第22話 交錯する運命




「……結局、ダメでしたか」


 エヴァー・ブロッサムの部屋。

 リーファとバルドはがっかりした様子で報告を終えた。


 ラーンとドランへの協力を求めたが、その試みは失敗に終わったのだ。


 フェリックスは傍らで茶を淹れながら、彼女らの落胆した様子をそっと見守っていた。

 熱い湯気を立てるカップをリーファたちの前に置き、彼は穏やかな声で言う。


「仕方ありませんよ。ラーン殿もドラン殿も自分たちの縄張りで手一杯。それに、影牙衆がどれほど厄介な相手か彼らもよく知っていますからね」


 彼の言葉は慰めにも聞こえたがリーファの心には響かなかった。

 彼女の視線はずっとその場に立ち尽くすガレンに向けられていた。


 ガレンの表情は硬く、その瞳の奥には抑えきれない怒りと焦燥が渦巻いていた。


「……ゼフィラさんは、今もあそこにいるんですね」


 ガレンの呟きは重く部屋の空気に沈んだ。

 ラーンとドランの助けが得られないと知ってなお、彼の決意は揺らがなかった。


 むしろ確固たるものになっていた。

 短期間で身につけた戦闘術は彼の身体に深く刻み込まれている。

 拳を固く握りしめる。


 もう誰の許可も必要ない。

 彼はただゼフィラの元へ駆けつけることだけを考えていた。


「俺はひとりでも助けに行きます」

「ガレン殿、お待ちください!」


 フェリックスがその場から立ち去ろうとするガレンの腕を掴んだ。


「一人で乗り込むなど、無謀すぎます! 彼らは……影牙衆えいがしゅうは危険です!」

「分かってます……! ですが、俺はもう待てないんです!」


 ガレンの声は苛立ちと焦り、そしてゼフィラへの切なる想いで震えていた。


 フェリックスの制止を振り払い、彼は迷いなく部屋を飛び出していった。

 ガレンの心はとっくに決まっていた。

 もし誰も協力してくれなくても自分は行くと。




 ***




 ゼフィラは白鴉の評議会の小さな拠点の一つを壊滅させたばかりだった。

 床には手足を複雑に折られ、意識を失った評議会の構成員たちが転がっている。


 ライアットからは「全員殺せ」と命令されていたが、彼女はそれを実行しなかった。

 その状況確認しに来たライアットはその状況を見て、鋭く目を細める。


「……オイ……俺は全員殺せって言ったはずだぜ……?」


 背後から響く冷酷な声。

 ライアットはゆっくりとゼフィラに近づく。


 その足音は死の宣告のカウントダウンのようだった。


 ゼフィラは肩を震わせた。

 命令に背いたことがどれほどの結果を招くか身に染みて理解していた。

 しかし、どうしても彼らを殺すことだけはできなかった。


「黙ってんじゃねぇよ……このクソ女!」


 次の瞬間、ライアットの細長い指がゼフィラの髪を鷲掴みにした。

 有無を言わさぬ暴力が彼女の身体を床へと叩きつける。

 鈍い音が響き、顔の横から熱い血が滴り落ちた。


「テメェは俺の命令に逆らう権利はねぇんだよ! これだけ殴られてもまだ分からねぇのか!?」


 ライアットの言葉は人格を否定するような暴言の嵐だった。

 ゼフィラは奥歯を噛み締め、ただひたすら痛みに耐える。

 彼の瞳は底なしの闇を宿し一切の慈悲を感じさせなかった。

 全身を支配されたような感覚にゼフィラはただ無力感に苛まれていた。


「ボス!」


 そこに影牙衆の傷だらけの部下がやってきた。


「なんだぁ……そのザマは?」

「殴り込みです!」

「殴り込みぃ……? どこの馬鹿だ。俺らに手ぇ出すなんざ、自殺行為だぜぇ……?」


 そう言って口元がにやけているライアットは掴んでいたゼフィラを床に叩きつけ、その頭を足で踏みつける。


「ゼフィラさん……!!」


 その聞きなれた声にゼフィラは全身が硬直した。


「あぁ……? テメェかよ」


 そこに現れたのはガレンだった。


 全身傷だらけになりながらもここまでに至る道で全ての影牙衆を倒してきた。

 ただゼフィラを助けたいという気持ちだけで。


「っ!」


 その凄惨な光景に息を切らして駆けつけたガレンは言葉を失って立ち尽くした。

 脳裏に焼き付いたのは、かつて彼が救えなかったゼフィラの姿だ。

 あの時の後悔と、今目の前で繰り返される暴力がガレンの心臓を鷲掴みにした。

 怒りが抑えきれずに彼の全身を駆け巡る。


「貴様ァアアアアアア!!!」


 理性を吹き飛ばすような咆哮と共にガレンはライアットに殴りかかった。


「おっと」


 怒りで動きが単調になったガレンの挙動は全てライアットには見えていた。

 軽い身のこなしでガレンの攻撃をかわし、ゼフィラから一時的に離れる。

 ライアットが一定の距離に離れたところ、ガレンはライアットを追うよりも傷だらけのゼフィラの方に向かった。


「ゼフィラさん、帰りましょう」

「…………」


 ゼフィラはガレンの申し出を受けたかった。

 しかし恐怖心がそれを許さない。


 再びガレンがライアットに向き合って拳を構える。


 しかし……ガレンはその拳を振るうことができなかった。


「やめて……」


 その間に割って入ったのは他ならぬゼフィラだった。

 彼女は血塗れの顔でガレンの前に立ちはだかった。


「ガレン……! ダメだ……! 帰ってくれ……」


 その声は震えていたが彼女の意思は硬かった。

 彼女の瞳はライアットに完全に支配され、感情の光を失っていた。


 その言葉に返す言葉をガレンは失う。


「あたしのことはいいから、もう関わらないでくれ……!」


 その言葉は、まるでガレンの心を鋭く突き刺すナイフのようだった。

 ライアットに逆らえばガレンが確実に消されることをゼフィラは知っていた。

 だからこそ、彼女は自らを犠牲にしてでもガレンを遠ざけようとしたのだ。


「こんな状態のゼフィラさんを置いていけるわけがないでしょう!?」


 ガレンはそれでも彼女を救おうと手を伸ばす。

 しかし、ゼフィラは後ずさりその手を拒絶した。

 彼女の心はライアットへの絶対的な恐怖、そしてガレンを守りたいという本能の狭間で引き裂かれていた。


「ちっ……哀れな友情ごっこかよ」


 ライアットはガレンとゼフィラのやり取りを冷笑と共に見下ろした。

 その表情にはあざけりしかなかった。

 彼の瞳は玩具を弄ぶかのように二人を品定めしている。


「テメェみてぇなグズが、この俺に逆らえると思うかぁ? ククク……面白ぇなぁ……美しい友情ごっこはよぉ! それがクソの役にも立たねぇってこと、証明してやるよ」


 ライアットの視線がゼフィラに向けられる。


「ゼフィラ……そこのグズのクソ野郎をテメェの手で始末しろ」

「!!!」

「できるよなぁ……? テメェにとって一番大事なのは何かよく考えろよ……?」


 これがライアットのやり方だ。

 もっとも残酷な方法で相手を追い詰めていく。


 ライアットは足元に転がっていた白鴉の評議会の構成員が落としたであろうナイフをゼフィラへと蹴り飛ばした。

 ナイフは鈍い音を立ててゼフィラの足元に転がる。

 ゼフィラの顔からみるみる血の気が引いていく。


 ガレンを殺せという命令。

 それは彼女にとって何よりも残酷な選択だった。


「……ゼフィラさん! そんな命令に従うことはない! 貴様……どれだけ汚い真似を……!!」


 ガレンが叫ぶがライアットは彼の言葉に耳を貸さない。

 彼はただ愉悦に満ちた表情でゼフィラを見つめている。


 ゼフィラの瞳は恐怖と絶望に揺れていた。

 彼女の脳裏にはライアットに逆らった者がどうなるかその光景が鮮明に蘇る。


 暴力、拷問、仲間が消されていく光景……


 身体が命令に逆らうことを拒絶する。


 震える手でゼフィラは床に転がるナイフを拾い上げた。

 刃が微かに光を反射する。

 その光は彼女の心の奥底にあるわずかな希望を打ち消すかのようだった。


「ゼフィラさん……?」


 ガレンの問いかける声にゼフィラは顔を上げることができない。

 彼女の表情は苦痛に歪み、唇が小さく震える。


「やれ。俺に忠誠を示せ。そうしたら今回の事は許してやるし、飯だって食わせてやる」


 ライアットの声がゼフィラの耳元で悪魔の囁きのように響く。

 彼はゼフィラの背後に回り込み、その肩に手を置いた。


 その手に込められた冷たい圧力がゼフィラに有無を言わせぬ恐怖を植え付ける。


 ゼフィラは意を決したようにゆっくりとガレンの方へ向き直った。

 その手には逆手に持たれたナイフが握られている。


 その動きはまるで操り人形のようだった。

 彼女の瞳には苦痛の感情が宿っていたが、同時にライアットへの絶対的な恐怖に満ちている。


「ゼフィラさん……!」


 ガレンは信じられないという顔でゼフィラを見つめた。

 彼女が本当に自分に刃を向けるのかと。


 ゼフィラはゆっくりと確実にガレンへと歩み寄る。

 その足取りは重くナイフを握る手は震えていた。


「やめてくれ……お願いだ、戦いたくない……!」


 ガレンは自分の窮地も顧みず思わず叫んでいた。

 その叫びを聞いてもなお、ゼフィラは恐怖によって突き動かされる。


「早くしろよ、俺を待たせるな」


 ライアットの冷たい声が響く。


 ゼフィラは顔を伏せ覚悟を決めたようにナイフを振り上げた。



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