第24話 春の夜の 闇はあやなし③ 4月24日

 そして二十四日の月曜日がやってきた。


 二人で練習する最後の日。

 昨晩は何だか落ち着かず、中々寝付けなかった割に早く目覚めてしまった。再入眠もままならず、諦めていつもより早くスキンケアに取り掛かる。


「おお?ねーちゃんなんで起きてんの」


 洗面台を占拠していたらパジャマ姿の妹がやってきた。半開きの瞼が大きく上がる。

 朝に弱い私は母の命を受けた妹に起こされることも珍しくない。妹からすれば怪奇現象でも目の当たりにした気分なのかもしれない。


「今日から真面目になろうと思って」

「えー、変なの」


 適当に嘯いたら訝しまれた。

 確かに今日の私は少し変だ。小学生に指摘されてしまう程に。


「あ!あれだ、恋煩いでしょ」

「ぶへ」


 手元が狂って歯ブラシを頬の内側に突っ込ませてしまう。眠気覚ましだとしても過大すぎる一撃。口内炎にならないことを祈るばかりだ。そして最近の小学生は難しい言葉を知っていらっしゃる。


「ね、ね。格好いい?その人。今度写真撮ってきて。いーなー高校生は。私の周りガキンチョばっかりだしさー」

 静かに悶える私を余所に騒々しい。放置していても会話が勝手に成立して進んでいきそうである。

 まともに付き合っては放課後まで気力が持たない。だからまぁ、とりあえず。


「生意気だぞ小学生」

 お前もガキンチョだろうがという念も込めつつ、濡れたままの手で妹の頬を摘まむ。むにむにと。ハリと弾力がある。正直二つの単語の違いは分からないけど、流石小学生。


「ぎゃー、やめろ姉ちゃん」

 じたばたと暴れる妹に一抹の安らぎを得る。

 あと、そういうのじゃないから。マジで。



 学校に着いてからも焦燥感は継続どころか加速するばかり。

 反比例するように、授業が進む速度がやけに遅く感じる。

 特に世界史と数学は非常に苦痛で、体育のシャトルランが今日に限ってはありがたかった。無心で走っている間は何も考えなくて済む。規則的なリズムと、不規則になっていく自分の呼吸と。それだけが脳を支配する。

 乳酸が溜まり重くなっていく足を懸命に動かして、一回でも記録を伸ばすべくベストを尽くした。


 記録は六十二回。中学の時を下回っていて、運動不足を実感した。

 流石に授業内でそれ以上の運動を強いられることもなく、次の組が走る姿を見学。


 壁際で腰を下ろせば虚脱感がどっと伸し掛かってくる。次に立つのは相当に億劫そうだ。


「だる……来年は……絶対、休む……」

 隣で仰向けに倒れる雪乃は荒く息をしながら悪態を吐く。

 下小窓からうっすらと差し込む日差しに照らされる肌は、病人みたいに青白い。


「休んでも後日やらされるってさ」


 膝を抱えながら現実を突き付けてみると、「虐待だよこんなの……」と両手で顔を覆いだした。大げさで笑ってしまう。

 体操服の袖で絶え間なく流れる汗を拭う。朝のスキンケアは無に帰している。


 壁に背を預けて、呼吸を整えながらシャトランの様子を眺める。

 夏帆と福島さんは今の組に混じって走っている。回数は三十回を越えた所で、まだ余裕を見せる夏帆に対して福島さんはバテはじめていた。

 二人を見ると、どうしても昨日の夏帆とのやり取りが脳裏を過ぎる。

 

他者に抱く特別な感情。

 まだ知らないそれを、私も掴めるかもしれない。徒労に終わるかもしれない。

 淡い期待と不安が膨らんでいく。


「深月、何か悩んでる?」


 不意な声掛けは斜め下からやってきた。依然仰向けのまま、顔を覆う指の隙間から覗いた黒目が私を捉えている。若干ホラーチックだ。


「悩んではないけど……そうみえた?」

「何となく。相談ならいつでも乗るけど」


 雪乃とは中学からの付き合いだ。彼女にしか分からない私の表情もあるのかもしれない。しかし夏帆にも表情の機微を指摘されたばかりだし、私が案外わかりやすいのか?

 一方私の方は、恥ずかしながら雪乃が悩んでいたとしても感じ取れる自信は乏しい。

 この小柄で皮肉屋な友人はあまり感情の起伏を表に出さない方だ。


「大丈夫。ありがと、雪乃」

 「ん」

  短い返事をして、再び仰向けに倒れ込んでいった。

 「来年は早めに切り上げることにする」

 「そうしな」


 膝を立てているため、ハーフパンツの裾が捲れて太ももの辺りまで露出している。名前の通りに白い肌を何の気なしにペシペシと叩く。

 「お触り一回千円だから」

 「ぼったくりめ」


 くだらない会話をして、へらへらと笑い合う。気の置けない友達。雪乃との関係に名前を付けるならそうなるのだろう。彼女もまた私にとっての大切な存在。付き合いが長い分先輩よりもずっと大切なのは間違いないのに、どうして私の頭は先輩ばかりなのだろう。その差はどこにあるのか。

 足音と機械的な音階を耳にしながら思索に耽る。我ながら思春期し過ぎじゃないかと心配になった。


 「深月」

 「ん?」

 「シャトランがもし代走OKならやってくれる?」

 「……一回一万ね」

 「ぼったくりめ」

 お互い様だろう。

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