は声を上げて感心した。さすがさくら高校、教師陣も有能だ。


「おおー、先生シゴデキー」


(絶対今そこじゃねえだろ)


拍手する対象がひとりちがうことに、九の隣の席であるたまき以外は気づかない。

ふたりを除く1-Aの生徒が騒いでいるのは、テスト3科目満点という前代未聞の快挙を受けてのことだとは言うまでもない。

九ももちろん驚きはしたものの、確実に自分ではないのでたいして気持ちが乗らなかった。ノーベル賞を日本人が受賞したのをニュースで聞いたときと同じ感覚だ。なんかすごいけど現実味がなく、なんとなくで祝う。九の場合、1年前までニュースもまともに見てこなかったけれど。


(あっ、でも、オール満点採ったやつに勉強教えてもらったらいいんじゃね!? あのゲキムズなテストを全問正解したんなら、わかんねえことねえだろ!)


新入生テストでは時間が足りず全問解くことすら叶わなかった九は、さも天才的なひらめきを思いついたようにニヤリとほくそ笑む。キャラ作りのメガネが光ってなかなかに怪しい。

横目に盗み見ていたたまきは、少しばかり窓側に身をずらした。


(百面相……?)


ふつうではないと感じてはいたが、やっぱりどこかおかしいのかもしれない。

入学して3日経っても、九が何を考えているのか、たまきはさっぱりつかめなかった。どこにでもいそうな容姿との差に風邪を引きそうになる。

こんなタイプははじめてで、変に意識してしまう。

沸騰中の話題にはちっとも反応しないのに。


「テスト合計300点、堂々の1位となったのは……!」


20代後半、学生時代はサッカー部だったという熱血漢な担任は、盛り上げ上手で、自分のことより生徒の疲労を吹き飛ばす。

そのおかげか、もったいぶって言葉を切ったとき、ひそかに生唾を飲みこんだ音はあまり目立たなかった。


「し、出席番号30番、わた……」


――ガタンッ。


息継ぎの増えた担任の声にかぶせ、物音が響く。

楽しい空気が一転、目の覚める静けさに包まれた。


今まで無反応だったたまきが、突然椅子を引きずって立ち上がったのだ。


「綿貫、た、たまき……くん……」


担任が口角を引きつらせて名をこぼす。

教室に整列した30個目の椅子。それが、たまきの座する、窓際の奥の席だった。


たまきは知っていた。自分がテストで好成績を収めることを。

まさか3教科満点とまでは想像していなかったが、とりたてて騒ぐほどではなかった。

実際に自分を代名する番号が呼ばれ、逆にげんなりしてしまった。不可抗力にも雰囲気をぶち壊しにする未来が、目に見えていたからだ。


さっさと済ませようと気持ち早足で前に行く。

180センチを超えるたまきが、席と席の間の狭い通路を通ると、その近辺に自席を所有するクラスメイトは巨大な怪獣に襲われているような激震を被る。

教壇横に着いたたまきを、担任は努めて明るく迎えた。


「は、はい、おめでとう、わ、綿貫くん」


額に汗を浮かべた愛想笑いは、なんともまあ不格好で見るに耐えず、たまきの整った顔面は冷ややかに陰った。


(こうなることは先生もわかってたろうに、受け持ちのクラスで快挙を上げたのがそんなにうれしかったのか。それか、僕は公平ですよアピールか?)


最終的に腫れ物に触るような扱いをするなら、最初からしないでほしかった。常日頃慣れてはいるが、苦痛であることに変わりはないのだ。

成績表を奪うようにして受け取ると、間髪入れず踵を返した。


「さ、さあっ、みんな、は、拍手……!」


とってつけたような担任のかけ声に、たまきはため息が出た。

クラスメイトは顔を見合せながらおそるおそる手を叩く。

パチ、パチ、パチパチ……。

そぞろに波打つ拍手の音。ないほうがまだマシに思える。

形だけの賞賛より、心からの不信感のほうがはるかに勝っていた。


(オール100はすごい、けど……)

(あのヤンキーが? 「東の金鬼」って呼ばれてんのに?)

(信じられない……)

(カンニングしたんじゃないの?)

(今年の新入生テスト、過去最高の難易度って噂だったじゃん)

(1教科満点取るのもひと苦労なのに)

(3教科全部? それって可能?)

(問題用紙パクったりしてねえよな……?)

(ここにいるのも裏口入学だったりして)


疑心暗鬼になるクラスメイトは、金髪とピアスを盛った強面に、いかようにも悪い方向に想像できた。

疑いの目を表立って見せていない……つもり。

けれど、いやな慣れのあるたまきには丸見えだった。


(はあ……うざ。テスト、手を抜けばよかったかな)


新入生テストでの未曾有の結果に、不正はない。

教師陣による鉄壁のデータ管理と試験監督で、それは証明されている。

……とはいえど、教師陣の中にもたまきの見た目に騙されかけた人が何人か――担任含め――いた。


が、実のところ、たまきの過去の実績に黙らされた。


入試でもたまきは首席だったのだ。入学式での新入生代表挨拶を推薦入学者が担当したために、その事実を知る生徒はいない。

中学でもテストの順位は常に1桁だったという記録が残っている。このような大々的な順位発表の文化が中学にはなく、やはり生徒側に知る術はなかったようだが。

不良でなければ、通知表はオール5だったにちがいなかった。


おわかりいただけただろうか。

そう、たまきは、外見にそぐわず頭がすばらしく良いのである。――どこかの誰かさんとはちがって。


それでもやっぱり外見の強度には逆らえず、基本タフな担任は小鹿のように震えてしまい、教室にはびこる誤解を解くこともままならない。

シゴデキともてはやしていた九とは反対の評価を、たまきは抱きつつあった。


たまきが目で周りを舐めれば、数多の視線がさっと逃げていく。

冷水を浴びたようにこわばった姿。自然消滅していく拍手。

1位と印字された成績表が、ぐしゃりと折れた。

早く席に戻るのが吉だと前を向き直すと、誰かと目が合った。


(え……)


たまきは瞬きを数回繰り返した。

光に反射してよく見えないが、たしかに今、目が、合っている。


それも怪しみ、煙たがり、忌み嫌う目ではない。

きらきらとした効果音が聞こえてきそうな、無邪気に澄んだ眼差し。

惜しみなく送ってくるのは、隣の席である九だ。


(ラッキーーー!!)


九はたまきをガン見しながら、机の下でガッツポーズをつくった。

たまきと距離を縮めて勉強を教えてもらえたらな〜と安易に考えていた手前、元ヤンの経験上、不良はみな総じておつむが弱く、漫画に出てくるようなクレバーな参謀タイプは絶滅危惧種にある傾向があった。

平たく言うと、九もクラスメイトと同様、見てくれに騙され、たまきのこともあわや同類認定しかけていたのである。


ところがどっこい。

裏切られた。いい意味で。


(まあ同類だったらそれはそれで、切磋琢磨して競争しよっかなって思ってたけど……おいおいまじかよ。俺の隣がテストオール満点ですってよミケさん! すごくね!? 俺にもとうとうツキが回ってきたようだぜ!)


わからないところがあれば、隣の席の特権で授業中でもかまわず聞きに行こう。九は熱い握りこぶしにそう誓う。

相談相手は安心と信頼の実績を誇る、いわば勉強のプロフェッショナル。解決能力は教師陣に負けずとも劣らないはずだ。


正直、職員室に直接伺いを立てたほうが内申的にも得策だ。それでもあまり教師を頼る気になれなかった九は、彗星のごとく現れたイカした秀才同級生を、全身全霊で崇めたてまつった。

天高く昇った太陽の日差しが、まるで後光のようにたまきを照らす。金髪の相乗効果でよりまぶしく見えた。


(な、なんだあの目……ヤる気か?)


古臭いレンズを盾に、目を逸らさないどころか睨むように細められていく様に、たまきは反射的に身構えた。

あれは、喧嘩を売られるときしか見ない目つきだ。


(きらめいて見えたのはメガネだったんだ、きっとそうだ、そうにちがいない。だって……俺に何の敵意もないなんて、そんなこと、あるわけ……でも……)


IQが高いわりに鬱屈した偏見により、ポジティブな発想に至らないのは、クラスメイトとの数少ない共通点といえるだろう。


たまきの脳裏に、あの日――九と初対面した入学日がよみがえる。思い返せばあのとき、九の目にいやらしさは感じなかった。

今だってそう。

あの日からずっと、九だけが唯一、逃げも隠れもせず、たまきと向き合っている。

敵対する以外に何の意図があるというのか。皆目見当もつかなかった。


たまきは混乱のあまり自分から目を背け、自席に集中力を全振りした。


「そ、それじゃあみんなの分も、名簿順に配るぞー!」


たまきが席に着いたと同時に、担任が開き直って、手に持つ成績表の束を見せびらかした。つられてクラスメイトも、いやそうに、それでいてうれしそうに返事をする。


異例の名簿繰り上げでターンを終えたたまきは、テスト結果が印字されただけの紙ゴミを机の上に放り捨て、周囲を遮断するように窓の外を眺めた。

だがしかし、窓ガラスに九の顔がばっちり写りこみ、独りにさせてくれない。

しかも見間違いでなければ、真正面の顔。すなわち、たまきのいるほうを向いている。ちょっとホラーチックで、たまきは振り返れなかった。

窓に反映される九の顔が、どんどん大きくなっていく。椅子ごと接近しているのが気配でわかった。


「なあ。テスト満点ってまじ?」


ド直球に話しかけてくるとは思わず、たまきは喉を詰まらせた。

うんともすんとも言えずにいると、九はしれっと無許可でたまきの成績表を見やった。


「まじじゃん! すげえな!」


一点の曇りなく褒めちぎる声色。

その声と変わらない温度の表情が、窓ガラスに描かれる。

月並みのやさしさでも、免疫のないたまきには、100点のテストより断然価値があった。


「隣の席がたまきでよかったー!」


こみ上げる熱の衝動につられ、たまきは声のする真反対の方向へ顔を向けた。

窓越しに見えたあどけない笑顔が、思いのほか間近にあり、心臓がドッと膨らむ。

なぜかピアスが両耳とも熱く感じた。


「よ、よかったってなん――」

「はい次、出席番号24!」

「あっ、俺だ。はいはーい!」


もごもごと紡いだたまきの問いかけは、むなしくも打ち消されてしまう。

成績表を受け取りに九はさくっと席を立った。


九のテストの結果は打って変わって散々だろう。自己採点済みで、ある程度予想はついている。

しかし、今、九の足取りはスキップしそうなくらい軽かった。


(はあ、学年首位が隣の席にいる安心感たるや。ミケと雰囲気似てて、ダブルで俺得だ)


しめしめと口角を突き上げる。

その顔がたまき視点ではさぞ幸せそうに映った。

性根は、勉強を教えてもらいたいという自分勝手な欲に従順な、単純バカな子どもだ。

どれだけ知識や経験を培ったとて、正確に読み解くのは難しい。


「出席番号24! 24番! えーと……はい、だ……灰田、くん……」

「はい、俺です、灰田九です」

「おっ……お、おう、来たか」


成績表の上、出席番号の記された右隣の名前欄に目を通した担任は、呼びかける声をふたたび淀ませた。正面にひょっこり現れた九に、一歩あとずさる始末。

野暮ったい髪型とメガネに忍ばせた、飄々とした素顔に、担任はぞくりと背中を凍らせた。


灰田九。その名が隣の地区を大いに脅かしていた噂は、入学前の段階で教師陣に周知されていた。

だから現在進行形でグレているたまきとセットで1-Aに入れ、席を隣に仕組んだ。お互いがお互いの抑止力になるように。

-×-=+。方程式はやはり正しく、ふたりでいるほうがプラスに効いている節がある。

しかし、ひとたび式を崩し単体になったとき、マイナスはどこまでもマイナスだった。負のオーラが腹の中からしみ出ている。

思い込みの産物だとわかっていても、担任の疲れた心にはクるものがあった。自分よりも年下に、受け持ちの生徒に、気後れしてはいけない、いけない、と逆らうほどどつぼにはまっていく。


「ちょっとセンセー」


どこかからかうように話しかける九に、担任は営業スマイルのまま固まった。

すでに過半数に成績表が行き届き、それぞれ一喜一憂してにぎわっている教室で、九の声は埋もれ、近くにいる担任しか拾えない。


「そんな怯えないでくださいよー。ひどいなー」


ギクリと担任は顎を引く。

教卓に両肘をついた九は、下からその二重顎を見つめた。


「まったくもう。俺たち生徒の前っすよ?」


メガネのフレームの奥に、ぎょろりと上擦る黒目。

「俺たち」――仲間意識の芽生えたたまきの分もプラスして、牽制しに来ている。

そう受け取った担任は、棒読みの笑いを機械的に吐き出した。サッカーで鍛えた肉体がひとたまりもなく力をなくし、10本の指で確実に支えていた九の成績表をひらりと落とす。

成績表の紙が教卓につく前に、九の手がそれを鮮やかにかっさらった。

最低な順位を隠すように細切れの紙を握ると、九はそっけなく担任のそばを離れた。


(先生、好ききらいわかりやすすぎ。クラスのみんながいるとこであんま顔に出すなよなー。そりゃ、俺、クラス最下位っすけど)


九に裏はない。

言葉のとおりの意味で愚痴っただけだった。

成績表をキャッチする直前に、持ち前の動体視力でクラス順位を確認できてしまい、好感を持たれない理由を察した。

覚悟はしていたが、いろんな意味で少し落ち込んだ。


(……けど!)


顔を上げた先に、明るい未来がある。きんきらきんの、髪の毛とともに。

あれは、1等賞の色だ。


(俺の隣にはたまきがいる!)


全員分成績表を配り終えたあたりでちょうど出番の来たクラス写真の撮影では、九の笑顔がピカイチ写りがよかった。







放課後。高校の最寄り駅に直行したたまきは、ぐしゃぐしゃに丸めてポケットに入れていた成績表を、駅のトイレのゴミ箱に捨てた。

毎日清掃されていても1日経てばあふれかえるゴミ箱に、「1位」「300点/300点」の文字がわずかにはみ出る。

誰もが羨む名誉でも、ひとたびゴミ箱に入った途端、ひどく汚らしく感じる。

テストのカンニングや盗用を疑っていたクラスメイトも、こんな気持ちだったのだろうかと、たまきは自嘲げにゴミを見下ろした。


電車発車時刻が差し迫る。

トイレを出ると、入れ違いでやってきた男と肩がぶつかった。

ガタイのいいたまきにはよくあることだ。

体格差で相手のほうがよろけ、それを目撃した誰かが話を広げ、尾ひれはひれがつき、やがて「道をゆずらないやつは二度と立てない体にさせられる」という極地へと展開する。

ちなみに、これは実際に起こったことだ。意味がわかると怖い話。たまきの汚名の8割は、誇張や捏造でできている。


こういうときは無視するのが無難。

ハエに当たったと思って先へ進もうとすると、


「おいおいおい。ぶつかっておいて詫びのひとつもねえのかよ」


ぶんぶんうるさく引き止められてしまった。

最近暖かくなったからか、ずいぶんと活きがいい。虫も、人も。


たまきはやむなく振り返った。

しかしすぐに後悔することになる。


「え……たまき?」


(なんつう偶然だよ……クソが)


肩がぶつかった相手は、覚えがあるどころではない。

無造作に流した茶髪に、そばかすの散らばる顔。

先月まで同じ教室にいた、かつてのクラスメイト、リョウだった。

さくら高校とは反対方向に建つ男子校の学ランをまとった彼は、高校の級友と思しきふたりを早くも侍らせていた。


「なに亮、こいつ知り合い?」

「すげえイケメン。……ちょっと怖えけど」


(聞こえてるっつの)


この時点で電車1本見送りが確定。自分の運のなさにたまきはほとほと呆れた。


「たまきだよ。綿貫たまき。それとも、『東の金鬼』って言ったほうがいいか?」

「ワタヌキタマキ……って……!?」

「東の金鬼!?」


たまきとはまったくの赤の他人である男ふたりは、正体を知るやいなや、そそくさと亮の背中に隠れた。

駅構内のトイレ前での騒ぎを、白い目で見ていた周りの人々は、たまきの名が口外されると、ひとり残らず見なかったことにして立ち去っていく。


(こういうときは無視するのが無難、だもんな)


たまきもできればそうしたかった。

だが残念、今回は相手が悪かった。


亮とは小中一緒で、家も近く、よく遊んでいた時期もあった。善悪の分別もつかない、幼少のころの記憶だけれど。

それともその記憶があるからなのか、中学時代番長と化していたたまき相手に、亮はなおも口うるさく絡み続けた。


「東の金鬼……ふっ、何度聞いてもサブいあだ名」


中学のときも、生徒のほとんどが遠巻きにたまきをおそれていたなか、亮を始めとする男子数名は陰でこそこそ嗤っていた。

たまきはいつも独りだった。


「卒業後もそう呼ばれてるんだな。可哀相なやつ」


(誰のせいだと思ってんだ)


まるで他人ごとのように言っているが、本を正せばすべて、亮から始まった。

この言動からでもわかるとおり、亮は根が悪い。

当事者であり、首謀者であり、諸悪の根源。

孤高の一匹狼なたまきから言わせてみれば、亮のほうがよほど不良の才能がある。


二度と会いたくなかった。

中学を卒業し、亮の頭では到底手の届かない進学校に入学を決め、ようやく縁が切れたと喜んでいたのに。

これが腐れ縁というやつなのか。

他の同級生はいざ知らず、亮に捕まってしまうなんて。

こんな偶然、望んでなかった。


たまきは今すぐにでも帰りたかった。けど近所に住む亮と電車を乗り合わせるかもと思うと、安易に動けなかった。


「てか本当にあのさくら行ったんだ、たまき」


ピンクベージュのブレザー、白と桜色のストライプ柄のネクタイを見るなり、亮は鼻息を吹かせた。くすぶる金髪を一瞥し、似合わねえ、と言外に匂わせる。


「どうせそっちでも暴れてんだろ。得意だったもんな、勉強と暴力」

「……」

「名門さくらの看板が泣いちゃうな。おまえみたいなもんが入ったせいで」

「……」


達者に毒を吐きながらも、直接間合いを詰めることはない。

得意だったと知る暴力が、自身の身に降りかかるのはごめんなのだ。


結局、亮も、うしろに隠れるふたりや野次馬にすらなりきれない通行人と大差ない。たまきに臆し、不安がる一人だ。

無駄に幼少期の記憶があるばっかりに、無視できず、虚勢を張ってしまう。

よけいなことしか言わない空回りっぷりは、うしろの腰巾着ふたりに心配されるレベルだった。


会いたくなかったのは、きっと、たまきだけではなかっただろう。


「なあ、いじめる側は楽しいか?」

「……はぁ。おまえさ」


いい加減黙っていられなくなり、たまきはため息まじりに口を挟んだ。

一方的にまくしたてた亮の唇が、とっさに真一文字に引き結ばれる。

双方、質の異なる焦りを募らせていた。


「な、なんだよ」

「誰にものを言ってんのかわかって――」

「あっ! たまき!」


ピコンッ!

折悪しく改札口から鳴る、能天気な音色。

たった今改札を通過した九が、トイレ前にいるたまきに気づいて駆け寄ってきた。


「おまえ教室出んの早すぎ。ちょっと探しちゃったよ。で、あきらめて駅来たわけだけど。いやあ来てよかったー」


ひと悶着やっているところに笑顔で割って入っていける九に、その場にいた全員――居合わせただけの部外者モブも――唖然とし、話が全然入ってこない。

だって、どこからどう見ても、“混ぜるな危険”なタイプ筆頭だろう。

頭部の輪郭をくっきり現す黒髪七三分け、逆に視力が悪くなりそうな黒縁メガネ、生真面目に肩紐を握りしめられた黒いリュック。

TPOのミスマッチ具合に、二度見する人が続出。今の今まで意識的に視界に入れないように努めてきた通行人は、突如湧いて出た第三勢力に好奇心を抑えきれない。

なぜ笑顔で近づいてこれるのか、話しかけられた当のたまきにもさっぱり。あまりに堂々としているものだから、疑問を持つこっちがおかしいのかと混乱をきたすほどだった。


「さっきは撮影の順番来て言いそびれちゃったんだけど、俺、たまきに勉強を……」


たまきに、勉強を。その単語を拾い取った亮は、いち早く真相に勘づき、ハッと失笑になりそこなった息を漏らした。

そこではじめて、ダテメガネに遮られた九の視界に、亮たちの存在が認識された。


「あ、ごめん、取り込み中だった?」

「いや……」

「なんだよ、たまき。もうすでに宿題押しつけてんだ? やるなあ」

「……は?」

「…………へ?」


たまきのきれいな顔に亀裂が走る。

ここぞとばかりに目くじらを立てる亮に、今度は九が混乱を強いられた。


「そいつ、おまえに愛想振りまいてさ、気に入られたくて必死じゃん。どんだけ怖がらせたわけ?」

「黙れよ亮」

「そ、そうやってそいつも手玉に取ったのか。ちょうどいいカモだもんな!」

「黙れって」

「こんな見本どおりのいじめられっ子、俺はじめて見たわ。中学にいたら俺もパシってたかも、アハハ」

「黙れっ!」

「ハ、……ッ」


たまきは片手で亮の胸ぐらをつかんだ。

青筋を立てた美形の威圧に、亮は息もできない。

ブチッと学ランの第二ボタンの糸が一本千切れる。心臓をもわしづかみされているようだった。


背後で息をひそめる級友ふたりは、庇う素振りなく、自分の頭を抱えてしゃごみこんでいる。

切羽詰まった亮は、やけくそ気味に喉を酷使した。


「ほ、ほら! 見たかよ! こいつは口より先に手が出るような、救いようのないやつなんだよ!」


辺りにそう喚き散らす一方で、目は口ほどにものを言い、現実逃避するみたいに遠くのほうにばかり視線を泳がせていた。

亮の目下には、攻撃準備を整えたたまきのもう片方の手が、刺々しい殺気を放っている。

すぐに発射しないのは、拳を口に突っ込むべきか、顎に叩きつけるべきか、見極めているからに過ぎない。

たまきの据わった眼は、野獣のぎらつきを帯びていた。


「こ、こいつは昔から……!」

「――言葉が通じねえから、拳で語ろうとしてんじゃね?」


まさに今、その減らず口に狙いを定めた現役の拳が、繰り出されようとしたときだった。

固く覚悟を決めた拳を肯定する声が、ふわりと風にそよぐように耳障りな叫びを遮断した。

意表を突かれたたまきは、かえって手の力が抜けていく。


「あれ? やめちゃうの?」


それをなぜか残念がるのは、何を隠そう、水を差した九本人である。

止めに入るどころか、世間話のテンションでたまきを後押しした九は、拳の活躍が見られず拍子抜けしてしまった。


「やっちゃえばよかったのにー。レッツ体当たりコミュニケーション」


九のビジュアルで、絶対に言わなさそうランキングトップ5に入りそうなセリフ。

見本どおりのいじめられっ子、と軽視されたあとの番狂わせは効果的で、たまきはますます気を削がれる。

気づけば拳は完全にほどかれていた。


「こ、こいつ、ほ、本気で言ってんの……?」


亮の頭は煙を噴いていた。

結果論として、九のおかげで殴られずに済んだが、その代わり、九にガツンと脳を揺さぶられた気がした。

この場に参入してきたときと変わらない笑顔ですんなりうなずいた九に、いよいよ亮は頭痛を起こす。


「拳で語るってよくある、よくある」


いやねえよ、と現役ヤンキーのたまきですら思う。

けれどあいにく、つい1年前まで九の日常はたしかにそうだったのだ。

何せ、筋金入りのヤンキー――だった者だ。世間一般の常識とはかなりずれている。


(拳でやり合うほうが絶対手っ取り早ぇよ。だってこいつの話ちんぷんかんぷんなんだもん。俺が途中参加だからかもだけど。愛想振りまいてるとかカモとかいじめられっ子とか、誰のこと言ってんの? 幽霊でも見えてる?)


口喧嘩が精神攻撃として通用しないことは過去にままあれど、そもそもの言い分を理解できないことはまあ珍しい。IQが20以上離れていると会話が成り立たないというが、もしかしてそれだろうか。

傍から自分がどう見られているのか自覚のない九は、都合よく解釈し、自己肯定感を上げた。さくら高校の校章の入ったブレザーをおもむろに着直し、笑みを深めていく。


「こいつ、な、なに笑って……い、意味わかんねえ……」

「え? なんて?」


得体の知れない恐怖にわななく亮に、九は先輩風を吹かすように一歩近づく。


「く、来るなっ!」

「おっと」


防衛本能に委ね、亮は塩をまくように腕を振り回した。胸ぐらをつかむたまきの手ごと中空に払われる。

粗雑な指先が、九のメガネを引っ掻いた。鼻パッドがずれ、ずるりと落下していく。

地面をかすめるメガネを、九はリフティング感覚で靴先に乗せた。手に持ち替えたメガネは、重量ある作りが功を成し、どこも欠損していない。安心して顔を起こすと、全員に食い入るように見られた。


(ん? なんだ?)


視線は前々から感じてはいたが、何かがちがう。


(なんていうか、俺がミケを見つけたときみたいな……)


数多くの視線が「見つけた」もの――それは、メガネのない、九の素顔だ。

長いまつげに縁取られた黒目がちな瞳。肉付きが薄く、色白な肌。

頑丈な仮面の外れた顔は、美少年と謳うにふさわしい甘美な艶を隠し持っていた。


ジェットコースター並のビフォーアフターに、性別問わずノックアウト。そこら中でうっとりと息を呑む声が吹き抜け、ハーモニーを奏でている。


たまきも例に漏れず九に目を盗まれた。その様子は国宝に焦がれる客というよりは慧眼の鑑定士に近い。

見栄えのいい面は自分ので見飽きているたまきは、他人の美醜などどうでもよかった。

そんなことより、九の顔立ちそのものに引っかかりを感じる。


(こいつの顔、どっかで……?)


漠然とした既視感。

昔会ったことがあっただろうか。こんな肝っ玉の大きいやつがいたら忘れられないと思うが。

九と話したときにはこの感覚はなかった。

その特徴的な顔に、脳が呼び起こされたのだ。


もう喉元のあたりまで出かかったそれを、亮の背後で腰を抜かした、亮の級友のうちのひとりも鮮明に感じ取っていた。


「あ……あ……っ」


記憶の引き出しから、一枚の人相書きが雪崩落ちた。

中学のころ、他校の裏サイトから回ってきた要注意人物の警告。


――『西の辰炎シンエン』。


人相書きに添えられた二つ名が、ボソッとつぶやかれた。


「んあ? 誰か俺のこと呼んだ?」

「ひ……っ」


声が小さすぎてきょろきょろ迷う九に、亮の級友のひとりは舌を噛む。

ただひとり、新入生テストの英語リスニング問題を完璧にクリアしたたまきは、そのかすかな独白を一語一句取りこぼさなかった。

厨二まがいな響きに、既視感が冴え渡る。確証を得ようと自らの唇で音をなぞった。


「西の、辰炎……」

「あ、たまきだった? 俺のこと呼んだの」


今度こそ発信源をつかんだ九は、たまきのほうに顔を移した。

人相書きと完全一致した顔を。


「その呼び方、懐かしいわー。そう呼ばれたこともあったなー」


てっきりメガネは変装用と思ったが、ためらいなく正解を言い渡され、たまきは二の句に困った。


「たまき、俺のこと知ってたんだな。ふつうにびっくり。どっかでやり合ったことあったっけ?」

「いや……」

「まっ、あったとしても最低1年は前だし覚えてねえか」

「……」


知ってるも何も、たまきは自分と対になるような存在をことあるごとに聞かされてきた。

東の金鬼、西の辰炎。

エセ風神雷神みたいなセット売りで、あっちが悪さするとこっちにも誹謗中傷が押し寄せ、そのまた逆も然りだった。


ちなみにたまきの分の人相書きもちゃんとある。いったいどこのどいつが始めたのか――大方、学生が面白半分に作ったのだろうが――、肖像権侵害もいいとこだ。

それもあって、あれよあれよという間に、顔と蔑称が大安売りされたのだ。地区外にはさほど流出しておらず、本名バレについては町内でおさまっているのがまだ救いといえた。


九の人相書きが出回り始めたのは、たまきの住む町の対極に根を張る、しみったれた田舎町。

治安の不安定な区域の中でも、道の外しやすさに定評のある町で、ゴミのような人間がたまき宅の近所のざっと倍以上のさばる。

その代表格が、九だった。

来るもの拒まず、飽くまでやめず。倒れても倒されても暴れ続ける、不死身もどきの人でなし。

一説によると、北と南の侵略を一網打尽にし、実質のドンとも言われていたらしい。


ある日を境に、西の闘技場とされる河川敷に現れなくなり、次第に噂も聞かなくなった。人相書きは次世代のワルに上書きされ、時とともに「西の辰炎」の名は風化していった。

一部では、猫を飼い始めて足を洗ったらしいと、まことしやかにささやかれていたが……。


(猫ってのが隠語で、本当は東の金鬼綿貫たまきのことだとしたら……!?)


並び立つふたりに無理に点と点をつなげたのは、亮の級友のひとりだ。ついでに九の視線ともつながってしまう。

九がん? と何気なく上瞼を持ち上げただけで、黒目が鋭利に収縮して見え、内臓の状態まで透過されてしまいそうだった。

「殺される」ではなく「食われる」感覚。

食べてもおいしくないですよと言わんばかりに胃が氾濫を起こした。


「う、っ」


西の辰炎は、来るもの拒まず……去るもの追わず。

どろどろとした濁流に飲み込まれるのを逆手に、トイレの個室に駆け込んだ。

置いていくなよ! ともうひとりの級友も、足をもつらせながら追いかける。


のんきに九に見惚れていた亮は、突然ぼっちになった状況に泡を食った。


「え? はっ!? あ、あいつら、勝手に……!」


一変した状況に、どこからつっこめばいいのか。

亮は顔を紅潮させながら、メガネなしの九に八つ当たりした。


「お、おまえがいなけりゃ……っ」

「あ、タイマン? 再開する?」

「するかアホ!」


もはや小学生みたいな悪口しか出てこない。

興が冷め、頭の回りが滞る。

亮はたまきを睨みつけるも、本職の眼力になすすべもない。あきらめて唾だけ吐き捨て、トイレの奥に消えていった。何度かコケそうになっていたのを、たまきは見ないでいてあげた。


「あれ、行っちゃうけどいいの?」

「……ああ」

「そっか」


たまきは首をすくめた。

たいして疲れず、どこも痛めず、あっさりと終息したのは何気にはじめてのことだった。早い安いうまい、のキャッチコピーのすばらしさを体感する。


「うーん、そんじゃあまあ……」

「……ああ」

「俺らも行くか!」

「ああ。……え?」


じゃあな、と続く予感のした口調で、九は道連れを宣告した。片手間にメガネをかけ直し、さっとたまきの手を取る。

切り替えが早すぎる。というか、九に切り替えもくそもなかった。たまきは出会ってこの方、九のペースに振り回され続けている。


「おまえも3番ホームだろ? もうすぐ電車出発しちまうぜ」


返事も聞かずに猪突猛進に走り出す。

今朝同じ車両からたまきが出てくるのを偶然見かけた九は、たまきも隣の地区の住人なことに察しがついていた。


小柄なわりに力が強く、たまきの巨体はあえなく引きずられる。

たまきの目の前で、ぴょんぴょん跳ねる黒髪。ときおりちらつく丸っこい耳に、切れ込みを入れたようなピアス穴の跡が流星群のように散在していた。


(本当に不良、だったんだな、こいつ……)


それも人相書きを貼られるほどの。

そう腑に落ちた今もなお、たまきの視線は九を追いかける。連行されている身なのだから仕方ない、重力に抗えないのと一緒だ。言い訳がましく考えながら、リュックを背負ったうしろ姿にやんちゃな面影を探した。


ふつうではないと、最初から気づいていた。

これまでの変人っぷりを説明するのに、これ以上の最適解はない。

だけど自分とイコールかと聞かれたら、ちがうような気がした。


(……よくわかんねえやつ)


前を進む九が、2段飛ばしで階段を下りていく。たまきの腕がぐんと引っ張られ、上半身が自動的に九のほうに傾いた。

九の巻き起こす風が、傷んだ金髪をあでやかにとかした。


3番と掲示されたホームへ降りたタイミングで、電車のドアが閉まり出す。

ふたりが電車に駆け込んだのはほぼ同時だった。

たまきの足は反射で動き、でかい図体を器用に挟み入れ、気づいたときには前にいた九が横にいた。

ドアがバウンドしながら閉じていく。無理なご乗車はおやめください、と車掌の注意がアナウンスされた。


「ギリギリセーフ、だな!」

「……」


白い歯を露出させる九に、不良のふの字もない。一見、ちょっと芋臭いだけの好青年だ。

走ったせいでメガネが傾いている。たまきが無言で自分の目尻あたりをつつけば、九ははにかみ、がさごそと拙い手つきでフレームをいじる。

西の元番長の前提があると、わざと隙を作ってカウンター待ちしているとも捉えられるが、間違っても演技しているふうには見えない。素でドジなようだ。


(西の辰炎やつって、もっと怖いと思ってた。……なんだ、全然そんなことねえな)


そう思う暇がなかった、とも言える。

ふつうじゃないけどふつうで、ふつうなのにふつうじゃなくて。そのサイクルがエンドレスで待ち受ける。心はずっと忙しない。

びっくり箱を彷彿とさせる衝撃があった。仮にそこに敵意があれば、お化け屋敷が完成されていたであろう。


(不良やめた噂、デマじゃ、ねえんだ。なんかガチっぽいもんな……。やめられるものなんだ、不良って)


たまきも最初こそ、挽回しようと周りを説得して回ったものだ。けれど何も変わらなかった。だんだんきらわれることに慣れ、でたらめな噂を否定するのも面倒になり、堕落した生活を送るようになった。

道を脱する決定打を、いまだ見失ったまま。


(こいつにはあったのか、がんばれる理由が)


九がひどくまぶしく見えた。

視界につんとした痛みがにじむ。目玉を逃がすように車内へ向けた。

混んではないが、座席はすべて埋まっていた。かと思えば、乗客がひとりまたひとりと席を立ち、そうっと隣の車両に移っていく。

地元の方面を往来する電車ではありふれた現象だった。いまどき珍しくもない金髪を片っ端から避けている人も少なくない。


「あっ、席空いてる。ラッキー」


ちょうど空いた並びの2席を、九は手放しで喜んだ。

リュックを腹に抱えて座ると、つながったままの手が、たまきを隣の空白にたぐり寄せる。

ふしぎと座り心地はよかった。


「あ、そういや、おまえなんか俺に言いたいことが……」

「すやぁ……」

「え」


着席後、わずか2秒で九が寝落ち。

規則的な電車の揺れは睡魔を勧誘しやすいとはいえ、ここまで相性のいい人間がいただろうか。

あやされた赤子のような寝顔に、わざわざ起こして問いただす気にはなれない。メガネがまた落ちないよう、たまきはさりげなく九の首の角度を直す。その直前になって、片手が九の手で塞がっていることを思い出した。


「み、け……んにゃあ……」

「……」


九の手はよく見ると傷跡が多い。ほくろのように変色した痣もあれば、しわのように線を彫る傷もあった。

関節は丸く膨らみ、肌はごわついている。

眠る九の指が一本ずつほどけていく。やがて重なっただけの手のひらは、たまきのひと回りも小さかった。

たまきはなんとなく手を離すタイミングを逃し続けた。

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