絶望の住民票
べすこ
第1話「絶望の住民票」
わたしがその場所に足を踏み入れた瞬間、身体の奥底で何かがきしんだ。夕焼けに沈む空の下、茶色くくすんだ建物群は、団地ともアパートともつかぬ不自然な集合体だった。名ばかりの“シェア型アパートメント”。けれど、そこには人の気配よりも“念”のようなものが色濃く漂っていた。
入居案内のパンフレットには「福祉支援型住環境で安心の暮らし」とあった。担当の村岡という男が見せた作り笑いの裏で、何かが蠢いていたのを、今ならわかる。
最初に気づいたのは、“空気”の重さだった。 エレベーターもない古い階段を上ると、鉄のドアが等間隔で並ぶ廊下。洗濯物が無造作に干され、誰かの怒鳴り声が遠くから聞こえる。その声に反応してか、窓の奥から無言で覗く目が見えた。
最初の数日は無難に過ごしたつもりだった。だが、どこか視線を感じる。夜、廊下を歩くたびに足音がついてくるような錯覚。管理スタッフの菊田は「気のせいですよ、みんな優しい人たちです」と微笑んでいた。
だが夜中、私たちの部屋の前で足音が止まった。ピタリと。それから“何か”が壁を叩く音が続いた。
――タン、タン、タン。
私は息を潜めた。 何も起こらなかった。けれど、その音の正体は明かされなかった。
ある日、向かいの部屋に住む若い女性が突然泣き出した。洗濯機の音にかき消されるように、嗚咽が聞こえていた。後日、彼女は姿を消した。
「急に退去されたんですよ」と村岡は淡々と言った。だが、部屋にはまだ家具が残っていた。誰かが窓から覗いていた。見た目は彼女だった。でも――違った。
夫と私は疑念を抱き始めていた。 ここは、“普通”の生活支援アパートなんかじゃない。
私たちはすでに、選ばれていたのだ。 都市の隅に沈む、“誰にも知られてはいけない区域”に。
そして、その登録は、絶望の住民票として、もう取り消せなかった。
つづく
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