第11話 春のはじめの 雨にあらずや⑥ 4月17日

 無言のまま校門に差し掛かり、例の如く私はそのまま外へ、先輩は自転車置き場へと向かおうとする。

 雨脚は俄かに強まっていて、頭上では傘が水をバチバチと弾いている。


「それじゃ、お疲れ様」

 先輩は短い挨拶を告げて歩んでいく。肩の辺りまでを藤色の長傘で覆って歩く姿が、なんだか頼りなく見えた。


「お疲れ様でした」

 雨が地を叩く音に負けないようにと、少しだけ声を張って挨拶をもう一度背に投げる。

「また明日」


 私が差す安物のビニール傘はどこかに穴が空いているのか、シャフトを伝って持ち手に雨が滲む。春休み以来出番が無くて気が付かなかった。ぐじゅぐじゅとした手の感触が不快だ。買い換えなければと思いながら帰ろうとして、歩みを止める。


 目の端で藤色が翻った気がして首を横へ。気のせいではなく、振り返った先輩がこちらを見ていた。


「先輩?」


 雨の日。傘を片手に黙って立ち尽くす重い黒髪の美人。

 それなりにホラーだった。

 そしてこっちに歩を進めてくる。なんだなんだ。視線が合うとバトルを仕掛けてくるタイプの人?

 数歩分の距離はあっという間に埋まる。先輩の傘が私の傘に被さる位に。長い睫毛が影を落としているのすら分かる近距離。


「もう......い」

か細い声は雨音に攫われて不明瞭だった。

「え?」


「もう一回、言って」

「は、はい?」

 傘の下から覗く眼差しは、真剣そのものだった。口を真一文字に結んで、私の言葉を待っている。


「お、つかれ、さまでした?」

 有無を言わせない迫力に気圧されて、繰り返した挨拶はたどたどしい。


「違う。その後の方」

 左手が伸びて、私の右肩に添えられる。自然と出会った日を思い出した。

 この人が何かをお願いするときの癖なのだろうか。互いの傘の隙間に振る雨が、その腕を打つ。


「……また、明日?」


 どちらにしても私にとってはありふれた挨拶に過ぎない。けれど受け手にとっては大きな差異があるようで。

 ほんのりと紅潮していく頬と、逃げるように逸れる視線。


「うん……うん。また、明日」

 私に伝えるのではなくて、口の中で転がすような反芻。呑み込む様にして頷いたかと思えば、私の肩に置いていた手を外した。

 籠っていた熱が名残惜しそうに霧散していく。


「そっか、本当に入部したんだもんね」

「えっ」

 緩やかに離れていく手が、突如として素早く動いた。

 翻弄されるばかりでぼんやりしていた私の手からビニール傘が奪い取られて、代わりに先輩の傘が押し付けられる。


「穴、空いてるみたいだから」

「いや、悪いです、そんなの!」

 慌てて取り返そうと伸ばした手はひらりと躱された。先輩は軽やかな足取りで後ずさり、埋まった距離が再び開いていく。


「傘差し運転には軽い方が助かるし。また明日、返してくれればいいし……」

 早口でさりげなく道路交通違反を予告しながら、語勢が萎んでいく。白魚のような両手が、ぎゅっとビニール傘の柄を握りしめた。


「迷惑、かな?」

 迷惑ではない、けど。

 そんな風に言われてしまっては断るのも悪い気がして首を横に振る。

 ほっとしたような微笑みを残して先輩は去っていく。今度はもう振り返ることもなく。


 一人取り残されて、不相応な質の良い傘を片手に今度は私が立ち尽くす。

 本当に、訳が分からない人だ。

 半透明なビニール素材の下で、窮屈そうに身体を収めている後ろ姿に思いを馳せる。

 

 また明日。


 何の変哲もない挨拶をせがまれたその意味。

 一人きりで過ごしてきた先輩には大きく響いたのだろうか。ありふれた語句を、嬉しく思ってくれたのだろうか。


 それなら、なぜ。

 それが響くような人が、その気になれば誰からも好かれることができそうな人が、なぜ孤独を選んで来たのだろう。

 頭上に広がる藤色が、雨以上に先輩という人間を覆い隠すようだ。

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