第13話 彼女は化物

 目の当たりにした身の毛のよだつ生理的な嫌悪感に、息を荒げる彼は己のその右肩を滅茶苦茶に掻きむしった。


 皮膚や肉にまでいつの間にか縫われ食い込んだ奇妙な感覚が、『ぷつぷつ』と千切れる。肩を、袖を、肌を必死に掻きむしり、彼の右肩に集った異物の集合体が鱗のように剥がれ落ちてゆく。


 血がシャツにブレザーの袖にまで滲み浮かぶ。払い落ちていく謎の黒い毛、床に落ちたボタンの踊り鳴るような音から、逃げるように彼は青ざめた表情で、階段を下った。


 耳を閉じてもヤツの声が理解不能な念仏を唱え勝手に聞こえてくる。いつまでも寒気のする奇妙な感覚が纏わりつき追ってきている。


 不快な囁きを置き去りにするように急いで階段を降りていく。しかし彼があてもなく降りゆくその先は、底なしのように無限につづく。


 降りていた階段の中途で突然足を止めた金閣寺歩は、手すりに掴まり階段の下を見つめた。


 下方で蠢きざわめくただならぬ悪寒に、上へと慌て、震える身を反転させ彼は引き返した。


『なるほど、きみという人間が醜く顔を顰めるほどに、僕という存在がきみに馴染む。きみがとめるのは僕だけでいい。そうだ、こっちだ、底じゃない、きみの進むべきは──ふふふ』


 頭を左右に激しく振り、幾度も幾度も勝手にまやかしを囁く薄気味の悪いその声を振り払う。


 耳内にこびりつくソイツの声に気が狂いそうになる。恐怖と不気味の板挟みに、寒い肌から汗がだくだくと絞り出され、ただならぬ焦燥が募る。


 やがて、焦燥に駆り立てられ逃れようと、逃れようと、ひた走る廊下で、また────でくわした。


「ウワァッ!??」


 進む暗がりから突然現れた、ベージュのコートを羽織る柳しおりらしき姿に、後ろへと、金閣寺は情けなく尻餅を着いた。


 ゆっくりと指を一つ一つ折り畳み、手招くソイツの妖しい手つきに、茶髪の彼は驚き叫び恐怖する。


 天にぶらさがる蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返す。


「怯えれば怯えるほどに魅力的なもの、──ナァーんだ?」


 ソイツは形相を歪めて嗤う。さらに暗中に点滅する光のリズムに合わせて、見知らぬ顔から見知らぬ顔に瞬間瞬間、変貌していく。おどけた本性を表した。


「拒めば拒むほどに苛立たせるもの、──ナァーんだ!」


 野太い男の声に甲高い女の声、大人しい女の声に馴れ馴れしい男の声、変わるがわるに七変化させ、ソイツは語気を強めてのたまう。狂った狂った本性を露わにした。


 今、金閣寺歩の視界に飛び込んだ姿、そこに立っているのは、もはや彼の知る柳しおりではなかった。


 明滅する闇の狭間に浮かび上がる────


 両手を重ね合わせたその小さな器には、溢れんばかりの数多のボタンたちが蠢きつづける。『チカチカ……カツカツん──』と奇怪な鳴き声を上げながら、まるで口を閉じたまま、ワラいつづけている。


 顎先から口元、口元から──金閣寺は下からなめるように、おそるおそるも、人の目に到底理解不能なその明滅するシルエットを見上げていく。


 そこに突っ立ちあるのは────


 足底までつくほどに長く伸びつづける漆黒の髪、


 白紙のように嘘めいた肌艶をした、


 誰かも知らない誰でもない【無貌むぼうの化物】の姿であった。










 真っ白な顔のキャンバスに、ボタンをひとつひとつその手で取り付けていく。


 ボタンを付ける度にその肌は生命を帯びたように血色が良くなる、やがて、最後に目に留めたそのボタンが紫の冷たい眼光を宿した。


 彼の見知った柳しおりなるものが、そこに完成していった。


『怯えれば怯えるほどに、僕の存在を際立たせる。拒めば拒むほどに、真なる感情を呼び覚ます。きみが求めるほどに美しさを増し、やがて禁忌にも触れることができる。さぁ、こっちに────もう一度、あの、つづきをシよう、ふふふふ』


 まぎれもない柳しおりの面がそこで微笑んでいる。完璧なその顔が、明滅する電光に照らされている。


 こんな恐ろしくも美しい化物に一介の存在である彼が立ち向かうことはできない。蛇に睨まれたように、体を動かすことができない。逃れようとする意思さえも自由でなく、見つめる眼光、その魅力に溶かされ絡め取られてしまう。


 一歩、一歩、近づいてくる。美しき化身がいる。まるで曇りなき満月のように、その面立ち、存在そのものが煌々と輝いている。


 その見入る白肌の輝きと見つめる紫眼の妖気に、彼もまた誘われる。一歩、一歩、その足を前へと踏み出してゆく。


 もはや逃れることに意味はない。まどろむ思考に、囁く声にしたがい、柳しおりともう一度重なり合うことが至上だと知る。


 逃げることもない、迷うこともない、ただ身を委ね、彼は前へ進むだけでいい。


 それ以外の選択肢など、どこにもなく────


 その時、彼の左指が〝ズキズキ〟と疼いた。


 疼いたこの指の痛みを彼はどこか知っている。それは彼が恐怖と対面した時に色濃くあらわれるものだ。何故、今まで剥がしもせずにそのことを忘れていたのか。


 選択肢はある。与えられている。自らのその手の中に。もっと恐ろしく渦巻き続けるものが自分の中にはある。


 彼は何も覚悟を決めたわけではない。ただ、楽な方に己の運命なるものを委ねる前に、一度、確かめてみたかった。


 彼は纏う衣ごと引き寄せられていた、己の足を止める。


 一歩、一歩、ずけずけと足音を立てては近付き、一つ、一つの電灯に照らされた暗い道を闊歩する美しき化身。


 彼の視界に顕れたその完璧な面相に向かい左の指を差し、示した。


 まどろむあやふやな思考の中、ズキズキと響くその痛みだけを頼りに、金閣寺歩は今その封を思い切って引き剥がした。


 待ち侘びていたかのように、怒涛の風が吹き出る。


 完璧だった柳しおりの顔は吹く風に歪み、白肌に癒着したボタンは流され、その真の本性が露わになる。


 やはり、彼女は化物だ。頭に澱む、目に霞む、まやかしを吹き飛ばした金閣寺歩は腹を括った。


 指先から吹く風は止まらない。目の前の美しきその恐怖を取り除くまで。














 廊下を駆け抜けた強風に、ベージュのコートは彼方へと飛ばされ、ひどく乱れたその髪を、彼女は今おもむろにかきあげた。


 荒れていた風がしずかに止む。


 足元に落ちていた数多のボタン群の中から紫のボタンを一つ摘み、彼女は自分の目元をゆっくりとなぞった。長い睫毛の下に妖しき眼光が、灯る。


「まるで理性のない風、それか、きみが恐れ隠していたものは。さぁ、きみを脅かすものはもうここにはない。僕がきみについたその穢れを完全に取り払ってあげよう」


 そのこぼれ落ちていた美貌面相を整え留めた彼女は、恐ろしい風が凪いだ廊下を、また進みだした。


 点った同じ電灯の下、足音を止める。そして、まるで愛しいものに向けるようにそのしなやかな手を伸ばし、


 怯え後ずさる彼のその汗ばむ首を、片手で掴みながら持ち上げる。人間の枠を逸脱したそんな力で、悠々と、一介の男子高校生のことを彼女は持ち上げた。


 とても強い力で掴まれた首が絞まる。金閣寺歩は呻めき苦しみながらも、まだ、じたばたとその身でもがく。


「大丈夫、殺したりしない。それどころか、きみとぼくは唯一、一つになることができるんだ。オモテとウラの世界がぴったりと重なり合う、こんなにも素晴らしいことはない。だから、そんなものは捨ててッ、僕ともっと仲良くなろう!!!」


 もがきつづけた金閣寺の身は、彼女が片手でかかげたその足の浮くほどの高さから、床へと激しく突き飛ばされた。


 深く爪が食い込み引っ掻かれた右手の甲に滲んだ赤を、柳しおりなるものは、だらりと出した己の舌先で舐めずり、微笑った。


 激しく背を打ち、廊下に倒れた金閣寺はなんとか立ち上がる。


 そして彼はよろめきながらも、背の痛みを堪え、酷く荒げた息遣いでもう一度、左の指を差した。


 だが、巻きついていた絆創膏はもうその指先にはない。


 再びあの風を呼ぶ術など金閣寺歩は知らない。


 もしかすると絆創膏を引き剥がすという恐ろしい行為そのものが、彼の中の奇怪なトリガー代わりになっていたことに、今更に気付いてしまった。


 そんなことに気付いたからといって、どうにもならない。焦燥に駆られた金閣寺は必死に、柳しおりなるものに向かい、ただただその左指を突き刺すように差し示しつづけた。


 そんな彼の無様な様を見て、柳しおりなるものは、また嗤った。


 すると、急に金閣寺の息が詰まった。


 何かが喉元に張り付いて離れない。ソレが、喉を覆う皮膚から侵入しめり込もうとしている。ボタンのように縫い付け留められた血色のソレを、手で掴み金閣寺は必死に拒む。


 だが、彼の汗ばんだ指先を引き剥がし、血色のボタンは、喉から彼の中へと入っていった。


 息が詰まる、息ができない。得体の知れない異物が彼の体の奥に留まり、蝕もうとする。


 汗が流れる。涎が滴る。首を爪で掻きむしる。


 声にぬらない詰まる鳴き声で、酷く悶え苦しみながらも、彼は漸く、己の口からソレを吐き出した。


 吐瀉物が床を汚す。その反応とともに、彼を苦しめていた血色のボタンが一つ、床に落ちた。


 酷く体力を消耗した金閣寺は、中腰の姿勢で汚れた地面を見ていた、その重い首を上げた。


「こぼすなんてダメじゃないか。じゃあ、もう一度────」


 数多の血色のボタンが、柳しおりなるものの、周りに浮かぶ。


 彼が必死に抗い吐き出した気になっていた恐怖など、ほんの欠片にすぎないとでもいうのか。


 今、目の前に披露された想像を絶する赤い赤い恐怖の量を、飲み込むことなどできやしない。


 息の詰まる苦悶の色さえも塗り替える、赤い赤いその恐怖。


 美しい彼女の面が狂気の笑みを浮かべながら、露わになったさらなる恐怖に、彼は絶望する。


 無力に指を差したまま、彼は突っ立つ。


 彼の面は汗にまみれながら青ざめる。


 全身で震え味わうのは絶望という名の極大の恐怖。そのただならぬ色が、金閣寺歩の面相にじわりと滲み浮かび上がっていく────。











 逆立ち伸びた黒髪が揺らめく、紫の瞳は獲物の息の根を止めるほどの眼光を放ち、浮かぶ幾多の血色のボタンは逃れられない恐怖を表している。


 その赤い赤い恐怖の数を、美しく佇み嗤う存在を、風に吹き飛ばすことはできない。


 震える彼の左指の先には、風は起こらない。


 形だけ見せたちっぽけな勇気や抵抗など、この舞台では意味を成さない。


 もう打ち破ることのできない目の前の恐怖に、彼が縋る術はなく絶望の色を黒い瞳に宿していった、その時────


 柳しおりなるものの周りに、これ見よがしに浮かんでいた赤い赤い軍勢が、一斉に弾け飛んだ。


 何が起こったのか。


 彼の真横から突如飛び出した黄色い風が、何かが乗り移ったように跳ねまわり、なんと、浮かんで待機していた血色のボタン、その全てを弾き落としたのだ。


 何が起こったのか分からない。だが何であったとしても──


 足元に転がってきた金色の欠片を握りしめ、金閣寺は薄ら笑いから驚いた目に変わった彼女の隙を見て、走った。


 前へ前へとよろめきながらも猛進した彼の身は、柳しおりなるものの面を、前のめりに殴りつけた。


 なけなしの力を振り絞り、金閣寺歩は前を疾る己の左の拳を、振り抜いた。


 とらえた美しき面が歪み、遠くへ吹き飛んでいく。廊下に背を打ち付けながら、静まり返る。


 だが、今倒れた柳しおりなるものは、背を床についたまま手を使わずに、不思議な力でゆっくりと起き上がっていく。


 疲弊した金閣寺歩は、もはや、立ち上がれない。殴りつけた勢いのまま前のめりに倒れ、冷たい床に臥した。


「殴られるのなんて、死んでからもはじめてだ……。ふふふふ、まだまだきみに染みついた穢れが抜けていないようだ。ふふふ、だがもう少しだ。本当にきみは、僕を──ア?」


 柳しおりなるものは、痛む右の頬を愛おしそうに撫でた。しかし、今撫でたその手の感触に、何かがつっかえた。


 変哲のない金色のボタンが一つ、彼女の頬、その肌に留められていた。そのなんてことのない一つのボタンを、外してしまったその時──


 ほんの僅かな綻びから風穴が空いたかのように、突然、風が吹き出す。ボタンを外した右の頬から崩れていく、彼女の顔がかわるがわる面相を変えながら醜く崩壊していく。


 生気のあったその美しい目が、無機質な紫のボタンへと変貌する。内側から吹く激しく奇妙な風音は止まらず、その肌から柳しおりなるものの容貌を構成していた、ボタンの数々がこぼれおちてゆく。


 いくら落ちたものをかき集めても、それ以上に落ちてゆく。その身の内側に蓄えていたカラフルなボタンの数々が、風に吹き出て、散乱する。


 頭を抱えて髪を乱しながら、風船のようにその化物の輪郭が萎んでいく。


 それでも執念へと前へと這う。廊下を前へ、前へと、這いながら、尻餅をつき後ずさる彼の右袖を掴もうとした。


 だが、縋りつこうとした穢れたその手は届かない──


 はがれ落ちた爪先は五つのボタンとなり、ぽとりと落ち、ミイラのように痩せこけた化物の手が、実体を保たずに、やがて黒い気となり霧散していく。



 やがて、手を伸ばし悶え苦しむ人の形をした姿は、消えてゆく。


 金閣寺歩は、必死に恐ろしい化物の手から逃れた。


 荒げたその呼吸音さえ、『カツんカツん』と鳴り響きつづける音の中に、潜みまどろんでいく。


 狂ったように激しく明滅を繰り返す電灯の下、彼の視界はかすれ、ぼやけゆく。


 もはや、開くその瞼すら重く、冷たい床が濡れた体をさらに冷やし、その冷気に同化していくようだ。


 冷たい、冷たい、朦朧とした意識を彷徨う中、


 黒い傘をさし、激しく舞うボタンの雨に打たれながら、近づく一人の影が────












 暗がりにオちた深い意識に、白い光がさす。


 白くぼやけていく視界が明けてゆき、やがて色付いてゆく。目が覚めるとそこには────


 冷たい廊下、だが、右の頬はあたたかく。白い絹を見上げ辿っていくと、黒く流れた長い艶髪。


 紫のかがやきと、天と地で今、目が合った。


 そんなお目覚めの彼を見つめて、上から見守っていた彼女がつぶやいた。


「おはよう、金閣寺歩くん」


「おは、よう……? 藤乃ぉ……春さん……?」


 紫の眼をじっと見下げ、そこにいたのは同じクラスの女子生徒、藤乃春だった。


 切れかけの頼りない電灯があやふやな光で照らす廊下の中、彼女の膝の上で、金閣寺歩は目覚めていた。


 金閣寺はそのことに気付き、借りてしまっていた彼女の膝の上から頭を起こした。


「あなたならまた、剥がすんじゃないかと思っていたわ」


 そう藤乃春は呟く。


 剥がすものといえば──金閣寺は、ふと、その目を見下げた。彼の左の人差し指には新たな【絆創膏】が巻かれてあった。きっと、彼女がまたサービスをしてくれたのだろう。


 床にだらしなく尻を着けたままでいた金閣寺は、己の顔を上げて、正座をしたままの藤乃の顔をもう一度見た。


 だが、すぐに返す言葉は見つからず。状況をまだ飲み込めずにいた金閣寺は、見つめていた視線を外し、とりあえず辺りを見回した。


 廊下の彼方暗がりの方には、1-Dと書かれたプレートが見える。A組、B組、C組と一年生階の教室が同じよう暗がりに静まる中、そんな彼の見慣れたD組の教室から明るい光が漏れているのを見つけた。


 金閣寺は立ち上がり、光の射すその教室の方へと誘われるように歩いていく。


 やがて、彼は立ち止まり目撃する。


 明るい教室の中で、次々と眠りから目覚めていく生徒たちがいる、そんな不思議で突飛もない光景を目の当たりにしてしまった。


 目覚めていく生徒の中には、山﨑もよりや湊天の姿、宗海斗や中川透の姿までそこにあった。


 目覚めたみんなも状況が分からずに、どうやらひどく困惑しているようだ。


 そして、廊下に突っ立って覗き見ていた茶髪の彼の視線に気付いたのか、彼の見知った仲間たちが無邪気に手を振っている。


 どこか久々に彼らに会ったような気もする。金閣寺は安堵し、何故かこぼれそうになったものを、開いていた己の両手を握りしめ、ぐっと堪えた。


 あの美学生、柳しおりが何だったのか分からない。今回、藤乃もあの恐ろしい化物の作り出す何かに巻き込まれてしまっていたのか。何故、彼の友人たちや、穏林高校の生徒たちがここにいるのか。


 今となっては、彼のおぼろげなその記憶では、とても判別がつかない。


 金閣寺歩には結局分からない。自分が助かったことや、その身に酷く経験したことさえ。ただ、彼は並ぶ友人たちの顔ぶれに混じり、いつもの笑みを浮かべていく。


 そんな夜の校舎の一室が明るくざわめているのを、傍目に眺めていた紫の眼差しが、今、前を向く。そして、手に持った黒い番傘を開きながら、彼女は静かに廊下を渡り始めた。


 仄かに光照らされた廊下を流れてゆく黒い毛先が、やがて、遮る1-Dの白いドアの向こうに見えなくなり、どこかへとまた消えてゆく。


 金閣寺は、今さらりと流れていったような気配に振り返った。だが、そこには何もない。ただ、教室のドアから漏れ出た光が、暗闇に横たわるように、ぼやけ射しているだけであった。


 また騒ぐ仲間の声に呼ばれた彼は、とても疲れた欠伸をしながら、その呼び声に振り返った。





 破れた赤い右袖に留まる、くすんだ金色のボタンが、ひとつ、


 『チカっ』と、静かに音を鳴らし、揺らめいた────











 夜の学校で目覚めた生徒たちは、当たり前のように、また、明けゆく元の日常に溶け込んでいった。


 恐ろしい怪奇体験を辛くも乗り越えた金閣寺歩もまた、彼らと同じように──。


 しかし、彼の頭の中にはどこかぼんやりと、所有するスマホのメモリーにも記録されていない、忘れられないその人の名が残っていた。







 その人が消えてしまってから数日後。


 放課後、演劇部では新たな劇、題名【ヤマトタケル】のリハーサルが行われていた。


 景行けいこう天皇に疎まれた暴れん坊のオウスのちのヤマトタケルが、数々の試練を乗り越え西へ東へと冒険を繰り広げていく日本を代表する伝説的な物語だ。


 そんな演劇部の劇を見学したいと理由をつけて、校内の多目的ホールへとお邪魔した一介の生徒、金閣寺歩は、彼らの稽古模様を見守って指導していた演劇部の顧問に尋ねた。


 【やなぎしおり】という名に、聞き覚えはないかどうかを。


「やなぎしおり、やなぎしおり……そうねぇ……あっ、昔そんな芸名の子役が確かにいたわ。CMとか昼のドラマにも確かちょくちょく出ていたんだけど、そうね……ある日を境に突然みかけなくなったわね。それからは出演機会に恵まれずさっぱり、鳴かず飛ばずだったのかしら? 演技の方はそうね、子供ながらにどこか中性的でどこか品があって良かったものだと記憶しているわ。まぁ、才能のある子役が、育ち盛りがゆえに変化する自分の容姿や演技の壁に当たって、受け止めきれずに伸び悩むことは珍しくもないことね。残念だけど芸ごとの界隈ではよくある話ね」


「まじ……? あの、そのドラマの映像とかってネット配信とかにある感じすか?」


「ん? 私が見たのは数十……古いものだから、どうかしら。それはたしか、特段ヒット作でもなかったとも思うし、残っているとすればネットというより実家にある映るか分からないビデオテープね。その当時は、私もまだ夢見るほどに若かったから、良い演技をする子は、年齢はどうあれ撮り貯めてそうしてお手本代わりにしていたこともあったわ。その名前にピンときたならきっとそうね──って、あなたネット配信って今時なのね、もう少しで恥をかくところだったわ! うん、じゃあ、時間があったときに〝ソレ〟探してあげるわ。──あ! あなたもしかして、演劇部に本格的に興味でも出てきたのかしら?」


「え? いやぁー、俺は特にそういう本格派というわけでもなく……まじでにわかのにわかの」


「ン──よく見れば、あなたけっこうタイプかも?」


「は!? あのぉー、俺って、生徒ですよ……?」


「あははは、舞台向きのタイプということよ。さすがに分別をわきまえてるわ」


「な、なんでそんなことを? 全然んなこと言われたことも」


「だって、その立ち方。好きでしょ、舞台」


「あ──?」


 顧問の先生は今話す彼の足元を指差した。


 爪先の角度、腰の位置、『浮き足立たない』ように、誰かに指導されたまるで神経の通った立ち方が、そこに染み付いていた。


 立ち方というのは舞台の基本。立ち方一つ覚えるだけで素人感をぐんと減らすことができる。日々の生活の中でも、それは鍛えることができるものだと、金閣寺はそう聞いたことがあるのを思い出した。そして、自分がそのような特異な立ち方をしていることに気付いた途端に、不思議な感覚に陥ってしまった。


 演劇部の顧問にその立ち方のことを指摘された。見る人が見れば、舞台の立ち方を知っているかどうかなど、一発で分かるのだという。


 指摘されるまで自分では全く気付かなかった。金閣寺が彼の普段の立ち方がどうであったかを、思い出そうと自分の上履きを見ながら怪訝な顔を浮かべていると──


 突然、何かが落ちる痛々しい音が響いた。


「先生! クマソタケル役の学くんが酔って転けて足をヤっちゃって!?」


「えぇ嘘! もう何をやっているのよ! この発表会の近づいている時期に、どこ、見してみなさい。────あちゃー、もう殺陣をやるなら段取りをしっかりしなさいって言ったでしょ! 怪我するなんて下手なことをしたのね! 役柄とはいえ本当に酔って派手に転けてどうすんのよ。──え? 俺は憑依型だからそこを突き詰めたい? そんなことは今聞いていません! 大物になってから言いなさい! もうバカらしくて……やだっ! うわぁー、腫れてきてるじゃないの」


 顧問の先生が向こうで転けた男子部員を心配し駆け寄る。説教をしながらも、男子部員の腫れ上がった足首にコールドスプレーを振りかけていく。


 稽古を中断し、演劇部の部員たちがどよめきだした痛々しい光景を、傍らで見てはどこかデジャヴを感じてしまう────


 金閣寺歩はフローリングに無造作に転がっていた一本の棒切れを、今、おもむろに拾い上げてみた。









 急遽、主人公ヤマトタケルの敵であるクマソタケル役、その稽古での代役を務め果たした金閣寺は、顧問のはからいで演劇部の部室を貸してもらいひとり休憩をしていた。


 何故彼がそんな代役を引き受けたのか、それはまた、何かを確かめてみたかったからだろう。


 体を動かせばその何かを掴めると思っていたが、ただ、思ったよりも激しめの木剣での殺陣アクションをこなし、体に汗をかいただけであった。


 この体に染みついたものは、何なのか。休憩していた長椅子から彼は起き上がり。もう一度そこに立ってみる。


 黙し、静かに立つ──目を閉じて何かを探してみる。足元の神経から流れるソレは、彼の中に当たり前に溶け込んでいて、もう見つからないのだ。


 元の立ち方さえ、どうであったか定かでない。


 それが【やなぎしおり】なるものの彼に残した痕跡だとすると、とても不思議で同時にとても恐ろしくも思えた。


 首元にぶら下げていた白いタオルが、するりと、落ちてゆく。


 金閣寺は、おもむろに閉じていた目を開いた。


 彼は今落ちてしまった白いタオルを拾い上げようとした。しかし、彼が手を伸ばしたその床に落ちた白いタオルが、今一瞬、何かを誘う矢印のように伸びているようにも見えた。


 白く指し示された方向へと歩いていき、やがて、そこにあったネームのないロッカーを開けてみる。

  

 その中には、チェック柄の探偵帽子が一つ置かれてあった。


 金閣寺はどこか見覚えのあるその柄を見て、思わず息を呑んだ。


 急速に汗が冷えるゾッとした心地に、ロッカーをこのまま閉じてしまいたいとも思ったが、彼はゆっくりと手を伸ばし、その帽のツバを指で挟んでいた。


 慎重にそれを暗いロッカーの中から取り出してみると────今手に持った帽子の中から何かが、ひらひらと、舞い落ちていった。


 金閣寺が慎重に床から拾い上げたのは、一枚に満たないぼろぼろの紙であった。


 破れて題の読めない物語の断片がそこに、掠れたインクで書かれてあった。









 放課後、部活動をしている生徒たちも帰り始めた夕暮れ時。演劇部の部室から文芸部の部室へと、金閣寺は向かった。


 小汚い部屋は、空気に染みついたインクの臭いと、乱雑に置かれた本から独特のカビた臭いが嫌に金閣寺の鼻を打つ。


 換気や掃除もろくにしないほどに、こもりっきりで執筆活動に没頭でもしていたのだろうか。先生に見つかれば即刻注意されてしまう、そんな酷い有様だ。


 本や紙屑や資料の散らかった狭い足場になんとか立つ場所を見つけ、金閣寺は、演劇部の顧問を尋ねた時のように同じことを文芸部の部長に問うた。


「やなぎしおり……?」


 机に向かっていた男の丸まった背は黙ってペンをとめ、思考している。


 やがて──


「知らないな。もういいか、今度の夏の賞に出す作品を仕上げるのに忙しいんだ」


「え? あぁ、邪魔して悪かった。あ、じゃあ、ちなみにこの話の方は?」


「支離滅裂な文章だ。ファンタジーものやSF小説志望なら他の部を当たれ」


 依然背をみせながら、文芸部の男は顔を合わさずに茶髪の客を邪険に扱った。


 辛く評したような支離滅裂な文章を見て、苛立ったのか。文芸部の男は客からもらった紙の切れ端を、後ろに雑に投げ捨てるように返した。


 金閣寺は慌てて、ユラユラと宙を舞った紙切れを手で掴み回収した。つい、床に無造作に置かれてあった本や捨てられた原稿を足蹴にしてしまったものの、それは先に雑に扱ったお相手の自業自得で諦めてもらうしかない。


 居心地の悪くなった金閣寺は、その男の背に睨まれる前に、用のなくなったカビ臭い部室を出ていった。




 邪魔者はいなくなった────取り戻した静寂に目を凝らすのは、いくら埋め尽くしても湧いてくる余白のスペース。


 文芸部の男は薄い原稿にペンをはしらせ、また、物語のつづきを書き始めた。









 結局、【やなぎしおり】は何者だったのか。それは誰かの芸名らしく、しかし、たしかに彼女は化物であった。


 あれほど見た覚えのある美しいその彼女の顔を、金閣寺歩は何故か今は思い出すことはできない。満ちていた月が欠けてゆき、流れる浮雲に途切れ隠れてゆくように。



 そして手に入れたこの紙の切れ端を、どうするか金閣寺は迷った。実は探偵帽子から出てきた切れ端は後から出てきたもう一枚があり、そのもう一枚の方には、誰かの独白めいたものがあやふやに書かれているが、それを信用することも難しい。


 それどころか、彼には、今すぐ捨てたくなるような呪いのようなものにも思えた。


 その文を見ているだけで、読もうとするだけで、あの時の恐怖や肉声が徐々に蘇ってくる。そんな嫌な感覚に囚われてしまった。


 金閣寺は思わず紙から視線を外す。やがて、屋上の手すりにしがみ付くように、ため息をついた。


 気分の悪くなった金閣寺は、一度、夕暮れの校舎屋上から、オレンジがかった街並みを眺めた。


 今日はもうこれ以上、探しつづける意味などないのかもしれない。今悠然と眺めるこの美しいオレンジ色もやがて深い闇に沈み染まりゆくというのならば、その境でどことも知らず深掘りしていては、帰る道が分からなくなりそうだ、そう金閣寺には思えた。


 何よりも彼の左指が、また疼きだし、そう報せているようでならないのだ。



「何か──用?」



 そのとき、彼の背に聞き覚えのある声がそよ風のように流れた。


 金閣寺が後ろを振り返ると、もぬけの屋上にあらわれたのは藤乃春、彼女だった。


 紫の瞳に見つけられた時、彼の左指に疼いていたそのわずかな痛みが、だんだんと失せてゆく。


 持っていた紙切れを背方で丸めて、ズボンの後ろポッケの中へと仕舞い込む。屋上の端に立ち止まっていた金閣寺歩は、雨も降らずにひらかれた黒い傘の下へと、歩き出した────────。





















第14話 いじわるな風船屋


「カイト、モヨ、アベカナ、トミミ、ナカガワ、カクジ、ナカガワ、カクジぃ〜、たったらたぁー」


 茶色いローファーの爪先が道端の石を蹴ってゆく。


 前へと弾かれたちいさな石を無邪気にも追う、そんな一人遊びを学校の帰路で、童心にかえり繰り返している女子高生が一人。


 意味もなく占うように、親しい皆の名前を順々に繰り返しつぶやく。ただの帰るまでの暇つぶしのようだ。


「おまけの、フッジノーぉ〜──あ」


 勢い余り大きく蹴り出してしまった石を、女子高生は小走りで追っていく。電柱の付近に転がっているのを見つけた彼女は、走っていたその足をゆるやかに止めた。


 電柱の後ろ影から、なにやら黒い足のようなものが、一本、二本と出てきた。


 彼女が地から目線を上げると、黒いシルクハット型の帽子を目深くかぶった怪しげな男が、彼女の目の先のそこにゆっくりと現れ立っていた。


 女子高生は男の足元にある石を蹴り返して欲しかったが、そうはしてくれないようだ。


 よく見ると男は、黒い風船を一つ、片手に持って突っ立っていた。


 黒帽子の男は、その手持ちの風船をどうやら女子高生の方へと差し出そうとしているようだ。ゆっくりと彼女の方へと手を伸ばしている。


 不思議に思いながらも、男の持つ珍しい黒風船と寡黙で独特な雰囲気が気になり近づいた女子高生は、その黒い風船を男から手渡しで受け取った。


 受け取った風船の紐を摘みながら、女子高生は笑った。


「あぁー、じゃあこの子も一緒に帰りますか? なんてね、──誰かツッコめ、はは」


 風船を手渡した際の中腰の姿勢を元に戻した黒帽子の男は、何も言わずに頷き道を開けた。


 女子高生はそんな黒い風船屋さんとのおかしな出会いに別れを告げて、また、落ちていた石を蹴りながら、住宅街の路地を歩き出した。


「子どもとかに会ったら渡しちゃうんだろうなぁ、わたしも、なんて、はは」


 彼女がこの黒い風船を手渡す相手は、きっとこの先の道で出会う誰とも知らない子どもたちだろう。


 手放すには少し惜しい、そんな珍しい黒の風船ではあるが、ほんのしばしの帰り道、楽しめればそれもそれで乙なものだと、彼女は思い笑った。


「あ、そうだ! アレとアレ、今から呼び出して先に会った方に〝これ〟あげるのもおもしろそう? はは。ま、それまでは楽しんじゃ────おっと……?」


 風船一つで彼女のする妄想は膨らむ。何かもっと楽しい案を思いついた彼女は、また一人で笑った。


 道端の石と珍しい風船を連れるそんな無邪気な人間の笑い声に、その時、後ろから──駆ける足音が近づいた。


 駆ける黒い風と冷たく煌いた銀色の鋏が、迫る足音に振り向いた彼女の左肩を突然掠め、瞬く間に通り過ぎた。



 引っ張られ上へ伸びていた彼女が手に摘むその紐は、だらりと、今お辞儀をするように垂れ下がった。


 彼女の左手指に無情にももたれかかった細い紐。見つめる、その紐の先には何もない。手を引っ張っていたあの浮遊感・気分をも上げる楽しげな感覚も、そこにはなく、ぷつりと途絶えたように消えていた。


 さっき後ろから来た突然の黒い風に攫われでもしたのか、彼女は吹いていった方向を見つめるが、そこにも何もない。人影は一つともなく、突き当たりにはいつも目にするグレーの塀が悠然と聳え、視界に見えているだけだった。


 不思議な風に吹かれるままに、乱れてしまったみじかい黒い髪を、おもむろにかきあげながら、


 女子高生は、午後の曇り空を見上げた。


 遠く目を凝らしても、もう、あの黒い風船の行方は分からなかった────。












「金閣寺くんじゃあまた放課後、【火曜日のカラオケ】! 火曜はカラオケの日で三割引きだから」


「あぁー、約束してたな。わかった。あそこの横断歩道を渡ったいつものとこな。火曜は三割引だもんな」


 今日も今日とてこの男、金閣寺歩は、穏林高校の一年生徒として普通の日常を送っている。自転車通学で途中一緒になった道島えりに手を振り、校舎三階の自分の教室へと向かった。





 授業終わり、いつもの放課後がやってきた。だが、この後の予定は決まっている。金閣寺歩は耳にイヤホンをつけ、今日歌う予定のセットリストを垂れ流しながら赤い階段を一段一段降りてゆく。


「おい金閣寺、バッピはバッピ」


「あぁ?」


 階段の途中、いきなり後ろから呼び止められた金閣寺はイヤホンを外し、今、馴れ馴れしく左肩を掴んできた誰かの手のある方に振り向いた。


 そこにいたのは見慣れた坊主頭。野球部で友人の宗海斗は、金閣寺のしらばっくれた態度に、語気を強め問い詰めた。


「あぁ、じゃねぇよ。言ったろ今日来いって。今日は【火曜日のカーブ】! また俺の打撃練習に付き合ってくれるんだろ? じゃあ、先に行ってるからな。水曜日のシンカーも忘れんなよ!」


 宗海斗はイヤホンを外した金閣寺の片耳にそう大声で言い残し、階段を素早く先に駆け降りていった。


(しまったな。カラオケとバッピ、どっちにするか)


 予定がダブルブッキングしてしまった。雑用を頼まれがちなこの男には、こういう事態は稀に起こる。


 この場合、どちらの約束を先に優先すべきか、先約はどちらであったかも考慮し、一度立ち止まり考えなければならない。


「きのう爪切るの忘れたな。喉もなんか、ココ──でっぱってて調子悪いな。…………ただの喉仏か」


 あれやこれや断る理由付けを考えるも結局見つからず。左指の絆創膏を除き、いたって金閣寺歩は健康だという結論が出た。


 片耳だけつけたイヤホンから音が流れる。そんな中途半端な状態で突っ立っていた金閣寺歩、彼のスマホの通知音が鳴った。


「……」


 今きたメッセージを開き、読んでいく。


「先にこっち済ませるか」


 右のイヤホンを外した彼は、踵を返し、上の階段へと向かい足をかけた。





 スマホのメッセージで相談事があると言われた。金閣寺は仕方なく、文字で指定された屋上の方へと向かった。


 またこの前みたいに雑用を押し付けられそうだ。彼が心の中でそう、これから起こる厄介ごとの予想を立てていた。


 5階から屋上へと向かう静かな階段を登り切った時、突然、彼の左手はぐいと強く左方のスペースへと引っ張られた。


 金閣寺は驚くも、そんな子供っぽい悪戯をする奴は、メッセージを送りつけた本人、そいつしかいない。


 屈み身を潜めていた湊天が、屋上ゆきのドア前左の何もないスペース、埃っぽいそこで笑っていた。





 そんな悪戯はどうでもいいことだ。金閣寺はさっそく、メッセージではぼかされていた相談事の内容を詳しく彼女から伺うことにした。


 そして明かされた内容に──金閣寺はつい、ため息をついた。


 「最近肌の調子が悪いのが気になるんだよねぇ」などと、どうでもいいことを湊天はのたまっているのだ。


「はぁ? どこが?」


 金閣寺は湊天を少し冷たくあしらうように対応する。


 こんなところまではるばる階段を登り、その行き着いた先が〝女子のお肌のお悩み相談〟などと、能天気なことを言われても彼の知ったことではないのだ。彼が美容関係に特段詳しいわけでもない。むしろ今は、彼女より彼の肌の調子の方が、振り回されてはストレスを感じ若干ではあるが好ましくない状態だろう。


 それにざっと目を通しても、今、面と向かい離す彼女の肌艶はいつも通りに見える。並の女子より透明感があると評される方なのではないのかと、金閣寺歩は思った。


 思えば山﨑もよりの悪ノリより湊天の勝手なノリに振り回される回数の方が多い気がするものだ。金閣寺はその不満をあらわにするように、首を傾げてみせた。


 しかし彼女は何を思ったのか。


 同じ方向に真似するように首を傾げていた湊天は、いきなり指を弾き閃いたジェスチャーをした。


 そして、彼女は、臙脂色のブレザーを投げつけるように彼に預け、自分の首元にゆっくりと手を伸ばした。


 白いシャツのボタンを一つ、一つ、外していき、自分の生肌をあらわに────


「っておい、なにやって!?」


 目の前の女子がいきなり訳の分からない行動に踏み出す。この人物ならやりかねない奇抜なことも、さすがに限度というものがある。


 金閣寺はすぐに目の前の彼女から視線をそらした。これも一種のいたずらなのだろうと知っているからだ。湊天は金閣寺の鼻をさわったり、なれなれしいスキンシップをよくしてくる。そんな彼も、彼女がまさかいきなり肌を見せてくるとは思わなかったが。


 それでも金閣寺は冷静に対応する。彼女から預かっていたブレザーをカーテン代わりにし、自分の視界から隔てた。


 しかしまだ湊天は隔てる赤い幕ごしに、お肌のお悩みポイントを細かく語り出した。視界の情報を遮断し、一応友人である彼女の話だけは耳に通した金閣寺であったが────


「────は? ほくろがふえた?? いや、しらねぇけど……」


「何言ってんのカクジ、ちゃんと見てもないのに? ほら、こことか、ここも数えて」


「な!? まぁ、おまえがそう思うならそうなんじゃねぇか……。てかそんなの山﨑とか阿部とか富宮にきけよ! なんで俺になんだよ」


「あっ、そっか」


「そっかっておまえ……はぁ」


 金閣寺は急に馬鹿らしくなった。彼女の冗談に付き合うのもほどほどにして欲しいものだ。ただでさえ、この後の予定が詰まっていてそちらの方を優先したいのだから、湊天のシャツ内に隠れたほくろの数など、多少増えようが一介の男子生徒である彼にとっては、まさにどうでもいいことなのだ。


 そろそろこの冗談話はいいだろう。金閣寺はついに匙を投げるように、湊天から預かっていたブレザーを彼女へと投げ返した。


「数え終わったらPINEに書いとけ、じゃあな、俺は忙しいん────だ?」


 そう淡々と吐き捨てて、金閣寺歩は屋上前の階段を下へと引き返そうとした。


 だが、左手を引っ張られる感覚が伝う。


 三歩下った階段の途中、その感覚に金閣寺が振り向くと、彼の左手は、湊の右手に繋がれていた。


 埃っぽい床に、くしゃついた赤いブレザーが落ちた。


 ボタンを掛け違えた白いシャツ姿のまま、彼女の瞳がじっと上から、茶髪の彼のその顔を見つめていた。


(────どうやらソイツは自分のことを離す気がない)



 そんな飽き足らない目の色をしていた。










 ▼カラオケ ヨイサウンド 穏林支店▼にて


 どうしてこうなったのか、金閣寺歩には分からない。道島えりとの約束を果たすために、放課後、自転車を走らせ近場のカラオケチェーン店に訪れたものの。


 今、個室内、L字のソファーに座る人影が、多い。


「おい金閣寺! 突発の合コンなら先にそう言えよ!」


「ってなんでいんだよ。お前、部活サボってていいのかよ。って合コンじゃねぇよ、なんだよ突発って」


 いまごろ部活動真っ最中のはずの野球部員、宗海斗の姿が隣にあった。随分とご機嫌そうな様子で、金閣寺へと話しかけている。


「いいのいいの! 俺って三日寝てても不動の一番だから! 上級生でも俺よりショートで上手いヤツはいねぇのよ。なんなら投でもエース格なのが、ご存知このフレッシュニュースター1年生野球部員、宗海斗だろ!」


 金閣寺がバッティングピッチャー役を打診された件について断りの連絡をスマホでしたはずが、宗海斗は現在カラオケ屋へと合流を果たしている。おそらく勝手に部の練習を早めに切り上げて、ここまでやってきたのだろう。


「一体何足の草鞋をやってるのかは知らねぇが、そのうち全部スランプになってもしんねぇぞ」


「その時はまた練習に付き合ってもらうからな金閣寺くん!」


「いらねぇ……。──寄るな」


 金閣寺は肩に寄りかかったその男の馴れ馴れしい手を払いのけた。そして、賑やかになってきた雰囲気に何かを思いついたのか、おもむろにポケットからスマホを取り出した。


「ったく……あぁー、じゃあせっかくだし中川も呼ぶか」


「は? 何言ってんだ、んなヤツ呼ぶなよ! せっかくだぞ!!」


「は? お前こそ何言ってんだ? だからせっかくだろ……?」


「まったく鈍いな。だ・か・ら! せっかくちょうど2、2になってんだぞ。ソイツ呼んだらこのちょーーーーどいい最良のバランスがガタっと崩れてッ、全部もってかれるかもしれないだろうが!」


「お前……まじか……」


「お前の方がまじかよ! この神の采配にわざわざ水を差すなんて、まったくイカれてるぜ!! あぁん??」


 どうやらこの坊主頭はこのカラオケ屋の個室に、例えそれが友人であろうがこれ以上男子を呼び込み増やすな、とおっしゃっているようだ。確かに頭数はちょうど女子が2、男子が2の人数でつり合っている。今のこの状態こそが過不足なくベスト、偶然にも導き出された神の采配なのだと、鈍感で分からず屋の金閣寺歩へと宗海斗はまた肩をつかまえ熱心に説いた。


「うんうん。そんなエロいヤツ呼ばなくていいじゃんカクジ、あはは」


 ソファーに沈み座る金閣寺の肩に置かれた手が増えた。


 カラオケ屋で落ち合う約束をした道島えり、勝手についてきた宗海斗の他に見慣れた顔がもう一人。


 湊天もここに来ていた。そう、彼女もまた金閣寺の用事に勝手についてきた内の一人であった。そのような偶然や奇遇や気まぐれが重なり合った末に、奇しくもこのカラオケ部屋は今、女子が2、男子が2居る状態となっていたのだ。


 そんな湊も宗の説く意見に同調した。例えそれが友人間の悪ノリだろうが散々な言われようだ。だが友人グループの中川透がここまで邪険に扱われることは滅多にない、普通ならば友の為に少し怒ったり不満げな態度を取ってもいいものだが、不思議と今の金閣寺の気分は悪くはないようだ。


「バッター中川OUT! よぉし、憂いは完全に去ったところで! ここからはお待ちかねのカラオケデュオバトルだ! この最新AIを搭載した相性診断機能をつかって真のデュオ、いや真のペア! そう、真のバッテリーを決めるぞおおお!!」


 宗はどこかで聞いたことのあるような怪しげな企みをまさに実行しようとしている。道島えりも宗が勝手に言い放ったその突発のイベントに乗り気のようだ、意図を理解しマイクを人数分用意してきた。


「ってなんでこうなったんだっけ?」


「「いいのいいの!」」


 マイクを手にした宗と湊が、まだソファーで考え込む茶髪頭の左右から、明るくそう言った。


「まぁ、いっか」


 道島えりからマイクを手渡された金閣寺は、顎に当てていた無駄な手を下げ、ソファーに沈んでいた尻を上げる。


 考えたところでどうにもならない、意気投合するように協調し合う三人により作られてゆくこの明かるげなノリは、もうどうしようもない。


 金閣寺歩はエンジンがかかったように、陽気な面子と陽気なメロディーに誘われるがままに、温めていたソファーから立った。



 騒ぎ声と歌声が一緒くたに漏れ出る。


 カラオケ屋ヨイサウンドのちいさな個室で、学生たちの放課後の宴が今、盛大に始まった────。







 放課後のカラオケ屋で、集まった友人たちと10曲以上も馬鹿騒ぎし歌えば、人はこうもなるのだ。


 時刻は午後6時をとうに過ぎ、金閣寺は遅くに帰ってきた自宅リビングにある小さなソファーの上に、力尽きたように今寝転がった。


 臙脂色のブレザーを脱ぎ捨て、使い古されところどころ薄れたアースカラーの色調に沈み込み、一息をつく。その瞬間から彼は、皆のよく知る金閣寺歩らしくはないのかもしれない。


 仕事で他県へと出張中の彼の母親は忙しく月に一度もここへは帰ってこない、この家はいつも彼一人、静かなものだ。


 何にツッコミを入れる必要もない。そんな静けさの中で、ちいさなソファーに大きくなってしまったその脚をはみ出しながら、ただ天井を仰向けに見上げる。


 そこに何かあるわけでもない。天井のシミの数もそう簡単には変容しない。ただ、そんな何もしない時間というものはこの男にとって貴重なものでもあるのかもしれない。


 そこでぼーっとしていても何も誰にも咎められない、呼びかけられない。この古いマンションにある変哲のない一室が、今の彼の帰る場所なのだ。


「おかしいもん。こんなところにあるなんて。ほらここにも、ねぇカクジ?」


 しかし、今日という日は賑やかだ。無遠慮な足音が家の中をどたどたと音を立て走り、ソファーで寝転んでいた彼に近づいた。

 

「だから……知らねぇって……! あぁー、そうやって細かいとこを見るようになったから変に気付いただけじゃねぇのか」


 金閣寺の住む家までついてきたのは湊天。カラオケ屋では飽き足らず、他人の家の中に現在彼女はいる。


 一人の時間を邪魔された金閣寺はそんな彼女の声に振り向いたが、すぐに視線を外した。


 そのラフすぎる格好に。


 何をしているというのだろうか。彼女は自分の体のすみずみを自分で目視チェックしていた。


 その格好はというと、学校指定のカッターシャツの前を、ボタンを外し開いたり閉じたり、薄手の布地をぱたぱた揺らめかせている。一介の男子生徒が直視するのを憚られるものであった。


 確かに家主の金閣寺は湊が学校の屋上前で相談してきた「増えてきたほくろの数」を、そこの風呂場前の洗面所に籠り一人で鏡で見てくるように勧めはしたが、そのことを報告するにしても、今の彼女の披露するはしたない格好は冗談がいきすぎている。


 彼女はちゃんと前のボタンを全部首元の一つまでも閉じて、洗面所で数えたほくろの数を彼に事務的に報告するだけでいいのだ。それでさえも、おかしな状況であることには変わりないのだが。


 金閣寺は一応そんな状態の彼女を相手して、ほくろの多さに気付いたのは気にするようになったからだと、傍らに置いていたスマホを意味もなくいじりながら冷静に言葉を返した。


「なるほど、うーん……細かいとこ? ──どこ?」


 湊天はその場を優雅に一回転しながらそう言う。白い切れ端と、この部屋を我が物顔で靡く黒髪ショートが、彼の視界の端にちらりと映る。


 冗談をまた聞いた金閣寺は、視界端にちょろちょろと映るものに我慢できず、寝転んでいたソファーから起き上がった。


「おまえ……まじでふざけてんじゃ──!」


 一喝して驚かしてやろう。即座に服をまともに着るように、彼はそんな行動を咄嗟に選んだ。


(ん? なんだあれ? ────?)



 金閣寺が起き上がり振り向いた方向、彼女の背を追い越した場所に、なにやら黒い物体が浮かんでいた。


 部屋の角にあんなものを置いた覚えはない。


 金閣寺が目についたその謎の黒にフローリングを歩き近づいていくと、部屋の角にとまっていたその黒はゆっくりと部屋の中央へと向かい離れていった。


 それは黒い風船だった。


 自分が動いた足音が響きその角を離れてしまったのか。金閣寺は今目で追った進み始めた黒い風船を、また近づこうとリビングの中央の方に戻り、追いかけてゆく。


 やがて、浮かんではまた動かずに止まった風船にさっきよりも近づいた金閣寺はそれに手を伸ばそうとした。


 なんの気なしに伸ばしたその手に今度は黒い風船の方から近づく。いや違う、それは近づいているのではなく、大きくなっていた。


 そう、まるで威嚇するように手を伸ばした先の黒い色合いがその存在感を増し、膨らんできたように彼には見えた。


 金閣寺は焦って伸ばしていた手を引っ込めた。すると、異常に膨らんで見えていた黒い風船は不思議と手を遠ざけるほどに萎んでいき、元の大きさに戻っていた。


「ん? なにやってんの、カクジ──?」


「いや、別に……」


 急に恥じらいという言葉を思い出したのか。ボタンの開いたカッターシャツの薄地を前に重ね合わせ、身を縮めるように隠す。


 そんな仕草でかたまった湊天の姿が、夢中に何かを追っていた彼が今見下げた目の前に突っ立っていた。


 突っ立つ彼女の頭を追い越した向こう側、カーテン側の部屋の角に静かにとまった黒い風船がある。


 家主の金閣寺歩は、飾った覚えのないその黒いアイテムを目に留めながら、じぶんの茶髪を掻いた。


 誤魔化すように手になぞった彼の茶髪の内側は、じっとりと湿っていた────。







第15話 気にしない 気になって


 この家の家主、金閣寺歩という人間について。


 湊天はこの家に初めてお邪魔して以来、ずっと気になっていたことを今遠慮なく、彼の面に向かい問うていた。


「カクジってもしかして、ひとりっこ革命?」


「どんな革命だよ。あぁ、そうだが」


 彼に兄弟はいない。ほぼ、一人暮らしの状態でこの家で生活をしている。


「カクジってもしかして、狼っこ?」


「育てられた覚えはねぇよ。あぁ、母親は仕事熱心な人間で、父親は狼かもしんねぇ」


 彼は分かりそうで分からないことを、たぶんユーモアをまじえて言っている。


「……ポエム?」


「ちげぇ! 察しろ、なんとなく! ──てか服着て来い! アッチでな!」


 金閣寺は目の前で、それもあられもない格好で質問責めする湊天を、今強く指差した洗面所の方へと即刻向かわせた。





 風呂場前の洗面所を仕切る戸がスライドし開いた。


「っておまえそれ何着てんだ?」


 堂々と現れた彼女は、制服姿ではなく何故か深い緑色のトレーナーをその身に着ていたが、少しサイズが合っていないようだ。華奢な彼女の体に纏う、どこか着こなせていないだぼついた緑のトレーナーが、学校では見ることのないその女子のギャップ感を演じていた。


 しかし金閣寺はその深緑のトレーナーにどこか見覚えがあるようで。


「ん? わかんない」


「わかんないじゃねぇよ。それ、おいまさか……」


「あ、なんかね、ふしぎな穴のおくのほうにあった」


「洗濯機なんだよそれ! もう当たり前でドラム式の! ふしぎな穴のおくのほうじゃねぇ! どんなポエムだ原始人!」


「あぁ、はは、そこそこ! そこにあったヤツ」


「そこそこじゃねぇよ。それ洗うつもりのヤツで、おま……(三日は前の……)」


「──え? 着心地は? うーん、そこそこ」


「だまれ!」


 優雅に一回転して、手の半分隠れたその緑の長袖で口元を隠し彼女は笑う。他人の家の私物を勝手に借りたい放題、そしてやりたい放題のこの女に、金閣寺は小気味よく一喝した。







「ふぅーん、カクジのこと全然知らないことだらけなんだね」


 それはこっちの台詞だと返そうとしたがやめた。そして今も彼女が平然と着用する緑のトレーナーを返してもらうことも、家主である彼は一時、諦めることにした。


「そりゃ高校からの付き合いだから、そんなもんだろ。知ってたら逆に怖いぞ引くぞ」


「あ、じゃあさ、ナカガワのことは逆にばっちり?」


「あぁ? あぁー、いや、そんなでもねぇ。ただ小中と同じ学校の腐れ縁ってだけで。そのままズルズル友達やってるってかんじだな?」


 いきなり中川透のことを湊に問われたが、金閣寺はありのままに答えた。金閣寺が、穏林高校のいつもの七人グループで一番長い付き合いであるのは中川透。だが何も中川透について、特段詳しく知っているわけでもないのだ。


「ふぅん。じゃあ、あんがい親友ってわけじゃないんだ」


「? だな。そう名乗りあったことはない。ただ付き合いが長いだけの友達ってだけだ」


「あ、悪友コンビ?」


「まぁ、どっちかっていうと? そっちだな、はは」


 親友というよりは悪ノリのできる悪友。中川透のことを親しみを込めてそう言うのが適しているかもしれないと、金閣寺は湊の思いつき言った言葉に微笑った。




「じゃあさ、もっと知りたいとか思わないの?」


「は? べつに。これでつづいてるんだから、これでいいだろ。それにそういうの男同士じゃなんか気持ち悪いだろ、お互い、ははは」


 湊は中川と金閣寺の関係性に興味を示したようだ。金閣寺も淡々と自分の考える中川透という男について、冗談めかしながら答えていった。


「ふうん。あ、じゃあさ、カクジってショートケーキの苺はどうする?」


 話題がコロコロと変わるのには慣れている。湊天、彼女の気や興味は移ろいやすく、雑に雑言を投げかけてくることもしばしば。そういうのを〝無茶振り〟と呼ぶことを金閣寺歩は知っている。


「は? どうするってなんだよいきなり。苺じゃなくてお前がどうしたんだよ? いきなり?」


「あはは。おもしろ」


「別におもしろくねぇよ……。そりゃ、まぁ、なんつぅか? 苺は安いとすっぱいのあるだろ」


「うんうん」


「アレ、いや」


「あはは、シンプル! でも、わかるかも」


「ははは。だろ? だからさ、なんならなくてもいいな、上の苺は。俺は上の苺じゃなくてショートケーキを食べたいからな」


「ふぅん……そうなんだ。いいね、カクジって苺よりどっちかと言うと……あ、スポンジみたい!」


「まぁな! って誰がショートケーキのスポンジ生地だ!」


「底の方、底の方、あはは!」


「だまれ、ははは!」


 彼はショートケーキの上に飾る苺を好まない、無くても気にしない。そういうタイプらしい。


 脱線した、とりとめもない話で二人は笑い合った。







 笑ってばかりはいられない。金閣寺はなかなか帰らない湊天がこれ以上リビングのソファーの上でくつろぎ始める前に、とりあえず彼女を帰らせることにした。


 時刻は午後7時を過ぎた。テレビを強制的に消し、いつもはサボりがちの掃除機をかけながら、珍客を玄関の外まで追いやった。


 玄関の前で顰めっ面で手を振りながら、金閣寺は湊天が閉じゆくドア枠の視界から消え去るまで見送った。


 最後まで友人と騒がしいやり取りをしながら、玄関のドアが今やっと閉じられた────。


 金閣寺は意味もなく握っていた掃除機のホースを手放した。そしてすぐさま家の中を巡り、何かを探し始めた。


 しかし部屋の隅から隅まで、上の角から角まで、目を配ったものの──


 あの風船がない。


 探せど、どこにも見当たらないのだ。


 ドラム式の洗濯機の中に潜んでいるはずもない。屈みながら無機質な穴の中を覗いていた首を、元の高さに戻した。


 自分だけが寝ぼけ見えていた幻影なのか、カラオケ屋で歌い疲れた後遺症なのか。


 洗面所の鏡に映る自分の顔と睨めっこしても、飾った覚えのないあの黒い風船の謎は深まるばかり。


 顎に手を当てても、彼には考える術がない。あのいきなり部屋に現れた奇妙な風船のことを彼は何も知らないから当然だ。


 今日一日のことを振り返る。どこかに違和感というものを感じたとすれば────



 金閣寺は、まさかと思い、リビングの方へと戻った。


 そして仕切っていたカーテンを勢いよく開いた。当然そこには何もない。ただのマンション六階のベランダだ。


 しかし彼が気にしたのは近くのそこではなかった。窓を開き、網戸を開き、素足のままベランダへと足を踏み入れる。


 冷たい鉄色の手すりに手をかける。身を乗り出しながら、彼は彼女が帰る方角を探した。


 赤い光と灰色の雲。午後7時のまだ明るげな夕闇に、一点の黒がぷかぷかと浮かんでいる。


 漂うそれは、まばらな街灯に照らされた、スキップをする人影の元へと────────









 穏林市の隣町、赤幕市にあるBAR【がしゃらば】に再び訪れたのは、いつもの野球帽をかぶっただけの変装をした金閣寺歩であった。


 緑と紫のメインライトに和風な提灯が飾りぶら下がる店内の席につく。慣れたようにドリンクを注文し、もう顔見知りと言っていい白髪のマスター巻に怪談のサービスをしてもらうようお願いした。


「風船にまつわる怪談? それはまた自転車よりも一風変わった注文だな」


 客の金閣寺が振ったテーマはいわゆる無茶振りとも言えるが、巻というこの男の怪奇生物や怪奇現象に対する知見は深く、おいそれと〝ノー〟とは言わない不思議な信頼感があった。


「たとえばそうだな? よくあるのは風船にメッセージをくくりつけて飛ばす行為だ。ある意味ではそれは、現代版の式神になるともいえるな」


「式神ってたしか、陰陽師とかの?」


「あぁ、よく知っていたな。その認識でいい。身近にある紙切れや木に鬼神を宿す、それが陰陽道のいわゆる式神だ。まぁ鬼神と言うと聞こえは恐ろしいが、人間を助ける小間使いのようなものでな。物に宿るという性質自体は前に話した狐火にも似ているな。だが、修行を重ねた狐どもやスペシャリストの陰陽師の連中でもなく、ただの人間が見えない神を物におろして宿すという傲慢な行為、それは、時に制御の効かない思いもよらぬ結果をもたらすかもしれないな」


「それって……悪い感じの?」


「ふっ。たとえばこの街のお昼時にたくさんの風船を飛ばすパレードを催すとする。一つや二つまでならまだしも、このたくさんの風船一つ一つの制御は簡単にできると思うか」


「それは、その日の風しだい?」


「そうだ。風しだい。その風船が流れ落ちた先の環境を汚すかもしれない。落ちたものを鳥が餌と勘違いして啄んでしまったり。時に浮かぶ風船たちが空のヘリや飛行機の視界をさえぎったり」


「ということは……?」


「時と場所はよく考えて風船は飛ばしましょう。と、いうことになるな」


「……」


 風船の話題からスタートし式神やパレードや環境問題にまで連想し発展する。金閣寺はマスターのいつもの遊び癖に付き合いながら、苦笑いを浮かべた。





「そうだな、他にも街を襲う風船という話もあるぞ」


「街を襲う? 風船が? どうやって?」


「くくりつけるのさ」


「なにを?」


「爆弾だ」


「爆弾??」


「まぁそれは、また怪談とは別の実際にあったと囁かれている物騒な話になるな。あ、俺の怪談はすべてが嘘ではないがな? ははは」


「はぁ……」


「深掘りするか?」


「いや……別腹なら遠慮しときます」


 巻の話はただの怪談話だけにとどまらないようだ。しかし、その物騒な別話はまた今度にしてもらうよう金閣寺は断った。





「風船というものは風の気分次第でどこまでも飛ぶ。風船は人が作り出した科学の歴史的にも重要で役立つアイテムだが、人の手で作り出したこういったブツは風の気分だけではなく人の気分、そう〝怨念〟を乗せやすいものとも言えるだろう。そうそう、浮かぶ仕草もどこか幽霊に似ているな、見間違われる報告も──ほら、多いみたいだぞ」


 巻はスマホで片手間にSNSを調べ、幽霊にみえる、あるいは、幽霊のように追いかけてくる風船の発見報告を金閣寺にも見せてあげた。


 しかし金閣寺が引っかかったのは、そんなSNS上の冗談じみた書き込みの数々や、嘘めいた画像ではなかった。


「怨念……?」


 巻の言ったその強い意味をもつ一言であった。


「ん、なにか引っかかるかい」


「いや、なんつぅか……。ソイツはそんな恨まれるヤツじゃないというか。確かにいらないことはよくするんだけど。たぶん嫌味はないというか、本当はからかって楽しんでるだけというか……」


 金閣寺は突然打ち明けるように呟いた。怨念という言葉がとある友人の彼女には、どこか似合わないように思えたからだ。


「はは。詳しくは分からないが、人には表と裏がある。表の印象がたとえそうだとしても、その友人の裏を知ることはなかなかできないよ。君と俺のようにね」


 巻は客である野球帽の彼が遠回しに話したいことを、察したようにそう返した。


「……。裏、あるんですか?」


 誰に向けてそう言ったのか。金閣寺は影をつくっていた帽のツバを少し上げ、マスターの目を覗きながら答えた。


「気になるなら────覗いてみるかい?」


 白髪頭がふいに、屈みカウンターの下に消えた。と、思えば白髪頭がひょっこりとまた顔を出し現れた。


「……いや、今は、なんか……気にしないんでいいです」


「はは、それが一番いい。人間と人間、気にしすぎない。お互いにな。──で、こっちの話なんだが、すこし気にしてもいいぞ?」


 人の裏の顔など考えたことは金閣寺歩にはない。むしろ、裏があるとすれば彼自身、こうして夜分にこそこそ分からないことを嗅ぎ回っている自分の方なのである。


 とても友人の裏など、探り求めれる立場などではない。


 【しゃべれるバーテンダーのアルバイトさん募集中】と書かれた紙切れを片手につまみ、見せつけるマスターがいる。


 怪しげな笑みを浮かべるその男の誘いに乗るかどうか──


 すこし悩んだ金閣寺歩は、マスターの助言にしたがい、カウンターの席を立った。









 彼女は恨まれるようなことはしていない。友達としての付き合いが長いわけではないが、誰かの恨みなど買わないタイプだろう。だが、彼女にふらふらと付きまとうあの風船が何なのかわからない。手を伸ばすと膨らみだし破裂しそうになったあの黒い風船は何を意味しているのか。もしかすると、それが割れるととんでもないことが起こるかもしれない。触らぬ神に祟りなしという言葉を聞いたことがある。アレが見知らぬ神や彼女の式神であってもなんでも、触らなければ何も起きない、そんな無害なオブジェクトなのかもしれない。


 マスターの言うことを鵜呑みにし、あてにするわけではない。ただ、結論としては解けないこの問題は解かずにいるのがいいのだろう。こうして赤幕市まで来たのも何か安心するための材料が欲しかった、それだけのことなのかもしれない。あの怪談好きのバーのマスターは怪異について深い知見をもっている。自分もそのようなことをここ最近調べ始めてはいたが、きっと彼の持つ知識の足元にも及ばないだろう────。


『次は、おんばやし、おんばやし──』


 電車に揺られながら、金閣寺歩はひとり、熟考していた。


 電車が止まり右側のドアが開いたとき、入り込んでいた出口の見えない夢から醒めるよう、思考するのをやめた。


 夜半、舞台上のスポットライトのように照らされた暗い駅のホームで、彼の左ポケットが震えた。


 おもむろに取り出したスマホの画面を眺める。他愛もない返信をし、彼は用のなくなった帽を脱ぎ、駅の階段を下っていった。






 後日──またアイツが家に来た。


 マンション六階、褪せた青色のドアの前、見慣れた臙脂色の制服姿、クールに手を振り無邪気に笑う黒髪ショートの女子がいる。


 玄関には、今脱いだばかりの一足のスニーカー。たった今、するりとドアの隙間から入り込んだローファーがその隣にならんだ。


 苦い顔で迎え入れる茶髪の家主がいる。





 ローテーブルにノートを置き、ペンを片手に男子高生は勉強に励む。夜遊びしたり、カラオケ屋で騒いだり、バッティングピッチャーを請け負ったり、学生は遊んでばかりとはいられないのだ。


 テレビモニターに出力した映像が浮かぶ。暗い迷宮を頼りない松明を片手に彷徨いつづける勇者もまた遊びじゃないのだろう。


「やっぱりさぁちょっとだけ増えてる気がするんだよねぇ」


「見えないとこならいいんじゃねぇか。多少増えても」


「うーん、それはそう。──いんや、それもそうともいかず、みせることもあるかもじゃん?」


「はぁ……しらねぇ」


「ふふっ。ねぇねぇ、ところでカクジって、魔王とこの勇者どっちになりたい?」


「はぁ? 魔王とこの勇者? うーん。魔王」


「え? なんで? 即決するの?」


「魔王は城でぬくぬく待ってりゃいいが、この勇者は世界をどさ回りしながらどことも知らない道端でゲームオーバーばっかだろ。命が一つならぜってぇ魔王がこの勇者に負ける要素はねぇよ。──そこ、たしか左に宝箱」


「あはは、たしかに。へぇー、そうなんだ。──あ、ほんとだ! ナイスカクジ」


 金閣寺は数学のノートに定規を取る。身勝手にふらつく勇者の行先を白紙にマッピングしていく。


 身の入らない自分の勉強よりも、同じリビングで愉快な音を立て誘う彼女のゲームの方が気になってしまう。そして、彼女が腰掛ける小さなソファーの上に浮かぶ、あの黒い風船は、もっと気になる。



 風船はただただ、しずかに天井の辺りを浮かんでいる。


(気にしすぎない。ほくろといっしょだ)


 彼は心の中でそんなことを呟いていた。そして、ノートの上に置いていた手を離し、おもむろに自分の左指を見つめた。


 その人差し指に巻き付く、絆創膏は剥がさない。


 自分にもあるのだ。気にしすぎてはいけないことが、こんなにも近くに。


 彼女にとっての黒い風船は、自分にとってのこの絆創膏。金閣寺はそうイコールづけて、それが妙にしっくりときたように思えた。


「あ、カクジ。金、ない」


「だからお前いちいち街着くたびに、全装備買おうとしてんじゃねぇよ」


「んー、ふるさと納税? ふふっ」


「三日もいねぇよ! この勇者が、ははは」


 静かに浮かぶ風船も、指に貼り付く絆創膏も、行き当たりばったりのゲームをしている彼女も、シャーペンを意味もなく手に回す彼も、ありふれた日常────。


 金閣寺歩は、天井をもう見上げない。


 コントローラーを片手に振り返る湊。


 金閣寺は、助言を求めるゲーム下手の彼女に、光るテレビのモニターを指差し笑った。


 

 黒い風船はソファーの上に浮かび留まる。影を落とさず、ただただ、じっと────────











 テレビを消して、マンション六階の家をともに出る。


 街から街へと移ろい、のめり込んでいたポップで幻想的な勇者の旅は一時中断し。


 時刻は午後6時45分、金閣寺歩は友人の湊天をマンション前の路地まで見送ることにした。


「魔王、クリアできなかったー」


「プレイ初日で倒されちゃ、魔王城にもクレームが届きそうだからな」


「じゃあまた今度! それまでは勇者カクジ、お金、貯めといて」


「なんだそれ、バイトでも嫌だな」


「ふふ。数学、またおしえてあげるから。それでウィンウィンってことで」


「うぃんうぃん、うーん……ま、考えてやらんでもない」


 そうあやふやな約束をしながら、金閣寺は湊と別れた。


 時々確認するように振り返る彼女に、また、うっとうしそうにも手を振り別れた。


 黒い風船は、まるで勇者の後をついていく仲間のように、彼女の後ろをただよう。


 街灯に照らされた人影が、夜道を曲がり、かくれ消えてゆく。


 こういう日常もありなのかもしれない。そんなことを金閣寺は密かに心の中で思ってしまった。


 結局、あの風船は割れやしない。ただ彼女の後ろに、近くにそっといたいだけなのかもしれない。そんな大人しい怪異であった。


 静かな道の真ん中で一つ、金閣寺が安堵や何かが混じった息を吐いた。これ以上用もない。住むマンションの敷地内に引き返そうとした、そのとき────


 後ろになにか、気配を感じた。


「なんだ?」


 金閣寺が振り返ると、ちょうど電柱の影に隠れるように、半身に満たないほどの姿を見せる何かがいる。


 薄闇にフードらしき何かを被り、容貌は遠目にはっきりとしない。そんな人型の判然としないシルエットをじっと金閣寺が見つめていると、電柱に身を潜めていたそれは、突然後ろへと逃げるように駆けだした。


「おいっ」


 明らかにこちらを意識したような逃げ出し方だ。金閣寺は思わず反応し、突然逃げ出したヤツの後を追おうとした。


 夜道を走るヤツと同じように左に辻を走り曲がったが、────いない。


 そこは古い家々の並ぶ袋小路になっていたが、金閣寺が追いかけていた人っぽいシルエットはそこにはもういなかった。


「って、なに追いかけてんだおれ?」


 無論、金閣寺は本気でそれを追っていたわけでもなかった。半分ほどの力で走り、素早く走り去ってゆくその怪しげなシルエットの行き着く後を、どうやら確認したかった、ただそれだけのことであった。


 「気にしすぎない」赤幕市のBARがしゃらばに行き、マスターの言葉をもとに考えたそんな方針を今、彼は思いだした。


 知らない家の前で止めた彼の足に、じわじわと徒労感が押し寄せる。


「帰るか」


 こんなところに薄暗い中立っている自分の方が側から見れば怪しいものだ。そう思った金閣寺は、また、一つ息を吐いた。


「帰って勉強のつづきでもするか……いや待て? ひょっとしてこの場合、あの勇者でどさ回りした方が結果的には、勉強になるのか? ……ふぁあ。ねむっ」


 金閣寺は帰ってゲームをするか勉強をするか迷った。実は彼は、ツッコミ役でありながらもあの七人グループの中で一番か二番目に勉強が苦手な生徒なのだ。


 今度、湊にまた教えてもらったほうが効率がいいだろう、そう彼は悩んだ末に判断した。


 行き止まりを回れ右で踵を返す。金閣寺はもう来ることもないであろう袋小路を歩き、自分のいえへとつづく元の道へと帰っていった。



 足音がゆっくりと去ってゆく────。



 呑気な足音が、完全に消えたとき────


 誰ともしらない赤い車の影でじっと潜めていた息遣いは、明かりの下にゆっくりと姿を見せる。


 そして、握っていた拳をゆっくりと解き、その人影は、どこともしらないその場を去っていった────。








第16話 海の公園に誘われて


 ゲームをかわりにする。湊が占拠していたソファーの席を外している間、家主の金閣寺は彼女に金稼ぎの役を任されていた。


 コントローラーを握りテレビ画面を見つめる。ゲームの戦闘bgmが飽き飽きするほどに流れては止む。プレイヤーが見つめるここはただのだだっぴろいお昼の平原、剣を片手に魔物をマシンのように繰り返し狩りつづける勇者がいる。


 しかし、そんな最中なぜか雨の音が鳴り始めた。天候が変わったのか、そろそろ切り上げて一時拠点としている街へ引き返したほうがいいのか。いや、このゲームの平原に雨という概念はない。からっとした昼と暗い夜を何遍も行き来するだけだ。だが雨の環境音は鳴りつづける。いや、それはゲームの雰囲気作りに一役買う環境音というよりはもっと生っぽく、それでいて作りものっぽくはない。まるでだれかの息遣いを感じるような雨の音が、リビングにいるプレイヤーの耳にも微かにきこえてくる────。


 いったい何故、彼女はシャワーを浴びているのか。


 彼は今どういう気持ちか、ただただマシンのように、金閣寺、いや金閣寺操る勇者カクジは無心でテレビに映る魔物を狩り続けた。


 勇者代行の作業しごとを始めて、しばらくが経った。熱心な魔物狩りの成果か、目標とする金額を稼ぐことはできたが。この稼いだ金もすぐ浪費グセの酷い勇者に人格がバトンタッチした時、服屋さんの乗りで買う全身の装備一式と引き換えに底をつくことだろう。


「さぁ、出かけよう!」


 出かけようと言ったのは今、宿屋の前で一息つこうとしていた勇者ではない。プレイヤーの想像するに勇者である彼は寡黙で仕事熱心でいつも剣を振り疲れていて、そんな能天気な性格ではないだろう。


 リビングとを隔てる洗面所の戸が勢いよく開く音が鳴った。掛け声と、戸の開く音とともに中から現れたのは、私服姿の彼女だった。


 家に来た時の穏林高校の制服姿の彼女は一体どこへ行ったのだろうか、アメカジっぽいコーディネートでご登場した女子がいる。しかし、それらが全体的にオーバーサイズなのは何故なのか。


「どう? ふふっ」


 どこの棚の奥から引っ張って来たのか分からないポップな色合いのキャラシャツを、カーゴパンツの下に入れ、半分隠れたそのキャラのデカい顔がこちらをジト目で笑い見ている。


 羽織る半袖のミリタリーシャツは、ライトグリーン。その場で一回転する彼女の舞に、爽やかに揺らめいている。


 海外チームの野球帽のツバを片手に、クールな仕草で格好をつけたのは、彼の知らない彼女の姿。私服姿の湊天、彼女であった。



 金閣寺歩はもはや何も言わない、言えない、ツッコまない。


 それが自分の現在・過去に着てきた私服の寄せ集めで、自分の脳内にない見たことのない奇抜な組み合わせで、自分が着るよりたとえ数倍オシャレであっても。彼女はそういう人だから。



 新たな装いで登場した友人から黙しながら視線を外す。テレビに映る宿屋の主人に黙々と話しかけ、これまでの冒険の記録のセーブをする。


 お疲れの勇者を画面の内に休ませて、家主の男は小さなソファーの上に、手汗のついたコントローラーを静かに置いていた。












 夕日に少し赤く照らされた海の公園は、いま、ゆるやかな風が吹いている。



(シーソーをこぐのは久しぶりだ。今は高校生、公園で遊ぶような友達も久しぶりだ)


「へいへーいカレシ弱いねぇ、かるいねぇ、ちゃんと唐揚げ食ってるぅ〜?」


(しかしシーソーはこんなにもやかましく激しいものだったか。……いや、そうだった。俺たちのシーソーはいつもスリリングだった。こんな風に──)


 やる気を見せずにいた男は、対面からその綺麗なツラを上下しながら吹き込まれるおかしな挑発に乗った。


 座る部分の塗装の剥げた青く古めかしいシーソーに、もっと体重を乗せてみる。


 そうして強くこぐ度に、もう片方は大きく浮き上がる。彼女は被っていたサイズの合わない野球帽が外れてトぶほどに、笑い喜んだ。





 落ちていた帽子を拾い上げて、砂埃を払う。また帽子を被り直した彼女は彼を次の遊具、また次の遊具へと繰り返し巡るように誘う。


 浜沿いにある海の公園は、貸切状態。高校生にもなって子供のように遊び回る二人の姿が、砂地に生き生きとした影と足跡をつくっている。


「カクジってなにもの」


「はぁ? なんだ?」


「なんかさ。カクジのことって一緒にいるのにイマイチぜんぶわからないから。カクジが今どうしたいとか、何がしたいとか、わからないから──」


「……はぁ? どうしたいもなにも、こっちのセリフだろおおお!」


 彼女はイルカで彼はゴリラ。錆びたスプリングで揺れながら、手入れ不足のくたびれた表情をした動物の遊具に、隣り合い、跨っている。


 こんなファンシーな乗り物に跨りながら、そんな哲学じみたよく分からない事を彼女に問われても、彼は今はその声を張りツッコむのが精一杯だ。


 今何がしたいのか。この作り物のゴリラに跨ることで一体人間は何を得るのか。高校生になってしまった金閣寺歩には、わからない。


 静かに投げかけられた意味深な問いかけも、状況と場所しだいで、やがて馬鹿らしい二人の間の笑いに変わった。


「じゃあ次、あっちの雲梯で勝負。ゴリラカクジにはほぼ勝てないから! さっさと降りてよ、ちょっと、あはは! ちょっと待って、ふふっ、ダメっそれおなか痛いふふふふサイズ感ふふふふ」


「なんでゴリラが勝ったかは分からないが、──いつまでも笑ってんじゃねぇよ。で、今度はなんだ、雲梯か? お前やっちまったな? それ、俺の得意種目」


「ふふふ──え? カクジに得意とかあったの?」


「俺のことなんだと思ってんだよ。……あぁー、あったんだよ俺にも」


「へぇー、たのしみ。たのしい?」


「そりゃたのしい、勝ったらな」


 一人でこどもっぽいことはできない。一人ならこの公園の雲梯などもう彼は触りもしなかっただろう。金閣寺は仕方なしに湊との勝負あそびに、今日はもう少し付き合うことにした。


(そういや中川ともガキの頃こうやってこの辺りの公園に来ては、意味の分からない勝ち負けつけてたっけ。……なつかしいな。アレ? ところでなんでコイツが同じようなこと──ヲ?)


 今となってはそのサイズも小さく感じたゴリラの遊具から飛び降りる。


 しばらく先をゆく彼女の背を追っては、金閣寺はふと思い出した昔のことを懐かしみ立ち止まった。


 そんなぼーっとしていた彼の目に、ふいに、野球帽子が横切った。


 木の葉のように、ユラユラと、その黄色い帽子は不規則な軌道を宙に描きながらオちた。


 強い浜風が、吹いた。まるで二人を分つような風が、それまであった穏やかさを忘れたかのように、突然に。


 金閣寺は、視界に飛んでは消えた彼女の帽子を探し追いかける。そして、おもむろに見つけたそれを拾い上げた。


 やはり何度被っても彼女の頭にはサイズが合わないその帽子を、一応、彼女にまた届けようと彼は振り向いた。



 雲梯の方へと元気に誘い走っていたはずの彼女の背が、


 さっきまで手招く手を急かすように振っていたその姿が、


 何もないオレンジの砂地、その乾きありふれた道の途中に、音もなく静かに横たわっていた────











 金閣寺の視界には砂地に倒れた湊天がいる。さっき吹いた強い風に転んだのか。転んだまま彼女は起き上がらない────。


「おおい……おいっ! おい湊!」


 彼の呼びかける声に、彼女は応えない。不意に訪れた視界先に映り有る事態を飲み込めず、探るように放った彼の声は、しだいにその焦燥感を増し、トーンアップしていった。


 依然声をかけながら横たわる体を手で揺するも、彼女は死んだように応えない。だが、彼女がうつ伏せの状態で、苦しそうな息遣いを漏らしたのを金閣寺は確認することができた。


 呼吸音が荒い──今は返事をすることもきっと辛いのだろう。


 金閣寺は、自ら仰向けになることもできず砂の上で力尽きたように動けなくなっていた彼女を、とりあえず公園にあるベンチの元まで抱えて運び、その上に寝かせることにした。





 手で触った湊のおでこには熱が籠り、吐く呼吸音は依然として荒くつづき、喋ることすらままならぬまま。


 ベンチに寝かせて確認したどう見ても優れない彼女の汗ばむ顔色に、金閣寺は焦った。


 しかし、友がぐったりと苦しそうにしている中、何もしないわけにはいかない。


 ここにただ突っ立って見ていても、苦しむ彼女を癒すためのアイテムも術も彼にはない。


 焦燥しながらも湊の容態を一通り確認した金閣寺は決断した。


「! 待ってろ、なんか氷とかアイスとか薬とかあるだけ買ってくるから! すぐ戻──」


 少し離れてはいるが、浜沿いの道路からずっと道を上がって行けばスーパーがある。


 金閣寺が公園の端に停めていた自分の自転車の元へ、向かおうとしたその時────


 ベンチ近くから去ろうとした彼の手は、掴まれた。


 金閣寺が今弱々しく引っ張られた方へと振り向くと、苦しそうな表情で見つめる彼女がいた。


「っ──!」


 ベンチに寝そべる彼女は何も言わない、言えない。だが、彼はその掴んだ彼女の手を、振り払うことはできなかった。





 依然として湊のことを苦しめているその原因は分からない。しかし、どうやら彼女は胸の辺りをずっと苦しそうな仕草をしていた。


 こんな緊急事態で彼女の言葉をただただ待つような鈍い許可を得ている場合ではない。


 金閣寺は、湊の履いたズボンの内側にまで潜り込んでいた衣を捲りあげていく。ベロを出しおどけたその緑のキャラシャツの裏には────


「なんだ……これ……」


 それを見た瞬間、金閣寺は息を呑んだ。


 汗に濡れたシャツの裏は、嘘かと思うほど、胸元の肌の一部分がひどく膿んでいた。爪で引っ掻いたような赤い痕もいくつも見受けられた。


 そして同時に彼は気づいた。自分がどうしようもない間抜けであったことに。


 思い返せばこうにまでなるまでに、与えられていたヒントやサインは幾つもあった。自分は今までその全てに気づかずにいたのか。彼女に何度もほくろの事などとぼかし、相談をされていたにも関わらず。それなのに何に感化されたのか気にしないフリをして、本当に気づかず。



 すべてを無視しつづけてきた結果、湊天は今、自分の目の前でたおれ苦しんでいる────。



 金閣寺歩は、苦しむ彼女の痛々しいその胸の傷を見つめたまま、黙った。


 やがて、浅はかな己があやつるその愚か者の拳を、ぎゅっと硬く、爪が手のひらの肉に突き刺さるほどに、握りしめていた。










 怒りや無力感、湧き上がるそんな何もかもを今ぎゅっと握りしめていても、時にその拳をとき冷静にならなければならない。


 握っていた拳は立ち止まっていては何の意味も持たない、役に立たない。爪痕のついた手を開き、金閣寺は今立つ場所から公園の辺りを必死に首を振りながら探した。



 アレを。不可解な現象はアレにちがいない。


 一番近いスーパーで彼女を癒すためのアイテムを買うか、今すぐにでも救急車を呼ぶか。


 常識的なそれらよりも、意図せぬ怪奇体験を積んできた彼には直ぐに分かった。ずっと放置し見落としていた、いや気づかないフリをしていたものが、まだ近くにあることを。


 海の公園の象徴たる木造の古い海賊船遊具の上に、悠然と浮かんでいた、その黒い風船を、彼はその必死の眼に映る視界に見つけた。


 あの黒い風船が湊天を苦しめる元凶、怨念だとでもいうのか。もしそうであれば自分は今まで気づいていたはずなのに、「気にしない」「気にしすぎない」などという魔法がかった安堵の言葉で、自分自身の意識に嘘をついていたのか。


 だとすれば──金閣寺は浮かぶ邪念やめぐる無駄な思考を振り払うように、己の首を横に素早く振った。


 もはや、こうにまで陥った危機たる状況に追い詰められた彼の取れる手段は一つであった。まっしぐらに、浮かぶ黒い目標を目指し、赤い砂地を散らしスニーカーは走り始めた。


 スニーカーは足をかけアスレチックネットを登る。足の先につっかかり絡まる糸が鬱陶しい。彼は先へ先へと格子状のロープを手で掴み登っていった。


 しかし、ロープを登った先のそこの甲板にあったはずの風船が、息を切らす彼の目には見当たらない。


 金閣寺はまた首を振りながら必死で見失った風船を探した。そして、見上げると──


 ふらふらと宙を漂う風船は、木の骨組みと網だけでスカスカの海賊船の帆柱の上近くに、やがて停まった。


 漂う風船の動向がまるで嘲笑っているかのように見えた。赤空に浮かぶ黒い一点が、高い高いここまで登って来れるか、あたかも人をおちょくり、試しているようにも見えた。


 空を見上げた金閣寺歩は拳をまた握りしめ、開いた。乱れていた息を一瞬、整える。そして、また握りしめ、一本の太いロープを握っていた。


 甲板に接していた彼の両足は浮き上がり、帆柱に足底をつけ踏ん張る。


 天から下った蜘蛛の糸のように垂らされたロープを手繰り寄せる彼の目を、赤い陽光が眩しく遮り邪魔をする。横から突然に吹く風が彼の身を揺らし邪魔をする。


 しかし、そんな自然の意地悪しもたらす不自然にも思える困難にも、一時も手を足を休めず、彼は上へ上へと登り続けた。


 やっとのことでたどり着いたマストの上の見張り台へと、疲れた両足をつける。しかし小休憩している訳にはいかない。息を切らした呼吸のまま、また登るのに必死で見失っていたあの風船を金閣寺は探した。


 雲のたなびく赤い空の視界をぐるりと回った末に、彼の背の後ろにその黒い風船は、いた。


 またふらふらとその風船は彼の元からゆっくり、ゆっくりと離れようとする。


 焦る金閣寺歩は、小さな足置き場の見張り台から、またも遠のこうとする黒いオブジェクトに、目一杯に手を伸ばした。


 手を伸ばした先のその黒い風船は、今度は気まぐれにも近寄ってきたのか。いや、それは以前彼が確かめようとリビングで手を伸ばした時と同じ、威嚇するように大きく大きく、人間の手がその黒い曲面に近づくにつれて膨らみ始めていただけだ。


 このままもっとその左手を近づければ、目の前の怪奇孕む風船は破裂するかもしれない。破裂した時には、ひょっとすると自分の全身が、彼女の身さえ塵のようになり砕けてしまうのかもしれない。


 だが、たとえそうなったとしても。この手を伸ばした先に最悪の結末を迎えたとしても。もしかすると彼女の、湊天の苦しみの一部を肩代わりできるのかもしれない。


 見張り台の端っこにスニーカーが歪む爪先で立つ、今にも落下しそうなそのあやふやな姿勢に、結末へのタイムリミットが迫るように心臓の鼓動が速まる。


 落下しそう、破裂しそう、今にも死にそうな緊張感の中、それでも彼の指先は、赤空を覆う視界先の漆黒の光景へと吸い寄せられてゆく。


 金閣寺歩は、その左手を必死に黒い風船へと伸ばした────。







第17話 fall down


 黒い風船に手を伸ばした──それは彼の見せたやさしさか甘さか、選んだ勇気か無謀か、左の指先がズキズキと警鐘を鳴らす死と隣り合わせにある好奇心か。それとも、彼が人とはちがう恐怖を知り、人とはちがう恐怖を知らぬがゆえの過ちか。


 円形の木床、その見張り台から彼の両足が浮き上がる。苦しむ人影が浮かんでいる。その影が湊天の苦しみを肩代わりできた結末というのなら、それは大きな間違いだった。


「ぅがッ──!?」


 彼が手が伸ばすように、風船は千切れていた紐を伸ばした。その細い透明の紐が、彼の首元に素速く蛇のように巻き付いた。


 風船を掴もうと伸ばしていた彼の手は、今両手とも突然彼の首を絞めあげた紐を必死で剥がそうとしている。


 どれだけ彼が必死に下へ下へと体重をかけても、それ以上の力で吊り上げられていく。何度も地に着いたり、離れたり、を繰り返していたスニーカーの爪先が、ついに、完全に離れた。


 二足の足をあちこちに打ち付け騒いでいた見張り台の木床は、弱々しく、微かに軋む音を立てた──。


 最後に立てたその微かな足音を置き去りに、浮かび上がっていく──。


 まるで気球のように大きく膨らんだ黒い風船が、人の形をした重しを、上へ上へと、悠然とはこび浮かび上がっていく。


 彼の首に絡みついた紐は、とけない。何周何重にも巻き付いて、喉仏が壊れるほどにきつく押さえつけ縛る。彼のする息さえ封じ、詰まる苦しみの音色を呻めかせ夕空に奏でさせる。


 巨大風船にくくられた人の身は、どんどんと上昇していく。ありえない力でもってかれる。海賊船遊具の帆の網に彼は掴まるも、その網に絡ませた指先は引き剥がされ、スニーカーの底では浮かぶ己の身をそこに繋ぎ止められず。また、上へ上へと際限のない風船のチカラで引っ張られてしまう。


 眼下、砂地にたたずむ木造の海賊船が彼の視界にみるみると小さくなっていく。紐に絡められた首がなおも絞まる。頭がぼやける視界が霞む。肝を冷やす恐怖、浮遊感が彼を吊り下げ、同時に首元は圧迫感を増しきつい苦しみを増幅させる。


 まるで怨念めいている。ただの風船ではない意思を持つナニかに首を絞められている。


 金閣寺歩が必死に登り着いた海賊船の見張り台から、目一杯、手を伸ばした先に待ち受けていた結末は──。


 今、両手で振り解こうとするも複雑に絡まり解けない。そんな彼の息を酷く詰まらせるモノ。ミエナイ透明の紐の首輪に繋がれた、奇怪な死へと誘うムゲンの浮遊感だった。


 黒い風船に弄ばれ、希望ではなく虚空を掴んだ彼の手は、死へと至らしめる首元の輪を、剥がそうとなおも必死にもがいている。着く地のない足をバタつかせる滑稽なダンスを披露する人間に対して、悠々とまるで笑いを堪えるように膨らみ浮かぶ黒い風船がある。


 たった一つの意地悪な黒い風船は、紐にくくりつけ吊り下げた、その優しくも哀れな男の呻めき声を聞きながら、怨念を増し膨らんだ。


 怨念を増し引っ張った。


 怨念を増し膨らみ微笑んだ。


 怨念を増し吊り下げて、涎を垂らし微笑ませた。


 夕空にたなびく雲はもうそう遠くないゴールテープにみえる。


 脱ぎかけたスニーカーの足音が、ぽつりぽつりと、一足、二足、さようならのリズムをオチて打つ。


 意地悪な黒い風船は紅く頬を染めてゆく。天獄てんごくを目指して、ぷかぷかと上昇し漂いつづけていく────。










 息もできない。汚くてみっともない涎が口端からしたたり、滑稽に上向く顎の先まで伝う。


 苦しい、苦しい。ただ苦しい。


 どうしてこんな目にあわなければならないのか。



 心の奥に次々と芽生えように、悪しき怨念は募る。絞めれば絞め上げるほど、絞まれば絞まるほど、心にへばりついていた澱んだ感情が呻めき声とともに絞り上げられていく。


 まるで吊り下げられた善人の化けの皮が剥がされてゆくようだ。ほら、自由を失い首にミエナイ輪をつけられた彼の見せずにいた本性がいま、醜く形相を変え笑っているだろう。


 黒い風船が際限なく膨らんでいるのがその証拠だ。所詮彼の選び取った行動とは、本心から願うものではなく、その程度の軽はずみなもの。だが、それが至って普通の人間なのだ。一時の衝動に支配された感情とはこうも脆くある。


 釣り下げられたえさに飛びついては、後先を考えない。そんな偽善を好み生業とする人間が、ふと、己の身を逆に吊り下げられてしまった時、おもしろい反応を見ることができる。


 彼が助けたいと願い、手を差し伸べていたはずの弱き他者へと、簡単にそれとは違う正反対の感情を抱いてしまうのだ。


 何かの拍子に自分が弱者の立場になった時、それも自分の番になり誰も助けてくれなかった時、弱者へとかけた一匙の彼のやさしさが、強力な恨みへと転じてしまう。


 黒い風船はそんな予定調和の人間の習性に、満足気な笑みを浮かべ、膨らんでいる。


 ぷかぷかと浮かぶ風船に吊り上げられた人間も、やっと本当の自分を見つけることができたことだろう。


 吊り上げられたやさしさは恨みへと変わる。吊り上げられたその面は醜く変貌する。


 必死に必死にもがき、やがて何もかも諦めて、怨みを募らせる。


 息詰まる苦しみすらも通り越して、ムゲンの浮遊感に表情が気持ちよく緩む。目尻がとろんとさがってゆく。


 ほら、彼も天へ早くのぼりつきたいようだ。首に巻き付いた透明の紐をもう外そうとはしない。紐を手繰り寄せて、その掴んだ手が上へ上へと、ゆっくりと向かっている。


 だが、そんなに慌てることはない。吊り下げられたその醜い肉体を放棄し、彼の中に眠るもう一つの偉大な魂が、黒い風船に吊り下げられて深き眠りから目を覚ますのだ。


 それでも、彼、金閣寺歩はもう待つことができない。虚ろな目で黒い塊を見据えながら、天から滴る透明の紐を手繰り寄せていく。


 ただただ彼は、上を目指した。もうその身を地を振り返らない、足枷のような靴なんか要らない脱ぎ捨てた。たとえ濡れた靴下の足底が地に着かなくて不安でも、空の階段を一歩一歩、一手一手、伝いのぼっていくことを選んだ。


 そう、一刻も早く、



〝悠然と浮かぶヤツの臍の穴に、この指先を突き刺さなければ気が済まない〟



 黒い風船の目的が無知で無謀な人の怨恨、怨念を膨らませていくことでも。


 彼の奥底に根付き眠るものは、そんなぽっと出の負の感情だけでは塗り替えることはできない。


 善や偽善を自覚はしない、それは彼が覚悟するものだ。


 遠のく地を振り返らない。空へ手を伸ばしつづける。上へ上へと、どれだけ息が苦しくても、まだ弱々しくも生々しいその呼吸は死んではいない。


 金閣寺は絆創膏を剥がしたその左指を、目一杯伸ばし、目の前視界に映る黒い壁の中心、そのシワついた巨大風船の臍のナカへと、突き刺した。


 彼が怨みのベクトルを向けるとするならば、友人の湊天でも間抜けな己でもない、自分と彼女を苦しめるぶくぶくと黒く肥えたその怪異、その怨念、ただ一つ。









黒い風船は膨らんだ


出臍をちょんとつつかれて


荒ぶる風を注がれて


燕のように宙返り、踊り狂って、喜んだ


腹が捻れる、それほどに、今日一番のこそばゆい風に流されて


ぷくぷくぷくぷく膨らんだ、


ぶくぶくぶくぶく膨らんだ、


とても愉快でとても怨嗟ゆかいで、くすくすくす息を吹き出しながら、ソラ高く────









 踊り狂っていた風船は、黒い表面にはしった亀裂から忙しく息をする。


 肥えきっていたその身を萎ませながら、やがて急降下し、無力に宙に浮かぶ人間の目の前で、必死におどけ〝破裂〟した。



 狂気の舞とスピードで降下し、近くで破裂した風船の音が耳をつんざく。


 心臓をまるでシンバルに挟み打たれたように、金閣寺は全身で驚いた。


 透明の紐輪は既に千切れていた。彼を宙に繋ぎ止めるモノは消え、彼は自由を得た。


 だがそれは、とても苦しい自由だ。身の一つ、指の一本も動かせないほどの。


 再び浮き上がる術は彼にはなく、流れる風の音もイカれた両耳には何も聞こえない。臍を小突いたあの左の指先に至っては、完全にいけない方向に捻れている気がする。


 これが、迂闊にも怪異に手を伸ばした末の結末だと言うのならば、あながち彼にとって悪くはない。あの黒い風船との化かし合いに勝ったというのならば、彼がやってきたことが、道化でも偽善でも必死でもなんでも、一つ報われたものだ。


 ただ一つ気がかりなのが、彼女の胸の膿んだあの苦しみを取り払えたかどうか。しかし、それは望みすぎだ。そのエピローグを見ること知ることは許されない、そんな気がした。


(0.3048……これって……高度……ナンふぃーと……)


 そんな冗談じみた算段をさいごのさいごまで呟きながら、地を背に、穴あきの雲を表に、赤い空を降りてゆく。


 背に当たる風がずっと冷たい。背中を押してくれているのは気のせいか。


(もう……どうにでも……)


 後ろに目をやる気力も体力ももうない。


 彼はくたびれきったその壊れかけの身を天と地に捧げるように、ただただ風に身を任せ、ソラをオチてゆく。


 心地よく激しい風に打たれて、赤い光が眠気を誘う重い瞼のおりゆくままに、目を静かに閉じようとした、その時────


「──うがっ!?」


 ナニかに腰を打った。痛い。


「──ゥっ……ッ……」


 ナニかに足が絡まった。動けない。




 気づけばそこは、海賊船の上。砂地に沈むように佇むマストの折れた壊れかけの海賊船の上。


 きっと思ったよりも浅いところで死のうと勘違いしていた。海賊船のマスト下に敷かれた安全ネットに、間抜けに足から絡まり捕まった男の姿がある。


 死にそうな速い呼吸の音と、船の軋む音だけが、男の耳に正常に伝った。


 リアルともファンタジーとも、名付けれはしない、そんなあやふやな場所で金閣寺歩は、身一つ動かさずにいた。


 仰向けに寝転がる彼に紙吹雪が舞う。赤空に鳥が飛んでいると、勘違いしていたようだ。いつかの降るコインのときのような祝福か、悪戯か。ひょっとするとバルーンに仕込まれていたモノかもしれない。


 どちらにせよ、もうどうにも動けない。金閣寺歩はただただ、浅く沈むネットの上で、大の字になったその身に紙吹雪を浴びつづけた。


 何が起ころうと好きにすればいい。幸運か不幸か助かったこの身も、もうほとんど動けやしないのだから。


 上空からパラパラとおちてきた謎の紙吹雪が鼻先や頬にひっついた、鬱陶しい。


 少し手を動かす、それぐらいはできる。金閣寺は顔についたこそばゆい感覚を、拭っていく。


 顔にとまっていた痒みはとれた。しかし、なにか、どこか、まだ痒い。彼はおもむろに、己の右手を覗いた。手汗にぴたりと張り付いたその小さな紙切れには、







気⬛︎り⬛︎女


殺⬛︎


ク⬛︎ルぶ⬛︎て


⬛︎軽


ビ⬛︎⬛︎⬛︎不⬛︎⬛︎⬛︎ゃ⬛︎


嘘⬛︎⬛︎


ビッ⬛︎


⬛︎わってる


⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎に⬛︎んな


下⬛︎よぶな⬛︎ケ


死⬛︎


天⬛︎へ逝っ⬛︎ゃ⬛︎







 それを見た瞬間なにがなんだか理解できなかった。途切れ途切れちりぢりに、言葉に満たないひん曲がった文字を並べ、その手に集う感覚が虫に集られるようでとても不快だった。


 震える手のひらの乗せた小さな白い断片が、やがて綿雪のように溶けて朽ちてゆく。



 整いかけていた呼吸が荒くなる、思考が纏まらない。落ちてきた紙吹雪は喝采などではなかった。最後に浴びたとても不快でとても解けない感覚に、頭の中が酔うように纏まらない。


 これ以上何かを考える気力も保たない。


 縮こまり硬くなっていた両肩を真横に開き、手のひらを開く。


 今日という厄日はもう、一度セーブして、何もかもを忘れたい。仰向けにチカラなく寝転ぶ場所を、寝床のハンモックがわりにしながら、


 

 金閣寺歩は、もう、その両目を閉じ、力尽きた────。







第18話 星明かりの下のエピローグ


 沈みゆく意識にとても仄かな光がさす。今日という多忙で死にそうだった一日を一旦諦めて、マストの下のハンモックで寝ていたその身は、何故か今とても柔らかな感覚の上にいた。


 ぼやける視界に、暗い面が見える。寝転ぶ彼の頭はどうやらその人の膝の上にあるらしい。


 そんなお目覚めの体験サービスを前にも一度味わったことがある。彼はつい、当てずっぽうでその人の名前を呟いていた。


「──────藤乃……?」


「ぶっぶー」


 違ったようだ。間違った罰ゲームか、鼻先をちょんと小突かれた。


 鼻を小突かれて溜まっていた眠気が半分ほど吹き飛んだ。金閣寺は、おもむろに寝ぼけ眼をこすり、曇っていた視界を鮮明にした。


 天に聳えていたその暗く見えずにいた面は、とても白くて明るい表情をしていた。


 夜空の色に溶け込む彼女の黒い髪がわずかに靡いた。あの湊天が、金閣寺歩のお目覚めを、見守るように微笑んでいた。







 いつの間にか夕空は、単調でない黒に模様替えされていた。


 隣同士、並び寝た二人は、ちいさな甲板から広大な夜空を見上げる。


「ねぇねぇ」


「ん?」


「カクジってさ、なにもの?」


「なんだそれ? 同じようなことまた聞きやがって……なにものか、か……」


「わるいヤツじゃあないってかんじ?」


「はは……よくもわるくもな」



 善か悪かなにものか。どこかで聞いたそんな彼女の問いかけに、彼は笑いはぐらかした。


 独特でしずかな二人のに、冷たい夜風が爽やかに吹き、二人の頬をそれぞれに撫でてゆく。



「なんかさ。ひょっとして魔王を倒したらさ、あのゲームの世界、あの勇者もこんなかんじなのかな?」


「あぁー……そうだな? あの勇者も、こうやって凪いだ船の上で呑気に寝転んでるのかもな。────あぁでも、誰が言ったか知らないが、エピローグは短めにって言うだろ?」


「うん。でも。エピローグ、長いのも、ありじゃない? 誰が言ったか知らないから、ふふっ」


「あぁー……。今日ぐらいは、そうだな。誰が言ったか知らないから、はは」



 とまった揺れない船の上で望むエピローグは、もう少し長くてもいい。こうして流れつづける穏やかな時間はそう急ぐものでもないのだから。ここでは誰に急かされることも脅かされることもない、だから今はのんびりと、この秘密の場所で寝転がる。それがただただ気持ちいい。そんな感想、感情を二人はずっと夜空を眺め共有してしまっていた。



「ねぇねぇ」


「ん?」


「なんか、かき氷、たべたい」


「あぁー。俺は、ちょっとラーメン」


「じゃあさ、なんかちょっと、ラーメンとかき氷」


「あぁー、いいな、それ──」



 予備の絆創膏をはりつけたその手をおもむろに伸ばして、浮かぶ星々をたくさん掴んだ。


 彼がとまっていた星たちをひとつかみすると、冴えた夜空にあらたな星がナナメに一筋流れた。


 一瞬走った幻のようにも見えたソレを彼女が指を差し、彼もおくれて指を差した。


 浜の波音が遠く、耳に近く、聞こえる。もうしばらくこのままでいいと思ったのは、顔を見合わせて笑い合った二人とも。


 頼りない灯りがまばらに照らす海の公園は夜。甲板にはりつき見上げる夜空星々の絨毯がこんなにも輝いて見えたのは、初めてのことだった。


 沈みそうで沈まないその秘密の場所の乗客は二名、つぎの行先をのんびりと空かせた腹で決めながら。


 また一つ、流れた星の雫に、今度は二人同時に指を差す。


 今日という一日を、彼はほんの少しの嘘のスパイスを込め、彼女は溢れる興味と気の利いたユーモアを込めて、隣同士、問いかけあうように振り返ってゆく。


 転んで、追いかけて、掴んで、空に浮かび上がってまた落ちて、また寝転んで、目覚めて────そして今こうして────


 浜の近く、夜の更けていく海の公園、星明かりの下のちいさな甲板上。


 そこにあったのは、とても穏やかで清々しい、それでいて指を差し笑いあえるような、そんな二人だけが知ることの許される──ちょっぴり長めの、かぎりない結末だった。











 人の空いた電車に乗り、午後10時過ぎ夜更けに向かう、穏林市のおとなり赤幕市で──


 氷のたくさんある場所、氷を削るのが上手い場所、あの手この手でお客様を楽しませてくれる場所、といえば金閣寺歩には連想し思い浮かんだある場所がある。


 学生たちは身分を隠し、彼の自宅にあった同じ野球チームの帽子を被った。今夜は二人でその白骨の取手を引き、入店をしらせる風流な鈴を鳴らし、BARの中へとお邪魔した。



『おい、お前ぶち殺すぞ』


 赤毛のバーテンダーは、カウンターごしに前のめりに詰め寄り、学習しない野球帽の男の至近で物騒な言葉をささやいた。


「かき氷、まだ?」


 隣の席に座っていた湊が、カウンター席に肘を着きながらつぶやく。


「はい、ただいま! がしゃらばとくせい唐傘ストロベリーミルクかき氷♡鋭意制作中でございますので、そのまま黙ってお掛けしながらお待ちくださぁーい♡」


 赤毛のバーテンダーはお客様につくった笑みを向けながら、繰り返し突き刺すアイスピックで氷を削り出す。まだ新入りで作ったことのない裏メニューの設計図紙を何度も確認しながら、カクテルシロップを混ぜ合わせる、忙しくも鋭意製作中のようだ。


『おい、てめぇ、ここがどこだか知ってるかガキ野朗? 来るたび来るたびコーヒーだとかかき氷だとかこのバーテンダー様に作らせるたぁ、てめぇは何様だぁ? どこぞのしょぼい国の王様気分かぁ?』


 アイスピックで氷を削りながら、お客様をガンつける赤毛のバーテンダーに、再び詰め寄られた金閣寺は苦笑いを浮かべる。


「余所見してないでさっさとつくれ、できなきゃクビにするぞごん


「ひゃっ!? はい、ただいま!!(イノチびろいしたな、おまえ……ちっ)」


 傍目に仕事ぶりを覗いていたBARのマスター巻に叱られた見習いバーテンダーの権は、背筋を正しテキパキ働き始めた。


 カウンター席に座る客の金閣寺は、最後にまた物騒な冗談を小声で囁かれたが、やっと遠のいた赤毛の顰めっ面にまた苦笑いの表情で応えた。





 見習いバーテンダーが手こずりつくる裏メニューのかき氷の完成を、手拍子、応援し見届ける湊。


 そんな赤毛と黒毛の彼女らとは少し離れた席で、妖しげな白髪と、訳ありの帽子を被った茶髪、そんな男同士の目が合った。


「君が友達を連れてくるとはな? はて、氷の専門家に何かようかい?」


 すっとぼけたお言葉から入った巻マスターは、常連客の金閣寺に微笑いかけた。




 茶髪の学生は、今日なにもお忍びでBARの裏メニュー、その風変わりなかき氷を食べにきただけではない。


「────なるほど風船が破裂か。それでまた次の風船が、風来坊のようにその友達の元にふらふらやってこないかどうか、か?」


 とある友達から仕入れたとある怪奇体験を、またこの店がしゃらばに持ち込み、金閣寺は着物姿のマスターへと話していく。


 グラスに夏の青を注ぎながら、目の前の席に座るお客の話を興味深そうに聞いたマスターは、


「ふっ。それはないな」


 客である金閣寺の問うたその心配の種を、きっぱりと否定し笑った。


「ない? ……なんで、きっぱり?」


「その風船に吹き込み、その風船を膨らませるのは人だ。ぶくぶく膨らんだそれが怨念であれ祝福であれなんであれ、一度〝ぱんっ〟と盛大に破裂したともなれば、もう二度と再び浮かぶ気力を持つことはないだろう。精一杯膨らませたオモイがターゲットに届かずにやぶれたならば、オモったやつも相・当・しんどい。一途な恋にやぶれた乙女が袖を濡らしてすすり泣くように、そう、しんどいのだよ。まぁ、泣きじゃくりながら次の風船をせっせと膨らませている奴もいるかもしれないがな、ははは」


「……」


「またなにか引っ掛かるようだな」


「いや、なんか……そんなに一人の人を想ったり恨むことってあるのかなって。その手が穢れてもいない、その手が何かを殺してもない、恨まれるようじゃない普通に生きているヤツを」


「表面化しないだけで、世の中にはたくさんあるよ。水面下に潜む不満や恨み、妬みや嫉み、そんな澱んだ感情が膨らみきる前になにかしらの気の利いた対処をする。怪異とは特に弱った人の心の闇や隙間につけ込むものだからな。夜更けと共にある俺たちバーテンダーの仕事も、こうして世間様の喉元を潤しながら、飲み干させ、その一役を買っているともいえる」


 マスターの作った季節のカクテルのサービスがそっと、金閣寺の目の前に置かれた。どこか夏の雰囲気のする甘くて青いソーダ色の水面が、静かに、逆三角のグラスの中で揺れている。


 カウンターにしゃがみ沈み、またいつぞやのアルバイト募集の紙切れを、黙して客の男に見せつける白髪のマスターがいる。


 金閣寺はいつものぎこちない笑みを作り、マスターの誘いをはぐらかす。


 置かれたカクテルグラスを手に取り、いつものようにそれが学生である自分にとって安全かどうか、先ずは、匂いを嗅ごうとしたその時──


 ポッケにとつぜん響いたバイブレーションに動かされ、スマホを取り出した金閣寺は、通信連絡アプリのPINEを開いた。


 しばらく画面を訝しむよう睨めっこした金閣寺は、財布から取り出した5000円の代金をカウンターテーブルの上に一枚、そっと置いた。


 煌びやかに澄んだその目の前の夏のカクテルには手をつけず、客は突然、興味が別の何かに移ったかのように席を立った。


 逆三角形に切り取られた綺麗な水面を泳ぐ三粒のチェリーが、今、乱れ渦巻いた青の中、ゆっくりと、一つ、沈んでいった────。










 よろよろと夜の路地を歩き、待ち合わせの場所に向かう。上着の前ポッケから取り出したスマホ画面の明かりが、虚ろな彼女の目とその青白い面を照らしている。


 そんな夜道を漂いつづけるグレーのフード姿の女の前に、臙脂色の制服を着た黒い長髪の者が、対面の道の暗がりから忽然と姿をなし現れた。


「なにか、用────」


「なに……? なんでふじのっちが、ここに……? ……うーうん、用なんてないから、じゃあね」


「ダメ」


「は──?」


 その場をそそくさと去ろうとしたグレーフードの者に、藤乃春はそう言った。


 その冷たい一言と、冷たくとまった紫の眼差しが、フードに翳る女の表情を歪ませた。


「なんなの! なんでふじのっちがいきなり邪魔するの! 金閣寺くんをまさかッ好きなの!」


「彼のこと? そうね、彼は特別、何度も剥がしてくれるから。あなたよりは──好きよ」


 平然と返された藤乃の意味深な言葉が、やさぐれた目をしたフード被りの女の、その怒りの感情に火をつけた。


「なっ!? ……あぁーあ、どいつもこいつもそうなんだ……私のまわりはビッ⬛︎の⬛︎ばかり集まってくる! いつもすました賢しそうな顔してたのに藤乃っちもそうなんだ! 結局! 気持ち悪い!」


 突然項垂れたフード姿は、呆れたように深い息を吐きながらぶつぶつと地に向かい何かを呟く。そして、またその面を上げて、血色の悪い肌に皺を刻みながら、怒り叫んでいた。


「どいて!」


 上がっていたフードを下げ、その女は咄嗟に片手で覆った自分の顔を深く隠した。強い言葉を吐き捨てた後に、突っ立ち微動だにしない藤乃春の横を、彼女は早歩きで通り過ぎようとした。


 その時、急にあらわれた黒い壁と、急に吹いた風が通り過ぎようとしたその女の進路を遮った。


 藤乃の持っていた傘が急に開き邪魔をしたのだ。藤乃の横を抜けようとしたグレーフードの女は、驚き歩いていた方向の逆側に倒れてしまった。


「彼はきっと友人としてあなたを助けるわ。でも、今のあなたのような醜いモノを助けない」


 開いていた黒い番傘を閉じる。藤乃はその閉じた傘の先端を、今アスファルトに倒れた人間の面へと突きつけていた。


 またも冷たいその紫の眼に見下されたグレーフードの女は、たじろぎながらもすぐさま突き付けられた理不尽に対し、反論をした。


「どうして!! わたしが醜いっていうの! わたしのまわりはもっと醜いヤツらばっかなのに!」


「さぁ、あなたのことなんて知らないもの」


 語気を荒げて反発するグレーフードの女をまたも藤乃は冷たく突き放す。まるで人ではないモノを見るように、宵闇に妖しく光る紫眼が、道端に倒れて鳴くソレを見下し続けている。


 被っていたフードが脱げていた。片手で左の頬を慌て隠すように抑えながら、倒れていた女はよろよろと立ち上がった。


「……!! 何も知らないくせに……何が分かるって言うの!! ママは知らない男を毎晩家に連れてきて! たまの外食も気持ち悪くて! こもってがんばってやってたザッキーちゃんねるの配信も、そんなのみっともないからって取り上げられた! 自分がまともじゃないクセに、まともぶってるような親のふりした腐ったヤツ! でもそんな腐った腐った最悪なヤツ、ママだけじゃない! ⬛︎天、アイツだ! あのビ⬛︎⬛︎がわたしの⬛︎⬛︎⬛︎んに! わらいながらとなりで手を振って! あの⬛︎ソ女が、平気な顔で裏ではこそこそママみたいに⬛︎らわしいことばかりするから! わたしの場所をどんどん奪ってゆくのッあの⬛︎⬛︎きが! 悪びれもせずワラってぇ!! 下の名前で呼ぶなって何度も言ってるのに聞かないし! なんなのモヨ、もよりって! 意味のわからない大っ嫌いな名前! 何も考えてない! ⬛︎⬛︎だけで考えるから! 大嫌い大嫌い大嫌い大嫌いそんなの大嫌いッッだからッッ、ママもアイツもアイツらも……みんな⬛︎えちゃっていいの!!!」


 彼女は汚い言葉とあふれる思いを連ねて、束ねて、晒し、吐き捨てた。彼女の生きるセカイがいかに穢れてただれているかを、両手を感情のままに振り揺らしながら、吐き捨てるように説いた。


「何を言っているのかわからないわ、──あなた」


 しかし、傘を持ったその分からず屋は言う。平然な顔で、また冷たいその目で。顔を曝け出した女が何を必死に吐こうとも、何も響いてはいなかった。


「な……!? だかは、⬛︎⬛︎、あいふへ──」


 フードを下ろし感情的になった女は、もう一度、煮えたぎる思いを募らせて何かを言おうとしたが、言えない。


 言葉にしようとしてもできない。その名や、罵言を言おうとするとまるで舌が上手く回らなくなった。


「あなたもう、吊り下げられてるもの」


 奇妙な舌の感覚にいまさら気づいた女を尻目に、藤乃はおもむろに指をさした。女もつられて、指された上方を見上げてみると──


 天に浮かぶそれは夜の黒ではなかった。星の光が一切見えないほどの巨大に膨らんだ得体の知れないものだった。


 空一面に浮かんでいるのは黒、まっくろ。影を落とさずただグレーパーカーの女の頭上で見守っているのは、その丸みも一目では分からないほどに膨らんだ黒い風船であった。


「そんなもの、誰になすりつける気?」


 藤乃は最後に、天を仰ぎ顔面蒼白のまま固まった醜い彼女に問うた。いったい誰が、空を隠すほどに膨らみ切ったその黒い厄介を、預かるというのかを。


「ど、どうしてわたしだけ! わたしは助けてくれないの!! わたしだけこんなにもずっとずっと苦しいのに!! 誰もわかってくれない!! 我慢して我慢して我慢したわたしじゃなくて、なんで先に泣きついた■ナだけが! 助かってぇ!!」


 彼女は首を横に激しく振った、認めない。彼女は靴でアスファルトを幾度も踏んづけた、怒らずにはいられない。誰も彼も、己を助けてくれないスベテに。


「彼が許しても、ここまで積もった怨念が、あなたがその道を行くことを許さない。怒りは海に鎮めて、そのまま大人しく帰りなさい。その顔の傷は戒めにでもして、彼らの前から消えて生きることね」


 藤乃は、怒りや妬みを込めたそんな彼女の言葉に耳を貸しやしない。ただ感情の狂った目の前の女という生き物を諫め、諭した。その道の先を進むことはできない、そしてもう元に戻ることもできないのだと、冷たく突き放し明かした。


「ッ────どいて! どけっ!! ハァハァ!!」


 女は左の頬を撫でて、そのブツブツと膿んだ不快感の広がりに、絶望する。しかしそんな触れてしまった絶望感を、涙とともに込み上がる怒りが塗り替えた。女は藤乃に肩をぶつけ、十字路になっていたその道を曲がらず真っ直ぐに走り抜けた。


 スベテから逃げるようにひた走る、だが、まだ一縷の希望があると信じて疑わない。まだ彼女が足音を立てて突き進むその道の先には彼、彼ら、学校で会ういつものグループが待っている。ちゃんと話し明かせば、自分のことを認め、逆に、穢れた要らぬことばかりするミ■のことを排斥してくれるはずだと信じている。


 涙の粒を散らし走る。暗がりを走りながら膨らませていく妄想に、大きく頷き、やがて歪な笑みを浮かべた。


 滲んだ希望、浮かんだ妄想、なけなしの勝算を胸に、真っ直ぐに夜道を走っていたそのグレーパーカーの背は、突如────ものすごい勢いで宙に釣り上げられ、消えた。



「恨みつづけ恨まれつづける覚悟、彼女にはどちらもなかったようね」


 音もなく、声もなく、走る姿はそこになく。


 藤乃春は、後ろを駆け抜け途切れた足音に、振り返らない。しばらく歩いては十字路の中央に立ち止まり、左側の道にゆっくりと目をやった。


「あなたも、気をつけて帰りなさい。道を間違えないように」


 藤乃はわずかな物音のした左の物陰に向かい、そうつぶやいた。息を潜めた物陰は、何も言わない──。



 黒い傘を天へとおもむろに開き、音もなく破裂した今日の空は、見上げない。


 ユラユラと降り頻る白く穢れた紙吹雪の中を、黒い長髪をした一人の少女が、静かに傘をさしながら去っていった──────。








「アレ? なんだこの文……さっき見たのって、こんな文だったか? そりゃこんな夜中に……誰か来るわけもなく、いたずらか? てかなんでこんなところに、来ちまった? 俺──」


 差出人不明、意味の分からない空白の目立つ歯抜けの電子メッセージが彼の覗くスマホの画面に表示されていた。それでも空白部を思考しおぎない推測しながらやってきた待ち合わせの場所には、待てども待てども、謎の待ち人はついに来ず。


 独り、夜更け、突っ立つ──。人のほぼいない店灯りも消えたこの噴水広場には、誰も来ず。


 金閣寺はどこか釈然とせず、外吹く風に吹かれつづけ奥まで冷えた茶髪を、今おもむろに掻いた。


 髪を乱しといても、謎が解けることはなく──。水の音もない、風の音だけが寂しく彼の耳から耳へと通り抜けていった。


 そんな何かを漠然と待ち続けていたらしい彼のジーンズのポッケに、突然、バイブレーションの音が鳴った。もう一度彼は仕舞っていたスマホを取り出し、通知バナーに表示された差出人の名に目を見開き、黄色いパイナップル柄のアプリを開いた。



⬜︎PINEメッセージ


歯磨いた? 窓は閉めた? 鍵閉めた? 消しゴムは? 受験票は? 忘れものない? チョコレートたべる?


ミナトソラ


⬜︎



 一瞬、彼のスマホにまた怪文書が送られてきたように見えた。


「なんだこれ、やばっ……ってまじか……いや、この場合やらかしたのは──俺……だな? てかこれなんか……コイツ、地味にキレてねぇか。(なんで受験生の母親みたいなセリフ……)はぁ……よしっ!」


 湊からPINEのメッセージを受け取った金閣寺は、噴水のとまった夜の広場から停めていた自分の自転車の元へと急いだ。終電の時間を過ぎたであろう赤幕市へと、置いてきた忘れものを隣の市まで今から自転車をとばし迎えに向かうことにした。


 自転車のサドルに跨り、カラカラと音を立てて車輪がもぬけの広場を前へと進んでゆく。


 ふと、何かを思い出したのか車輪の音を止ませ、自転車は止まった。彼は、稼働しないライトアップもされていない暗い噴水の辺りをもう一度、振り返り眺めてみた。差出人不明のメッセージを見つめながら、ゆっくりと首を傾げ、画面の電源を落とした。


 止まっていた車輪は、軽々とペダルを踏みまた進んでゆく。駅沿いの風に吹かれながら、彼は次の待ち人の元へと、せっせと自転車をその足で走らせてゆく。



 グレーのビルの屋上から静かな街並みとまばらに点いた灯りを眺める。黒髪の少女は、また小さくかき乱れてゆくその風の行方を目で追いながら、やがて傘を開いた。


 雪のような白い斑点で化粧した黒の番傘と共に、暗く垂れ下がる夜のとばりの中へと消え入った。

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穏林高校 怪奇譚 山下敬雄 @takaomoheji

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