第23話 乱入




 ガレンの声がゼフィラの耳に届く。

 それはライアットに対する恐怖や怒りではなく、ただひたすらに彼女を案じる純粋な感情に満ちていた。


 ゼフィラの脳裏に、ライアットから自分を救おうとしてくれたガレンの姿が鮮明に蘇る。


 今も彼はこの汚れた自分を救おうとしている。


 しかし、ライアットへの絶対的な恐怖が彼女のわずかな良心を叩き潰そうと容赦なく押し寄せていた。


 ――逆らえない


 ゼフィラのナイフは震える手の中で弧を描き、ガレンの左肩を狙った。


 ヒュッ……と空気を切り裂く微かな音。

 皮膚を浅く切り裂く感触と温かい血が一筋、衣服に滲むのを彼女は感じた。


 それは殺意を伴わないあまりにも弱々しい攻撃だった。


「……ッ!」


 ガレンはわずかに顔をしかめたがすぐにその意味を悟った。

 ゼフィラが意識的に急所を外したのだと。


 それは彼女の心の叫びであり微かな抵抗の証だった。


「鞭打ちにされてぇのか! ぬりぃ攻撃ばっかしてんじゃねぇよ!!」


 ライアットの怒声が張り詰めた静寂を切り裂いた。


 彼はゼフィラの行動を全て見抜いていたのだ。

 その顔は忌々しげに歪み、舌打ちが場に響く。


「テメェみてぇなゴミ女がこの俺に逆らえるとでも思ったか!? 今すぐそいつの首をかっ斬れ! じゃねぇとソイツの手足を一本ずつ切り落としてテメェに食わせてやるからな!」


 ライアットの脅迫の言葉は、ゼフィラの心の奥底に染み込んだ恐怖を呼び覚ました。

 彼女の身体が恐怖で硬直する。


 再びナイフを振り上げようとする彼女の手に、もはや躊躇はなかった。


 今度は本当にガレンを殺してしまうかもしれない。

 殺さなければ自分が、そしてガレンがさらに深い地獄に突き落とされる。


 その思考だけが彼女を突き動かす。


 その時……――――


「ライアットォオオオオ!!!」


 廃墟の壁が轟音と共に盛大に崩れ落ちた。

 土煙が舞い上がる中、その中から現れたのは巨躯を誇る男だった。


 その身体には過去の激戦を物語るような深い傷跡が走り、鋭い眼光が暗闇を射抜く。


「けっ、フクロウかよ……」


 白鴉はくあの評議会の武力担当『フクロウ』がまるで岩石のように立ちふさがっていた。

 彼の背後には同じく白鴉の戦闘員たちが警戒態勢で控えている。


「貴様、また懲りずに俺らの縄張りに踏み込みやがって! 影牙衆えいがしゅうのゴロツキが、白鴉はくあの評議会を舐めるなよぉっ!」


 フクロウの低い声が怒りに震え空間を揺らした。

 彼はライアットを睨みつけ、今にも飛びかからんばかりの剣幕だ。


「ハァ? テメェら評議会の残党が何の用だ? わざわざ死にに来やがったかぁ?  雑魚がよぉッ!?」


 ライアットはフクロウの出現に一瞬だけ目を見開いた。

 予期せぬ闖入ちんにゅう者に驚きを隠せない様子だったが、すぐにその表情は獰猛どうもうな笑みに変わった。

 ライアットの口元には下卑た笑みが浮かんでいた。


「おいゼフィラ! 何突っ立ってやがる!? 早くそいつを始末しやがれ! 早く殺せと命令しただろうがぁっ!!」


 ライアットの叱責がゼフィラを突き刺す。


 ゼフィラの身体はライアットの命令に逆らえず、再びガレンへとナイフを向けようとする。


 その瞳は依然として恐怖に支配されていた。

 しかし、フクロウの乱入によって生まれたほんの一瞬の混乱。


「評議会の犬が偉そうに! 白鴉はくあの息の根を止めてやる! 地面に這いつくばって命乞いさせてやるからな、覚悟しやがれ!!」

「クソが! 言わせておけばテメェのような卑劣なクズは、この俺がこの手で地獄に叩き落してくれるわ! その生臭い血を全て吐き出させてやる!」


 ライアットとフクロウの罵声が飛び交い、互いに一歩も引かない睨み合いが続く。

 二人の間には長年の確執と互いの組織に対する根深い憎悪が渦巻いていた。


 拳を握り締め今にも殴りかからんとするフクロウ。

 不敵な笑みを浮かべながら挑発するライアット。


 ライアットの意識がフクロウへと向けられ、その支配の鎖がわずかに緩んだその僅かな隙をガレンは見逃さなかった。


 ガレンは「申し訳ない」という思いを込めて顔を歪ませた。

 ゼフィラをこれ以上この地獄に縛り付けておくわけにはいかない。

 彼女を救うにはこれしかない。

 彼は心の中で彼女に深く詫びた。


 ガレンは力を込めてゼフィラの腹部に一撃を入れた。

 意識を失わせるための一撃だ。

 こんな手段をとりたくなかったが、正気を失っているゼフィラにはやむをえなかった。


「っ……ガ……レ……ン……」


 ゼフィラの瞳から残っていたわずかな光が消え失せ、彼女の身体がぐらりとかしぐ。

 その顔には安堵とも絶望ともつかない複雑な表情が浮かんでいた。


 ガレンは素早くゼフィラを抱き止め、その意識のない身体を肩に担いだ。

 ゼフィラの体はまるで羽のように軽かった。


「あ? テメェ何してんだよ!?」


 ライアットがガレンとゼフィラを捉えたところ、フクロウがついにライアットに対して攻撃に踏み切った。


「よそ見をするとは余裕だなぁっ!?」

「邪魔すんなジジイ!!」


 ライアットとフクロウの怒声が、瓦礫の散らばる廃墟に響き渡る。


 彼らの視線がゼフィラを担いで駆け出すガレンへと向けられるが、互いの憎悪が彼らをその場に縛り付けていた。


 ガレンは振り返らなかった。


 ただ一途にゼフィラをこの場所から連れ出すことだけを考え、全力で走り出した。

 闇の支配と暴力が渦巻く場所からガレンは逃げ出した。



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