第14話 春嵐 若葉揺らして③ 4月19日

 夜。自室で授業の復習を終えた頃には23時を回っていた。


 小学生の頃から使っている学習机の上に広げていたノートをパタリと閉じる。

 上半身をぐっと後ろにそらす。前傾が続いて凝り固まった筋肉がほぐれていく。ぐぉー、と可愛くない呻き声を漏らしながら心地よさに浸る。


 仰いだ天井に取り付けられたシーリングライトは翳りが強い。蛍光灯の余命は僅かなのだろう。替えるタイミングを測っている内に途絶するのが大抵のパターンだ。つまりは思い切りが悪い。

 今日もまた今度付け替えればいいやという結論に達し、リモコンで照明をオフにした。


 一転して暗闇に覆われる中、床を蹴ってローラー付きの椅子に腰かけたまま移動する。

 毛足の長い栗色の絨毯は滑りが悪く、何度か蹴りながら反対側の壁際に備えられたベッドの元へ。多分歩いた方が早い。


 非効率で怠惰な移動を終え、ベッドへと身を投げる。

 スプリングを軋ませて抗議の声を上げつつも、本日もつつがなく私を受け止めてくれた。

 愛してるぜベッド。休日なんかはやることがないと身を埋めっぱなしだ。


 勉強の妨げにならないようにと、枕元に置きっぱなしだった携帯を手に取る。

 「っ……」

 仰向けのまま掲げるように操作して、ロック画面を解除するや否や飛び込んでくる光に目が眩んだ。

 思わず閉じた瞼の裏側にまで光が侵食するように滲む。

 明るさを最小にしてから解除すればいいのに。この後悔を毎回している。学べ私。


 しぱしぱと瞬きをして、目を馴染ませる。

 ホーム画面で何件かのメッセージが届いているのを確認してからアプリを立ち上げた。

 大抵は中学時代の友だちか、高校で一緒に過ごしている四人のグループのものだけれど、今日はひと味違う。

 通知欄には先輩から一件のメッセージが届いていることが表示されていた。

 アイコンは何故か飛び出し危険の看板写真。本当に何故。


『よろしく』

 

簡素一辺倒な文にふへっと吹き出す。こんなところまで、先輩らしい。

 先輩とのトーク画面へ移行して、『よろしくお願いします』と返信をした。簡素が縦に二つ並ぶ。


「わっ……」


 閉じる間もなくすぐに既読が付いた。返信を待ってた……訳ないよね。先輩のメッセージは三十分以上前のものだし。

 少し間を置いても、特に先輩からの返信はない。きっとこの先もこの画面が賑わうことはないという予感はしつつ。

 殺風景なトーク画面のまま終わらせることに、抱く必要のない責任を感じてスタンプをひとつ送る。

 熊がぺこりとお辞儀しているありがちなもの。こちらも送った瞬間に既読がついた。


 正直ちょっと怖い。暇なのかな。

 しかし暇人(推定)からの動きは一向になく、私の方も飽きて友だちへの返信に勤しむことにした。

 終わる当てのないやり取りは億劫になってしまう質なのでむしろありがたい。

 携帯をボードに置いた所で、すぐ傍の壁に掛けられたカレンダーに目が行く。



 今日で四月十九日の水曜日が終わる。

 大会まで残り十日。

 他の先輩方を交えて練習するのは二十五日の火曜日から。

 

つまり先輩と二人きりで放課後を過ごすのは、今週の木金と来週の月曜日。残すところ三日となる。あと僅かな日数。

 しかし特に感慨は湧かず、寂しさもなければ安堵もないのが本音だった。実感がないというやつだろうか。


 出会って以来、殆ど毎日のように先輩のことを考えているのに。

……なんでわたしは、こんなにあの人のことを考えているのだろう。


 正直癪に障るけれど、ふと気付いた時に頭の中を先輩が占拠しているのは認めざるを得ない。仮入部初日から今日にいたるまで、それは変わらない。

 これじゃあまるで……と、ピンク色で脳内が塗りつぶされそうになるのを跳ね除ける。

 いかんいかん。毎日顔を合わせている分、脳内に現れやすいだけ。

 少女マンガじゃあるまいし、何考えてるの私。とてもきれいな人だとは思うけれど、そもそも私も先輩も女だし。

 

別に誰に見られてる訳でも無いのに恥ずかしくて枕に顔を埋める。フローラル系の柔軟剤の香りに包まれる。


「うおー」


 両足をひとしきりバタバタとさせて、力尽きる。

 ぐったりとうつ伏せになっていると、またしても恋とか好きとか、そんな類の単語がぽつぽつと現れる。

 

 どうやら今日の私は絶賛思春期という感じらしい。眠ろうと足掻く程眠れなくなるのだから、疲れるまで考えてしまおうか。


 諦めて寝返りを打って横向きになる。

 ベッドボードからイルカのぬいぐるみを掴んで抱き寄せる。色褪せた青い体を持つこの子は私の身長の半分くらいの大きさ。それなりでかいというか縦に長い。小学生の頃に行った水族館で買ってもらって以来、眠れない夜の相棒だ。

 ぎゅっと抱きしめて、思考の渦に身を投じる。


 恋、好き。断片的な単語を引き延ばしていく。


「恋って、何だ?」


 十五歳の春。恋愛というものに漠然とした憧れはあっても、身近に感じたことは未だにない。

 道行く人や学内の男子を格好いいと思うこともある。誰かの彼女になってみたいとも思う。

 じゃあその格好いい男子と付き合いたいですか?と問われると答えに窮する。


 付き合う。付き合うのは好きだから。でも好きってなんだ?


 相手を想って居ても立っても居られない?触れたくて仕方がない?ドキドキする?

 私が持つ誰かを好きになるイメージはこんな感じだけど、それらの情動は依然として心に落ちず。

 

主に映画や漫画を媒体としてイメージしている分、ハードルが上がり過ぎているのかもしれないけれど。

 切なくなるほどに想いを馳せてしまうような相手も、触れ合いたくなるような相手もいないのが現実で。

 

 ただひとつ恋の定義で心当たりがあるとすれば、ドキドキとする相手、というやつになるのだろうか。

 ドキドキ、最近他者に心が動いた出来事を振り返る。


 例えば初めて出会った日に、煽られて啖呵を切ってしまった時。

 例えばその後で、一緒に練習しないかと突然誘われた時。

 例えば今日の放課後、部室で先輩に頬を触られた時。

 

 先輩の言動に心が動いて、身体に力が入った。ドキドキした。血が巡って、身体が熱くなった。

 それは……怒り、緊張、羞恥からくるもので。恋関係なくない?

 ただまあ、ある意味ドキドキしていたのは否定できない事実。

 しかしこうして思い返していると、当時の再現とばかりに鼓動が早まっていく。

 

 行き場を見失っていた思考が結局先輩に帰結する。

 知らず知らずの内に、指を頬に当てていた。今日、先輩に触れられた箇所をなぞるように。


 変に頭が冴えて、疲れ切るどころか就寝から遠ざかっていく。暗順応し始めた瞳は、今や室内を見通せるようになっていた。これはいけない。

 こういう時は思考が奔走の一途を辿る。俗にいう深夜テンション。

 馬鹿なことを考えないでさっさと寝ればよかったと、翌朝には後悔するのが常だ。


 自分を落ち着ける為にも、先輩に対する恋愛感情を改めて否定する。

 振り回されてばかりだし、口を開けば適当なことばかりだし。

 ドキドキした瞬間も恋心なんて甘酸っぱい物では決してない。怒りや羞恥による心の乱れを、恋心と同一視するのはやっぱり違うだろう。

 

 うん、好きじゃない。ありえない。


 安心して息を吐く。熱のこもった吐息。思考が暴走するのは寸でのところで止められそうだった。

 ただ横になっているだけなのに一苦労。


「先輩のせいだ」


 小声で呟いて行き場の無いもやもやの出所を転嫁する。

 あの人は、感情を言い表してくれない。

 どんな想いで私を練習に誘ったのかも、どう感じているのかも分からない。そこに踏み込むには、関係はまだ浅すぎて。


 だからつい、想像を働かせてしまう。

 多分先輩は何とも思っていなくて、今頃私の気も知らずにすやすや寝ているのだろう。腹が立ってきて、やっぱり眠れそうになくて。

 

 先輩と一緒に過ごすのは残り僅か。


 私の青春の一ページ目。先輩にとっては最終巻の冒頭だろうか。

 四月の終わりは、一体どんな一文で締めくくられるのだろう。

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