異世界×ラグビー!? 子沢山母ちゃんが子供達に再会する為に魔王にトライしてタッチダウンする!?
月神世一
第1話
ボールを持たないラガーマン
真田美久音、40歳。彼女の日常は、常に時間との戦いだった。
朝は戦場だ。7人の子供たちを叩き起こし、朝食を食べさせ、学校や保育園へと送り出す。日中はパート先の学校で、数百人分の給食を作る。夕方、パートを終えるとその足でスーパーに駆け込み、夕飯の買い物。家に帰れば、洗濯物の山と再びの食事の支度。
それが、彼女の「日常」という名のフィールド。
その日も、美久音は愛車のファミリーバンのハンドルを握りながら、家路を急いでいた。すり減ったハンドルの感触が、この車と共に走り抜けてきた年月の長さを物語る。バックミラーにぶら下がった、末の娘が作ってくれた歪なビーズのお守りがチリチリと揺れていた。
「――じゃあ、お父さん。悪いけど、子供たちのことよろしくね」
スピーカーモードにした携帯電話から、夫の穏やかな声が聞こえてくる。
『ああ、任せとけ。美久音こそ、運転気をつけてな』
「ええ、ありがとう。今日は特売日だから、卵が安いのよ。みんなの好きなオムライス、作ってあげないとね」
そんな些細な会話が、美久音の疲れた心を満たしていく。この日常こそが、彼女の宝物。彼女の守るべきゴールラインだった。
「じゃあ、また後で」
携帯を切り、ほう、と一つ息をつく。赤信号で車を止めると、ふと視界の端に小さな影が映った。茶色い毛並みの子猫が、おぼつかない足取りで車道の真ん中へと迷い出ている。
「あら、危ないわねぇ。あんな所に……」
そう呟いた瞬間だった。
世界が、甲高いブレーキ音と地鳴りのようなエンジン音に支配された。
右側から、信号を完全に無視した大型トラックが、子猫の、そして美久音のいる交差点に突っ込んできたのだ。
時間が引き伸ばされる。
眩いヘッドライトが、美久音の目を焼く。
(危ない!)
理屈ではなかった。思考よりも先に、体が動いていた。
高校時代、泥まみれのグラウンドで、仲間を守るために何度もタックルに飛び込んだあの頃のように。
ただ、守りたい。その一心で、美久音はアクセルを床まで踏み抜いた。
ドンッ、という鈍い衝撃。
彼女のファミリーバンは子猫を突き飛ばすように押し出し、身代わりとなって鋼鉄の塊に飲み込まれていく。
フロントガラスが蜘蛛の巣状に砕け散る視界の隅で、驚いて逃げていく子猫の姿が見えた。
(……よかった)
薄れていく意識の中、最後に脳裏に浮かんだのは、7人の子供たちの笑顔だった。
それが、真田美久音の、母親としての最後のプレーだった。
◇
気が付くと、美久音はどこまでも白い、光に満ちた空間に立っていた。
暖かく、穏やかで、現実感のない場所。いわゆる「審判の間」とでもいうのだろうか。
「気付かれましたか? 真田美久音さん」
透き通るような声に振り返ると、そこに、神々しいまでの美貌を持つ女性が立っていた。水色の髪を長く伸ばし、純白の衣をまとった彼女は、穏やかに微笑んでいる。
「えぇ……? ここは……? 私は、一体……?」
「私はアクア。この世界を管理する女神です。……単刀直入に申し上げます。貴方は、先程お亡くなりになりました」
アクアと名乗る女神の言葉は、静かに、しかし残酷に響いた。
瞬間、美久音の全身を絶望が貫いた。
「そんな!? 嘘でしょ!? 私には……私には、7人の子供がいるんですよ! 一番下の子は、まだ1歳なんです! 私がいなくなったら、あの子たちは……!」
取り乱し、女神に詰め寄る。母親の顔で。
「そ、そう言われましても……。貴方の自己犠牲の精神は大変尊いものでしたが、死の運命を覆すほどの力は、私には……」
アクアは、美久音の凄まじい気迫に明らかにたじろいでいた。
「どうかお願いします! お願いします! あちらに戻してください! 子供たちに……あの子たちに会わせてください!」
地面に膝をつき、美久音はただただ願った。女神も、神も、どうでもいい。ただ、母親として、子供たちの元へ帰りたい。
その剥き出しの母の愛に、女神は困り果てたように眉を下げた。
「わ、分かりました! 分かりましたから! では、機会を与えましょう。もし貴方が、異世界『アルストア』で魔王を倒すことができたなら……その時は、現世に戻れるよう、私がなんとかしてみせます!」
「ま、魔王……? 私、料理くらいしか取り柄がない、ただのおばちゃんなんですけど……」
あまりに突飛な提案に、美久音は呆然とする。
「おや? 貴方の魂の記録によれば、高校時代はラグビーに打ち込んでいたとか。調理師免許もお持ちですね。ふむ……ならば、あのスキルを与えましょう」
女神がパチンと指を鳴らす。
「え?」
「まず、言葉が通じないと不便でしょうから【言語理解】。そして、貴方のための特別なスキル、【シールド】を授けます」
「シ、シールド……?」
「はい。如何なる物理攻撃も魔法攻撃も完全に防ぐ、絶対防御の結界です。さらに、その結界に触れた者には、もれなく一億ボルトの電流が流れます」
女神はにこやかに、とんでもない説明を続ける。
「そ、それで、私にどうしろと……?」
「はい」と、アクアは満面の笑みを浮かべた。
「そのスキルで、魔王にトライしてタッチダウンしてください。そうすれば、貴方は現世に戻れますよ」
「そ、そんなああああぁぁぁぁっ!」
美久音の悲痛な叫びが、神聖な空間に虚しく響いた。
「では、真田美久音さん。良い異世界転生を!」
女神の能天気な声と共に、美久音の足元が眩い光に包まれる。抗う間もなく、彼女の体は奈落へと落ちるような感覚と共に、見知らぬ世界へと飛ばされていった。
異世界アルストア。
土の匂いと、青々とした草いきれに満ちた、森の中で。
一人の母親の、我が子に会うための、長くて過酷な試合のホイッスルが、今、鳴らされた。
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