竜と静かに暮らす令嬢は、まだ気づいていない――彼が元婚約者だということに
ふゆ
1.婚約破棄と降格処分――令嬢からメイドへ
「妹の家でメイドを? ……私がですか?」
雑巾の水を指の間からぽたぽたと滴らせながら、レインは驚いて義母を見上げる。
「そうよ。あなたが、妹夫婦のお付きのメイドになるの! よかったわね。行き遅れのレインさん?」
廊下の床を拭いていた時、それは突然告げられた。
令嬢の品格を保ちながら、汚れた雑巾を絞る日々。
この家では、それがレインの当たり前の日常だった。
「あの子、結婚したのはいいけど、向こうで使えるメイドが全然いないらしいのよ? ……ほら、昔から目立つから。どうも下女だちに嫌がらせされてるらしいのよね」
(そんなわけないわ)
妹のアルシェビエタは、嫌がらせされるような性格ではない。華やかでいつも人の輪の中心にいる。
おそらく、使い慣れた姉を手元におきたくなったのだろう。
つまり、義母は妹夫妻のメイドになれといっているのだ。
気が遠くなりそうになる。
あの人が妹を選んだということ自体、未だに信じられないでいるのに。
妹の夫、エルマハルト・バウマンは、かつてのレインの婚約者だった。
姉妹ともに子供の時から知っている仲だが、妹はかつてエルマハルトを全く相手にしていなかった。
彼はいつも人の輪から外れているような少年だったから。
昔、大人たちの夜会の隅っこに、見知らぬ少年がいた。
子どもたちの輪に入りもせず、鋭い目でチキンにかぶりついている。
八歳のレインはたまたま隣でケーキを食べていた。ぼんやり横目で見ていたら、自分の視線に気付いて、にやっと笑って一言、『根暗女』。
後日、レインは思い切って彼に手紙を送ってみた。『自分だって』と一文。誰かに強い言葉を放ったのは初めてで、心臓が破裂しそうだったのを覚えている。
どんなに罵られるだろうと次の夜会に恐々向かうと、彼は自分をみるなりいきなり紙飛行機を飛ばしてきた。
開くと『青白女』。
顔をあげると彼は悪戯っぽく笑ってまた一機。それから飛ばし合いの応酬で、叱られるまで夢中で投げ合っていた。
その変な少年は、夏にだけ別荘で過ごす侯爵家の息子だという。
「エルマハルト――エルマでいいぞ。お前には特別に許してやる」
堅苦しいことが嫌いで、夜会ではいつも不貞腐れた顔をしている。
華やかな妹を中心とした輪に加わらず、二人で森に抜け出しては遊んでいた。
彼といると、レインは子供らしい自分でいられる。
レインにとって大切な時間となっていた。
十四歳の時、知り合いの結婚式で、いつものように隅っこで料理を食べていた時のこと。
皆の中心で笑う彼女は、幸せで光り輝いていた。
自分も笑顔で祝ってもらえる日がくるのだろうか?
妹なら簡単に想像できるけれど。
そんなことを考えていたら。
「俺と婚約してくれないか?」
唐突にエルマハルトが言ったので、ケーキを吹き出しそうになった。
「今、なんか言った?」
「俺と婚約してくれ、レイン」
「このケーキ、お酒入りだったかしら」
「酔ってねえよ。いや、冗談じゃなくて――本気で困っててさ」
エルマハルトは残りのケーキを大きめにざくざく刺しながら派手なため息をつく。
「俺の結婚相手、親が探し始めてさ。色んな令嬢と会えってうるさくて……本当に面倒で、うんざりで」
軽く言いながらも、どこか苛立ったような声色だった。
「だから、恋人がいるってことにしたい」
「……なるほど?」
「頼む。お前にしか無理なんだ」
とても彼らしい適当な理由に呆れながらも。
「別にいいけど」
「よし! じゃあ四年後に結婚な」
あまりにも自然に、当たり前のことのように言うので。
「楽しみにしてる」
つい顔が綻んでしまった。
そして正式に婚約したのは十八歳。
正直、現実になるとは思っていなかった。
エルマハルトは王宮の騎士隊に入隊し、凛々しく成長。その際立った容姿は誰もの目を引く。
どう考えても彼と田舎領主の娘とはつりあわない。しかも自分は黒髪黒瞳の女。
正直にそう言って断ると、エルマハルトは心外とばかりに怒りだした。
そんな理由で断るなら許さない。この先に何があっても最後まで君を守ると約束する、と。
幸せな気持ちで父に報告して、もちろん義母と妹にも。
あらゆる男性から求婚を受けてきた妹が、久しぶりに会ったエルマハルトの変貌ぶりに声を失っていた。
「未来のお義兄さまともっと仲良くなりたいの。ねえ、いいでしょ。お姉さま?」
--------
・表紙絵+各話イラスト
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます