第41話 密やかに春は舞うー終

「先輩」

 そして、ここからが本題でもある。スカートの裾を摘まむ指先が突っ張るように力が入っているのが自分でも分かる。


「私、先輩のことが分からないです」


 はっきりと、噛みしめるように言う。

 そもそも他人のことなんか、分かる方がおかしいけど。

 先輩はその中でも格別だ。表面上は希薄そのもので、感情の機微はその美貌の奥に仕舞われている、ように見える。

 接してみれば意外とフランクだったり、子供っぽかったり、かと思えば冷淡に怒ってみたり。

 しかも言語化するより先に、行動や態度で示してくるから対応はいつも後手後手になる。


 振り回され続けて、心境を慮っても空回りする。だから。

「だからもう先輩に興味を持つの、やめました」

「……そう」


 一瞬丸くなった目が伏せられる。組んでいた腕が下ろされて、所在なく両指を擦り合わせている。

 落胆しているのだろうか。それとも苛立っているのだろうか。


「もう先輩のこと、知ろうとしませんから」

 自分に落とし込むような決意。不用意に踏み込めば互いに傷つくだけなのは痛いほどに理解した。


「だから」

 すう、と一呼吸。耳にまで熱さが駆け巡るのを、春の終わりの日差しのせいにして。

「だから、これからも傍にいさせて欲しい、です」


 言った。

 体育館から漏れてくる歓声も、一陣の風が波のように枝を揺らす音も、自分の鼓動に掻き消されていく。

 こんな愚直な気持ちを人にぶつけるのは生まれて初めてだった。


「…………ん?」


 そして、手ごたえをまるで感じなかった。

 怪訝さを感じた先輩の首の傾きが増していく。


「ごめん後輩。全然繋がらない」

「……我ながら性急な気はしました、はい」


 でも普段の先輩はこんな感じですよ。というのは置いといて。

 色々と台無しになってしまった雰囲気はもう復旧不可能だろうけど、この方が私たちらしい。


「先輩はあれこれ詮索されたくないんですよね。でも、私と一緒に練習がしたかったんですよね?」

 先輩は恐る恐るといった様相で頷く。

 これまでの経緯を改めて言葉にしてみても、本当に意味が分からない。分からないけど、分かろうとすると怒るのだから仕方ない。


「だから私、先輩の望み通りにただ傍にいます。都合よく使ってください」

 意味不明な先輩の傍に居続ける為には、並みの感覚でいたら疲弊してしまう。

 だからもう、中途半端に踏み込むのはきっぱりと止める。

 ずっと考えて、友達の話を聞いて、柴田先輩に話を聞いて貰って、今日の試合があって、先輩にトスを求められて、ハイタッチを交わして。

 そんな紆余曲折を経て、ようやく自分の気持ちにだけは整理が付いた。

 

 私にとって先輩が特別なのは、恋愛でも友情でも同情でもない。

 理由は不明でも、先輩が私を選んでくれた。その事実だけで、特別だった。

 勉強も運動も人間関係も無難。

 容姿だって格別に良い訳じゃない。少なくとも先輩の横に並べば間違いなく見劣りする。

 何かで一番を目指しても上には上がいる。

 時間を忘れてのめり込むような趣味もない。

 そんな特別じゃない私を選んでくれた。

 謎めいて完璧そうに見える先輩が、どういう訳か強く私を求めてくれたのなら。


 それならば、応えたい。

 そして傍に居続けて、どんな私になるのかを確かめたい。

 この特別を、大切にしたい。

 

 先輩のエゴと私のエゴ。

 ぶつからずに一緒にいるには、これが適切な距離感。

 臆病な先輩はすぐに逃げ出してしまうから、それを保ったまま逃がさない。

 それが私の下した決断だった。

 我ながらどうしてこうなったのかと頭が痛くなる。

 ただ、やべー奴と一緒に歩んでいくには私もやべー奴になる覚悟が必要なのだ。


「どうして、そこまで私に」

 狼狽える先輩の手を取る。

 すらりとした白妙。ひんやりとした冷たい手を、私の体温で侵していく。

「それは内緒です。お互い様でしょう?」


 手を取ったまま握ることはしない。いつでも振り払える力加減。

 いつもあなたがそうしてくれたように、選択の権利は相手に委ねる。


「あ。でも先輩のこと恋愛的な意味で好きとか、そんなんじゃないことは言っておきます。安心してください」

 少なくとも、今は。

 この特別がどんな変化をしていくのか、全く見通しが立たない。だからこそどうなるのかを確かめたい。もしも凄い方向に発展したら……それはまぁそれとして。

 ピクリと先輩の指先が跳ねたのは、どんな意味があるのだろう。


「それは……うん、安心?なのかな」

 曖昧に呟いて、私を真正面から見据える。

 交わる視線。灰色がかった薄い虹彩はいつ相対しても綺麗だ。

 形の良い唇は躊躇いがちな吐息を漏らしてから、おずおずと話し始めた。


「私のこと、詮索しないで」

「はい」

「私にあまり隠し事はしないで。少なくとも言いたいことははっきり言って欲しい。初めて会った時みたいに」


「じゃあ、遠慮なく」

 入部を拒む先輩に痺れを切らしたんだっけ。静かに啖呵を切ったあの日はほんの少し前なのに、とても懐かしく感じた。

 あの時と比べて進展しているのか後退しているのか。

 推測でしかないけど、あの出来事があったから先輩は私を選んだのではないかと思ったりもする。

「あと、私を幸せにしようとしないで」

「……はい」

 随分と抽象的で、且つ後ろ暗いものを感じさせる要望だ。

「でも、私からは時々でいいから、甘えさせて欲しい」

「いくらでも」

 猫のような我儘さを想起する。


「……それなら結構甘える予定に変更するけど、大丈夫?」

「い、いくらでも」

 どんな予定なのだろう。あれこれと想像を働かせてしまう。

「本当に、そんなに都合よく一緒に居てくれる?」

 声と瞳が揺れる。

 こんなに不安そうな先輩は初めてで。

 きっと最後の確認事項。そんな気がした。


「私も望んでいることですから」

 先輩の手を包んでいた私の手が振りほどかれる。次の瞬間には、強い引力が私を襲っていた。

 身体を強引に抱き寄せられる。お馴染みの制汗シートの香り。包みこむ暖かさ。

 先輩の長い髪が私に降りかかってこそばゆくて、トクトクと伝わるのは先輩の鼓動で。

 そんなこと言っている場合じゃなくて。


「先輩っ……ここ、外……しかも、他校!」

 早速予想外過ぎて、片言になる。幸い誰もいないとはいえ、地区中の生徒が集っている最中でこんな姿を見られようものなら。

 羞恥が駆け巡って目がぐるぐるとする。

 身体を捩る私を離してくれる気配は一向になく、却って腕の輪がきつく締められる。逃がさないという束縛。


「甘えさせてくれるって、後輩が言ったんだよ」

 耳元で吐息混じりに恨み言を囁かれる。甘美さに呑まれて身体が震える。抱きしめられた直後温かく感じた先輩の体温は、私のそれと混じり合って判別がつかなくなっていた。

 ……この人は、本当にずるい。抵抗を諦めて、従順に受け入れた。

「撫でて」

「……はい」


 されるがままに突っ立っていたら短く促されて、やむを得ず先輩の後ろ髪を撫でる。木立の向こうに人影は未だ見えず。

 もし誰か来たなら、試合に負けて落ち込んでいる先輩を慰めていると説明しよう。

 先輩の後ろ髪に指を滑らせる。軽くて艶やかで、水流を掻き分けるように指が通っていく。

 私よりも長身で、女子高にいたら王子とでも呼ばれそうな先輩が甘えんぼな姫と化している。

 この人の距離感は大概おかしい。詰め寄るか、急速に離れていくかの両極端だ。


「どうしよう。嬉しいなんて思っちゃいけないのに」

 私の肩に口元を埋めながら吐き出した言葉は、酷く寂しいものだった。

 真意を問う権利を放棄した私は、ただ抱きとめるだけ。

 頬ずりをされて、互いの髪が交わる。しゃりしゃりと音が立った。

 無言で抱き合っている内に、所々に木々の名前が書かれたプレートが刺してあることに気付く。

 私たちを覆い隠す桜の木。枝にも地面にも、ピンクの葉は一枚たりとも残っていない。


 春はもう終わる。


「これから暑くなりますね」

「うん」

「外での練習はもう嫌かもです」

 これ以上続けると本格的に人目にも付きそうだし。

 「じゃぁ部室で勉強するか……そうだ、今度こそ私の家に来るという手も……あるんじゃないかな」

 結局曖昧な誘い文句になるところに先輩を感じた。そんな自己肯定感の無さを埋めるのも、きっと私の役目。 


「喜んで」

 力強く答えれば、私の背中を掴む指に力が籠る。

 私たちが放課後に顔を合わせる名目だった、ヘンテコな外練習はもう必要ない。

 限りある青春の一ページ目が締めくくられて、次のページに捲られようとしている。

 痛くない距離を探りながら寄り添い合う私たちの関係は、いつまで続くのだろう。


 案外すぐに破綻するかもしれない。

 それとも次の大会くらいまでは持つだろうか。

 どんなに長くても先輩が卒業するまで?

 目をどんなに凝らしても一寸先は闇。何も見えやしない。


「嬉しすぎて、殺しちゃうかも」

「……どういう理屈か知らないですけど、それは困ります」


 なんか早速物騒だし。

 それでもこの脆く繊細な特別の果てが、互いに幸福であるといいと願う。

 その為に先輩が秘めるものから眼を背けながらも向かい合う。

 そんな矛盾を抱えながら。

 互いに感情を秘めながら。

 

 私たちの春は、密やかに舞っていく。

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