第5話
エミリアはホテルのベットの中で眠りについていた。ミアの言葉が頭から離れず、眠るまでに時間がかかったが、日頃の疲れもあり最終的に眠りにつくことが出来た。
眠ってからしばらく経っただろうか。不意に洗面所からの物音でエミリアは目を覚ます。
「なんだ…?」
エミリアはベットから出て、洗面所の方へ行く。念の為枕元に置いたルガーP08拳銃を持って、足音を凝らして歩く。
洗面所のドアを少し開け、念の為トラップが仕掛けられていないかを確認、その後ドアを開けて、外から見える範囲を索敵してから室内に入る。だが、おかしなことに誰も居ない。
「居ない…逃げられたか?」
その時、ふと洗面所の鏡が目に入る。そこにはいつも通り、自分自身が写っていた。恐る恐る鏡の前に立つ。何も異常はない。
「…なに、してるんだろ」
そう思い立ち去ろうとした時、ある言葉が聞こえた。
「ユダヤ女」
はっきりと、鏡の方からその声がした。その途端エミリアの顔は青ざめる。素早く振り返ると、鏡に写った自分自身が、こちらを指さして、無表情で「ユダヤ女」と繰り返し言っている。
「…は?」
震える声でエミリアは言った。それでも鏡に写る自分自身は、その言葉を繰り返し続ける。そして、その声はだんだんと増えている。四方から「ユダヤ女」という声が聞こえ、エミリアは周りを見た。
彼女は思わず小さな悲鳴をあげた。そこは先程のホテルの一室ではなくなっており、暗い空間が広がっている。そこにびっしりと老若男女様々な人がこちらを指さして同じ言葉を繰り返している。
「わ、私は、ユダヤ人じゃない!」
必死で否定するも、声は止まず、エミリアは恐怖でうずくまる。
「助けて…助けて…もうやめて…助けて」
エミリアはただそう繰り返すことしか出来なかった。
「助けて…リナ」
そこで目が覚めた。慌てて起き上がって部屋を見渡す。何も異常はない。そこでエミリアは自分の体が寝汗によって池に飛び込んだ後のようになっていることに気づく。あれは、全て夢だった。だが、ただの夢では無い。
「…クソっ」
エミリアは、姓である「ズュース」がユダヤ人に多い姓であったがために、幼少期にユダヤ人疑惑によりいじめられていた。それが、今のエミリアの人格を作ったと言っても過言では無い。
翌朝、エミリアは予定より早くホテルを出て空港へ向かった。その間もエミリアは苛立った表情を浮かべていた。
空港に止まった親衛隊士官専用の輸送機に乗り込む。機内には複数の他の親衛隊士官も乗っており、各自隣の席の者と雑談をしている。
「隣いいですか?」
「はい」
エミリアの座った席の隣に、一人の男性士官が座る。
「…ユダヤ女」
エミリアの隣の席からその言葉が聞こえる。驚いてエミリアがそちらを見るが、その男性士官は腕時計を見ているだけで、エミリアへ向けて言葉を言ったとは考えにくい。
「ユダヤ女めが」
飛行機の中からどこからともなく聞こえ始める。その声はいつの間に機内を埋め尽くす。エミリアに聞こえる全ての音が、今の彼女にとっては疑いや罵りの声に聞こえた。
モスコーヴィエンの空港に到着してからも、その声は止むことを知らなかった。空港の一般利用者や警備員。はたまた取締員の犬までもが自らを「ユダヤ人」と疑っているようにさえ感じられた。
モスコーヴィエン国家弁務官区ビルの執務室に着いた時、エミリアは安堵のため息をついて、椅子に座った。
「…疲れた。水でも飲もう」
誰に言うでもなく、独り言を呟いて、透明なコップに水を注ぐ。コップに水が溜まっていき、鏡面にエミリアの顔が映る。その時だった。
「ユダヤ女」
水に反射した自分自身の影が、エミリアを指差してそう言った。反射的に他の物へ目をやると、ありとあらゆる表面が反射する物に映った自身の姿が、こちらを指差して同じ言葉を繰り返している。
また軽く悲鳴を上げ、急いでそれらを目につかないように隠す。そして、小さな声で自分に言い聞かせるように呟いた。
「私は…ユダヤ人では無い」
ドアがノックされる音でエミリアはふっと我に返る。
「入れ」
入って来たのは、一人の親衛隊兵士だった。今は誰とも会いたく無かったが、エミリアは仕方なく対応をする。
「エミリア大将殿。来客です」
「誰だ」
「ミア・シュナイダー全国指導者殿です」
その瞬間、全身から鳥肌が立つのを、エミリアは感じた。だが、全国指導者であるミアを追い返す訳にはいかない。答えは決まっていた。
「わかった。今行く」
執務室を出て、エミリアはミアのところへ向かう。
「あら、遅かったですね」
ミアはソファから立ち上がってそう言った。
「なんの御用でしょうか」
「声が震えていますよ。エミリア大将。本当はわかっているのでしょう?私が来た理由は」
図星を突かれ、エミリアの心臓乗った鼓動が早くなる。ミアはさらに続けて言った。
「今すぐ、あの新兵に電話をしてください」
「…わかりました」
断るという選択肢は無かった。電話機に向かってリナの所属する基地の番号を入力する。
「エミリアだ。リナ・ヴァイス二等兵は居るか?」
「は、リナ・ヴァイス二等兵ですね。確認します」
しばらくしてから、受話器の向こうからリナの声が聞こえてくる。
「エミリア大将!急にどうされましたか?」
変わらず元気そうな声だ。それに対してエミリアはなるべく不自然でないように心がけながら話を始める。
「実は、しばらく少し忙しくなる。だから、これから会えなくなるんだ」
「そ、そうなんですね…でも、時間があればまた一緒に出掛けたいです!いつ頃まで忙しくなるんですか?」
想定外の質問にエミリアは少し考える。だが、隣にはミアが居り、こちらをまじまじと観察している。しばらくして、エミリアは言った。
「分からない。だからもう電話もこれで最後にしたいんだ」
そこで電話を切ろうとしたが、リナはまだ粘る。
「待ってください!電話ぐらいであればきっと」
エミリアは苛立ちと緊張でいっぱいいっぱいになっていた。そして、その溜まった感情が一気に溢れ出る。
「いいから!もう二度と私に関わらないで!」
「え…」
リナの声を遮ってエミリアは叫んび、その声にミアも驚く。そこでエミリアはハッとして、慌てて言った。
「ごめんなさい。とにかく、もう会うことも、電話をすることもしないから」
それだけ言ってから受話器を置いた。それを見てミアは大きくため息をついた。
「少々不自然になってしまいましたね。まあ、ギリギリ及第点といったところですかね」
そう言ってミアはエミリアの胸ポケットを探り、あの時のミモザのアロマオイルを手に取る。
「これももう不要ですね」
ミアはその小瓶を床に叩きつけて、足で踏みつけた。その衝撃で小瓶は粉々に砕け散り、中のアロマオイルがカーペットに染み込む。
「それでは」
ミアはそれだけ言って立ち去っていく。その背中をエミリアは虚ろな目で見つめていた。下に視線を落とすと、ガラスの小さな破片とカーペットの染みが目に映る。改めてミアの背中を見ると、エミリアの中の何かがプツンと切れる感覚がした。
エミリアはホルスターに入れてあるルガーP08を取り出し、ミアに向けて構えた。そして、引き金を引く。
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