EP 2
最初のプレーと、焦げ付いた獣
光の奔流が止み、落下するような感覚が消えた時、真田美久音の体を包んだのは、湿った土と青々とした草の匂いだった。
目を開けると、視界いっぱいに見知らぬ森が広がっていた。天を突くほど巨大な木々、見たこともない色鮮やかな花々、そして耳を澄ませば聞こえてくる未知の鳥の声。
「……本当に、来ちゃったのね」
呆然と呟く。数分前まで、特売の卵をカゴに入れ、子供たちの好きなオムライスのことを考えていたというのに。その現実との断絶が、改めて胸に突き刺さる。
(お父さん、ちゃんとご飯食べさせられたかしら。一番下の子、夜中に泣いてないかしら……)
込み上げてくる涙を、ぐっと堪える。泣いている暇はない。女神は言った。「魔王にトライすれば帰れる」と。馬鹿げた話だ。でも、それに縋るしか、道はないのだから。
美久音はラガーマンだった頃を思い出し、両手で頬を強く叩いた。パンッ、と乾いた音が森に響く。
「よし……!」
まずは現状確認だ。
服装は、家からそのまま出てきたパーカーにジーパン、そして履き慣れたスニーカー。動きやすいのが不幸中の幸いか。
肩にかけていた、いつもの買い物用のショルダーバッグの中身を確かめる。
「水筒と……あら、特売で買ったコロッケパンがあったわ」
子供たちのおやつにと、つい多めに買ってしまった惣菜パン。ビニール袋に入った、何の変哲もないそれが、今は元の世界との唯一の繋がりのように思えて、無性に愛おしかった。
「うーん、これからどうしましょ?」
途方に暮れる。地図もなければ、方角も分からない。魔王がどこにいるかなんて、見当もつかない。
だが、どんな時でも、まず確保すべきものがある。主婦の、そして7人の子を持つ母の知恵が告げていた。
「取り敢えず、水よね」
水筒の中身は有限だ。川か泉、飲める水がなければ長くはもたない。
美久音は、水の音が聞こえる方角を求めて、鬱蒼とした森の中を彷徨い始めた。
どれくらい歩いただろうか。
木の根に足を取られ、泥にスニーカーを汚しながら進んでいると、不意に背後の茂みがガサガサッと大きく揺れた。
「え?」
振り返った美久音は、息を呑んだ。
そこにいたのは、猪のようないかつい牙と、狼のように鋭い鉤爪を持つ、巨大な獣。爛々と輝く四つの赤い瞳が、明らかに敵意と飢えをたたえて美久音を睨めつけている。
これが、異世界の……モンスター。
「きゃあああああっ!」
理屈も思考も吹き飛んだ。全身が恐怖で凍りつき、足が縫い付けられたように動かない。
獣――ボアウルフが、涎を滴らせながら地面を蹴った。標的は、美久音ただ一人。死が、牙を剥いて目の前に迫る。
(だめ、食べられる……!)
目を固く瞑った、その瞬間だった。
カィィンッ!
甲高い金属音のようなものが響き、美久音の全身を淡い光のドームが包み込んだ。
直後、凄まじい閃光と轟音が炸裂する。
――バリバリバリバリッ!!!
雷が落ちたような衝撃に、思わずへたり込む。恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
数秒前まで自分を喰らおうとしていたボアウルフが、全身から黒い煙を上げ、炭のように黒焦げになって地面に倒れていたのだ。あたりには、焦げ臭い匂いと、オゾンのような異様な空気が漂っている。
美久音は、自分の両手を見つめた。何もしていない。ただ、恐怖で立ち尽くしていただけ。
それなのに、モンスターは死んでいる。自分を守った、あの光の壁は一体……。
「……オートなのかしら? このシールドって……」
目の前の惨状と、自分に与えられた力のアンバランスさに、美久音はただ呆然と呟くことしかできなかった。
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