言の葉は、虚ろに
望月おと
言の葉は、虚ろに
僕には、友達が三人いる。いや、いた、と言うべきか。
どうも最近、記憶があやふやでいけない。
ひとりは、煙草が好きだった。よく煙をくゆらせながら、「この世界は終わってやがる」と、実に心地よさそうに、絶望を吸って吐いていた。口は悪いし、目つきも鋭くて、時々何かを殺しているような顔をするくせに、笑うのだ。明るく、楽しげに、あっけらかんと、まるで心が健康な人間のように。それがまた腹立たしくて、羨ましかった。それでも、彼は僕の相手をしてくれた。鼻で笑いながら、「本当、どうしようもねえな」と言った。どうしようもないのは君の方だろう、と何度も思ったが、まあ、彼は彼で、根は優しい奴だったのだ。たぶん。
もうひとりは、コーラが好きだった。よく泣く奴だった。人を殴ったことはないくせに、いつも世界に殴られたような顔をしている。僕なんか、と自分を呪い、頭をぐしゃぐしゃに掻きむしっていた。やめろよ、痛いじゃないか、と僕は心の中でそっと思うだけで、声に出したことはない。そんな彼には、毎回コーラを奢ってやった。冷たいペットボトルを手渡すと、ぐしゅぐしゅの顔で「ありがとう」と言う。それがまた、妙に滑稽で、でも泣ける。まったくもう、みっともないなあと思いながら、たぶん、僕はその顔を見るのが好きだった。
三人目は……人間じゃなかった。いや、本当に。僕が比喩で語っていると思うのなら、勝手にそう思ってくれて構わない。何をどう説明しても、誰にも信じてもらえないことぐらい、僕だって理解している。
彼には、顔がない。正確には、“顔のあったはずの場所”が、黒くくり抜かれている。漆黒。夜よりも黒く、穴よりも深い。そこをじっと見ようとすると、ぐにゃりと空気が歪む。頭が痛くなる。でも、身体はある。手足もある。スーツなんか着て、妙に紳士ぶっている。けれど、近づくとふいに、空気みたいに輪郭がぼやける。意識を逸らすと、またそこにいる。まったく、ややこしい奴だ。彼は敬語で話す。だが時折、ふざけた調子でからかってくる。そのくせ、礼儀正しいのだから不思議だ。顔がないくせに、表情が豊かに思えることもある。笑っているような、怒っているような、憐れんでいるような……まあ、実際には、感じてしまうだけで、見ることはできないのだけれど。でも、たしかに、そこにいた。僕のそばに。いつも、煙のように現れて、煙のように消えていく──まさしく、怪異、というほかない。
ここ最近、二人のことを、少しずつ忘れている。顔が、まず思い出せない。声も、たしかに聞いてきたはずなのに、どうにも掴めない。名前なんてもう、口に出そうとすると舌の奥でふやけてしまう。なのに、奇妙なことに、話したことは覚えている。
「僕が悪いから。どうしてこうもダメなのだろう。全部僕のせいで……」と顔を覆う彼。その手に握られたコーラはもうぬるくなって炭酸も抜けていた。心の中で、思う。たしかに、君は気が弱い。臆病で、おどおどしていて、みっともない。容姿も、よくはない。だから、靴を隠されても、無視されても、そうされる“理由”があるのかもしれない。……ああ、こんなこと思いたくなんかないのに。僕は、そっと彼の背中に手を添えた。それしかできなかった。そのときだ。
「お前が何をした?人を傷つけたのか?暴力でもふるったのか?」煙草の声だった。彼は、空を睨むようにして、低く続けた。「何もしてない人間を踏みにじって、平気で笑える奴の方が、どうかしてるんだよ。勝手にラベリングして、見下して、安心して……浅ましいのは、そいつらの方だろう」その言葉に、僕は、たしかにそうだ、と、どこか救われるような気持ちになった。人間として本当に劣っているのは、自分より下の存在を探し回るような連中の方だ。きっと。しかし、泣き虫はそれでも泣き止まなかった。「でも、僕にも……悪いところが……」と、ブツブツ言いながら、ぐしゃぐしゃの顔でうつむいていた。煙草は、少しだけ笑った。馬鹿にするように、でも優しく。「お人好しすぎるんだ、お前は」そして一言、ぽつりと呟いた。
「僕たちじゃなくて、世界が狂ってるんだよ」
それを聞いて、僕は、どうしようもなく安心した。いや、安心しようとしていたのかもしれない。こういうやりとりは、ぼんやりと、まだ残っている。うっすらと、夢の底みたいに。でも、どこか、靄がかかっている。
そう──これは、あいつのせいだ。顔のない、あの友達。いや、もはや“友達”と呼ぶべきじゃないのかもしれない。
僕の家は、静かだった。それは、たとえば山の中の静けさとか、図書館のような凛とした沈黙、などとはまったく違っていて、息が詰まるような、無理矢理に口を塞がれたあとのような、そういう、圧のある静けさだった。食卓に並ぶのは、母の手料理。見た目は華やかで、香りも良い。昔はおいしかった。けれど、それがどうしてだろう。今となっては、口に運んだ途端に味が消える。塩気も、甘みも、ぬくもりも、全て。喉の奥が乾いて、飲み込むたびに胸のあたりがひりひりと焼けるような気がした。
母は優しい。優しいときは、だけれど。僕が話をすれば、にこにこと笑ってくれることもあった。成績表を持ち帰れば、「すごいわね」と褒めてくれる。そんな日は、本当に、幸せだった。でも、なにか……そう、ほんの些細な何か……に触れてしまうと、彼女は変わる。 箸を置く音が少し強くなる。瞳の奥に何かが宿る。そして突然、泣き叫び出す。まるで、薄氷の上を歩いていたら急に底が抜けたみたいに、理屈も前兆もなかった。 僕が悪かった?何を間違えた?分からない、分からないけれど、ひたすらに謝る。それ以外の選択肢などない。この時間だけ耐えればいい。数分後には、いや、少なくとも次の日には収まるのだから。
父は家にいないことも多かった。いる時は、だいたい怒鳴っていた。僕か母か、それとも自分自身か、世界か、あるいは……全部にかもしれない。 父は、僕が成績を落とした時、黙って一発、頬を叩いた。切られたような衝撃が走り、そのあとはジンジンと鈍く痛んだ。
「恥晒し。お前なんかいらない」
そう言われたとき、ああ、これはもう、僕という人間の存在自体が間違っていたのだなと、変に納得してしまった。煙草の彼がいれば「そんな風に納得するなよ」と言ってくれたかもしれない。その日は、父に散々罵倒された。僕も、母も。泣き疲れた母が震えた声で言った。
「産むんじゃなかった」
翌日、彼女は謝ってきた。
「昨日はごめんなさい。ごめんね。本心じゃないの」
でも、それを聞いてもなお、僕は、ひどく傷ついていた。本心じゃない、なんて、何の慰めになるのだろう。言葉というのは、一度放たれたら、それはもう“在る”のだ。冗談でも、嘘でも、本気でも。僕の中に刺さって、残る。消えてなんかくれない。
──そう思っていたのに。 奴が現れたのは、その直後だった。
「どうも、お困りのようですね」
顔のない男が、窓際に立っていた。いつからそこにいたのかわからない。でも、どこか自然で、ああ、そうだ、こいつは、いつもこうして現れるんだった、という気がして、何も驚けなかった。
「また来たのか」
「ご依頼があるかと思いまして」
「……あるよ」
僕は、目を伏せたまま言った。
「あれを、消して」
「かしこまりました」
奴は、静かに手を振る。まるで、空気をなでるように。その瞬間、僕の中で、何かがストンと抜け落ちる。さっきまで心臓をひりつかせていた痛みが、もう思い出せなくなる。「たしかに、何かがあった」ことはわかる。でも、「何があったか」はもう、ぼやけている。
ああ、これが“消す”ということなのか、と初めて知った。それからというもの、僕は何かあるたびに、彼を呼んだ。失言、罵声、怒鳴り声、血の気の引く沈黙、割れた皿、飛んでくるティッシュ箱、焼酎の瓶──
全部、全部、消してもらった。
彼は、飄々としていた。まるで美容師かマッサージ師か何かのように、「今日はどこが辛かったですか?そこですね、はい、消しますよ」と言って、記憶を切り取っていく。何に使ってるのか、と聞いたこともあった。「まあ、色々と」と言って、ふふふ、と笑った。その笑い方もまた、顔がないのに表情が見えるような、不思議な──そして、どこか悲しいような、笑いだった。
煙草は、ある日ふいにいなくなった。唐突だった。いつものように公園に向かい、いつものベンチに座って、少し寒い風に顔をしかめながら、「今日も来ないな」なんて軽く悪態をつく。それが何日も続いた。最初の一週間くらいは、正直、少し拗ねていた。アイツ、また拗らせてるんだろ、なんて。その次の一週間は、不安だった。何かあったのだろうか、と。そのまた次の週には、言いようのない空虚が、僕の中に根を下ろしていた。何がいちばん辛かったかというと、僕が彼の名前を思い出せなかったことだ。いつから呼ばなくなっていたのだろう。あれほど身近だったはずの名前が、口の中でざらついて、咳払いしても出てこなかった。
コーラは、残された。だけど、僕ひとりでは、あいつを慰めきれなかった。泣いてばかりだった。どんどん泣き虫になった。もう“虫”どころじゃなかった。毛むくじゃらの大きな何かみたいになって、いつも震えていた。僕の拙い共感なんかじゃ、彼の哀しみは到底おさまらなかった。コーラが泣き崩れるたび、僕はただ隣に座って、ペットボトルを差し出すことしかできなかった。それでも彼は、いつも受け取ってくれた。僕を、まだ見てくれていた。
──それも長くは続かなかった。そのうち、彼も来なくなった。まるで、順番を守るように。
僕は、ひとりになった。あの奇妙な、顔のない奴だけが、いつものように、涼しい顔で現れるようになった。
「まあ、消して欲しいと頼んだのは彼らですからねえ」
そう言って、奴はどこか楽しげだった。
「……え?二人とも、お前に?」
僕の声は、自分でも驚くほど、細かった。
「ええ、そうですよ。あの二人も、かなり私と仲良くさせていただいてました。まあ、あなたほどの常連ではありませんでしたが」
にこにこと、得意げに、商売の話でもしているような口ぶりだった。
「二人が望んだこと。あなたも、そのうち完全に忘れて、楽になります。」
奴は本当にそう思っているようだった。いや、思っていないのかもしれない。ただ、そう言うように設計されているだけの、機械のような存在。
「人間を、消せるのか」
僕は、声が震えるのを止められなかった。
「ご両親を消したい、とでも?」
「そんなわけないだろう」
少し語気が荒くなってしまった。奴は肩をすくめる。
「申し訳ありませんが、殺人はできません。ただ、“本人の意思”があれば、存在そのものを“消す”ことは可能です。死んだわけではありません。ただ、消えたのです。ですから、法には触れておりません」
「人間じゃないくせに法律を気にするんだな」
「誰が人間じゃないといいましたか?」
「僕が」
「そんな風に思われていたなんて、ショックです」
奴は、にやにやと笑った。顔もないくせに。
夜は、今日も静かだった。でも、その静けさは不気味なほど厚みがあって、何かが、わざわざ音を立てないようにしている、そんな意図を感じさせる沈黙だった。
その沈黙を裂くように、リビングから怒鳴り声が聞こえる。父だ。何を言っているのかは、聞き取れない。ただ、ひどく耳の奥に響いて仕方がなかった。母のすすり泣きも混ざっている。
「……お前が出来損ないだから、出来損ないが生まれる。全部失敗だ」
その一言だけが、まっすぐに、僕の耳に入ってきた。瞬間、呼吸が止まった。心臓が、どく、と暴力的に跳ねた。何かが、割れる音がして、何かが床に落ちた。瓶が、カラカラと転がって、止まった。
ああ、もう限界だ、と思った。僕は、ここにいてはいけないのだと、深く深く思い知った。僕は逃げるように自室に戻って、ベッドに潜り込んだ。布団の中で、小さく息を殺す。そのときだった。ふっと、部屋の温度が下がる。ああ、来た。
「大丈夫ですか」
例によって、顔のない男が、丁寧な声で話しかけてきた。心配しているような口調。けれど、その実、目のない顔でどこかこちらを値踏みしているような気配があった。
「そう見えるか」
僕は、布団にくるまりながら呟く。
「いえ、まったく」
くすくすと笑う。その声が、嫌に軽い。
「今日も、消しておきましょうか」
薬を処方する医者のように、業務的で、淡々としていた。
僕は、少しだけ迷った。消す。たしかに、痛みは消える。でも、こんな一時的な対処で何も変わらない。逃げているだけでいいのか。そもそもこの痛みは感じるべきだったのではないか?感じて、ちゃんと向き合っていくべきだったのではないか?もしかしたら、誰かに気づいてほしかっただけかもしれない。
──いや、そんな綺麗事でどうにかなるくらいなら、最初からこんな風にはなっていなかった。
「僕の友達を……なんで、消した」
「何度も申し上げましたが、彼らが望んだからです」
怪異は肩をすくめる。
「じゃあ……どうして、彼らはそう望んだんだ」
「ひとりは言いました。『こんな腐った世界に、もういたくない』と」
声色が変わった。まるで、本人が乗り移ったように。煙草の投げやりで、それでも優しい声だった。
「もうひとりは、こうも言いました。『こんな腐った人間はいないほうがいい』と」
コーラの声だった。あの、鼻をすするような、どこか曖昧で、聞いている方が胸を詰まらせるような、あの声。
「……ただ、消えたいと願っただけです。まったく、ささやかな望みです。」
奴は続ける。
「人はなぜ、この選択をしないのか。不思議でなりません。消えれば、悲しみも、怒りも、苦しみも、すべてがなくなるのです。解放されるのです。素晴らしいと思いませんか。まあ、実体がないので解放感とやらは感じられないでしょうけど」
僕は、ふらふらと立ち上がっていた。誰も期待していない。誰も呼んでくれない。もう、僕がいないことなんて、きっとすぐに慣れる。
「……消えたい」
声に出した途端、心臓が強く跳ねた。
「よろしい。では──消して差し上げます」
その瞬間、僕の身体はふっと浮いた。冷たい風が頬を撫でる。世界が、さかさまになって、まぶたの裏で星が弾けた。
ふわふわしていて、心地いい。ああ、楽しい。嬉しい。なんで早くこうしなかったんだろう。
父が、僕の頭を撫でてくれていた。母が、僕に微笑んでいた。とても、とても、楽しかった。
──けれど、すぐに崩れた。
父が叫んでいる。母が泣きながら、僕の名前を呼んでいる。僕に手を伸ばしている。ああ、届かない。
ごめん。ごめんなさい。
ここはどこだろう。ああ、でももう考えなくていいんだ、全部。楽しいな……いや、少し、苦しい。でも、大丈夫、もうすぐ。
──僕は、誰だったっけ。
そうだ。全部、今気づいた。
僕は、僕って…………
あっ。
***
「……あら、お花。誰か、亡くなったのかしら」
「ええ、飛び降りがあったの。若い男の子」
「まあ……お気の毒に」
「でもね、あの子、ちょっと変わってたのよ。毎日、公園のベンチで、ひとりごと。ぶつぶつ、ずっと」
「私、見たことある。宙に向かって話してた。煙草を吸いながら、楽しそうに笑ってて……まるで、何人もそこにいるみたいだった」
「お母様と知り合いでね。ひどく気に病んでるって。自分のせいじゃないかって」
「それは、仕方ないわよ……」
「前に一度だけ、挨拶したことがあるの。お母様と一緒にいたとき。目が合わなくて、返事もしなくて……なんというか、体はあるのに、心がそこにないみたいな」
「……こう言っちゃ悪いけど、あんなの、生きてるのか死んでるのか、最初からわかんなかったわよねぇ」
──花束は、小さなものでしかなかった。
包み紙の端が少し雨に濡れて、くたくたに歪んでいた。
その傍らに、炭酸の抜けたコーラと、煙草の箱が、ぽつんと並んでいた。
言の葉は、虚ろに 望月おと @m_oto_o0
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます