第3話:始原神社と“見えない手”
「始原神社……?」
夫がスマホを眺めながらそうつぶやいた。
それは、わたしたちが越してきてすぐ、なんとなく「金運と健康を祈願しよう」と思って訪れた神社だった。
鳥居は異様に低く、くぐるたびに首筋がザワッとした。境内には誰もいないのに、背後に気配を感じる。
なぜか、その神社に通い出してから、全てが壊れ始めた。
ある朝、施設の階段で、髪のベタついた少女が段差に座りこんでいた。
目は焦点を失い、どこか“向こう側”を見ていた。
「私物が……全部、取り上げられたの……」
彼女は、アニメのキャラクターが描かれた皿を見つめながら、かすれた声で言った。
彼女の部屋からは、夜な夜な金属のきしむ音が聞こえていた。
やがてその音はピタリと止まり、彼女の姿も消えた。
隣の部屋の女性が、深夜0時を過ぎてから発狂し始めた。
「ヤツラが!見てる!仕組んでる!!」
そう叫びながら、ドアを何度も叩く音。天井を殴る音。
「……またあの人ね」
管理人・村岡はため息交じりに対応しながらも、こう言い放った。
「ここはね、そういう人たちのための場所なんです。我慢できないなら、どうぞご自由に」
ある日、共同洗濯機の前で、わたしは見知らぬ男から声をかけられた。
「パンツ、外に干すと盗られちゃうよ」
彼の笑顔はねっとりとした油のようで、目はどこか、獣のように濁っていた。
「結婚してるんだ、子どもは?作らないの?」
その質問に、わたしは少し笑って言った。
「……ここで、どうやって子ども作るんですか?」
しばし沈黙が落ちた。男はふっと笑い、闇の中へ消えていった。
始原神社の裏手にある狐目坂を歩いたとき、夫が突然立ち止まった。
「……ここ、風が止まってる」
そのとき、はっきり聞こえたのだ。“誰かの囁き声”が。
「――帰れ。ここは、お前たちの場所じゃない」
振り返っても、誰もいない。
木々はざわめき、石段が冷たく鳴っていた。
この土地は、“禁足地”だったのだ。
八王子城跡、左入城跡、馬谷戸――死と戦の痕跡。
古い霊道が交差する地。戦国の死者、江戸の罪人、昭和の開発者、すべての“念”がうごめく沼。
そして、その磁場の中心にこの施設が建っていた。
村岡、菊田。
彼らはその“地場”に操られるようにして、人間を裁く役割を演じていたのかもしれない。
もしかすると、彼らすら“道具”でしかなかったのではないか?
「もう無理かもしれない」
そう言って夫が漏らした夜、わたしは夢を見た。
白い和服を着た女が、石段の上からこちらを見ていた。
口は裂け、目のない黒い穴がじっとわたしを見ている。
「――お前も、ここで終われ」
心臓が凍りつくような声だった。
翌朝、窓の外を見ると、黒いカラスが8羽、建物の屋根に並んでいた。
その中の1羽が、くちばしをこちらに向け、笑ったように鳴いた。
わたしはもう、分かっていた。
これは偶然なんかじゃない。
これは、始まったばかりの“儀式”なんだ。
つづく。
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